昭和史 エピソード

市場原理主義が もたらしたもの Ⅱ

憲 法 第 25 条  と 生 活 保 護

 平成21年(2009)8月30日に行われた "総選挙" において、国民の支持を失ってしまっていた自由民主党は 雪崩を打って惨敗、命脈を絶った。日本国憲法が実施されて以来62年間、自民党は 「改憲」 を党是に掲げるなど 限りなく憲法をないがしろにしてきた。目下 辞任した麻生太郎に代わる総裁選出を画策しているが、(一部中断した時期はあったにせよ) 昭和30年(1955)から 半世紀以上も続けてきた "憲法軽視" の独善的悪政を、徹底的に総括し自らその非を糺さなければ この党の再生はあり得ないだろう。

 堅苦しいことを言うようだが、憲法第99条には 「天皇または摂政 及び 国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し 擁護する義務を負ふ」とある。つまり 憲法(Constitution)は、国家 (言葉を替えていえば “公” の立場に在るもの) が 拳拳服膺(けんけんふくよう)、忠実に守らなければならないものだ。99条でいう国務大臣の中に 総理大臣が含まれていることは言うまでもない。これに対し 第一章第一条に 「(天皇は日本国の象徴であり… この地位は) 主権の存する日本国民の総意に基づく」 と 高らかに “主権在民" が謳われ、併せて 平和主義 (第二章 戦争放棄) 人権尊重 (第三章 国民の権利及び義務) が 明確に示された。そして 基本的人権をはじめ 国民が享受すべき自由や権利、あるいは義務が 幅広く網羅的に列挙されている。しかし 国民はこれらの条項を直接的に守ったり遂行したりする必要はない。憲法を厳しく守らなければならないのは 前述の公人たちであって、国民は 憲法にのっとって制定された法律 (Law) に従って 具体的に権利が庇護され、決まりを守り 義務を果たすことにより 社会秩序を維持することになるわけだ。

 自民党の考えは 現行の憲法が、GHQ マッカーサー元帥からの押し付けであるとし 殊に第二章 戦争放棄・戦力の不保持を目の敵(かたき)にして 「改憲」 を主張し続け,常々憲法の細部履行を怠る傾向があった。平成13年から政権を握った小泉純一郎に至っては、自衛隊を軍隊と認めたうえ 小細工を弄してイラク派遣を強行 (名古屋高裁は違憲と断じた)、また 意固地に靖国神社公式参拝を繰り返して 憲法第20条③項を蹂躙 (じゅうりん)、近隣諸国の顰蹙を買ったのは記憶に新しい。

 一昨年(平成7年)のゴールデンウィークに放映されたNHKスペシャル 「日本国憲法 誕生」 は、同じ年に公開された “昭和21年帝国議会 憲法小委員会 (秘密会) 議事録” を手掛りとして、憲法が 必ずしも 押し付けられただけのものではなかったことを論証していた。これによると 敗戦の年 昭和20年に 日本を占領した連合国軍総司令官マッカーサーは、その後の日本国の "形” を示す新憲法の作成を幣原喜重郎首相に命じている。この動きを知った 鈴木安蔵、森戸辰男ら 7人の在野学者・ジャーナリストが 「憲法研究会」 を組織し、20年11月に どこよりも早く 「憲法草案要綱」 を発表、のちのGHQ草案に大きく影響を及ぼしたことにスポットを当てていた。

 幣原内閣は、閣僚であった商法学者 松本烝治を中心とした 「憲法問題調査委員会」 を編成して草案を作成、21年2月8日にGHQに提出する運びに漕ぎ着けたのだが これが1週間前の2月1日に、毎日新聞にスクープされ 内容をすっぱ抜かれてしまった。マッカーサーは 日本政府案 (松本案) が 明治以来の "欽定(きんてい)憲法” を手直しした程度の 旧態依然 (きゅうたいいぜん) としたものであることを知って これを否認、急遽 GHQの民生局に憲法草案を起草させ 2月13日には 早くも日本政府に手渡している。このとき民生局が参考に用いたのが、前(さき)に森戸らが発表していた 「憲法研究会」 の草案要綱であったと言う。

 昭和21年当時 民生局法規課長だったマイロ・ラウエル中佐は、次のように証言している (トルーマン・ライブラリーのテープ)。「憲法研究会の提案に感心した。国民主権が明確に謳われており、男女平等、言論の自由、基本的人権を保証し 平和主義の思想も盛り込まれていた」 特に 森戸辰男は 「天皇は君臨すれども統治せずとすべし。天皇は国民の委任により、専ら 国家的儀礼をつかさどる」 と していた。ラウエルは テープ証言で 「ここに含まれている条文は民主的で、容認するに足る」 と述べている。幣原首相の胸中は “天皇制の存続” に深い関心を抱き、そのためには GHQ草案を受け容れざるを得ないと決断し、一説によれば 事前にマッカーサーを訪ねて 自ら 「戦争放棄、戦力の不保持」 を申し出、天皇制維持の担保にしようとしたという。

 GHQの憲法草案を受けて調整し、3月6日 国民に発表された 「日本政府案」は、前述 帝国議会でも修正作業が進められた(昭和22年3月31日の衆議院解散により 帝国議会は消滅)。このときの小委員会議事録が "秘密資料" として 国会図書館に 50年間封印保管され、ようやく解禁・公開されたのが平成7年だったのであり、この資料の中から 「生存権」 と言う考え方が 憲法に導入された経Photo_2 緯が発見された。最初 この条項は、日本政府の調整草案には含まれていなかった。発議者は社会党議員で、のちに 片山 哲 内閣の文部大臣になった社会学者 森戸辰男 (広島大学学長・大原社会問題研究所理事長) であった。(左写真 A) 彼は戦前 言論弾圧を受けて東京大学を追われ、ドイツに渡ってワイマール憲法を研究、その中の一節 「経済生活の秩序は 各人に、人たるに値する生活を保障する目的を持つ 正義の原則に適合するものでなければならない」 と言う規程に深い感銘を受けていたがPhoto_3 、敗戦直後 戦争の被災者たちや、地方で損害を蒙った人々の悲惨な生活 (右写真 B) を見るにつけ、憲法小委員会委員として 「生存権の思想」 を憲法に盛り込むよう 粘り強く主張した。その結果 第25条に 「 ① すべて国民は、健康で文化的な 最低限度の生活を営む権利を有する。 ② 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障 及び 公衆衛生の向上 及び 増進に努めなければならない」 という条文を挿入することになったのである。
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 今年の憲法記念日 (平成9年5月3日) にNHKは2本の佳作を発表した。ひとつはNHK総合 (21:00~22:13) 大型シリーズJAPANデビュー 第2回 「天皇と憲法」 であり、もうひとつは (22:00~) ETV特集 「いま憲法25条 "生存権” を考える」 であった。特に後者は 前年のNHKスペシャルの画像も採り入れながら、昨年末から急増した大手製造業の “派遣切り” のために、真冬の路頭に放り出された失業者の群れが “職と食と住” を求めて放浪し (右写真 C) 大晦日の日比谷公園に集まってきたとき "派遣村" を運営、村長役を果たした 湯浅 誠 氏と、この10年小泉構造改革を批判し続けてきた経済評論家 内橋克人さんの対談は まことに時宜に適った好企画だったと思う。  ( 注) 写真 A・B・C は、ETV特集 「いま憲法25条 “生存権” を考える」 YouTube より

 湯浅 誠さんの存在は 歳末の 「日比谷派遣村」 での活躍で知ったのだが、東京大学在学中から ホームレス支援などのボランティア活動にのめり込み、自らも困窮した生活を送りながら 「反貧困ネットワーク」 作りに奔走してきたという。著書 『反貧困―「すべり台社会」 からの脱出』 で 平和・協同ジャーナリスト基金賞大賞、大佛次郎論壇賞を受賞したりしているが、平成8年大晦日には 社会問題化した いわゆる "派遣切り” への緊急対策として、他のNPOと協働 東京日比谷公園に 「年越し派遣村」 を開設したうえ "村長" として運営を取り仕切り、収容しきれなくなった失業者を 正月4日まで 霞ヶ関の厚生労働省本庁講堂を開放させて話題となった。

 (おにぎりが食べたい という餓死者を出した) 「北九州方式 (水際作戦)」 に代表されるように現在の日本では 生活保護担当の公務員が あれこれ口実にして、生活困窮者を追い返す事例が非常に多いというが、湯浅は これら当然保護されるべき人々が  水際で排除されることのないよう 支援活動を続けている。

 憲法第25条が定める国民の生存権 (生活権保障) は、独立して存在するものではなく、11条 (基本的人権)、18条 (奴隷的拘束・苦役からの自由)、26条 (教育を受ける権利)、27条 (勤労の権利)、28条 (勤労者の団結権・団体交渉・行動権) 等を 全体として構造的に捉える必要がある。だから社会保障制度の中に 所得保障の機能を果たすものとして、① 公的扶助制度 (生活保護法・災害救助法 等)、② 社会保険制度 (公的年金・健康保険・失業給付金等諸手当・育児や介護の休業手当等)、③ 損害補償・所得保障などが定められているうという (私は あまりお世話になったことがないので、よく判らないが…)。

 昭和32年に岡山県で起こった 「朝日訴訟」 は 療養所に入所していた重症の結核患者 朝日 茂 さんが、医療扶助と僅かな生活扶助では “健康で文化的な最低限度の生活を営む” ことが出来ず 生命すら維持できないとして、憲法と生活保護法に違反していると 国を訴えた事件である。この裁判は “人間裁判" と呼ばれ、生活保護基準が労働者の最低賃金額にまで影響することから 思想・信条を超えた広範な団体や国民に支えられた。昭和35年東京地裁は 国が朝日さんに月額日用品費を600円に抑えていたのは違法であると 原告全面勝訴の判決を示したが、第2審の東京高裁は 600円はすこぶる低いが 不足額は70円にすぎず、憲法25条違反とまではいえないとして原告の請求を棄却してしまった。これに対し 最終憲法判断を行うべき最高裁判所は、上告審途中で死亡した朝日さんの訴訟を終了したものとする判決を下したうえ(昭和42年)、肝腎の憲法判断を避け 「なお念のため…」 と称して 「憲法25条1項は、すべての国民が 健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように 国政を運営すべきことを国の責務として 宣言したに止まり、直接 個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」 「何が健康で文化的な最低限度の生活であるか の認定判断は、厚生大臣の合目的的な裁量に委されている」 とする、とんでもない意見を付したのである。(この考え方をプログラム規定という

 最高裁判事は かねて任命権を持つ政府 (行政) 側に忖度 (そんたく) する傾向があり、そのくせ 第79条2項に定められた 総選挙時に併行される 「国民審査」 において、彼らは実に狡猾な方式の投票様式を用いて 罷免をまぬがれ続けている(事実これまで 1人の罷免者も出ていない)。 泉下の森戸辰男は かかる状況をどのように見ているだろうか。

 中曽根政権以降 自民党と官僚は、社会的責任を放擲し市場原理主議にかぶれた財界の意向を容れつつ 既成労働法を次々と改悪し、経団連の御用学者 (国際基督教大学 田代尚宏教授ら) が "働き方の自由化" とか “労働の多様化" だとか、一見 大義名分的なレトリックを用い 労働者を身分的に差別化して (正規社員 vs 非正規社員)、低コスト労働層なる社会的弱者・負け組みを輩出させた。同時にこれまで 曲がりなりにも整備してきた雇用保険・失業保険・年金などのセーフティ・ネットをズタズタにしていたことが、平成9年歳末 “派遣村騒動" で暴きだされ 時代が60年も遡ったかのごとき様相を呈した (前掲写真 B・C を参照)。

第102回国会 大蔵委員会での参考人質疑

 私は 「土光臨調の答申は新自由主義化へのロードマップ」 に次のような記事を書いた。

 56年3月にスタートした第2臨調は、次年度予算編成に間に合わせるべく 大童 (おおわらわ) で審議を進め 「緊急に取り組むべき改革の方策 (生活保護を除く 補助金の一割削除、国民健康保険国庫負担分の地方へ移譲、年金の支給開始年齢・保険料の引き上げ、40人学級編成計画の凍結、公共事業費を前年同額以下に抑制、国家公務員の削減計画強化、公務員給与の抑制 等)」 を提出した。(以下略

 第2臨調は昭和58年の最終答申までに 五度 (鈴木内閣及び) 中曽根内閣に答申書を提出しているが、聖域なしとした行政改革部分で 一貫して生活保護については除外とされていることに 疑念を抱いた村山富市 (当時社会党)  は "社会労働委員会" に土光第2臨調会長を参考人喚問したのだが、土光氏は出席せず 代わりに瀬島龍三を送り込んだ。手許に 昭和60年4月10日に衆議院の連合委員会で繰り広げられた 村山・瀬島両氏の質疑応答の 「議事録」 があるが、原文は些か冗長なので 要約してみた。

委員長 … 臨時行政改革推進審議会 土光会長のご出席をお願いしていましたが、
             ご都合が悪く 会長のご指名により行革審瀬島龍三君の出席を願ってお
             ります。
      質疑の申し出がありますので これを許します。 村山富市君。

村 山 … 委員長にお尋ねいたしますが、臨調答申について 政府の解釈とわれわれ
             の 解釈に違いがある。その点を明らかにしてもらうために 私は、第2臨調
             の責任者 土光会長のご意見を伺いたいと思い 出席を要請したのです。瀬
             島参考人ご本人を どうのこうの 言うわけではありませんよ。しかし 制度と
             して第2臨調の代表として責任ある方の見解を聞きたいのです。
      委員長のお考えを伺いたい。

委員長 … 土光会長に出席をお願いしましたが 瀬島委員に出てもらいたい と こうい
             うことでありましたので、瀬島参考人にお願いした次第であります。

村 山 … 土光会長から 瀬島参考人にというお話があったようですけれども、これは
             矢張り 私的な 個人的な話であって 制度としては 第2臨調の責任者 固有
             名詞としては土光さんでなければならない。このことを確認したうえで質問
             に入ります。瀬島参考人、きょうは ご足労を頂きすみません。まずお尋ね
             したいと思います。第一次及び第三次答申で 生活保護費を除く、こういう
      ふうに明確に書 かれていますけれども、これは どういう理由で除くことに
      なったわけですか。

瀬 島 … 本日は土光会長が出席すべきですが、健康上の都合もございまして 私が
      代って出て参りましたことを ご了承願いあげます。
       只今の村山先生のご質問でございますが、臨調の第一次答申で 生活保
      護を除き…ということにつきまして 当時まとめの役をやっておりました私か
      ら、次のようにお答え申し上げたいと存じます。
       基本的な態度として臨調は、社会保障、特にその中の 本当に生活に困っ
      てお られる方々に対する保護 これは非常に大事なことである。しかしなが
      ら臨調は 行政部門全体にまたがりまして、聖域を設けることなく 効率化、
      合 理化を検討する、こういう姿勢で一貫してまいりました。第一次答申は
      ご 承知lの通り臨調が56年3月に発足しまして、当時の鈴木首相から57
      年度予算を 増税し ないで組むための方策を緊急に答申してほしい との
      要請が ございまして、56年7月10日に第一次の答申をしたわけでござい
      ます。
       このときの補助金の整理合理化において 私どもは二つの考え方をとり
      ました。一つは金額が非常に大きくて重要なものは 個別に検討して意見
      を出す。小さい金額で 各省庁の判断で処理できるものは、各主管省庁で
      総括的に合 理化するように考えました。そこで生活保護は前者 つまり個
      別に検討すべきでした。何しろ一兆数千億円の額にのぼり、百数十万人
      もの受給者が存在する 大事なことでございますので 正味 四、五十日の
      間に事態把握が出来ませんでした。従って第一次答申には 生活保護関
      係を除きと記述したわけでございます。

村 山 … 臨調の審議というのは全部非公開だし 秘密になっていますから、議事録
      というのも なかなか手に入らないわけですね。いろいろな方の意見を総合
      して調べた結果を 私なりに議事録らしいものを作ってみると こういうこと
      になるのです。
      これは第三次答申を出す際の あなた方の議論ですけれども 「生活保護費
      を除いたことは…非常によい。厚生省の代弁をするわけではないが 生活
      保護費を除かないと一割削減にならなくなる。また弱者を切り捨てないとい
      う印象を与えるためもあった」 「ここは これで結構である。良いと思う」 こう
      いうやり取りがあったのですね。ですから今 あなたもおっしゃったように、
      生活保護を除くということは 第三次 答申に至るまで一貫して臨調の意見
      統一がなされていますね。そのことにつ いては 変わりないのでしょう。

瀬 島 … 臨調におきましては、……本当に いろいろの議論がありました。当然でご
      ざい ます。先ほど私が申し上げたのは、最後に答申をまとめる委員会で
      の結論を申し上げたわけであります。

村 山 … これは今 私が述べたことと あまり違いはないわけですネ。生活保護費は
      除く。 除外したということについて 意見一致は十分図られていたわけで
             す。問題は 第五次の最終答申です。この中で 生活保護費にも言及してい
             ます。
       わざわざ一項設けて…ちょっと読み上げてみます。「不正受給者を排除
      し、制度の適正な運用を確保するため 資産及び収入の的確な把握
      、関係機関との連携の強化等、不正受給者防止対策を徹底する」 
      それから二つ目は 「長期入院者の社会復帰の促進、レセプト審査
      の強化等による医療扶助の適正化を図る。また就労促進等の自立
      助長(助成と言うべき
対策を推進する」  三つ目として 「真に生活に
      困窮するものに対して必要な保護を確保することを基本として、生
      活扶助基準の設定方式、加算制度等 生活保護制度の在り方を見
      直す」 こういうことを書いていますね。これは 明らかに運用と制度と
      を区別して、運用については もっと厳しくや るべきではないかという
      意味を わざわざ付しているわけですよ。
      その点については間違いありませんネ。

瀬 島 … 第五次の答申の中で、生活保護補助金の問題に関する三つのご指摘は
      その通りであります。ただ 補助金の整理合理化のところは国と地方の関
      係で見る。次に別個の問題で生活保護を挙げて、最後に一般的なやり方
      はこういうふうにすべきだと記述してございまして、すなわち生活保護につ
      いては 補助金 全体の整理の原則から別個のものではないという記述でご
      ざいます。そのように ご諒解願いたいと思います。

村 山 … いや 私がご質問申し上げたのは、この最終答申の中味には わざわざ
      「生活保護費補助金」 という一行を設けて、先ほどいった三点が指摘され
      ているのですね。これは明らかに 制度に対する見直しと 運用の改善を
      図るということとは、区別しているのではないかということを尋ねているの
      です。

瀬 島 … 制度と運用を 特別に分けたつもりはありません。これは相関関係です。

村 山 … あなた方の論議の中に 「制度としての保護生活費には切り込めない。運
      用としてなら切り込む余地はある」 「運用として 相当節約しようと思えばで
      きる」「これはまた 相当の投書が来るかもしれない」 といったやり取りがあ
      ったようですネ。これは明らかに生活保護については制度そのものに
      は切り込めない けれども、運用では可能だ。だから前述三点を指摘
      して、徹底的にやるべきだ。

       これは 事務局が 「はい、その通りです」 と答えていますよ。こういう事実か
      らすれば明らかじゃないですか、第五次答申の趣旨というのは…。
       どうですか。

瀬 島 … 生活保護におきましては、特に 真に生活に困っておる方々に対する制度
      として堅持であります。ただ 長い間のいろいろな経過から、制度上のことで
      ありまても 正さなければならぬこともございます。まして 運用上の問題は
      直していくという考えに立ちました。

村 山 … そういうふうに 一委員としての釈明を 私は聞いているんじゃないのです。
       私は冒頭に申し上げたように、瀬島参考人は 臨調の一員としての解釈を
      言っている。決して臨調を代表する まとまった意見とは受け取れません。
      議事録を公開してもらいたい。そうでなければ この点は解明できませんヨ。
      私もそれなりに調査したんだから。委員長 どうする。

委員長 … 臨時行政開花推進審議会 事務局 山本次長……。

村 山 … そんな人の意見は聞いていないよ。 (…と叫ぶ)

山 本 … まず事務局から お答えいたします。先生ご案内の通り 臨調におきまして
      は、審議会内部におきまする議事内容は、非公開ということになっており
      ます。

村 山 … 臨調の議事内容は非公開 機密だという。かりにも ここは国会ですヨ。
       私も相当調べ上げたうえでの質問です。もし私が言うことがウソで 参考人
      の言うことが本当なら、矢張り これは議事録を公開してもらわなければ
      いかぬですよ。これだけ この問題に疑義が残っていることを申し上げて、
      質問を終わります。                        
                                    ――以下省略

平 成  自 民 党 政 治 の 軌 跡 を  駈 け 足 で 瞥 見

 “昭和史エピソード” では 私はタイトルどおり、昭和年代のデキゴトの中で 単発の事件ではなく ある程度の期間に亘って、日本の社会を揺るがした 潮流のようなものを重点的に採りあげ、平成の時代には 努めて踏み込まずに来た。平成は 歴史というにはまだなまなましく、むしろ “現在” そのもので 一つ間違えば どう転ぶか判らないからである。だが 今回 「市場原理主義が もたらしたもの」 について考察しようとしたら、どうしても 昭和57年に始まった中曽根時代から今日に至る ひ弱な世襲首班内閣、ひたすら スポンサー財界の意向を忖度 (そんたく) し 官僚に牛耳られて新自由主義に引きずられた、平成自民党の悪政に 筆を走らせざるを得ないと思った。

 毀誉褒貶 (きよほうへん) があったにしても、岸・池田・佐藤 と続き 大平正芳までの戦後第一期の政権が行なった政治には  それなりの節度をわきまえていたと思えぬでもないが、中曽根康弘が政権を握ってからのち 日本政府の対米姿勢は卑屈なものになった (佐藤栄作の折、沖縄返還交渉のプロセスで 既にその兆しは見られたが) 。ロン・ヤスの関係を殊更にいい募り フリードマンの学説に則った “レーガノミクス” に擦り寄ったあたり “風見鶏” の本領発揮とも言えた。日本が 高度経済成長から日本列島改造、再度のオイルショックを凌いで 行政機構が見る見る肥大化していった時期、彼は 鈴木善幸内閣の行政管理庁長官として 「(土光) 第2臨調」 を発足させた。悪賢いというか 深慮遠謀 (しんりょえんぼう) というべきか、善幸のあとを襲ってからのち 中曽根は この 「土光臨調」 を足がかりに 懸案の行政改革を推進し、国鉄、電信・電話、専売公社など 不採算大型組織民営化の道筋を作った。折から 梟雄 田中角栄が脳梗塞で政治的生命を絶ったこともあって、その後 首相在任5年間に 中曽根は存分に政治力を駆使し 政権を竹下登に 禅譲したものだ。

 ほんの少数を残して 田中派の大部分を簒奪 (さんだつ) し “創世会” (昭和62年 “経世会” と改称) を立ち上げた 言語明瞭意味不明瞭の 竹下 登は、何を考えたのか 全国の市町村に 「ふるさと創生事業」名目で 一律に一億円を配分して世間を驚かせたが、いっぽうでは 大平・中曽根が積み残した 「消費税」 を強行採決 成立させた。昭和63年 リクルート事件に逢着して辞職はしたものの 大派閥 “経世会” をバックに政治的余力を維持し、後継に宇野宗佑、海部俊樹を相次ぎ起用した。宇野は三本指のスキャンダルがばれて 僅か69日で総辞職。已む無く選んだ三木派の海部は完全な 経世会の傀儡で、政権の後半で政治改革を目論んだが 誰にも相手にされず、結局 突如勃発した湾岸戦争には ムリムリ掃海艇を派遣したけれども、クェート政府からは感謝の言葉もなく 多国籍軍 (アメリカ) に戦費130億ドルを巻き上げられただけだった。

 英語だけは達者で 経済にも強いと目されていた72歳の老骨 宮沢喜一が、遅れ馳せに内閣を組閣したが、所詮は信念なき評論家。クリントン大統領に 内政干渉も極ったと言うべき 「年次改革要望書」 の交換を押し付けられ、これを受け容れてしまったことは、 佐藤栄作の “赤字国債初発” 中曽根の “プラザ合意” に匹敵する戦犯的行為だった。このことで 以来 自民党政府の政策は アメリカの言うが侭になる。宮沢は 賢しげに論評を加えはするが 政権運営にはリーダーシップを欠いた。内閣不信任案を可決されて解散に突っ走り、同時併行で自民党を離れた 新生党・ 羽田 孜、さきがけ・武村正義、日本新党を結成した元熊本県知事 細川護煕らの前に惨敗を喫し、いわゆる 55年体制を終焉させ 「政権交代」 が起こった。日本新党ら にわか政党が連合した 細川内閣が成立したのである。見かけのよさで 細川の国民的人気は高かったが、母方の祖父オ坊ッチャマ宰相 近衛文麿の血を引いてか 若い頃から軽佻浮薄 (けいちょうふはく) なところが目立つ貴公子、政治家を志したとき 熊本藩15代目の実父 護貞に勘当されているから、必ずしも世襲議員とはいえない。乱立した与党諸会派の野合が 幼稚な鬩ぎ会いを繰り返しているところに、細川首相自身の献金スキャンダルが暴かれ 内閣は僅か8ヶ月で倒れた。唯一の治績といえば 自民党河野洋平総裁と話し合って 「小選挙区比例代表制」 を成立させたのみ。この政治改革が、のちに小泉劇場の猿芝居を惹き起し その4年のちには民主党政権への雪崩現象を招く因を作ったのである。

 一連の自民党分裂と 名前も思い出せないほどの小党分立、離合集散は "壊体屋” 小沢一郎の暗躍が然らしめたもので、彼が 小渕恵三・梶山静六と対立して自民党をオン出たときに担いだ新生党 羽田 孜 を立てて "野次郎兵衛内閣” をデッチあげたが、結局少数与党でバランスを失し 64日間という短命政権に終わった。功績は何も無い。羽田内閣成立直後の新会派 「革新」 の発足で 社会党は雑居与党から外されてしまった。

 ここに 政権を失って一年、離党者が続出したと言えども 比較第1党の地位だけは保っていた自民党と、平成5年の総選挙で議席数を70にまで減らしていた社会党の マサカの連立が実現することになる。

 社会党委員長には 長らく同党の国会対策委員長を務めて、自民党梶山静六らと深いパイプを持っていた 村山富市が就いていた。既に細川内閣で閣僚を出しており 土井たか子が衆議院議長に就任していることもあって、社会党はかつての万年野党 ガチンコ反対党ではなくなっていた。羽田内閣を支えた院内会派 「革新」 の 社会党を排斥する姿勢に強く反撥した村山が 「革新」 ら 連合からの離脱を表明したのを機に、自民党河野総裁が 社会党委員長首班の 連立政権 樹立を打診、羽田内閣総辞職の後を襲って “自・社・さ 連立内閣" が誕生したのである。総理大臣になって いちばん面喰ったのは村山本人だっただろう。国会における施政方針演説で 「人にやさしい政治」 を掲げたが、従来の保守自民党的発想からは 出てこない言葉だった。その代わり 『自衛隊合憲』  『日米安保堅持』 とも発言し、それまでの社会党の信条をコペルニクス的に転換してしまった。回り合わせだろうが 村山は総理在任中、大きな デキゴトに立て続け見舞われた。平成7年1月 「阪神・淡路大震災」 が発生、同年3月には オウム真理教なる狂信集団が 「地下鉄サリン事件」 を惹起、6月 「全日空ハイジャック事件」 に遭遇した。それぞれ対応に多少の不手際があり 村山の “危機管理能力” が非難されたが、後藤田正晴ならばいざ知らず あの場合誰がやっていても同じこと 気の毒だったとしか言いようが無い。その意味では 「むらやま Who ?」 といわれながら、独特の風貌が幸いしてか 外交面でも多くの人々から愛された。そして 何よりも ´95年8月15日に発表した 「戦後50周年の終戦記念日に当たって」 とする談話で、日本が戦時中に行なったとされる “侵略" や ”植民地支配" についての公式謝罪 『村山談話』 は、宮沢内閣時代に河野洋平官房長官が行なった 「従軍慰安婦関係調査報告結果」 いわゆる 『河野談話』 とともに、近隣諸国に対する日本政府の “良心的発言" として 今もなお高く評価されている。発足時から戦後の政治的懸案事項に取り組まざるを得なかった村山富市は お飾りではなくひとまず任を果たし、平成8年1月5日 「もうこの辺で いいじゃろう」 と退陣を表明、11日 橋本龍太郎内閣がスタートした。

 橋本龍太郎は 故橋本龍伍の息 昭和38年 26歳で衆議院に登場した二世議員である。初登院に母親が同伴してきて話題になったが、“自・社・さ 連立内閣” のころには 数字や法律にも強い 自民党切っての政策通・仕事師になっていた。選挙区は父親譲りの岡山4区だが 東京生まれの東京育ち、若い頃から 向うっ気が強かった。いつも ポマードをべったり塗りつけたリーゼントスタイルで、甘いマスクが女性に受けて 「龍サマ  りゅうサマ…」 と 囃された。政治家をタレント並みに キャー キャー騒ぎ立てる風潮は、この頃から始まったか。スイスの直接民主制が 女性も参政権を得て国民投票に参加するようになってから、廃れていったことを連想する。坊ちゃん育ちのわがままは 政治家となってからも 「怒る・威張る・拗ねる」 傲慢な性格で 人望を欠いた。年上の後藤田正晴に対し 先輩面して最後まで 「クン」 付けで呼んだ話は有名である。首相になったとき 「ペルー大使館人質事件」 が起こり、軍を強行突入させようとするフジモリ大統領を抑えるのに苦労した。平成8年 第2次内閣では、「行政改革」 「財政構造改革」 「金融システム改革 (ビッグバン)」 「社会保障構造改革」 「教育改革」 と 六つの風呂敷を拡げた。ブレーンを有していたか、あるいは本人が勉強していたのかは知らないが、“六大改革" は 市場原理主義を基調としたものだ。折から景気低迷のあおりを受け 北海道拓殖銀行や山一證券が倒産、金融システムが揺らぎ 失業率が悪化するなか 既定の措置だとして消費税の引き上げ (3 → 5 ) を強行したこともあって、平成10年7月の参議院選挙に惨敗 その責めを負って総辞職した。前(さき) の首相 宮沢喜一 や 羽田 孜 も二世議員だったが 橋本龍太郎もまた世襲、以後 小渕恵三はじめ 自民党の歴代首班は連綿として世襲議員が続き、年を追って政治が劣化していく。

 “橋龍” が慶応出身なのに対して 小渕恵三は早稲田の出。父 光平は群馬県で製糸業などを興して一代で財を成し 衆議院議員を二期務めた。恵三はその次男 大学院生時代から意欲的に政治家を志していた模様だが 地盤の旧群馬3区は 名にし負う激戦区、福田赳夫、中曽根康弘、山口鶴夫 (社会党) の間に挟まって 小渕自身が “ビルの谷間のラーメン屋” と喩えながら、初出馬・初当選以来連続12回 議席を維持した。実兄 二代目光平 (地元 中之条町町長) が稀にみる有徳人だったというが 恵三もまた政界では “人柄の小渕” と称された。彼と同じ昭和38年に政界入りした 傲岸不遜 (ごうがんふそん) な橋本龍太郎が、終生 小渕とは誠実な交友関係を続けたとい言うから 人間の相性とは判らぬものである。橋本の後継者選び総裁選候補三人を 田中真紀子は “軍人・変人・凡人" と評した。軍人は梶山静六、変人は小泉純一郎、凡人は小渕恵三だ。人は好いものの風采の上がらぬ小渕の総理就任は 如何にも頼りなく、ニューヨーク・タイムズは 「冷めたピザ」 と呼び 国内紙でも 「一刻も早く退陣を…」 と書くほど政権基盤は不安定だったが、就任早々 破綻寸前に追い込まれていた長銀や日債銀を国有化、不良債権に喘ぎ自己資本比率が落ち込んでしまっていた民間金融機関に 莫大な公的資金 (総額 7兆5千億円もの税金) を投入するなどして、金融不安を ひとまず鎮静化した。そのあと彼は 天敵だった小沢一郎自由党 次いで 事ある毎に “おねだり癖” のある小判鮫公明党とも連立を組んで国会議席数の劣勢を回復、「周辺事態法」 「憲法調査会設置」 「国旗・国家法」 「通信傍受法」 などと右よりの政治を進め、更には 「労働者派遣法」 を改悪して 派遣の原則禁止・例外容認から 原則容認・例外禁止 と 換骨奪胎どころか立法の精神まで変えた。この悪法のために 非正規社員なる層が生まれる原因を作った。小渕内閣の時代から 政治のそこここに、中谷 巌 や 竹中平蔵の名前が聞かれるようになり、新自由主義的色彩が濃くなっていった。日銀のゼロ金利政策・所得税のフラット化や 法人税基本税率の引き下げ などであり、そのしわ寄せは 巨額な赤字国債の発行で賄われ 小渕は 「日本一の借金王」 と自嘲した。平成12年になって 自・自・公 連立を快しとせぬ小沢一郎が 比例代表定員削減を強硬に迫ったが、小渕 vs 小沢の直接交渉は決裂 自由党の連立離脱を通告された4月1日夜 小渕首相は脳梗塞に倒れた。

 その直後に行なわれたのが、青木幹夫内閣官房長官、森 嘉朗幹事長、野中広務幹事長代理、亀井静香政調会長、村上正邦参議院会長 いわゆる “五人組” の密室会議 (4月3日午前零時ごろ) である。病院へひとりで見舞った青木が 「(小渕と言葉を交わせたか どうかも不明のまま…) 後事を託された」 とし、村上が幹事長の森に 「あんたが (総理を) やれば いいじゃないか」 と発言して 後継が決まったというミステリーだ。

 疑惑の “密室談合" のあと ともかく自民党両院議員総会にかけて 森 嘉朗の内閣が出来上がったのだが 在任期間は385日、この間 失言を連発するばかりで 政治的治績は何一つ無かったといって過言ではない。マスコミは 「首相としての資質に欠ける」 とまで酷評した。そのお粗末ぶりを 失言も含めて幾つか列挙してみよう。

① 神官(かんぬし) である綿貫民輔議員らの集まりで 「日本は天皇を
  中心にした神の国」 と発言、問題になった。(
平成12年5月15日)

② 側近で官房長官に据えた中川秀直に、愛人問題や右翼幹部との交
  際などスキャンダルが発覚、任命責任が問われた。(
平成12年10月
  27日)

③ 高校生の練習船 “えひめ丸”が ハワイで米潜水艦に衝突され 9人
  が死亡した事故の報告をゴルフ場で受けたが、その侭第3報が入
  るまで 1時間半もプレーを続 けた。(
平成13年2月10日) 

④ I T革命を謳い インターネット博覧会を催したが、当の本人は“イ
   ット革命”と いい続けた。

⑤ 「子供をひとりも産まなかった女性が 自由を謳歌しておいて、老後
  を税金で面倒を見ろというのはおかしい」 と発言したり、選挙の際
   「無党派層は 家で寝ていてくれればよい」 と言って、顰蹙を買っ
   た。

 これらの事実が森首相の人気に影響し 内閣支持率は低迷、鳩山由紀夫から「消費税並みに (5.7) なった」 と 揶揄された。 ―― いずれにしろ 図体は風船みたいに でかかったが、お粗末さは のちの麻生太郎といい勝負であった。

小 泉 純 一 郎 の 暴 政

 「Yの昭和史」 昭和58年の 【その時】 欄に述べたように 私は 小泉純一郎という政治家が大ッ嫌いなのだ。面相 (めんそう) を見ただけで虫酸が走る。他人を見透かすような細い冷酷な眼つき、嘲笑っているかのごとき薄い唇 (くちびる) からは 尖った二枚の舌が覘いていそうに思える。その小泉は 厚生2回 郵政1回の閣僚歴と、自民党総裁選に2回立候補し 森 嘉朗が政権に就いたときは、清和政策研究会 (森派、旧福田派) の会長を引き受けるまでになっていた。といって 派閥の長たるに相応しいとも思えず、党内の批判をよそに “郵政民営化" を唱え続ける “変人・一匹狼” にすぎなかった。いっとき アンチ平成研究会 (橋本派・旧田中派) を旗印に 山崎 拓・加藤紘一らと組んで “ Y・K・K” と呼ばれていたが、山崎・加藤が 森内閣不信任案に同調する動きを察知するや、党内外に二人の造反を触れ回り  為に加藤は失脚してしまった。

 森内閣は 党内からも離反者が出るほど権威を失墜し、自民党そのものが国民から愛想を尽かされて 平成13年4月25日 総辞職に追い込まれた。早速の総裁選に 小泉は三度 (みたび) 立った。対抗馬は橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香 で 最大派閥の橋本が有力視されたが、小泉は田中真紀子の支援を受けて ど派手な予備選を展開した。曰く 「① 自民党をぶっ壊すッ !」 「② 私の政策を批判する者は すべて抵抗勢力だッ」 「③ 終戦記念日には (A級戦犯を合祀した) 靖国神社に参拝する」 かつて 自民党のリーダーが口にしたことも無い (右寄り…) ラディカルな発言が、党議員はともかく 一般党員に共感され 愚昧な大衆の喝采を浴びて "小泉旋風” 現象を巻き起こして地滑り的な予備選大勝を博し、本選挙をも制して4月24日 念願の自民党総裁の地位を獲得した。短いフレーズを積み重ねながら ひとつのプロパガンダに纏め上げる舌鋒 (ぜっぽう) を聞きながら 私は彼の鼻下に “ちょび髭” を見る思いがしたものだ。

 組閣に際しては 慣例になっていた派閥からの推薦を無視した “一本釣り” をとおし、一内閣一閣僚と称した。民間から経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に起用、若手で人気のある石原伸晃を行政改革担当  防衛庁長官に自衛隊出身の 中谷 元を抜擢、、外務大臣に田中真紀子を当てた。橋本派からは、片山虎之助総務大臣 村井 仁国家公安委員長の2人だけ、党三役には誰も受け容れず平成研究会を干しあげた。自民党の閉塞した状態に "変化" を渇望していた国民は、小泉内閣に空前の支持率を呈し 4月29日の読売新聞調べでは 87 (同日 朝日でも78) を記録している。余勢を駆って自民党は 平成13年7月の参議院選挙にも勝利した。

 小泉純一郎と竹中平蔵との接触が いつから始まったのかは詳らかにしない。たぶん 橋本内閣時代からだろうと思われるが、新自由主義を標榜する気鋭の経済学者と小泉が "市場原理主義” について相通じ、共鳴・肝胆相照らしたとは思えない。なぜならば 小泉にそれだけの素養があったとは、到底考えられないからである。小泉は 慶応で 加藤 寛に学んだとされているが、学生時代 半ば愚連隊的に遊びまわり 大学3回生には単位不足で上がれず、何らかの事件に巻き込まれそうになって 当時防衛庁長官だった父親純也が手を回して 彼をロンドン大学へ留学させてしまったという。ロンドン大学では聴講生に席を置いたものの 殆ど出席することなく、昭和44年 純也の死亡を機に帰国し  第32回総選挙で落選したあと、福田赳夫の書生になり 47年初当選しているのである。(← Wikipedia) 小泉にしてみれば政権に就いたとき 世界的潮流になっていた 「小さい政府」 を志向し、積年の政治的信念であった 「郵政民営化」 を実現するために、竹中の知識と力量を借りようとしたと思われる。いっぽう竹中にしても悪い話ではない。意欲満々 政権内部に入ることによって、自らが学んできた新自由主義経済学を現実のものとして駆使しようと考え 互いに "有無相通じ" たのではあるまいか。

 プロンプター竹中の入れ知恵で 小泉は 「構想改革なくして 景気回復なし」 と唱え、聖域なく あらゆる分野で 「規制緩和」 を推進していった。道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫など、かつて 平成研究会 (旧 田中派) 系が作った特殊法人利権構造を (形式的に) 民営化して “ 官から民” への流れを演出するとともに、何が “三位一体” なのか判らぬ、 むしろ地方から中央への収奪的財政政策を強行した。森政権時代に設けられていた 「経済財政諮問会議」 を足場に予算編成基準を総理管轄下に置き、経済財政担当竹中平蔵に 財界有利の税制・経済政策を壟断 (ろうだん) せしめた。因みに 竹中が経済に采配を振るうようになってからの 日本の (1人当たり) GDP世界順位の推移は、´01年5位、´02年 = 7位、´03年 = 10位、´04年 = 11位、´05年 = 14位、´06年(平成18年) = 18位 と低迷している

 一内閣一閣僚と言いながら、田中真紀子外相が 外務官僚をヒステリックに支配しようとして騒動を惹き起したので、これを更迭。成算があったのか なかったのか、引き続き北朝鮮を電撃訪問  「日朝平壤宣言」 に調印して 拉致家族2組を連れ帰ったところまではよかったが、後始末は放ったらかして “我関せず焉” 留守家族には会おうともしなかった。彼の二度目の訪朝からも既に5年、いわゆる 拉致問題は一歩も前進していない。

 2001年9月11日午前 (現地時間)  ニューヨークの世界貿易センタービルや ワシントン.DCの米国国防省本庁舎 (ペンタゴン) などが、アラブ イスラム原理主義ゲリラ “アルカイーダ” にハイジャックされた大型旅客機によって 自爆攻撃を受けるという 「同時多発テロ」 事件が発生した。日本時間では深夜のデキゴトであったが、私も登ったことがある100階超のツィンタワーが 垂直に崩落する “信じられない" 光景を目にした。ブッシュ大統領の 「テロとの戦い」 に応じ小泉は 米軍のアフガニスタン侵攻を支援する。「テロ対策特別措置法」 を成立させて海上自衛艦による “給油活動” を実施、´04年(平成16年) には イラクが核兵器を製造または保持していると言う、ブッシュのガセネタを真に受けて 陸上自衛隊をイラク南部サマーワに派遣した。これに先立ち 長年安全保障上の懸案になったいた 「有事関連3法」 を可決成立させている。

 平成15年の総裁選で再選された小泉は、弱冠 安倍晋三を幹事長に起用する サプライズ人事をやってのけた。社会保険庁職員の覗き見から 政界に "年金未納騒ぎ” が持ち上がり、民主党の菅代表 小沢一郎らが 次々と役職を辞任、足元の政府内部からも 福田康夫官房長官が辞職しているのに、小泉は疑いを掛けられても 「人生いろいろ 会社もいろいろ…」 とふざけた言い訳で突っ張りとおした。無責任発言は、これだけではない。「各年 国債発行額を30兆円以下に抑える」 と公約しておきながら 達成できたのは2ヵ年だけ、党首討論会で追及されると 「(守れなかったことは) 大したことではない」 とうそぶき、イラクで起こった “日本人 人質事件" に際しても 「自己責任」 と言い放った。

 キリが無いので、彼が在任中に行なった暴政を 労働・福祉に限って列挙してみよう。
① 労働基準法と労働者派遣法を改悪して、製造業にまで範囲を拡
  げ 派遣社員の派遣期間を 3年から無期限に延長した。
② 更に 労働基準法で禁じられていた 企業の解雇権 濫用 を無効と
  すると改悪した。
③ 介護保険では、特別養護老人ホームなど施設入所者の居住費・
  食費を有 料とした。
④ 財政再建のためとして 診療報酬の再度に亘る引き下げ、サラリー
  マンの窓口負担を2割から3割に増額、保険料を年収総額をベース
  に引き上げ。
⑤ 後期高齢者医療制度を導入 健康保険から分離。
⑥ 生活保護費や児童扶養手当を削減。
⑦ 障害者自立支援法を作り、受益者には 今まで無料で済んでいた
   介護・訓練費の1割を負担することにした。    …… 等 等 々 々  

  その上 何が“骨太” なのか意味不明の予算編成で、年々 福祉・社会保障の分野を逓減させていった。

 最大の暴挙は 小泉が “改革の本丸” と位置づけていた 「郵政民営化と関連法案」 が、参議院で否決されるや 無法にも衆議院を解散してしまったことである。(憲法解釈上も 過っているとする学者は多い) 持論だった “郵政民営化” の可否を 直接国民に問うというのである。彼は 法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、彼らの選挙区に 「公認印」 を貼り付けた いわゆる “刺客” を落下傘的に送り込む、前代未聞の戦術を展開した。まさに 「そこまで やるか」 と言ったていのスネーキーな手法を執ったのである。社会の木鐸たるべきマスコミは 本来ならばかかる行為を指弾し、国民の意識を覚醒させる役割を担っている筈なのだが、あろうことか 逆に 「小泉劇場」 と煽って面白おかしく囃し立てたものである。とりわけ 民放の報道番組の罪は深い。結果 小選挙区制が持つ欠陥が もろに露呈して、多くの有象無象 日ごろ政治なんかには トンと無関心なB層を投票場に動員し、自民党296が当選 (うち世襲が4割)  公明党と合わせた与党議席数 327の圧倒的勝利を収め、直後の衆・参両院で 小泉は念願の 「郵政民営化」 を果たした。

 彼の郵政改革は 巷間 アメリカの 「年次改革要望書」 に起因すると見られたが 然に非ず、昭和50年代から 強く主張し続けていたことだ。先般 “かんぽの宿不公正入札" が話題になったが 郵政民営化に関して、小泉にかかる疑惑は取沙汰されていない。もし裏に 利権などが絡んでいれば “一大疑獄" にも発展しかねないところだが、現在までは その気配は報じられていないのである。だが 第三者的に考えても、彼がとった執念的行動は異様であった。このことについて 長年 自民党の幹事長室長を勤めてこられた、奥島貞雄氏が 著書 「自民党抗争史 (権力に憑かれた亡者たち)」 の 第4章に次の如く書いておられる。

 引用 =   「(前略) ところが ここに 怨念を胸のうちに秘めた男がいた。それが かつて福田赳夫の薫陶を受け、彼を師と仰ぐ小泉純一郎だったのである。小泉は 若手から中堅と呼ばれるようになってからでも、福田が 最高顧問会議などに出席するときは いつでも福田のそばに寄り添っていた。小泉にとっては 「福田派」 と言うより 「福田赳夫」 が全てなのだ。 独特の感覚で政権奪取に成功するや、小泉は世論をバックに 積年の恨み (角福の怨念) を晴らすべく行動に出た。ターゲットは 敵将・田中角栄が足場を築いた 「郵政」 だったのだ。「改革の本丸」 とは言っても、郵政事業は十分に採算が取れている。民営化したからといって 行財政改革の視点から見たメリットなど 殆ど無いのだ。にもかかわらず 民営化を力ずくで押し切ろうとした理由は、「田中憎し」  「経世会 憎し」 にあった―――。私はそう考える。「自民党をぶっ壊す」 のではなくて 「経世会をぶっ壊す」。それが小泉の真意だったのである。 考えてみれば 橋本派の分裂、そして郵政民営化によって、昭和47年(1972) の “角福戦争" 勃発以降、ひたすら煮え湯を飲まされ続けてきた福田系は この選挙で初めて “田中的なるもの" に勝利することが出来たのだ。 (引用終わり)

 奥島氏の説が 正鵠を射たものであるか どうか は知らない。触れはしなかったが、小泉の靖国神社参拝の茶番劇も 彼の趣味、あるいは特異な性格の所産で、隣国が批判すればするほど 意固地になる。マスコミにとっては 面白いネタにすぎない。もし 郵政問題で 外資とつるむ動きがあったとすれば、竹中平蔵が 陰で職を涜して蠢動 (しゅんどう) した可能性はある。フリードマンの新自由主義とは、その程度の卑しい経済学なのである。

拡 が っ た 格 差  (生活保護世帯の増加 と 自殺者数の推移

 それにしても 一国のリーダーたる者の根性が、偏執狂的にねじ曲がっていては 国民を不幸に陥 (おとし い) れる。小泉・竹中のコンビは はじめは言葉を巧みに操った。“構造改革” “規制緩和" “聖域なく” などと言い立て (御用) 学者が煽りあげ ジャーナリズムが声高に囃したてると、無知識なB層が意味もわからず惑わされるのも無理は無い。「当然だ」 と納得し、「暫し我慢」 をすれば “バラ色の素晴らしい時代がやってくる” と思い込んだのである。市場原理主義 (ネオリベラリズム) とは そんなアマぃものではなかった。小泉・竹中が差配した 平成13年4月から 18年9月までの5年5ヶ月目、気が付いてみると 日本の社会は “弱肉強食” のすさまじい世界に変貌してしまっていたのである。経済アナリスト 森永卓郎氏の言を少しく借りると、

 「名目GDPは 小泉構造改革時代に501兆円から 507兆円と、6兆円増加しているが伸び率は1.5、年平均成長率は0.3に過ぎない。雇用者報酬の数字はもっと悲惨だ。小泉内閣の5年半で雇用者報酬は271兆円から 266兆円へ5兆円の減。マイナス1.9になっている。国民総生産 (GDP) が6兆円増えても、労働者の収入は 逆に5兆円減ったのである。しかもその間に 厚生年金や健康保険など 社会保険料の負担が4兆円増え、定率減税の廃止や配偶者特別控除の廃止などで、5兆円の増税が行なわれた。収入が5兆円減って 負担が9兆円増えれば、国民の家計が苦しくなったのは当然である。いっぽう 平成12年度と17年度の決算を比べてみると、大企業の経常利益は52も増加しており  一人当たりの役員報酬は、85もアップしている。更に 企業が支払った 株主に対する配当金は 158と大幅に増加している。何のことはない 正規社員が非正規化され 労働力がモノのようにアウトソーシングされ 人件費が削減されたいっぽうで、経営者や富裕層の所得が大きく増えていたのだ。株式配当で大きな収益を得たのは、インサイダー取引の出来ない企業の創業者とそれに繋がる縁者のみ。

 反面 中小零細製造業・小売店などは、銀行による阿漕(あこぎ) な貸し渋り貸し剥しで資金の道を断たれ バタバタと倒産、失業者が累増していた。一般国民が増税や社会保険の負担増で喘いでいる中、株式配当の減税、I T投資減税、連結納税制度の創設、欠損金の繰り延べ期間の延長 など 主としてお金持ちや大企業向け減税が3兆円も行なわれていたのだが、蒙昧な庶民は 新聞紙上に躍る税制や予算編成記事には 殆ど関心を払わなかった」 

 日本の低金利政策は 昭和60年の “プラザ合意" に端を発するものであり、低金利を維持することで 日本の円資金が赤字大国アメリカに流れ出る道を作り、為替レートは 止めどなく円高になった。先進国の中でも 貯蓄性向の高かった日本人の蓄えが 手にする筈だった利息収入は、400兆円以上 独占企業に移転収奪されてしまった。無金利時代の老後を案ずる退職者が ヘッジファンドに走って  結局 莫大な損失を被り、年寄りが性懲りもなく 日本特有の犯罪 「オレオレ詐欺」 に引っ掛かるのも、小泉内閣が残した弊風 (へいふう) である。自民党政権と地方自治体が抱える 1100兆円もの赤字国債・地方債の累積は、もはや 如何とも為し難いだろう。
                 
Photo  左に 「日本の生活保護動向」 をグラフにしてみた。巻頭 憲法第25条 「生存権」 について 書き始めたときに作成したものである。昭和48年 オイルショックを機に高度成長に翳 (
かげ)りが差しはじめ 社会保障が削られるようになる。第2臨調が設置され 行財政改革の動きが顕著になってくると、厚生省は 「生活保護の適正実施について」 という通達を出した。私が 当時社会党の議員だった村山富市と、臨調委員 瀬島龍三との 衆議院委員会における討論議事録を 要約掲載したのは、その辺の動きを知るためであった。臨調答申は ナショナル・ミニマムである生活保護法には 直接立ち入らぬものの、運用で対処・規制しようとした跡が ありありと判る。厚生省通達は 市町村 生活保護窓口での対応強化を求め、いわゆる “水際作戦" を徹底させるものであった。そして 生活保護受給者数は 前半ピークの昭和60年 147万人 (76万1000世帯) から、7~8年で およそ4割減の 88万人 (56万5640世帯) まで激減した。この間 21世紀初頭に訪れた短いバブル景気で 家計が些かは潤ったせいもある。だが 平成10年 小渕恵三内閣の頃、受給世帯 66万9050 (人数91万人) あたりから 再び生活保護は 騰勢を示し始めた。以後は うなぎ登り、平成21年2月時点では 受給者数 163万人(119万2745世帯) に達したと報じられた。これは 前年下半期から リーマンショック、GMほか 米自動車産業の倒壊がトリガーとなった 世界不況を切っ掛けに、キャノン・トヨタなど大企業が 理不尽な派遣社員切りを行なってPhoto_2  家なく職なき失業者が町に溢れ、見かねた湯浅 誠氏 や 日弁連が 積極的に生活保護申請支援に乗り出したことも 作用している。流浪する派遣社員たちは 保護申請の仕方や 制度そのものについて知らなかったのだ。これにたいして今年6月 厚生労働省は 「代理人による申請は なじまないとする見解を示し、支援団体を牽制した。」

Photo  左表は 昭和53年以降 平成9年までの 「年次別自殺者数」 を一覧にしたものである。背景に朱を入れた部分は、年間自殺者が3万人を超えた年であるが、奇しくも これもまた小渕内閣の平成10年以来 連続10年間も続いて今日に至っている。しかし これは氷山の一角だ。死んでいった人の陰には、おそらくその10倍の 未遂者がいるに違いない。自殺願望に駆られた人は、いったい どれほど居ることだろうか。昭和30~40年代に交通事故死亡者が 年間1万人を超える時代があって問題視された。その後 平成元年ごろから数年間、再び 1万人の大台が記録され 警察は飲酒運転摘発など自動車事故防止に躍起 (やっき) となり、平成19年には 5千700人ほどに落ち着いているが、毎年 自殺者が 3万人も出るというのは尋常ではない。洋の東西を問わず高齢者が高い自殺率を示すことは、福祉モデル国家と言われたスカンディナビアでも 一時期 憂慮されたと聞く。高齢者自殺原因の多くは、ガンなど いまだに不治とされる病を宣告されたり、“うつ” など 諦観的心境に支配されて自ら死を選ぶケースが見られるが、最近の日本は 些か事情が異なる。もともと自殺は、生活保護者数や失業率の増加と密接な相関関係を有するが、最近の様相は 倒産した中小企業の経営者や高年従業員 すなわち40~50歳代男性と ロストジェネレーション30歳前後の男性が、大きな山を作っているようだ

 「死にいたる病とは "絶望" である」 と言ったのは、キェルケゴールだったと思うが 日本の社会は いま 病い重篤である。

 北九州市は 余程因果な市政を敷いているのか。先年は 「おにぎりが食べたい…」 と書置きを残して餓死した30代男性を出し、生活保護担当が 「われわれに瑕疵はない」 と 薄ら笑いしながらコメントしていたが、今回も亦 39歳の男性がやせ衰えて死亡していた (NHK)。働くに働けない事情があったのか、それは判らないが 「助けて…」 と声を上げなかったのが哀しい。北九州市だけではない、北海道の母子、大阪で電車に飛び込んで死んだ夫婦。新聞ダネにもならないような、しかし 深刻な事例は 日本列島のいたるところで発生しているのではないか。昨年末 北陸・東尋坊で地元NPOが 何人かの “派遣切れ” 失業者の投身自殺を食い止めたと聞いた。

 国家の役割とは、国民の生命と財産を 安全に守ることが本義である。国勢をつかさどるのは政府、"経世済民” 世の中を治め 常に国民の苦難を救わなければならない。だが 戦前・戦後を通じて 実際に国の屋台骨を支えてきたのは官僚であった。取っ換え 引っ換え 崩れ 倒壊する内閣をよそに、天皇の股肱 (ここう) として育成された優秀な役人は、頼りにならぬ政府の動向とは関わりなく 実質的に自己完結組織を構築し、思うがままに振舞った。その極致が戦前では軍部であった。彼らは天皇の統帥権を盾に 帝国を破滅に追いやった。

 「2050年の世界地図に "日本” は 存在するか 3」 で述べたように、廃墟となった敗戦直後の日本に 不死鳥のごとく生き残った官僚機構は、戦前からの悪しき遺伝子を温存しつつ この国を支配してきたと言える。事実 戦後第1期の首班たちは、幣原・吉田・岸・池田・佐藤・ と (ホンの一部 少数の党人を除いては) すべて東大卒 保守的官僚上がりであり、自民党に所属した。第2期 平成の総理大臣はどうか、(これまた一時期 一部を除いて) 特徴は 有名無名の私大出身 ほとんどが劣性遺伝の世襲議員ばかり、自ら働き 額に汗して 経世済民に励もうとはせぬどころか、官僚に仕事を丸投げして今日に及んだ。公僕であるべき筈の役人は 自らの優越性を嵩に、再び 戦前とは異なる完結的体制を張り巡らせた。縦割り、天下り、渡りのシステム化である。

 平成21年8月30日にB層が 雪崩を打ってわれ先に 民主党へ票を投じ、政権交代が起こった。鳩山民主党内閣は 発足1ヶ月、誠実に政治を行なおうとしているふうだが  まだ先行きは判然としない。国民の一人として 成功を祈るのみだが油断はならない。とんでもなく巨大になってしまった “破壊屋ダイナマイト” を、腹中に抱えているからである。

 それはともかく、今回の大敗北を 真剣に反省すべき自民党の 体たらくはどうであろう?。総裁選が 反省・自己批判の場になるのかと思ったが、現出したのは 互いに 罵 (ののし) り合うだけだった。彼の党の、強欲・無節操・野放図な体質は、全く変わっていない。それは 最近報じられて 知るところとなった 「八場ダム」 造成の経緯にシンボリックに顕われている。自民党が自ら反省しないのなら代わって回顧してやろうと、意図して戯画的に表現したら 又候 (またぞろ) 長い文章になってしまった。

 最後に、調べを進めるうちに “五十嵐仁の 「転成仁語」 ” と言う素晴らしいブログを見つけた。五十嵐さんは、かつて森戸辰男氏も関わられた 法政大学 大原社会問題研究所の現所長さんらしいが、「転成仁語」 は2  五十嵐さんの私的ブログのようだ。去る 10月7日・8日と連載された 「労働の規制緩和 ―― 今こそチェックすべきとき 上・下」 は、雑誌 「職場と人権」 に掲載された 本年5月の講演記録と言うことだが、 さすがに労働問題研究の大家 のお話だけに 熟読玩味に値するものだ。ブログご発表の時期から考えて 既に命脈尽きようとしていた 自民党時代の労働政策について、この辺で ひと区切り して置こうと考えられたものと拝察した。リンクを貼らせて頂こうと思ったが メールアドレスを存じ上げず、已む無く ご講演のレジュメふうの目次を作成し、その中にURLを表示した。五十嵐さんには ご諒承を得ていないが、読者の皆様のご一読を お勧めする。


 
                     お  詫  び

 8月25日に 「市場原理主義が もたらしたもの Ⅰ」 を搭載してから、50日あまりも
 
  ブランクを空けてしまいました。比較的低温だった今夏を 何とか凌げたと思った
 
  トタン、体調
を崩して 「政権の交替劇」 は病院のベッドから眺めました。

  去年から一年ぶりの入院で
たが、おかげさまで 今は元気になりました。

  休載中も毎日 多くの方が私のブログを ご覧
くださいまして感謝いたしますと

  ともに、ご無沙汰をお詫び申し上げます。

                             奥  山    和

 




















 

      

 

 

 

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市場原理主義が もたらしたもの Ⅰ

今にして思えば  のどかな時代の パートタイマー ・ アルバイト

 昭和32年 (1957) の【デキゴト】10月に  「“3時間の百貨店勤め…” と 東京・八重洲大丸が パートタイマー募集」 のニュース記録している。現在 (2009年) から 遡ること52年も昔のことである。この年の1月には NHKラジオドラマ “赤胴鈴之助" の放送が始まり、吉永小百合がデビューした。また6月 主婦の店ダイエー (のちのダイエー) が 大阪に第1号店をオープンし、翌33年になると 白黒テレビ受信契約 (NHK) 数が100万台を突破、12月には東京・芝に 高さ333メートルの東京タワーが竣功して、本格的に電波中継を開始している。そのころ東京都内の主婦が、調査に答えて 「家事労働が楽になった…」 とする者が 58%に上ったという。ひとまず子育てを終え 洗濯機・掃除機が普及して 生活時間にゆとりを覚えるようになった家庭の専業主婦が、“隣の芝生は青い" と 家計の充実を志向し始めたのである。

 私の記憶では、既に繁盛し始めていたスーパーマーケットは 昭和30年初めごろには、積極的にパートタイマーを導入していたように思う。食料品やレジ部門だけではなく 衣料品・子供用品の分野でも、家庭婦人が身につけた商品知識やファッション感覚  生活の知恵は、なまじ大学を卒業した新入社員よりも はるかに長けており、接客力も優れていた。ただ 働く時間が正社員より短く偏っているだけで、税法上の扶養控除を考えて 彼女たち自身 高額な報酬を求めない傾向すらあった。労働時間の偏りも 彼女らの自主的シェァリングでカバー出来たし、当時は深夜に及ぶような営業時間帯ではなかったから、少なくとも 労働集約型の小売業にとって パートタイマーの出現は、労使双方にとって ハッピーな存在であった。

 アルバイトの歴史は もっと古い。敗戦直後の混乱期に、曾て 学徒出陣した大学生が復員し、また 地方から陸続 (りくぞく) と都会地へ集まってきた向学心に篤い若者たちが、学費と生活費を得るために 様々な分野で働き ドイツ語をもじって “アルバイト (内職)” と自称したのである。さる著名な作家が、終戦時 朝鮮より苦心惨憺して引き揚げてき 上京ののちはお寺の床下で雨露をしのぎながら、早稲田大学に通った苦労噺を聞いたこともあるし、文章力では右に出るもの無しとされる劇作家が 桁外れの貧乏生活の挙句、上智大学文学部に籍を置き 小演劇の台本書きとして 浅草ロックのストリップ小屋に住み込んでいたところへ、恩師の外国人牧師の訪問を受け慌てふためくエピソードもあった。アルバイトは 当時 働く学生の代名詞であり、学生以外に使われることはなかった。彼らは 苦学して学窓を出たあとは、それぞれに得手の領域で活躍 社会の中核として貢献 名を成した。大学まで進学できない大多数も 義務教育や高校生活を終えたのち 大小さまざまな職場に収まり、あるいは農・林・漁業や第三次産業にところを得て、おおかたは安定的な生業 (なりわい) に就いたものだ。

 各階層の所得に それほどの格差はなく (総じて まだ貧しかったというべきか…)、社会は節度を保ち お互いに助け合っていた。古き よき時代だったと言えるかも知れない。仮令 貧しくても 国民は明日に向けて夢と希望を抱いていたものだ。

一次産業の衰微 製造工場の海外移転とグローバリズム

 敗戦後 日本経済が最初に対応を迫られたのは、石炭・鉱業からの構造転換であった "火主水従” とされたエネルギー政策は 莫大な初期投資を要するダム建設が忌避され、石炭中心だった火力発電は 廉価な重油など液体燃料に取って代わられ 大量の労働力移動が生じた。過剰な保護・補助に浸った農業は 減反政策に甘んじて自立する力を失い、雑草に覆われた廃田を 炎天下に晒すのみ、飼料をアメリカの農産物に抑えられた畜産業も 育ちはしなかった。非効率な 内海・近海漁業は、冷凍技術を持つ遠洋漁船団か 海外からの輸入に頼らざるを得なくなった。日本の産業構造は、止めどなく 一次産業から二次産業、二次産業から三次産業にシフトしていったのである。いっぽう 高度経済成長の時代、春闘という “お祭り騒ぎ” のもとに  あと追いながら生産性の分配が順調に進み、日本の労働者の賃金は国際比較で見ても次第に上昇し、アメリカには及ばぬものの “ヨーロッパに追いつき 追い越せ" が 経営 共通の目標、労働組合にとっても暗黙の合言葉となった。

  やがてそのことが実現し “ジャパン  アズ  ナンバーワン” などと囃されるようになると、たちまち日本人は "中流意識" に慢心 した。事実 労働コストは多少割高でも  極めて高品質な Made in Japan の製品は、 「悪かろう 安かろう」 の戦前とは異なり、 輸出先の諸外国で その性能が驚異の目を以って受け容れられ 輸出の増進をもたらしたのである。それがまた 為替の円高を招いて 更に製造コストを押し上げる という悪循環に嵌まり込み、 逆に企業の競争力を削ぐことにもなった。いわば "いたちごっこ" だ。

 製造業が 工場立地を海外に移転し始めたのは、このころからである。日本企業の海外進出には ふたつのパターンがある。販売の窓口作りか 現地に近いところで製品を作るための工場進出だ。前者は 日本独特のスタイルとして総合商社が存在していた。後者についてみれば 最初のうちは自動車や精密電機製品を 消費地の欧米で製造するために工場移設を進めた。部品の下請工場を伴なえば輸送コストも安く上がる。何より現地で (相対的に) 安価な労働力を調達することができ、貿易摩擦の解消を可能とした。そして もうひとつのパターンは、賃金が 日本に比べて圧倒的に低い国に工場を移し、画一的な粗製品であっても大量生産で 世界の消費地に物量攻勢をかけようとするやり方だ。ファッションや季節性が尊ばれる小ロット製品や、仕様・納期に厳密性が求められ あるいは受注生産型の鉄鋼や高精密機械などは 海外での製造に向かない。あくまで製品の品質や不良在庫のリスクと引き換え 中国・東南アジアの低賃金狙いの海外進出であった。

 それやこれやで 海外進出企業は、大小4000社近くになったそうであるが、そのうちの 50%以上が 昭和61年(1986) から 平成7年(1995) の9年間に集中している。調査対象企業は資本金1億円以上、日本の製造業が これだけ大挙して海外に出て行ったのは開闢 (かいびゃく) 以来のことであった。内閣府の調査によると、日本の製造業における海外生産比率は 昭和60年度0.3%だったものが 5年後の平成2年には6.4%に達し、平成13年度は14.3%にものぼっている。当然 その分 国内には “空洞化現象" が起こり 雇用機会の喪失、地域産業の崩壊、生産現場の技術ノウハウ つまり “匠”の技の消滅、国際競争力の逸失を招来した。

 殊に 前(さき)の 「レーガノミクスと……」 の章でも触れたが、昭和60年(1986) 9月 ニューヨークのプラザホテルで  米財務長官ジェームズ・ベーカーによって強引に押し付けられた 対ドル円レートの切り下げが、日本の輸出産業に大きな打撃を与え 製造業の海外移転を誘発する最大の原因となった。日本経済は こののち 土地の騰貴や内需のバブルが一気に弾け、平成2年 (´90) 大阪・鶴見緑地公園で開催された 「国際花と緑の博覧会」 の華やぎの陰で 株式の暴落が始まり長い景気停滞に陥る。バブル期に行なった大規模な投資は 「3つの過剰(設備・雇用・債務)」 として企業の桎梏 (しっこく)となった。 その解決策のひとつが  製造工場の海外進出であり、もうひとつが新入社員の雇用抑制であった。平成5年以降12年間企業は、軒並み定期採用を停止した。この時期が就職氷河期と呼ばれ、多数の大学卒業生が職を得られず “フリーター” として巷をさまようことになった。日本経済の曲がり角 プラザ合意を容認したときの総理大臣は中曽根康弘、大蔵大臣・竹下 登、日本銀行総裁は澄田 智であった。

 折から ボーダーレスなグローバリゼーションの波が、地球上各地を洗った。日本では 昭和32年にコカコーラが発売されたが、瞬くうちにボトリング工場が全国に誕生した。昭和45年の千里万博で初見参したケンタッキー・フライドチキンは 同年11月 名古屋・西区に第1号店をオープンし、翌46年 マクドナルドが東京銀座・三越百貨店に日本1号店を出店、両者とも たちまち日本中に店舗網を展開した。地球規模で見れば、グローバル資本は ドリンクやファースト・フードだけではない、様々な業種が むしろ製造業を中心に国境を越えて入り混じった。日本の製造工場も、そのような気運に乗ったとも言える。それが 貿易摩擦解消を目的としたか、為替差損を極少に止めるためであったか、それとも 安い賃金の労働力を求めてであったかは別として、日本の企業が、グローバルな時代のメガコンペティションにもまれて 進出各地の労働力を使いこなす術を 学習したことは確かだと思う。 ニート (ot  currently  engaged  in  nployment  ducation  or  raining = 現在 就職・就学・職業訓練の何れも受けていない人)  という言葉はイギリスが発祥の地だ。昔は プロレタリアート (生産手段を持たず、自らの労働力を資本家に売って 生活する労働階級) と同じ意味で “プレカリアート” といわれる不安定労働者もヨーロッパには存在していた。欧米諸国を席巻した アメリカ発新自由主義、グローバリゼーションの落とし子である。

 海外へ進出して行った日本の企業は その地でのチープレーバー(安価な労働力) を使いこなした上で、日本国内工場においても 低賃金労働階層を作ろうと考えたのではないか。それが 昭和62年(1987)  就職情報誌 “フロム・エー” が使い始めた 「フリーター」 という言葉であった。アルバイトは学生の時間給労働者だが フリーターは和製英語だ。つい先年までは学生であったが、企業から正社員としての採用を拒否され 已むなく 安い賃金で、派遣会社などと雇用契約を結ばざるを得なくなった “日本のプレカリアート” なのである。そのことについては、のちに改めて考える。

気が付けば 百年 後退してしまっていた 日本の労働環境

 私は 昭和61年に人事部門から離れ、その後 数年で "化石” になった。だから 現役のころは、大卒新入社員の採用・教育活動に当たるか たまさか 定年退職が迫った 貴重な技能を持つ社員に、嘱託として職場に残ってくれるよう 有期契約を要請するくらいなもので、最近 話題になっている契約社員、派遣社員、フリーターと呼ばれる労働者に関して まったく知識がなかった。(勤めていた会社は 短大・高校卒 (もちろん正社員) の採用は事業部が、パートタイマーは店舗段階で雇用  社員は期限のない雇用契約を締結しているものと見做され、労働組合と合意して労働基準監督署に届け出ている "就業規則" に従って勤務し、パートタイマーは 労組には加入していなかったが、労働時間等 一部の条件が異なる “パートタイマーの就業規則" に拘束された。パートタイマーは 通常 1年以内の短期雇用契約を取り交わしていたが、二度 三度と更新すると その後再契約の “期待権” が発生するものとして、特別な理由のない限り 仮令(たとえ) "予告" したとしても にわかには解雇できないものと理解していた。

 今回 この文章を書くために  昔を想い出しながら Webを通じて少しく調べてみたのだが、現今の雇用形態の多様なこと 複雑怪奇なさまにはびっくりした。使用者と労働者の間には、その昔 ひとの生き血を啜 (すす) った周旋屋 (しゅうせんや) の如き “派遣会社" が介在し、直接雇用を嫌う企業の求めに応じて 派遣業者が契約・登録した労働者を自在に送り込む。作業の指揮命令は 派遣を受けた企業が行うのだろうが  社会保険はおろか失業保険や労災保険にも加入しないし、万一事故が発生しても責任は取らない 極めて無責任な状態にある。労働者を送り込んだ 派遣元が保険に入っているケースも稀だそうで、そのうえ 派遣先で安全に作業が出来るように 基礎的教育も施してはいない。漠然と本人が申し立てる職歴のみで 大雑把なスキル分けをするだけである。それでいながら 派遣先からは高いマージンを含む労賃を一括して受け取り、いろいろな名目でサヤを抜き 労働者に分配する。

 実態として 派遣先から更に別職場に二重派遣が起こっているが、労働の危険度は倍増する。それどころか 労働者が知らないうちに “ぐるみ請負労働" が横行していると聞く。宿舎は派遣先が用意するケースもあるが それは 嘗て季節工を採用していた自動車会社の 寮などが再利用されているわけで、多くは派遣会社が自前で宿舎を作り、仕事のない地方から労働者をかき集めて 宿泊料を取り立て 夜食や日用品を高額に売りつける。 ピン撥ねの現代版だ。

 日雇い派遣というのもある。必須の道具は携帯電話だ。日毎に登録した派遣会社に "当日の仕事の有無" を尋ねて、指示された場所に集合し 差配人に "日替わり職場" へ連行される。たとえば 大阪駅周辺の広場で、朝早く人混みが出来ていたら彼らだ。日ゼニが入らないと生きていけないところまで 落ちこぼれてしまっている。彼らの寝場所は  ネットカフェか地下道の柱の陰、ブルーシートの中だろう。私はその姿に むかし観た映画 「波止場 (イリア・カザン監督 マーロン・ブランド)」 を想い出した。

 調べれば 調べるほど、こんなことでいいのだろうか という憤りが、こみ上げてきた。だから お前は化石なんだ と言われるのかも知れないが…… いや 化石なればこそ 傍目八目(おかめはちもく)、 見えることもあるのだ。

 現在 日本の労働市場を支配している経営サイドの 強欲、倫理観念の欠如、人事管理意識の低劣、差別観 は、目を覆わしめるものがある。

 そもそも経営とは、ヒト (人材)、モノ (工場・店舗)、カネ(資本) を有効に活用して社会に奉仕し、結果として企業を維持 発展させるに足る “適正な利潤" を生み出す営みである、と 松下幸之助氏は 松下電器産業創立の理念の中に 明快に言い切った。私は たまたま籍を置いた小売業で 「商業を通じて 地域社会に奉仕しよう」  「給料は お客さまから頂戴しているのだ」 と躾けられ、心底 共鳴して勤めてきた。何より大切なのは 社員を育てることだと教わった。そのような風土でなければ、「目標による管理」 も「QC活動」 も  職場に根付かなかったと思う。あのころに比べて、今の日本の社会は 余りにも乾涸び ギスギスと荒廃してしまった。「誰でもよかった」 無差別殺人は そんな背景から生まれる。秋葉原の雑踏の中へ車を突っ込んだ男は、ツイッターに 「勝ち組はみんな死んぢゃえ」 と 書き留めていた。フリーターの子がフリーターにしかなれず 親子二代の非正規社員家庭も出始めた。派遣会社を飛び越えて 自衛隊に応募する風潮があるというが、いっそのこと 彼らが 外国の傭兵組織に潜り込もうとしはじめたら 日本政府はどうする。小泉純一郎なら おそらく 「自己責任だ!」 とそっぽを向くに違いないが…。

 昨年 夏、アメリカの住宅バブルが崩壊して サブプライム問題が発生し、9月に 名門証券会社リーマン・ブラザースが  まさかの倒産に追い込まれたのを端緒に、経済破綻の大津波が 海を越えて襲来したとき、奥田 磧 前経団連会長の出身母体 “トヨタ自動車” と 現経団連会長 御手洗富士夫の “キャノン” が、年末を目前にして突然  大量の非正規雇用労働者を解雇、派遣社員の契約を一方的に打ち切り  まだ期限を残している者までを、容赦なく 路頭に放り出した。その数は 無慮数千人といわれたが、率先して日本のトップ企業が取った行動は 瞬時にして産業界に波及し、短時間のうちに “住処なき失業者” は数万人に膨れ上がって  東京・愛知・大分の街に溢れ出た。大晦日 日比谷公園の “派遣村" に 屋根と食を求めてい蝟集 (いしゅう) した群れは、用意したテントに収容しきれなくなり 村長役の 湯浅 誠さんが厚生労働省と交渉して、霞ヶ関の厚労省本庁の講堂を 1月4日まで開放させた  生々しい事態は全国的に知られるところとなった。

 キャノンの大分工場は 予ねて偽装請負が摘発されるなど、財界総理の会社にあるまじき不行儀 (ふぎょうぎ) 不正を重ねてきたが  御手洗からはその後 何の反省の言葉もなかった。それどころか 「ホワイトカラー・エグゼンプション」 制度の導入を提案し、世間の顰蹙を買った。既に “ワーキング プア” なる おぞましい境遇に貶 (おとし) められている人々は、フリーターという言葉からイメージするヤング層だけでなく  三十代~四十代の壮年者も数多く混じり 家庭を持つ人たちは苦境のどん底に落ち込んでいた。まして悲惨だったのは、愛知など中部地帯に多く見られた ブラジルなど南米からの出稼ぎ三世・四世たちだ。永住を望んでいたのか 子供連れが多く、幼い子供を抱えて途方にくれるサマは 正視し難いほどだった。彼らの祖父母や曽祖父は 百年の昔、日本を食い詰めて はるか地球の裏側に赴いたのだったが、その子孫が今また…… 語る言葉もない。

激動の四半世紀  踊らされた 愚かな国民

Photo_7  手にした 内橋克人氏の 『悪夢のサイクル ネオリベラリズム』 を捲っていたら、プロローグ7頁目に “所得格差は広がった” というタイトルの絵図が目に入った。左の画像である (右クリック)。 断りなく 氏の文章を要約 引用すると、(千里万博が開かれた) 1970年代  日本人の所得階層上位20%の総所得と 下位20%のそれと比較したとき、その差は10倍にすぎなかった。ところが  (土光臨調が最終答申を中曽根内閣に提出して  行政改革・民営化が始まった)1980年代の後半には、それが20倍にひらき  2000年代初めにはどうかというと 168倍にもなっている。(2009年の今では 200倍にもなっていようか)  政府は国民の高齢化が進み 年金生活者が増えたためとしているが、果たしてそうか。資産 1億円以上の富裕層が増えて 140万人以上になっているいっぽう、嘗て 中流と意識した層が滑り落ちて 今やギリギリの生活を強いられるようになった。厚生労働省の 「国民生活基礎調査」 によれば、2002年 日本の一世帯あたり年間所得の中央値は476万円、その半分 238万円以下の所得で生活している人々が 六世帯で一世帯になり 今もなお 貧困率は 加速 悪化しているというのである。(←要約引用終わり

 やや軽薄なところはあるが、 知能レベルは高く 均質な日本人の社会において、僅か20年ほどの間に 個人および世帯階層間で  かくも著しい所得格差がついてしまったのは何故か。自然の流れでそうなったとは、とても思えない。この間に何が起こり  如何なる力が加わったのだろうか。紙面にそれほどゆとりはないが、掻い摘んで考えてみたい。

 “ニューディール政策” に関わったケインジアンのガルブレイスは 「経済に安定装置を組み込むのだ (We  build‐in stabilizer) と言った。彼らより一世代古いアダム・スミスの “何事も神の手に委ねれば すべて世はコトもなし” とする、おおらかなオールド自由主義に飽き足らず  不況になって失業者が出たり 勤め先が倒産して 国民が困窮するような事態が起こったら、 たちどころに 政府が積極的に乗り出して有効需要を創出し、社会保障の制度を充実させ 所得の再配分を図る 心優しいケインズ学派に対し、ケインジアンにとって不測の出来事  オイルショック後の 世界的スタグフレーションへの対応に 欠陥をさらけ出したところを衝いた ネオリベラリズム (新自由主義)、 偏狭で排他的な市場原理主義を振りかざす ミルトン・フリードマンが現われる。

 フリードマンは 東欧からのユダヤ人移民の子として ニューヨークに生まれた。貧しい生活の中 苦学力行してシカゴ大学教授に就いたが  彼が新自由主義を唱える思想的背景には、スターリン治下のソ連や ナチスドイツのユダヤ人迫害、それに 差別を受けながら 劣悪な労働条件の下で過ごした自身の青春時代に対する憎悪に根ざす 「人間としての自由」 「国家からの自由」 「抵抗の思想」 が基調をなし いわば “憎しみの経済学" とも言えた。彼は 政府による 所得税の再配分機能すら全否定した。「私は自由主義者として、所得を再配分する累進課税を 正当と認めない。他人に与えるために 強権を用いて収奪することは、個人の自由と真正面から衝突する。最良の所得税の構造は、ある免税点を超える所得に対する 均一課税である」 と言い放ち ケインズ的公共政策に反対した。

 アメリカ人は 建国の昔から、“自由" という言葉にヨワイ。たまたまノーベル賞を受けたフリードマンの幻術的な "自由論" に蠱惑 (こわく) されたレーガンが 政権の根本基調に 「新自由主義学説」 を据えた。当初 副大統領になったパパ・ブッシュですら レーガノミクスを “ブードゥー経済” と揶揄したくらいである。 ガルブレイスが 「途方もなく金持ちに益し、貧者に対しては とてつもなく懲罰的」 と批判したサッチャリズムと共に、財政的苦境にあえぎ 小さな政府づくりを目指す西欧諸国は 堰を切ったように米英の新自由主義 (市場原理主義) 経済政策に靡 (なび) いた。中曽根康弘もまた然りである。グローバリズムの潮流が その傾向を助長した。だが フリードマンの説く経済政策が奏功したとは 決していえない。

 アメリカの場合も レーガンは 財政・貿易の厖大な 「双子の赤字」 を積み上げ、基軸通貨ドルの信頼を害 (そこな) った。その糊塗策が “円" を標的にした強引な 「プラザ合意」 の押し付けであり、それを呑んだ中曽根は レーガン・アメリカに屈服させられたという以外の何者でもなかった。計測された数字は知らないが プラザ合意が日本経済に及ぼした損害は、天文学的な値にのぼったのではあるまいか。新自由主義への傾倒、グローバリズムの浸透と日本財界の迎合、学者・専門家の尤もらしい阿 (おもね) り、自民党政治家と官僚が スポンサー財界の意向を忠実に反映させ続けてきた 20年間の労働政策と不公正な税制が、優勝劣敗 こんにちの "勝ち組" と "負け組み" を作り出した。念のために この20年間の自民党政府首班を列記してみようか。中曽根康弘、竹下 登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、(細川護熙、羽田 孜、村山富市)、橋本龍太郎、小渕恵三、森嘉朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎。中曽根と小泉が 合わせて10年4ヶ月ほど政権に在ったから あとの内閣は平均して1年に足らず、“澱みに浮かぶ うたかた” のようなものだ。戦前 募る軍部の横暴を 押し止める首相が 終に 出なかったと同様、格差社会への流れに逆らう人物は 一人もいなかった。

 ひ弱な世襲議員が過半を占める これら歴代自民党内閣が 政権の座に居座っている間に、わが国では市場原理主義が蔓延し 構造改革・規制緩和が進行した。それにつれて私たちの周りから “大切なもの" がないがしろにされ、失われていった。元来 わが国労使関係の特徴は、① 年功序列賃金、② 終身雇用、③ 企業内労働組合 にあり、よくも悪しくも “絆” 的つながりが職場の秩序を形成 いわゆる日本型労使協調を紡 (つむ)いできた。だから たとえ不況に遭遇しても  企業は 育て上げた人材を むざむざ放出しようとはしなかったし、そのことがまた 働く者にとって生涯設計の拠りどころであり、同時に 会社に対する帰属意識を高めた。                                                           Photo_2

 ところが 冷酷な市場原理主義に毒された近年の経営者たち は、蚕食 (さんしょく) してきた外資 “禿げ鷹” ファンドの株式買収・乗っ取り あるいは短期経営実績のみをメルクマールとした攻撃と、これに便乗する “もの 言う株主" を恐れるあまり しわ寄せに人件費の圧縮を図った。彼らは リストラと称し長年勤めてきた正社員の肩を叩いて 僅かな退職金の割り増しを餌に 解雇 そのあと労働条件を落として契約再雇用したり、あれほど "青田刈り" に狂奔していたことを忘れてか 予告することもなく大卒の採用を ハタ と停止 "就職氷河期” を作り出しておきながら 恬然として愧じない。そしてそのあとを 派遣・フリーター等 非正規社員に置き換えていったここ十数年の軌跡が 総労働人口中 「正規・非正規雇用者の比率推移」 を示した右上の表である。

 先ごろ厚労省は 平成21年度版 「労働経済白書」 を発表したが、これによると 正規労働者と非正規労働者の所得格差が  20~24歳で107万円 vs 245万円とあり 2.29倍 50歳代前半で比較すれば 108万円 vs  551万円 実に5.1倍に広がると、初めて公式に認めた。非正規労働者は 技Photo_11 術や技能を習得する機会にも恵まれず 職業能力差がますます拡大して、若者の自立を困難にしている。 また 雇用形態別の失業率で見れば 正規とパート ・アルバイトが比較的なだらかな波形を描いて、平成21年1~3月期がそれぞれ 2.2% 4.0%強と推移しているのに対し 派遣のそれは19.4%と異常に跳ね上がり 昨年末から今春にかけての企業の "派遣斬り” が如何に凄まじいものであったかを物語っている。失業率の数値は労働経済白書からではなく 別に同時期 内閣府が出した 「経済財政白書」 から採ったものだが、この文書には 「企業がリストラせずに 社内に抱え込んでいる余剰人員 (潜在的失業者) は、同年1~3月期で 最大607万人…」 と 半ば “恫喝的" 言辞を連ねている。

 これら非正規社員 (契約・派遣・フリーター) が増えることは、大企業にとっては 毎年 学卒 (短大・専門学校・高等学校卒を含む) の定期採用・教育訓練・社会保険加入(事業主負担が必要) 福利厚生・賃金+ボーナス (昇給もあり)  の支払いなど あるべき労働力循環と応分人件費の負担 といった社会的責任を放擲してしまうことを意味し、そこに生じる “差益” は莫大な額にのぼる。だから 民間企業のみならず 地方自治体や公的機関も、いったん味わった “禁断の木の実” は 決して手放そうとはしないだろう。

 かかる事態に立ち至るまでに 労働組合 わけてもナショナル・センターなるものは、いったい 何をしていたのか と思う。“むかし陸軍 いま総評” と言われていた昭和30~40年代は 「安保反対闘争」 で労働者を総動員して、国会を十重二十重に包囲したり、太田 薫 議長が 内閣総理大臣とサシで話合って 「春闘方式」 を確立し、日本産業の生産性を 公務員、中小企業労働者にまで配分する道筋を打ちたて、政財界に睨みをきかせ 畏怖せしめたものであった。アメリカのような産業別ではなく、日本の場合 各単産が いわゆる企業内組合であったにせよ、いつの頃からか労働組合は 戦闘力を失ってしまった。この20年余り 労組がやってきたことは、組合費を納めてくれる正規労働者の賃上げのみに偏る 度量の狭い活動でしかなかった。正規従業員に課せられた過酷な残業を阻止することもせず、過労死の続出にも無為であった。パートタイマーを組織することも 最低賃金の引き上げにも不熱心だった。日本の政治・行政・財界が 第2臨調の答申を切っ掛けに、新自由主義へ雪崩れ込んでいくのを ただ 傍観しているのみであった。そのことは 平成元年 総評と同盟、中立労連、新産別が合同して 『連合』 へ移行してからのちも、政治色は強まったかもしれないが 本来の 労働者の生活を守るために団結して 経営者と対峙・闘争する姿勢を示すことはなかった。

 組合員である目の前の正社員が 肩を叩かれ、職場から引き剥がされていくのを 身体を張ってでも 組合挙げて渉りあい 阻止したことがあったか? 企業の中で明らかに差別され 劣悪な労働条件のもとに酷使されている、契約・派遣・フリーターを 労働組合員である なし に関わらず 同じ働く仲間として庇護し支援しようとしたことがあったか?むしろ彼らを "自分たち正社員の利益を犯すもの" と見做して 敬遠・排除しようとはしなかったか?

 平成17年 前任 笹森 清 から 連合会長の座を禅譲されると目されていた (UIゼンセン同盟の) 高木 剛 が、立候補締切り寸前に出馬した (全国コミュニティ・ユニオンの) 鴨 桃代 に 総数の23%近い票をさらわれ、(白票、無効票を合わせて) 1/3 もの不信任を突きつけられた事実は 「経営陣と戦わず 労働者を守らない組合に成り下がっていること」 「非正規雇用者への保護姿勢が弱い」 「憲法9条を改正し 軍事力の強化」 を狙っていた 旧同盟路線に対する 批判が噴出した結果であった (←Wikipedia)。

 いま 驕れる経営者に対して "非正規労働の全廃" を迫り、弱肉強食の場になってしまっているわが国労働市場を 正常な姿に戻すのは、正規・非正規労働者の力を結集して 1000万人労働者組織としての ナショナル・センターの使命だと思うが どうか。新しく就任が予定されている 古賀伸明連合会長 (松下電器・電機連合出身) に 期待するしかない。   

Photo_8  乾き果てた灰色の脳細胞をムリにも搾りあげ Web上からも情報を求めて、左に 「わが国労働法変遷の軌跡」 なる一覧表を作ってみた。紺色で表現したのは 労働組合法・労働基準法はじめ 労働者の待遇・環境条件について、些かでも向上を企図して制定された法律と 改訂 (あえて改正とは言わない) であるが、茶色の部分は 私見ながら 改悪としか思えないものである。昭和60年 (´85) を境に わが国の労働行政が 市場原理主義に毒された強欲な財界の 恣意のままに 執行されたことを歴然と示している。ヤクオ ギャラリー 「2050年の世界地図に  “日本" は存在するか 3」 で、平成11年 派遣を原則自由化する “労働者派遣法改正案” の国会審議大詰めで 最後まで頑強に反対していた共産党の寺前議員に、労働大臣 甘利 明 (現麻生内閣では行政改革担当大臣) が せせら笑って答弁するサマを紹介したが、結局この法律は 民主党を含む野党も賛成して成立した。前掲一覧表に列挙した法律も 強行突破採決されたものもあるかも知れないが、多くは駆け引きの挙句 野党も合意して成立したものだろう。そうしたことが 昨年 (平成20年)  派遣村騒動に繋がったことを銘記するべきである。

 「市場原理がもたらしたもの」 は 次章に続き 憲法第25条 「生存権」 と 生活保護問題に論を進めようと思っているが、その前に ここに 「医療制度改革批判と社会保障と憲法」 というタイトルのブログをご紹介する。“harayosi-2” さんとおっしゃるブログ主さんに ご諒承を頂いてリンクを貼った。ブログ主さんは お医者様ではないかと拝察するが、実に説得力のある文章で 簡潔に日本の社会保障の歴史と現状  問題点を鋭く指摘なさっている。また ブログ内容は 医療制度、年金問題、後期高齢者医療制度 などに、専門的なお立場からの考察を述べておられ 熟読に値する。

 総選挙の告示が明日に迫った。 民主党の勝利は揺るがないと思われるが、さすれば 日本にとって初めての "体制変革" になる。自民党時代の悪弊を 一掃する好機だが 油断は出来ない。選挙ののち 民主党内に小沢チルドレンが跋扈して、軒を貸したはずが 母屋を乗っ取られることになり、残存する新自由主義派とつるんで財界に諂 (へつら) わぬとも限らないからだ。鳩山の姿勢はホンモノか 腰が据わっているかが 懸念される。菅 直人は 市川房江を担ぎ、江田三郎と組んで 「市民連合」 を立ち上げたときの 初志と情熱を保っているか。1500万以上のアクセス数を誇る辛口ブログが 岡田克也を新自由主義者と断じているが、岡田家の家風と彼の成育歴 言動から見て あり得ないと信じているものの 果たして…?

 私は 民主党政権が官僚の独善を排し、果たしてどのような方向に 日本を導いていくか。「派遣制度の廃止」 をはじめ 労働法の正常化や、医療制度・年金  社会保障制度のセーフガードが 再構築されていく様を  前出 「労働法の変遷表」 や 「harayosi-2」 さんのブログをチェックシートに 注視したいと思っている。

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) 
  harayosi-2 さんの 「医療制度改革批判と社会保障と憲法」 へのリンクに失敗しましたので、ブログ "阿修羅” さんに原文のまま搭載されてい たものを 転写しました。

  harayosi-2さんのブログは http://blog.goo.ne.jp/harayosi-2 をクリックすれば閲覧できます。

 

 

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国鉄 電信電話・専売公社の民営化

第2臨調の構成と  加藤 寛 教授 屋山太郎氏 の存在

 昭和56年3月16日に 第2臨時行政調査会 (土光臨調) は発足した。土光敏夫会長 (元 経団連会長) のほかに、円城寺次郎 (日本経済新聞 顧問)、林 敬三 (日本赤十字社長)、宮崎 輝 (旭化成工業社長)、瀬島龍三 (伊藤忠商事会長)、辻 清明 (国際基督教大学教授)、谷村 裕 (東京証券取引所理事)、労働界を代表して 丸山康雄 (総評副議長・自治労委員長)、金杉秀信 (同盟副会長・造船重機労連委員長) ら 9人の錚々たる顔ぶれが 委員として任命されている。これら委員の任命については 2月27日、参議院 議員運営委員会において賛成多数で承認され、殊に 総評・丸山康雄に関しては 桧垣徳太郎委員長が 「同意与えるに 異議ありませんか…」 と 再度 確認を取っている。(←国会議事録

 また 専門委員21人には、労働界から鶴園哲夫 (元 全農林委員長)、山田精吾 (政策推進労組会議 事務局長) が選ばれたが、臨調は4月にかけて 顧問5人 参与49人を各界代表として選出し、これには 槙枝総評議長・宇佐美同盟会長・樫山中立労連議長も含まれていたものの、臨調の審議に加わった委員、専門委員、顧問、参与の大多数は 財界の論客が占め、会議は非公開・多数決とされた。

 ところで 一般に土光臨調といえば、たちどころに 加藤 寛 慶大教授、ジャーナリスト屋山太郎 の名前が思い浮かび、事実 Wikipedia などの Web 辞書で “第2臨調" と牽くと 「…主要メンバーは 加藤 寛 屋山太郎  瀬島龍三」 と出てくる。にも拘らず 公式記録には 瀬島の名前はあるが、加藤  屋山 が記されていないのである。二人とも 決して "小者” ではない。如何にも不思議なので 更に突っ込んで調べていくと、次のようなことが推測された。臨調には かねて改革のターゲットと目されていた国鉄や 電電・専売公社など、民営化を進める 「第4部会」 なるセクションが設けられ、両氏は “スゴ腕の ウラ臨調" とも称された この実働部隊で活躍したらしい。その辺を 以下のブログから抜き出し、実証してみよう。

 『土光臨調のとき 国鉄を担当した 加藤 寛 部会長は、当初16人の委員のうち 分割・民営化に賛成の者は 5人しか居なかったにも拘らず、最後には 全員を分割・民営化案にまとめて 全会一致の答申を出した。議論が引っかかると、説き来たり 説き去る 加藤節を聞かせ、私などは 幾つかの疑問もあったが 「まとめるほうが 先決だ」 という気にさせられた』 (←屋山太郎談 平成14・10・12 産経新聞 正論

 その 加藤 寛 氏は、フジサンケイ Business の特集 “わが道 わが友” に、次のような一文を草しているので 少し長くなるが 引用する。

  『…50年代 現実の社会に役立つ学問を実践しようと、行政改革に関わるようになった。1981 (昭和56) 年に 元経団連会長の土光敏夫氏が会長を務める 土光臨調が発足すると、私は 国鉄を担当する第4部会の部会長を任された。土光さんは生活が質素というイメージが強いが それは本当だ。家に行ってもテレビも冷暖房もなかった。当時85歳。行政管理庁長官だった中曽根元首相が 会長就任を頼んでも、「(高齢で) つらい」 と固辞していたのが 「国のためです」 と言われて引き受けた。いったん引き受けたら、断行する意志の強さはもの凄かった。

 国鉄改革に関しては 「(関わった人が) 何人も殺された」 と言う話を聞いていて、身の危険を感じた。警察官が警護してくれたほか 電車を待つときはホームの端に立たないことを徹底させられた。帽子やヒゲで 変装するよう勧められもした』  (以下 中略 後段で再引用の予定)

 ほかに 日本労働年鑑 第53集1983年版 (法政大学大原社会問題研究所) の中に、こんな文章もあった。

 『非公開を原則とした臨調審議のもとで、「素案」 「中間報告」 が 相次いでスクープされた事態は異様であった。"裏臨調" と言う言葉が流行した。“裏臨調” は 特に国鉄改革、省庁統廃合問題で 力 を発揮したと伝えられたが この時期 新聞紙上に次のようなコメントが続いて注目された。

 臨調7月答申の目玉である 「国鉄改革案」 が具体化するとともに "裏臨調" のスゴ腕ぶりが にわかに脚光を浴びている。数人の委員で構成し 臨調審議の表舞台とは別に、非公式に 政府・自民党・関係団体などと折衝を重ね、実行可能な答申作りへの 地ならしを行なう機動部隊である。三段階方式による国鉄改革案も この "裏臨調" が 自民党の担当実力者との協議で練り上げたものだし、23日に発表された運輸省案も "裏臨調" が 改革へのスタート台として運輸省側に作成させたものだと言う。それだけに 臨調 自民党内には、「臨調と党が 並行して審議しているウラで 何様のつもりだ」 と反発も強い。しかし "裏臨調" でまとめた国鉄改革案は、こうした声があるにも拘わらず定着しつつあり  5月10日に正式提案される臨調部会報告も、"裏臨調" の線に沿って決定される見通しが強い』

 加藤 寛氏が掲載したと同じ Business の “わが道 わが友” に、ウシオ電機・牛尾治朗会長が こんな文章を載せている。

 『…56年に土光臨調がスタートした時 桜田 (元 日経連会長 桜田 武) さんに呼ばれ、「土光氏は 東京高等工業学校(現 東工大) 出身だから 行政のことは判らない。君が きちんと助言しなさい」 と 忠告された。それから4ヶ月ほど経って 近況報告に伺ったところ、桜田さんは一転して 「俺は間違っていた。土光氏は "小さな政府” の本質をよく知っている。君は土光氏のために命を捨てよ」 と言う…』

 インターネットから検索した これら資料から、私は 土光臨調の中で 加藤・屋山氏が 枢要な位置を占め、実働部隊を率いていたことを確認できた。

メタボリック症候群に陥っていた 国家体質の改善

 第2臨調は、土光敏夫氏を頂点とする 厖大 かつ多岐な組織が編成され、広範な領域に亘る改革が、短期間 隠密裏に強行された。そこに投じられた 委員・専門委員・参与ほか 実働した人々の数も膨大な員数に上っている。現場で実務に携わっている官僚、公社・公団の職員も動員した模様であるから、総数は にわかには数え上げられないほどだっただろう。そもそも 行財政改革の根底には 「小さい政府」 を作ろうとする考え方があった。高度経済成長期から、日本列島改造を強行し 途中 思いがけないオイルショックに遭遇した時代を経て 日本の行政機構は膨れ上がっており、そこには 重複、矛盾、無駄 など、人員も含めて そぎ落とさなければならない脂肪と贅肉が ぶよぶよの肥満体を作っていたのだ。臨調は 限定された時間の中で、強引と批判を浴びつつも 能 (あと) う限り手際よく事を処理しなければならなかった。臨調の巨大化した組織の随所で 激しく火花を散らしながら 発足後2年余と言う時間の中において、将来を見据えた指針を示しつつ最終答申を纏め上げることが出来たのは、"土光" と言う冠が放つオーラにも似たガバナンスによるものであった。

 昭和58年(1983)  第2臨時行政調査会は 最終答申を行なって解散したが 中曽根内閣は、答申の実現を監視し 更なる提言を行なう “総理大臣の私的諮問機関” として 「臨時行政改革推進審議会」 を設置し、会長に 引き続き土光敏夫氏を起用した。この 「行革審」 は 昭和61年(1986) 6月に 「今後の行政改革の基本方針」 を答申して解散している。だが その後も第2 第3の 「行革審」 が編成されて、平成の年代に至るまで 財界主導・新自由主義型の行政改革、規制緩和が推し進められていった。

 ここまで 第2臨調が、どのように構成され 機能していったかについて概観してきたが、これ以後は、土光臨調の核心とも言うべき三公社 および国鉄の分割・民営化にのみ焦点をあわせて その変革の軌跡をなぞってみようと思う。

 三公社とは、専売・電信電話・郵政公社を指すが、このうち郵政公社については その業務内容が、あまねく日本全国に公平なサービスを提供するもの (郵便集配事業)、既存の民間企業との競合を避けるべきものであること (郵便貯金・ 簡易保険事業) 等を勘考して、行革の対象とすることは この段階では “時期尚早” として見送られた。

(専売公社)

 いっぽう その規模から考えても、専売は民営化して当然と見做されていた。

 塩は人間の生命維持、生鮮食品の貯蔵に必須のものであり、洋の東西を問わず 権力者は塩の流通を独占管理して 利益を上げていた。物々交換の時代は貨幣同然で、紀元前の中国でも古代王朝が塩の管理を徹底し、 またヨーロッパでは地中海から北方へ アルプス越えの "塩の道" が拓かれたほか、岩塩が発見されて ザルツァッハ川を航行する "塩の運搬船" から通行税を取り立てる城砦の地 サルツブルグという地名も残っている。日本では 嘗て今川義元に塩を断たれて難渋していた甲斐の武田信玄に対し、 宿敵であるにも拘わらず 越後の上杉謙信が 塩を信玄に送り 「敵に塩を送る」 美談を生んで 今に伝えられている。

 ま それはさて置き、明治政府は1904年(明治37年) 大蔵省煙草専売局を 「専売局」 と改称して 本格的な専売事業を開始したが、翌明治38年 日露戦争での国庫収入増大を目的に “塩” と “樟脳” が専売品目に加えられた。

 戦後 昭和24年 煙草専売法に基づいて 「日本専売公社」 が発足、塩の専売事業も移管されている。1980年代 (昭和55年ごろ) にはいるとアメリカの市場開放要求が強まり、専売事業は民営化の第1候補と目され 臨調答申に促されて、昭和59年8月には タバコの輸入自由化を含む専売改革関連5法が成立、昭和60年 タバコの専売制度が廃止されるとともに 民営化の一環として 「日本たばこ産業株式会社 =  JT」 が設立された。JTは 独立採算する株式会社に変貌するや、官の頸木 (くびき) を脱し 外国製タバコの輸入はもちろん 農業関連事業、不動産事業、食品加工事業、医薬品事業 など、多彩な分野に触手を伸ばし、平成6年には東京証券取引所に株式の上場を果たしている。その後の社業拡大と発展の実績を見ても 公社時代とは様変わりで、行政改革の見本のような存在だと言える。

(電信・電話公社)

 むかし 中学生の頃だったか、日本の郵便制度は 前島 密によって形作られたと 教わった記憶がある。

 戦前 電信・電話は、郵便とともに逓信省の管轄にあった。意外なことに逓信省は 明治18年伊藤博文を首班とする 内閣制度が創設された最初から存在し、初代逓信大臣は、かの "五稜郭の戦い” で有名な幕臣 榎本武揚であった。明治時代から昭和にかけて 逓信省は、電信・電話 郵便のほかに 海事、鉄道、航空など 様々な分野の業務を抱え込み、時代の要請にしたがって 他部署へ分離移管したり また独立させながら、欧米の先進技術を導入し 日本の近代化を推進する役割を担ってきた。それぞれは 国家として関与しなければ 到底 果たし得ないような大規模なユニバーサル・サービス的業務であった。

 電信と電話の所轄は 明治以来 ほぼ一貫して逓信省のものだったが、昭和27年 「日本電信電話公社」 に改組され、郵政省に監督されることになった。日本の復興につれて電話網が拡大し システム・機器・端末が どんどん進化して、交換方式も手動から自動に転換 電話機が個々の家庭にまで入り込む時代が到来したのだが、電電公社は “親方日の丸" 毎年多額の国家予算が投入され、また 加入者に電話機をレンタルして徴収する (1台あたり数万円の) いわゆる 「加入権」 を使って、ひたすら全国に より巨大で より稠密なケーブルインフラ作りに励んだ。競争相手がいない独占だから唯我独尊 (ゆいがどくそん) 企業体質は お役所よりも始末が悪く、その意味で 民営化するのが最も難しいだろうと言われていた。

 第2臨調の土光会長は、そんな所へ “愛弟子” の元石川島播磨重工社長 → 相談役の 真藤 恒 氏に 白羽の矢を立てて送り込んだ。国家の通信事業を独占し 胡坐 (あぐら) をかいているマンモス組織を民営化するには、人もシステムも含め 公社全体を徹底的に変革しなければならない。それを可能にする "鬼” となり得る強烈な個性、豪腕の持主・乱世の改革者として 真藤を評価していたのだ。

 実際 真藤には、それだけの赫々とした実績があった。九州大学工学部の出身 技術者・生産管理者として 世界的に “シントー船型” と呼ばれる新船首工法を開発して造船工業を革新、国際営業マン 経営者としても “ミスター合理化” と渾名された辣腕家、強固な意志で突っ走るブルドーザーのような力技の持ち主であると同時に、インスピレーションで出来たバネの如き 柔軟性も併せ持っていた。だが今回 私が判らなかったのは、既に実業の第一線から身を引き 70歳を過ぎていた真藤氏が、従業員総数30万人を越える大組織電電公社に 総裁として、単身 乗り込んだのだろうか? ということである。心知った右腕 左腕を伴なった 気配がない。 同時に 電電公社側からも 民営化に向けて、真藤氏に献身した人物の名前が 顕われて来ないのだ。

 幾つかの エピソードは見つけた。

 国営独占と言う通信の世界は、民間の常識とは 全てが逆さまだったという。電電ファミリーという閉鎖的な縄張りに閉じこもり、前例踏襲と模倣の繰り返しが目立った。幹部階層になればなるほど 旧来の陋習 (ろうしゅう) にしがみついた。その結果 身に付いた高コスト体質に 誰も責任をとろうとしない。総裁就任直後 「このままでは 赤字になるぞ」 と言ったら、総裁室に幹部連中が 「利益は ちゃんと上がっている」 と抗議に押しかけた。真藤が 「料金値上げのおかげじゃないか」 と 数字を示して指摘すると、彼らは黙り込んでしまった。その当時 東京~博多間の通話料は 3分720円だった。真藤はまた しばしば 「電電語で喋るな、日本語で話せ」 とも言った。

 合理化という言葉が 人員整理と同義語なら、真藤が電電改革でやったことは逆だった。民営化のプロセスで 事業部制の導入と人事制度改革 (評価基準の刷新) をメインテーマと している。その上で 三公社の中で突出した賃上げを実施、後藤田正晴官房長官が独走に待ったをかけると 「何のための民営化か」 と応酬し、大喧嘩になったこともあるそうナ。賃金は政府が決めるのではなく 電電自らが決める。経営者が当たり前のことを実現しないと、職員のエネルギーが 凋 (しぼ) んでしまうと主張した。

 民営化するということは、自由な競争状態を作るということだ。しかし 電電が巨大なインフラを構築して独占していては、競争相手なんか 出て来っこない。仮に手を上げる者がいたとしても  マンモスの牙に挑む カマキリのようなもので、鎧袖 (がいしゅう) 一触 跳ね飛ばされるのがオチだろう。だが 昭和60年当時、時代の要請にこたえ 独占に風穴を開ける形で 民間の大企業などが提携し、第二電電 (DDI) や 日本高速通信 (テレウェイ)  国際電信電話 (KDD) など 2~3の会社が設立され 電信電話の分野に参入して来た。日本電電公社は 昭和60年(1985)4月1日、日本電信電話株式会社法に基づき NTTとなり 真藤 恒氏は 初代社長に就任した。インフラを抑えている巨大NTTと、カマキリとは言わぬものの幹線通信手段を持たない新参企業との間に、どのようにして競争関係を成立させ維持するか が 問題であった。

 その方法は 『自由化した市場で 既成業者の圧倒的に優位な競争力を 強制的に制限するいっぽう、新規参入者には 競争格差を解消するほどの優遇策を講じ、需要のうち 儲かる部分のみ “いいとこ取り” を認め 奨励する』 二重基準を適用することにあった。専門用語では これを 「非対称規制のクリームスキミング」 というのだそうだが、素人の私には意味がよく判らない。

 元 臨時行政調査会事務局 調査員 旭リサーチセンター会長の鈴木良男氏は 次のような発言をしている。

 「…国鉄の改革が成功したのは、分割を受け容れ 相互に競争する仕組みを導入したからです。それに対して電電は、分割や競争に  前向きであるとはいえませんでした。(中略)  真藤氏は、民営・自由・競争 が ワンセットであることをよく理解なさっているということでしたから、お任せしても しっかりやっていただけるという前提で 答申をまとめました。ところが真藤氏は 初代社長になると、なぜか 後ろ向きになられたようです。われわれは その後の見直しのとき (´99年) も 「分割して競争体となり 非対称規制のくびきから解かれ、より自由に出来るようになることがNTTのためになる」 といい続けましたが、結果はご存知の通りです」

 この言葉から察する限り  改革の大なたをふるおうとしたドクター合理化は、必ずしも 所期の目的を果たしたとは言い難いようである。それどころか あの 「リクルート・コスモス事件」 に連座、昭和63年12月に NTT会長を辞任してしまった。この間 NTT内部で如何なる葛藤が繰り拡げられていたのかについては 詳 (つまび) らかにしない。ただ 私は5年ばかり昔 別の用件で真藤氏の人となりや 活躍の事績を調べたことがあるが、事 NTTに関わることとなると 全くといっていいほど資料が検索できず 挙句 Nikkeibp.jpのページを辿って、次なる文言に行き着いたものだ。曰く 「…実は NTTにおいて真藤氏の存在は、今やタブーなのである。NTTのWeb‐siteに "真藤 恒” と入力・検索しても何も出てこない」 「…更に 真藤氏の著書をインターネットで検索してみると すべてが絶版になっている。つまり 真藤氏について何か調べようとするなら、公共図書館にでも 行くしか方法がないわけだ」

 私は 真藤氏の行蔵 (こうぞう) からして、氏がかかる事件に巻き込まれたウラには、電電に潜む官僚の魔性が 氏を罠 (わな) に嵌め 改革の舞台から抹殺し去ったと、今も確信している。氏は元秘書共々 逮捕収監されたが のち出所に際して 「(清廉な) 土光さんが生きていたら 俺は破門だな」 とつぶやき、他には一切弁明することなく身を退いた。

 電電ファミリーからは反撥を受けたが、真藤氏は 若手財界人たちからは憧憬 (しょうけい) された。リクルートの江副浩正会長もその一人であった。公判中 被告席で終始 無表情を通した江副だったが、真藤氏への容疑に審議が及ぶと 声を上げて泣きじゃくったという。 

 NTTは ようやく平成11年(1999) 7月1日、大きく4つに分割・再編された。ひとつは NTT全体を統括運営する持ち株会社で、その傘下にNTT東日本と西日本の地域通信会社と 長距離・国際通信を担当する NTTコミュニケーションズ、その後 携帯・システム構築という6分社化体制になったが、資本分離が不徹底なまま、依然として通信業界のガリバーとして君臨している。光ファイバー網が急速に普及し、電話も固定から携帯へ主役が代わり NTTは、真の民営化が達成できるのか 大きな疑問符が付いている。

 結果から見て NTTの体質は、まったく変わらなかった。

 晩年 ボランティアで インドネシア造船業を指導していたと仄聞した 真藤 恒 氏の訃音は、平成15年(2003) 1月26日 新聞の片隅に小さく報じられた。92歳であった。

(  国   鉄  )

 昭和39年(1964) 9月7日 東京・ホテルオークラで開催された IMF総会において、時の首相 池田勇人は 各国代表を前に日本の復興振りを誇示した。10月10日に開催される 第18回 東京オリンピック を控えて、10月1日 東海道新幹線が 東京~新大阪間の営業を開始し “国鉄のシンボル” となった。

 この時期 東京~京阪神間の電話も 即時 ダイヤル方式となり、失業率は0.8で戦後最低を記録 “完全雇用" が達成された。白黒テレビの普及率が70を超し 電気洗濯機や冷蔵庫  炊飯器・掃除機など、家庭電化が急速に進んで、ようやく日本人も 敗戦直後にあこがれたアメリカ映画 「我等が生涯の最良の年」 的 文化生活に一歩近づいたようだった。そして この年11月9日 池田首相は、政権を 佐藤栄作 に禅譲している。

 誰も関心を払わなかったが、華やかなニュースの陰で 実はこの年 昭和39年度  皮肉にも 国鉄 (日本国有鉄道) は、初めて 単年度収支で8300億円の赤字を計上している。当初は繰り越し利益でカバーしたが 昭和41年度決算から完全な赤字経営に転落、以後 黒字を回復することはなかった。東海道新幹線に対する初期投資や 償却が禍 (わざわ) いを為したのでは 決してない。新幹線は運行開始後半年の40年3月には 早くも乗客数1000万人に達し、2年10ヵ月後の昭和42年7月13日には1億人を突破するなど 滑り出しとその後の経営は 極めて順調であった。そもそも 鉄道建設に最もコストかかる路線土地の買収は 戦時中に完了し、一部 トンネルの掘削まで着手していたのだ。このあたり 東海道新幹線の建設秘話は、40年 【この年】 に紹介している。

 戦前から国鉄という組織ほど 時の政府・官僚 政治家たちに、くわえて振り回されてきたところも珍しい。列車を運行し 客や貨物を乗せるだけで、自らは 何の権限も有しなかった。鉄路の建設にしろ運営にしろ 予算は運輸省の役人が作った宛がい扶持 (あてがいぶち)、一応国会を通るから その上に代議士たちのわがまま勝手が乗っかってくる。採算性なんか度外視して 票になるならば…の “我田引鉄(がでんいんてつ)”、殊に 田中派なる地元利益誘導族が跋扈 (ばっこ) するようになってからは、国鉄は食い物にされ 全国各地でローカル線が急増した。これは 道路も橋も同じだ。

 国鉄の総裁は内閣が任命し 任期は4年だが、賃金の決定権すら与えられていなかった。国鉄従業員の賃金は 「公共企業体労働委員会(公労委)」 という 現場の実情もわからぬ組織が握っていた。いっぽう 40万人に垂(なんな) んとする従業員=労働者は、労働者の基本的権利である ストライキ権が剥奪されていた。公共性の強い職種は、権利より公共の福祉が 優先するという論理である。賃上げ決定が出来ない経営者と スト権を封じられた労働者との間に、正常な労使関係が成立する筈がない。

 かつて 戦場からの復員者を受け容れて膨れ上がった国鉄で、9万5000人の人員整理を強行しようとして 「三鷹事件」 や 「下山事件」 が起こり  労働関係に大混乱をきたした労使だったが、昭和40年代 国鉄は 国鉄労働者組合 (国労=総評系)、国鉄動力車労働組合 (動労=総評系)、鉄道労働組合 (鉄労=同盟系) というナショナルセンターの異なる労働組合を抱えていた。鉄労は スト戦術を取る国労に反対して脱退し 穏健路線をとったものの、総評の中核でもあった国労・動労は 繰り返し 「順法闘争」  更には 「スト権スト」 に踏み込んで、国民の迷惑も省みなかった。殊に 国労・動労が 「マル生反対闘争」 を展開し 経営側の不当労働行為によって磯崎総裁が謝罪 辞任した頃からは、国鉄内部の沈滞・腐敗 職場秩序の荒廃が著しくなり、国鉄自身の経営努力だけでは 最早 如何とも為し難いまでに自壊していた。

 その頃、道路網の整備 モータリゼーションは ますます進展し、また 地方空港が相次ぎ誕生、短距離移動はマイカー 長距離旅行は航空機との競合で  国鉄は旅客・貨物とも輸送シェアを減少させていた。昭和50年11月26日から 8日間に及ぶ 「スト権奪還スト」 を全国的に打ち抜いたとき、国労・動労幹部は愕然とした。狙いの生鮮食料品の輸送のほとんどが トラック輸送に切り替わっていて、大都市の商品流通に 何の打撃も与えず 市民生活は まったく痛痒 (つうよう) を覚えることがなかったのだ。巷では “国鉄貨物安楽死論" が 語られたほどである。

 国鉄の活路を求めて、首都圏や関西・中部圏の通勤混雑解消のため 列車本数 スピード競争など、私鉄との競争に目を向けざるを得なくなっており、針一本通すのも難しいような 過密ダイヤを編成 車両の軽量化に走った。この傾向は 特に関西圏で目立ったようだ。だが 国鉄の幹部・技術陣は 公共交通機関にとって 最も大切な安全性の確保、何よりも自分たちが 100 km/h  120km/h と 走行を加速させている車両が  私鉄と違って 狭軌軌道の上にあることを忘れてしまっているかの如くだった。(平成に入ってからのことだが、JR福知山線 尼崎駅近くで 脱線・転覆・衝突という大惨事が起こった

 昭和56年 第2臨調が動き始めたとき、現場の悪慣行が 次々とマスコミにリークされ 国鉄全体が 世論から集中砲火を浴びるようになっていたし、走れば走るほど 赤字が雪ダルマのように膨れ上がる様相を示していた。第2臨調は、破綻会社の 更生法を作ることを考えていた。土光臨調は 57年7月に提出した基本方針で 国鉄の分割・民営化を打ち出したが、分割・民営化には 国鉄幹部や国労ほか労働組合だけではなく 運輸省にも反対論が根強く、自民党や政府にも 実現を疑問視する空気が支配的だった。ただ NTTと異なったのは 国鉄内部に、現状を憂え  改善に向けて立ち上がろうとする 少数の若手が存在していたことである。 再び 先の 加藤 寛 教授の文章を借りる。

 「…第4部会は 仲間が良かった。瀬島龍三さん (元伊藤忠商事会長) や 住田正二さん (元運輸省事務次官)、牛尾治朗さん (ウシオ電機会長)、佐々木春夫さん (元総務庁行政管理局長)、田中一昭さん (拓大名誉教授)  更に 評論家の屋山太郎さん 山同陽一さんら 硬骨漢が、非公式に夜ごと集まり 国鉄改革の方向性を論じ合った。(中略) 田中さんは 国鉄内部の改革派 10人を連れてきてくれた。内部情報がないと、とても具体策など出来ないからだ。中でも 急進派だったのが 松田昌士(まさたけ)さん (元JR東日本会長)、葛西敬之(よしゆき)さん (元JR東海会長)、井出正敬さん (元JR西日本会長) の 3人だ。

 彼らは 国鉄本社の近くでタクシーを拾うと 会社に分ってしまうので、離れたところから乗り  降りたのちも 周りを確認するなど大変だった」

 上記 国鉄改革若手急進派3人のうち、元JR東海会長 葛西敬之氏が 「国鉄改革の真実……宮廷革命と啓蒙運動」 という好著を 出しているようだ。私はまだ読んでいないので 暇が出来れば図書館へでも行ってみようと思う。推測だが “宮廷革命" というのは 当時の氏の立場から見れば、雲の上の存在だった 国鉄民営化反対派幹部に対する 説得工作だったのかも知れず、“啓蒙運動” とは 鬼の動労を始め 労働組合員の意識改革を意味するのではないだろうか。宮廷の主 頑固な反対派だった 仁杉 巌 総裁は、昭和60年6月 中曽根首相によって更迭された。後任に 運輸省から 分割民営を支持する杉浦喬也が送り込まれ、これを機に 国鉄内部の旧守派と革新若手が攻守ところを代え、臨調によって設けられた 「国鉄再建管理委員会」 が  着々と分割・民営化の準備を整えていく。

 労働組合は 意外な対応をした。元西日本旅客鉄道労働組合 執行委員長 矢後希悦氏の文章を引用する。

 「昭和60年 杉浦総裁誕生後は、中曽根内閣総理大臣の強烈なバックアップと 国民世論に押され、 経営陣の中も 「改革派」 が主導権を握って 2年弱のあいだに 一挙に民営分割化への道を直進した。いっぽう労働組合の側は、国鉄再建への考え方に 各組合の方針に違いがあったのだが、民営分割化反対の立場では 一致していた。当時 国鉄の最大組合は国労で、終始民営分割に反対の立場で行動し 昭和62年 JR以後も その方針転換すら出来なかった。(ところが) 「鬼の動労」 と言われてきた動力車労働組合は、杉浦総裁誕生前後から 突如 方針転換を図って 61年1月 国鉄当局の民営分割化路線に協力することを前提とした 「労使共同宣言」 締結に応諾し、同年7月には それまで犬猿の仲であった鉄労ほか3組合とで 「国鉄改革労働組合協議会」 を結成 (人数的には 11月に国労を凌ぐようになる)  それを母体に62年2月 「鉄道労連」 を結成することになる。このことは 国鉄内外を問わず 驚きの目で見られた。

 かくして 国鉄再建監理委員会は、昭和60年(1985)7月 国鉄の旅客部門を6分割 (東日本、東海、西日本、九州、四国、北海道) 並びに貨物部門 1社の民営化案を答申した。実際に民営化され 株式会社に移行する直前の 昭和62年3月31日時点で 国鉄は、新幹線と在来線合わせて 総延長1万9639kmの鉄道路線と 関連船舶事業 (132km)、自動車事業 (バス 1万1739km)その他を有していた。37兆6000万円の不良債務や 土地など遊休資産は 別途 日本国有鉄道 「清算事業団」 が継承することになった。

 職員 (従業員) 数は 昭和55年ごろまで おおむね40万人台で推移していたが、合理化により大幅に削減され 民営化直前には27万7000人に減少、このうち20万1000人がJRグループ新会社に採用された。つまり この段階で 更に 約7万6000人が整理され JR以外の職場に散っていった。そのやり口の中には 中小企業が組合潰しに用いたような、阿漕 (あこぎ) ナ手段も弄されたようだが 定かには知らない。(前出 葛西敬之氏の 「国鉄改革の真実」 には 詳述されている由……

 昭和62年(1987)4月1日 第2臨調最大の難関とされた 「国鉄分割・民営化」 が成り、JRグループ11法人と国鉄清算事業団が発足した。

                                  終わり

 

 

 

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土光臨調の答申は 新自由主義化へのロードマップ

第2臨調の仕掛け人は 中曽根康弘

 私は 昭和56年の 【この年】 欄に、「土光臨調は 昭和58年3月に最終答申を取りまとめ、"国から地方へ、官から民へ…" わが国の進むべき道を示した。国鉄、電信・電話、専売公社の民営化は、その路線上で実現したものである。第2臨調の主たる目的は、肥大化した行政機構を見直すこと、悪化した財政を 増税することなく再建すること、活力ある福祉社会を作ることなどにあり、 欧米で進み始めていた新自由主義的発想に汚染されたものではなかった。レーガノミクス思潮に影響されるのは、次の中曽根政権になってからである。」 と さらり知ったかぶりに 書き流したものだが、そののち 《ホントに そうだったのか?》 と 疑念を抱き、以来 夜 眠れなくなった。

 結論から言えば、この記述は まったく私の思い込み、 間違ったコメントであった。 読者の皆さんに 謹んでお詫び申し上げ、土光第2臨調が どのようにして編成され、如何に論議・答申され、その後 日本の行政・社会に大きな影響を及ぼすことになったかについて、ここに 改めて述べてみる。

 土光臨調に 第2とナンバーが冠せられたのだから、当然 第1次の行政臨時調査会が存在した筈、調べてみたら 昭和36年 池田勇人内閣時代に組織されていた。この調査会のメンバーは、会長が佐藤喜一郎 (三井銀行会長)、会長代理 高橋雄豺 (読売新聞副社長)、委員には安西正夫 (昭和電工社長)、今井一男 (国家公務員共済連合会理事長)、太田 薫 (日本労働組合総評議会議長) らが任命され、当時 進展しつつあった高度経済成長に伴なう 「行政需要の質的変化と量的拡大に対して 行政側が、如何に弾力的に 対応していく能力を回復するか」 という点が課題だった。

 第1臨調は 長期にわたる調査と審議の後、昭和39年9月 (ちょうど 池田首相の病気退陣、佐藤栄作への政権禅譲の時期と重なったが…) 行政改革に関する提言を行なっている。主な内容は、内閣の総合調整機能の強化、各省庁間の割拠主義 (セクショナリズム) の解消、行政における民主化の徹底、運営面の合理化・能率化の推進などであった。この提言は 1省庁 1局の削減や、国家公務員総定員法の成立などをもたらし、公務員3万7000人削減の実を挙げてはいるが、調査のプロセスで 早くも、行政改革 イコール 行政機構の縮小、人員整理と受け止められ、官庁労働組合、官僚たちからの激しい抵抗に逢着 (ほうちゃく)、 全体としては 十分な成果を上げることは出来なかった。それよりもむしろ 経済の高度成長に引きずられるように 行政府は次第に膨張していき、昭和48年 オイルショックのダメージを受けて 政府の財政事情は急速に悪化していった。

 そのような背景の中で、鈴木善幸内閣は 「第2次臨時行政調査会」 を設置した。私は 昭和57年のコメントに 「善幸 唯一の業績と見做されている 第2臨調の創設は、果たして彼自身の発案だったのか、それとも…」 と 疑問符を投げたが、鈴木内閣に行政管理庁長官として入閣した 中曽根康弘が、同年9月12日に 基本的構想として 「行政サービス改革の推進、事務・事業の縮減・移譲 (法令の廃止・整理、許・認可等の整理、官業の民業への移行、特殊法人の経営実態の見直しと国庫納付) 審議会等の見直し、公務員倫理の高揚、地方自治体の定員抑制などと共に 「80年代以降の行政を展望した 新たな臨時行政調査会の設置」 を唱えているから、仕掛け人は 間違いなく中曽根であったと判る。鈴木善幸は 荒法師土光から 「行政改革の断行は、首相の決意ひとつに懸かっている!」 と 叱咤される役回りを 担ったに過ぎない。

 以下は 私の推測であるが、既にイギリスのサッチャーや ´81年 (昭和56年) アメリカの大統領に就任したロナルド・レーガンが 旧弊のケインズ経済学から離れ、勃興してきた 新自由主義思想を基調とする 財政経済政策に転換しようとする風向きを、敏感に察知した “風見鶏” 中曽根康弘が 日本財界の意向を汲んで、停滞していた日本の政治経済、なかんずく 危機に瀕していた国鉄や、非効率な三公社 (このときはまだ 郵政など五現業は 視野に入っていなかった) の経営形態に活力を取り戻すべく、いち早く手を打とうとしたものだろう。現に経団連などは、土光の前任 植村甲午郎会長のころから 「増税なき財政改革」 の必要性を主張していたのである。

 昭和56年3月16日に 土光臨調は発足したのだが、主要メンバーには 加藤 寛、瀬島龍三、屋山太郎 たちが名を連ねている。

 加藤 寛 は 慶応義塾大学教授、のちに政府税制調査会長を長く務めた 経済学の大家である。数多くの著作を発表、訳書の中には 共訳ながら 市場原理・新自由主義者 「F・A・ハイエク全集」 もあり また 「国鉄・電電・専売 再生の構図(昭和58年)」 「郵政は崩壊する――頭取のいない “国家銀行" のゆくえ(昭和59年)」 などのタイトルが見える。いってみれば 日本に新自由主義学説を導入した 先達だったのだ。教育者として 後に財界・銀行・政界・大学など 様々の分野で活躍する人材を輩出しているが、その中には 橋本龍太郎、小泉純一郎、竹中平蔵らも含まれている。

 屋山太郎は時事通信社出身のジャーナリスト。日本の 親米保守論壇を代表する右派評論家で、ミルトン・フリードマンの 新自由主義経済政策の信奉者と自称して憚らない。

 瀬島龍三は 伊藤忠商事の元会長・相談役、また 中曽根政権のブレーンとして 財界から第2臨調に参画したものだが、本来は軍人。陸軍大本営参謀として、マレー半島上陸作戦、ガダルカナル、ニューギニア撤収作戦、インパール作戦、航空機特別攻撃、満州方面 対ソ防衛作戦を立案主導しているが、太平洋戦争の緒戦を除き 作戦はことごとく失敗、無慮何百万の命を敢え無くした張本人であった。殊に (現代歴史学者 保坂正康氏によれば)対ソ停戦交渉に臨み "賠償として (抑留者の) 一部労力を提供することに同意す" という文言を残したという。にも拘らず彼は、終に その生涯のいかなる局面においても 言い訳こそすれ、自らの責任を認めようとしなかった稀有 (けう) の人物であった。

 会長の土光敏夫は 元石川島播磨重工 中興の祖、その頃の猛烈な働き振りから 「土光タービン」 とあだ名されるほどであったというが、昭和40年 経営難に陥っていた東京芝浦電気 (現 東芝) の再建を託されたときには、「社員諸君には これから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺は それ以上働く」 と怒号して辣腕を振るった。東芝を立て直した後は 昭和49年、財界総理 経団連会長として 第1次石油危機後の日本経済の安定化や、企業の政治献金の改善に尽力した。謹厳実直な人柄と 余人の追随を許さぬ抜群の行動力、質素と伝えられた清廉 (せいれん) な 私生活など、臨時行政調査会の 「顔」 として、うってつけの人物であった。

 第1次臨調のときの “世間受け” の轍を踏むまいとしてか、土光臨調の発足までに 誰が知恵者だったのか知らないが、実に狡知に長けたプロパガンダ、パブリック リレーションズが展開されている。国鉄の累積赤字が 繰り返し報道され 赤字線が次々と廃止された。健康保険財政の逼迫や、企業の定年延長、年金受給年齢・保険料の引き上げも噂された。鉄道建設公団の組織ぐるみ不正、国際電電の乱脈、各省庁役人どものカラ出張・カラ超勤・カラ会議・ヤミ賞与・ヤミ休暇・公金の流用など、不正、無駄遣いが、しばしば 新聞・テレビを賑わせ "汚職天国" という言葉が流行した。 それらは 新聞記者のスクープもあっただろうし 会計検査院の調査結果発表もあったが、中には意図したリークも 少なからず潜んでいたと思われる。

メ ザ シ の 土 光 さ ん

 そこへ 社会に対して大きなインパクトを与えたのが、“メザシを食べる土光さん" の映像であった。

 56年3月にスタートした第2臨調は、次年度予算編成に間に合わすべく 大童 (おおわらわ) で審議を進め 「緊急に取り組むべき改革の方策 (生活保護を除く補助金一割削除、国民健康保険 国庫負担分の地方へ移譲、年金の支給開始年齢・保険料の引き上げ、40人学級編成計画の凍結、公共事業費の前年同額以下への抑制、国家公務員の削減計画強化、公務員給与の抑制 等) を提示した。答申はまた 行政改革を 「国の歩み」 を変えるものと位置づけ、差し当たりの理念として 「活力ある福祉社会の実現」 「国際社会に対する貢献の増大」 の二つを示しながら、緊急に取り組むべき改革方策を その "突破口” だと述べた。改革する社会への入り口とすれば ハードルが高く、改革の治療薬と受け取れば "苦い味" のするものであった。土光会長は答申後の記者会見で 「これは 57年度の予算編成に関係あるものを答申したのであり、これから いよいよ本格的な議論を進める…」 と語っている。

Photo  この答申と相前後して 昭和56年7月23日  NHKは 総合テレビ・ゴールデンアワーに、「85歳の執念 ~行革の顔 土光敏夫~ 」なる 50分ものの報道特集を電波に乗せた。NHKアーカイブスの解説によれば、狙いは第2臨調ではなく 土光敏夫の顔にあったのだという。明治29年生まれの 日本人の顔である。土光は 「俺の私生活なんて 面白くも何ともないよ」 と逃げ回ったが、「会長に出ていただくと 第2臨調のPRにもなりますから」 と周囲が説得して やっと取材のOKが出たそうナ。 番組を見た人々が驚いたのは、彼の日常の 見事なまでの “つましさ” であった。キャベツの外側も大根の葉っぱも捨てず、歯ブラシやコップも年代もの、拾ってきた麦藁帽子をかぶっての畑仕事、そして あの夕食のメザシと梅干……。

 皿の上の 二匹のメザシを指して 「これだけかい…?」 「はい さようでございます」 と交わす夫妻の会話に、日本全国が感動し 放送中からNHKには電話の波が殺到し、一挙に 「行革 断行すべし」 の世論が巻き起こった。土光の 「元 石川島播磨重工社長」 「財界の荒法師」 といったイメージは消し飛び、儒教的とも言える禁欲的な暮らしと 「明治人」 の気骨に圧倒された。沢山の電話の中には 「土光さんの好物はビフテキだった…」 「豪華な弁当を 旨そうに食っていたゾ…」 という異論もあったそうだが、NHKは それらを すべて無視し 「数秒間の映像が持つ力のすごさを見せた話題作」 と自賛している。

 実は 斯くいう私も、あのときの画像に感動したひとりであった。80歳近い老体でありながら 節電のためと称して経団連ビルの階段を、エレベーターを使わずに昇り降りしたり、毎日の通勤に公共機関を利用していたとか、地方へ出張しても 物入りになるからと日帰りをもっぱらとし、その代わり 朝食会を名目の早朝会議を開いて、財界のお偉方を辟易させるなど、土光にかかる その種の逸話を数多く耳にしていたから、土光臨調答申を 彼の新自由主義的発想になるものではない と 殊更に思い込んでしまったのも、“メザシの画像" が 然らしめたものだったかも知れない。

 そもそも 当時私は "市場原理" とか "新自由主義" とかいう意味も、言葉すら知らなかったのだ。(今も さっぱり判らないが…?) ずっと後になって 内橋克人さんの 「規制緩和という悪夢 (平成7年)」 「悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環 (平成18年)」 を読んで、ほんの少し目が開かれた程度なのである。それにしても今回 再度調べてみて、第2臨調が出た1980年代後半から  2010年代 小泉内閣の規制緩和までの四半世紀、橋本龍太郎が目論んだ “ビッグバン” を挟んで、日本の 政・財・官・学、ほんの一握りの権力者たちは、奇矯な (人間の心を持たない) 学説を唱えたミルトン・フリードマンの呪縛にかかったかのごとく、 ひたすら モラルハザードに落ち込み、資本主義の悪しき本卦帰りをしてしまった。土光臨調の答申は、その最初のロードマップだったのである。

 その道筋において、インサイダーの側に立つ ホンの少数の 非情で 貪欲な階層に、とてつもなく金儲けの出来る機会を提供し、多くの人々にとっては 否応なく 仕事の安定と生活の安全が奪い取られ、中流と意識していた人たちも 気が付くとスベリ台を滑り落ちて、限りなく下流に押し流されている時代になっていたのである。この間の 相次ぐ労働条件の改悪lは、労働者の生存環境を 百年後退させてしまった。

 話をもういちどメザシに戻す。既にお気づきの通り あのカットは、いわゆる 「やらせ」 だったのだ。偶然 見つけたブログの文章から、当該部分を引用する。

 「ここに歴とした証言があります。朝日新聞 1995年2月3日付の “にゅうすらうんじ” というコラム記事として、編集委員の 早房長治 の署名入りで 『土光敏夫さん 行革推進へメザシの演出』 というのが書かれていますが、その最後に まったく以って聞き捨てならないことが 記されているのです。「メザシの土光さん」 といわれましたが、あれは殆どウソです。故郷の岡山から送られた 山海の珍味を使った直子夫人の手料理を、私は彼と一緒に食べさせてもらった。テレビなどの演出に乗ったのは、"質素なリーダー” のイメージを利用して 行革を成功させるためだった…」 と。   Wikipediaの土光敏夫の項目でも、やらせの事実が記されている。用いられたメザシは、高級品で知られる丸高商店のもので、当時でも 500~600円したという。

 当時の 「報道特集」 現在の 「NHKスペシャル」は、ドキュメンタリー番組である。 私は NHKのこれら作品を、極めて上質なものと理解し 時として尊敬しながら視聴している。そのことは、「Yの昭和史」 でも 何度か採りあげたものだ。しかし ドキュメンタリーに作為を施したり、ウソをやらせて 国民を謀(たばか) ってはいけない。いったん偽装が入ったら、後の作品の真実性も疑ってかからなければならないからだ。オフレコだったのかも知れないが、10年も経ってから記事にする 朝日新聞編集委員も お粗末なら、NHK会長は 辞職ものではなかったか。

 私の 土光さんに対する尊敬の念は 今も失せないが、「土光さんもツミなこと」 をしたものだと思う。

 

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レーガノミクス と サッチャリズム

世界恐慌発生とニューディール政策 行き着いた先は第2次世界大戦

暗 黒 の 木 曜 日

 第1次世界大戦で漁夫の利を占め、疲弊したヨーロッパとは逆に 工業生産の対外競争力をつけたアメリカ経済は、1920年代(大正9年~) おおいに隆昌を極めたけれども  そののち農産物をはじめ 生産過剰が顕在化した。いっぽう 好況期には投機がらみの資金も流入して、株式のバブル的高騰を招いていた。だが 1929年(昭和4年)10月24日 ニューヨーク株式市場で  突然 ゼネラルモータースの株価が80セントにまで下落したことを切っ掛けに、全面的な大暴落が起こった。いわゆる 「暗黒の木曜日」 である。ウォール街は 不穏な空気に包まれ、警官隊が出動する騒ぎになった。

 騒ぎはアメリカ一国で収まらず、これを端緒に 波紋は全世界に拡まった。 銀行の倒産が相次ぎ 金融秩序が揺らいで企業が連鎖的に倒産、巷に失業者があふれた。全産業を通じて生産力が急速に縮小、貿易は低迷して 各国の経済破綻は、爾来 ’30年代の後半に及ぶ長期的なものとなった。

 当時のアメリカ大統領は 共和党のハーバート・フーヴァー。古典的経済学のお題目を唱えるばかりで、なんら有効な対策もとれず 自由放任の “神の手” に委ねるのみ。貿易保護に走ったため  却って世界にブロック化をもたらし悪影響を与えた。’32年 秋から ’33年 (昭和8年) 春にかけてが アメリカにおける実経済不況のピークだった模様で、ニューヨーク市場の株価は80%以上も下落 工業生産は恐慌前の3分の1にまで落ち込んで、失業者は 1200万人 (失業率25%) に達し “革命” の懸念すら囁 (ささや) かれたという。

ア メ リ カ

 1932年(昭和7年)  このような事態に対処するため、米・民主党から フランクリン・ルーズベルトが 「ニューディール政策」 を引っさげ、第32代アメリカ大統領に当選した。“ New Dea l ” とは、ポーカーで親がカードを配りなおすこと、“新規 蒔き直し” を意味する。それは 従来の共和党が取ってきた古典的自由主義経済政策を覆して 180度転換、反対に 政府が積極的に経済に介入して 需要を創出しようとするものであった。彼は、33年3月4日 大統領に就任するや、直ちに国内の全銀行を閉鎖して財務内容を精査し、1週間のちには 国民に対し預金の安全性を保障した。更に大規模な公共投資 (テネシー川流域開発事業など) を興して雇用を生み出したほか、貧困層を対象とした 本格的な福祉政策を展開するなど、イギリスの経済学者 ケインズの論から採った 計画的・社会民主主義的な構想を 大胆に打ち出したのである。また 対外的には保護主義を排して自由貿易に方向を切り替え、大統領権限による関税率の引き下げ 諸外国との互恵貿易協定を締結した。

Photo_3  左の表は、世界恐慌が発生した1929年 (昭和4年) を100とした 各国工業生産指数の推移であるが、アメリカの場合 ルーズベルトの就任後、幾分指数は持ち直したものの ’36年(昭和11年) 以降リセッションに見舞われ、結局 ’41年(昭和16年) 日本軍の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の軍需によって アメリカ経済は息を吹き返す。その意味で ニューディール政策は、必ずしも成功例とは言えないとする説もある。しかし ルーズベルトが取った方法は、間違いなく世界経済に大きな刺激を与え、その後 「ケインズ学説」 は 各国財政運営の主流をなした。

日   本

 日本は 大正11年 (1923年) の関東大震災 並びに 復興のために発行した震災手形処理をめぐ る昭和2年 (’27年) の金融恐慌で 体力が衰えていたにも拘わらず、列国に遅れをとるまじと 濱口雄幸内閣(蔵相 井上準之助) が強行した 「金本位制」 への復帰が、アメリカ発 大恐慌と重なって甚大な被害を被った。日本の特産品 “生糸” の輸出が一挙に落ち込み、株式の暴落が多くの企業倒産をもたらして失業者が続出した。大学を卒業しても就職できず (小津安二郎監督 映画 「 大学は出たけれど」) 卒業難民とも呼ばれた。濱口内閣の緊縮政策に対して 当然 国民からは怨嗟の声が上がった。なにしろ 鉄道員から検事・判事までが ストライキを構えたというから尋常ではない。為に 昭和5年(1930年) 濱口首相は 東京駅頭で、右翼 佐郷屋留雄に狙撃された。

 恐慌を前に 茫然自失の民政党若槻内閣の後を襲った、政友会犬養 毅内閣の蔵相高橋是清は 再び 「金兌換を禁じ」 て井上財政を刷新、 積極予算を組んで 漸く昭和8年ごろには、欧米に先駆けて景気を小康状態に戻した。いっぽう 前蔵相井上準之助が 昭和7年2月、血盟団に暗殺されるという事件がおきた。当時 右翼の跳梁は目に余るものがあり、続いて同年5月15日 犬養 毅首相が 官邸で海軍士官に襲われて射殺された(5・15事件)。軍の一部分子や右翼の過激なテロは、宮廷重臣や 有力政治家を萎縮させ、増長する勢力を抑えることが出来なくなってしまっていたのだ。いわば 昭和の曲がり角である。そこへ 追い討ちをかけてきたのが 冷害と凶作であった。農村で欠食児童が急増、娘の身売りや 満州大陸などへ移民する家族も出たというが、そのような背景で  昭和維新を唱える 陸軍将校主導のクーデター “2・26事件”が起こる。彼らは 岡田啓介首相をはじめ 斉藤 実内相、高橋是清蔵相 らを狙った(岡田首相は九死に一生 難を免れたが…)。大正・昭和期を通して 高橋是清は傑出した財政家だったと思うが、彼もまた この事件で軍部の凶弾に斃れた。

 その後 日本は 大恐慌から逃れはしたが、戦争に続く道に足を踏み入れていく。

ド イ ツ

 ドイツは悲惨だった。第1次世界大戦の敗北で 自国GNPの5倍にも相当する1320億マルクの巨額な賠償金の背負わされた上、しばしの遅滞を理由に 心臓部ルール工業地帯をフランス・ベルギーに占領され、加えて 空前のハイパー・インフレに見舞われて 政府機能も産業も 国民生活も麻痺状態に陥ってしまった。そしてその底から おどろおどろしく ナチズムが台頭してくる。 ヒットラーは国家社会主義と称して 計画的かつ急速に軍備の拡張と公共事業 アウトバーンの建設 等) を実施、失業者を劇的に吸収すると同時に ドイツ人をマインドコントロールした。彼らが目指したのは、ドイツに莫大な賠償を課したヴェルサイユ条約の破棄と、ポーランドやフランスをはじめ 近隣諸国に対する侵略であった。のちに 比較的恐慌の影響を受けなかったファシズム・イタリアもドイツを真似て エチオピアに牙を向けている。

フ ラ ン ス

 経済的困難は それぞれの国に不幸をもたらした。20世紀の初頭 フランスの政情ははなはだ不安定で 通貨フランの価値も定まらなかった。最初 恐慌の影響は軽微と見られていたのに、小党の分立で 政治の決断はとかく曖昧 (あいまい)  人民戦線左翼政権は金本位制の維持に拘わったため、欧州における最後の皺寄 (しわよ) せを 引っかぶる形になってしまった。

イ ギ リ ス

 前の工業生産指数の推移から見ても イギリスは、かなり巧妙に立ち回ったといえる。凋落していたとはいえ 七つの海にユニオンジャックを翻したかつての大英帝国、パックス・ブリタニカを誇った国勢は残存していたもののごとくである。いち早く率先して金本位制から離脱 ポンドの平価切下げ (チープマネー政策) を採って新しいイギリス連邦を形成、スターリング・ブロック内で貿易競争力を保った。だが やがて勃興してきたナチスドイツと 正面きって戦端を開くことになる。

 第2次世界大戦は 第1次をはるかに超越する規模の激烈な戦争が グローバルワイドに展開され、植民地を持たなかったファシズム・帝国主義的国家が 自由経済を標榜する国々と相対立して展開されたが、前者・枢軸国側が一敗地にまみれた。また 第2次世界大戦の結果 経済の覇権がアメリカ一国に集中し、ドルの基軸通貨化 パックス・アメリカーナの時代が どのようにして形成されたかについては、エピソード 「トルーマンとアイクの時代」に触れたのでここでは略し、一足飛びに 1973年 (昭和48年) ’78年 (昭和48年) に発生した オイルショックに派生したインフレーションと不況の共存、いわゆる スタグフレーションの帰趨に話題を転じる。

 その前提として アラブ諸国とイスラエルの相克・角逐について、述べておこう。

O P E C 石 油 政 策 の 発 動 
         オイルショックは 世界経済の流れを変えた

 大戦を境に 鉱物資源の比重に大きな変化が生じた。鉄や銅はそれ程ではなかったが、エネルギーとしての石炭は その非効率において衰微していったし 水力発電はダムの立地と 初期投資がネックとなって敬遠され、代わって石油が重宝されるようになった。とりわけ 化学の発達により 石油は燃料としてだけではなく、ナフサの開発で重要な産業基礎原料として着目され 価値をあげた。石油は その後 北海やユーラシア大陸の北部その他でも 発掘されるようになったが、埋蔵量は圧倒的に中東アラブ地域に偏在していた。

 かつてはバルカンが 世界に火薬庫と言われたものだが、中東の一画に 第2次世界大戦の “落し子” である“ ユダヤ人国家” イスラエルが誕生するに及び、焔硝 (えんしょう) の匂いは 地中海東端から アラビア半島  ペルシャ湾岸一帯に立ち籠めるようになった。まさに 掘削される原油の匂いと  きな臭い火薬の匂いとが交じり合うロケーションである。

 石油を産出する国々は 足元に膨大な量の原油を有しながら、汲み上げる技も 精製する術も持たなかった。それらの技術はすべて 英・米・蘭・仏 先進国石油メジャー “セブン・シスターズ” に拠らなければならなかったのである。メジャーのうち5社がアメリカ (エクソン・モビール・テキサコなど)、他はイギリスのBP オランダのシェルで、彼らはアラブの油田と市場を独占して 価格を自由自在に操った。これら資本は、突き詰めていくとロックフェラーなどユダヤの国際的資本ネットワークに行き着く。 そしてユダヤは 英米に隠然とした影響力を有し、イスラエルの建国と拡張に貢献していた。

 石油市場の旨味は 殆どがメジャーに握られていたので  不満を抱いていた産油国は、1960年 (昭和35年) 対抗する組織OPEC (石油輸出国機構) を、更に ’68年 (昭和43年) 湾岸産油国機構 (OAPEC) を結成した。このOAPECが ’73年 (昭和48年)  第4次中東戦争において 陰の主役を演じたのである。石油資源を武器として 戦争が勃発すると同時に、かねてイスラエルを支持し 与 (くみ) していた国には 原油の輸出を禁ずると宣言し、実際に油井のバルブを調節、更に ’74年からバレル当たりの価格を2倍に引き上げると決定した。湾岸産油国による 「石油戦略」 の発動である。

ス タ グ フ レ ー シ ョ ン の 発 生

 アメリカの “我等の生涯の最良の年" は そう長く続かなかった。ICBMや有人衛星の打ち上げ成功でソ連に水をあけられ、宇宙開発に遅れをとったケネディ大統領の 月面探査計画推進と、ジョンソン大統領によるベトナム戦争への深入りで  大きく歪みを来たしていた米財政は、ニクソン大統領が放った ドルvs金の兌換停止 (プレトンウッズ体制の放擲) という国際信義にもとる強引な遣り口により、ひとまず崩壊を防いだが、 反動として 世界に拡まった通貨の変動相場制で、ドルの価値が漸減していった。金との兌換という歯止めを失ったアメリカは、ドル紙幣の大増刷に走り 世界的なインフレの種を蒔いた。

 不況で産業が停滞して (失業率は増加する) いるのに インフレが進行する (物価が上昇) という、これまでになかった病弊が生じた。この現象は、景気が悪くて失業率が高まるときは、(購買意欲が衰えて) 物価が低下 または安定し、好況になると物の値段が上がって 働く人が増え 失業率が下がるとする、ケインジアンのいう “トレード・オフ関係” では説明できない。これを “スタグフレーション (インフレと失業の共存)” という。スタグフレーションの度合いを示す指標は、便宜的に “悲惨指数” と呼ばれて 「消費者物価上昇率 + 失業率」 で表わすが '73年(昭和48年) の第1次オイルショック時には、既にアメリカにおけるそれは 10ポイントの水準に達し、傾向は ジミー・カーター政権が誕生した頃 イラン革命で石油生産が途絶した '78年(昭和53年) には更に悪化、悲惨指数の平均値は15を指していた。

 アメリカに見られるスタグフレーションの悪化は、欧米主要国に共通して起こり イギリス・イタリアは 第1次石油危機以降インフレ進行著しく、スタグフレーション度は平均20ポイントを越える高水準となった。カナダ・フランスはアメリカ並み これに対して西ドイツは9前後と比較的低く、日本の場合は 昭和49年 ('74年) に第1次オイルショックと土地バブルで "狂乱物価" を経験して  悲惨指数は 25超まで跳ね上がったが、その後改善され 昭和53年('78年) 第2次石油危機が到来した折は 国際的に低い4.9ポイントとカウントされた。

 地球規模で襲った 2波からなる石油危機は、各国経済に大きな影響を及ぼした。各国のインフレ悪化は、それまでの過度の経済拡大策  特にマネーサプライの節度なき増加 世界的な農産物の不作といった要因と 石油高騰の複合的結果だったが、同時に産油国に流れ込んだオイルダラーが 世界金融市場で無視できないパワーとなり、時としては 余剰マネーとして投機的に働き 金融秩序を揺るがすこととなった。

 1980年代 (昭和55年~)、英・米に 期せずして 保守的思想を濃厚に持った二人のリーダーが出現し、困難な経済情勢に立ち向かうことになる。イギリス首相マーガレット・サッチャーと アメリカ大統領ロナルド・レーガンである。

サ ッ チ ャ リ ズ ム

 まず サッチャーのイギリスから見てみよう。

 第2次世界大戦に辛勝したイギリスの戦後経済を概観すると、三つの言葉に集約される。「福祉政策」 「産業国有化」 と 「サッチャリズム」 である。

 1945年(昭和20年) 戦争を指導してきたチャーチル保守党は 総選挙で敗れ 、労働党が政権を握る。アトリー首相は 前年議会に提出されていたものの チャーチルが棚晒しにしていた ベバリッジ卿の福祉報告書を採用して、"医療” の無料化 "退職年金制" “失業保険" の運用開始、“貧困者を対象とする国民扶助法" の実施を宣言 「揺り篭から墓場まで…」 といわれる社会福祉体制が発足した。

 労働党は社会主義政党だったから、重要産業の国有化を 次々と実行した。電力、ガス、鉄道、道路輸送、をはじめ、紆余曲折はあったものの 鉄鋼産業、自動車産業も国有化の対象となった。その上 労働組合が戦闘的で、経営事情や国民の利益も無視し 要求を勝ち取るまで、長期ストライキを頻発した。'45年から ’70年代までの30年間に 保守党が政権に返り咲いた時期もあったが、労組との対決を恐れて 国力の低下に歯止めは掛けられなかった。

 工場・施設への投資はなおざりにされ 製品の品質は劣化して輸出競争力を失ない、ポンド価値はとめどなく下落  労働生産性は欧州各国の2分の1、3分の1に低下してしまったのである。イギリス国民の気力は萎え、福祉のセーフティネットに縋 (すが) るだけになった。かつて 「揺り篭から…」 といわれた代名詞は 「イギリス病」 「老大国」 という蔑称に取って代わられた。'79年(昭和54年) 1月 スタグフレーションの暗雲垂れ込めるイギリスで 炭鉱の山猫スト、 トラック運転手組合の長期ストで国家機能は半身不随、暖房用の石炭・灯油が欠乏して 国民は寒い夜を震えて過ごさなければならなくなり、労働党政権と労働組合は 完全に見放された。

 政権を奪取した 保守党サッチャー首相は、果断な政策転換に着手した。その方向は ケインズ主義的な総需要管理から決別、インフレ抑圧のためにマネタリズムを採用、財政再建の手段として サプライサイドを強化するために 所得・資産課税の大幅減税  付加価値税 (消費税) の増税 財政支出を削減して、国営企業の民営化を強行したのである。労働組合の抵抗には 終始 頑としてたじろがず、突発したフォークランド紛争に対しても 直ちに海軍を派して、侵攻してきたアルゼンチン軍を撃破、南米大陸南端の小島嶼を守り抜き 国民の志気を一気に結束させたが、このあたり “鉄の女" の面目躍如たるものがあった。

 彼女は大学時代 フリードリヒ・ハイエクに傾倒したというが、そのリバタリアニズムが サッチャリズムの基底にあり、国有産業の殆ど全てを民営化 金融の垣根を取り払う 「ビッグ・バン」 を推進した。今日 イギリス経済が活性化し ドイツ・フランスよりも好調を持するまでになったのは、サッチャーが行なった政策の結果とされるが、市場原理尊重の陰で  イギリス社会は貧富の格差が拡大 犯罪が激増する不安定なものとなり、街角には 無数の監視カメラが設置される国になってしまった。

レ ー ガ ノ ミ ク ス

 ハイエクは 訪米してシカゴ大学に籍を置いていたことがあるが、そこには 20世紀後半の主な保守派経済学者の代表的存在 ミルトン・フリードマンがいた。フリードマンは スターリンの迫害から逃れてニューヨークに移り住んだユダヤ人の子として生まれ、幼い頃から貧しい家庭環境と 劣悪な労働条件の中で働きながら苦学して シカゴ大学で修士に、 コロンビア大学で博士号を取得、のちシカゴ大学の教授になった。学者としては “立志伝中の人物” といえる。 当時のシカゴ大学経済学部は自由主義思想の牙城で 錚々たる学者が居並び、その影響を受けたフリードマンは 「シカゴ学派」 の第2世代と目された。彼が新自由主義を唱える背景には ソ連のスターリン治下 並びにナチスドイツが行なった、ユダヤ人迫害に対する 激しい憎悪に根ざす 「人間の自由」 「国家からの自由」 「抵抗の思想」 があった。彼の主張は 奇矯の論と見做されつつも過激で、'29年 (昭和4年) の 「大恐慌」 すら  時の政府の通貨政策の失敗と断じ、また ケインズ理論の核心をなす “国家による所得の再配分" を 全否定した。

 アメリカは建国の始めより "自由" という言葉に魅せられ  時として眩惑させられる傾向がある。「市場に任せれば すべてうまくいく」 とする 彼の市場原理主義 (ネオリベラリズム) は、スタグフレーションで停滞するアメリカで 徐々に受け容れられるようになり、フリードマンが '76年(昭和51年) にノーベル賞を受けたことで その権威は確立し 彼の弟子たちは 「シカゴボーイ」 と呼ばれて、各国・各界で重用されるようになった。

 スタグフレーションの嵐が吹き荒れる中で、カーター政権は ゼロベース的発想で 懸命に財政の見直しと健全化を図った。だが 民主党の伝統的公共事業が長年続くうちに どの事業も肥大化し、重税と "大きな政府" を維持せざるを得ないという悪循環に陥っていた。カーターは苦し紛れに 航空機業界や長距離トラック輸送業界に対し、自由主義的政策・ディ レギュレーション(規制緩和) を導入しようとしたが、狙った競争原理が働かず 歪んだ形の不公正を生んで、パンナムなど大手企業がバタバタと倒産 罪なき労働者は塗炭の苦しみを味わった。このとき航空自由化法の策定に携わったポール・デンプシーという学者は、「要するに 規制緩和とは、ほんの一握りの貪欲な人間に とてつもなく金持ちになる素晴らしい機会を与えるが、労働者にとっては 仕事の安全どころか生活の安定すら ドブに捨てさせられてしまうことだ」 と気づき “シカゴ学派” から離れている (←「規制緩和という悪夢」 内橋克人とグループ2001 文芸春秋 '95年5月刊より)。

 '80年(昭和55年) の大統領選挙で カーターと戦った共和党候補ロナルド・レーガンは、「皆さんの生活は 4年前より良くなりましたか ?」 と 問いかけ、アメリカ国民は 一斉に 「NO!] と大合唱した。

 レーガンは、ミルトン・フリードマンが説く 「新自由主義」 に ベクトルが合ったものと見える。'81年(昭和56年) 1月 大統領に就任するとすぐに (エコノミスト)ブレーンを、マネタリストとサプライサイダーで固め 「レーガノミクス」 と称する “ばら色?" の経済政策を打ち出した。要約すれば ① 小さい政府の構築を目指して 社会保障・教育などの財政支出を圧縮 (そのくせ 軍事費だけは増額)、 ② 税制面では、所得・投資など供給サイドの活性化を意図して大幅に減税、 ③ インフレ抑制のため 金融を引き締めつつ 金利の上昇を是認、 ④ 積極的に規制緩和を促進した。その滑り出しは順調にみえ 実際 幾つかのパフォーマンスに是正が認められはしたけれど やがて綻びが目立ちはじめる。

Photo_4    左の表は 甲南大学の稲田ゼミ資料から流用した 「レーガノミクスの計画と実績(理想と現実)」 である。レーガンは政権発足時 1.1%と予想されていたGNPを '86年(昭和61年) には 3.9%にまで引き上げようと考えたが、実績は 3.2%に止まった。しかし 第1期スタート時 消費者物価の伸びが2桁になっていたものが、目標を大きく下回って 1.9% インフレは収束している。尤も これはオイルショックで高騰していた石油価格が 反落したことが貢献している。改善の気配がなかったのは失業率である。農産物かハリウッドの映画産業しか輸出競争力を持たず、量的にも 品質の面からも他国に遅れを取ってしまった工業生産の手段は、人件費を抑えるため 海外に流出し、アメリカの労働市場は凋落してしまっていた。レーガンの規制緩和が これに追い討ちを掛けた。前述したポール・デンプシーの言葉を思い出してほしい。失業率は通算年平均 8.1%の高率で推移し、この間の悲惨指数も平均 13%と高止まった。悲惨指数がこの程度で収まったのは インフレが進行しなかったからである。

  もともとアメリカ人は貯蓄性向が低く クレディット社会である。そこへレーガノミクスによる大規模な減税が いっそう消費を刺激し、国内生産の不足分をすべて海外からの輸入に頼った。必然的に貿易赤字が膨らむ。もうひとつのマイナスが財政収支の赤字だ。巨額の減税と膨張する軍事費、歳入とのアンバランスが赤字になるのは当然で 「連邦政府財政収支」 は '86年度(昭和61年) 黒字282億ドルのシナリオが、逆にマイナス2123億ドルという惨憺たる結果を招いた。これを賄うためには 海外に向けて大量の国債を発行しなければならないが、その償還と金利がまた大変。ドルが基軸通貨だったからこそ出来た綱渡りで 「双子の赤字」 は、 終にアメリカを純債務国に陥れてしまった。レーガノミクスは どう見ても成功とは言えず、次期 シニア・ブッシュに政権を引き渡したとき 累積財政赤字は倍増していた。

 そのような状態であったにも拘らず 再選を果たしたレーガン大統領は、2期目に入って 堪らず ドル高の解消に舵を切った。それが双子の赤字是正を狙った “プラザ合意” である。

 プラザ合意とは、1985年(昭和60年) 9月22日 アメリカの呼びかけで 当時の先進5ヵ国 (日・米・英・独・仏) の大蔵大臣・財務長官と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルで会合、アメリカの貿易赤字 特に日本の輸出競争力を押さえ込むことが主眼で、会合直前の 1ドル当たり円相場の水準を切り下げることが合意されたのである。日本の大蔵大臣は竹下 登、首相は中曽根康弘であった。日本にそれだけの実力がついていたといえば それまでであるが、'71年(昭和46年 佐藤内閣) のニクソンショック、'79年(昭和54年) 東京サミットの際に  ディスカールデスタン・フランス大統領がやった "頭越し石油割り当て" で 大平首相に歯噛みをさせたデキゴトに続いて、屈辱的な合意だったといえる。

死  屍  累  々

 レーガン、サッチャー と 二人の保守的リーダーが採りあげ、経済政策の流れを 「新自由主義」 に切り替えたことで、世界各国の経済運営も 雪崩を打つように追随した感があった。日本でも レーガンに擦り寄った中曽根政権が 土光臨調の財政再建答申を足がかりに、国鉄・日本電信電話公社・専売公社の民営化に踏み込み、のちの話であるが 橋本龍太郎が “ビッグバン” を真似ようとしたり、小泉純一郎が郵政公社の分割民営化に 血道をあげることになる。その是非については必ずしも結論が出ているわけではないが、懸念されたように 労働環境や国民生活に大きな断層が出来てしまった。他の国々もそうであるように、3%ばかりのリッチと 圧倒的大多数の貧困層に分けられ、かつての中流階層がいなくなってしまったのだ。

 フリードマンら シカゴ学派の経済学者とその弟子たちは、いつしかケインジアンに代わって 政府や国際機関の枢要な椅子に座り 壮大な実験を行なった挙句、多く失敗し それぞれの国民を不幸に陥れた。フォークランド紛争でイギリスに敗れたアルゼンチンも  隣国チリの軍事政権も、そして 酔っ払いエリツィン・ロシアも、新自由主義、ネオリベラリズムに痛めつけられた。なぜ 市場原理主義が流行ったのか判らない。ハイエナのようなリッチ階級が  この思想に 餌の 腐臭を嗅ぎ取っているのか、私は 新自由主義は卑しい経済学ではないか と思っている。

                                    お わ り

 私の別ブログ “ヤクオ ギャラリー” に 「2050年の世界地図に 日本は存在するかを登載しています。世襲議員による政治屋の劣悪化と ますます露骨になってきた官僚主導型政治を排撃しました。書生論かも知れませんが、是非ご一読ください。

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新東京国際空港 日本の悲劇 2

   全学連急進的学生組織の 農民 “反対同盟" 支援

 農民たちの闘争に 社会党や共産党、労組などの千葉県共闘会議も、積極的に支援体制を敷き、県庁座り込みに参画したりしていたけれども、反対の声にはいっさい耳を貸さない  政府側の強権的姿勢と、農民たちの "力には力を…" とする ある種 頑なな意気込みに 既成革新党派は 次第に反対運動から引いていった。共産党もまた 極左学生運動家たちが現れたことで、農民たちの 「反対同盟」 と訣別した(代々木共産党は 反対同盟切り崩しのオルグ活動まで行ない、農民から排除されたのが実体)。 ここへきて 地元反対同盟は、遂に 昭和42年3月 「あらゆる民主勢力とも共闘する」 と声明することになる。彼らは 決して "魂” を売ったのでは無い。農民たちの魂は、血みどろになりつつも 純粋だった。それゆえに 三里塚の戦場にメフィストフェレスを招き容れてしまったのだ。昭和42年11月3日 やって来たのは、かねがね 「砂川基地闘争」 に関わっていた反日共系全学連・急進派の学生運動家たちだった。折から 「砂川基地拡張反対活動」 は 大勢(たいせい) が終息期に入り “土地収用認定取り消し” の勝利を勝ち取って 意気挙がっていたし、反代々木の武闘派は 抵抗運動のテクニックを心得ていた。

 降りかかった火の粉を、必死になって払おうとする 一途な農民の反対運動に比べて、彼らは 既成革新政党に飽き足らず トロッキズムに突っ走って 「暴力革命」 を掲げ、実力を以って 国家権力に立ち向かおうとする新左翼勢力だ。「労農連帯」 「三里塚最前線で 機動部隊を壊滅する」 と豪語、抵抗戦をより凄惨なものにした。

 空港公団が土地を収用し、建設工程に持ち込むには 手順があった。まず 収用すべき土地を確定するために 境界杭を打って測量し、それらの土地をボーリングして強度を測る。この作業を遂行するには、農牧地の立ち木を伐採しなければならないこともしばしばあった。地主と売買契約が成立すればよいが、そうでない場合は 当該土地を 土地収用法に基づいて認定を受ける必要がある。その段階で、地域収用委員会は現地調査の上 その可否を判定するが、続いて裁判所の裁定を受けて 法的に立ち退きを求め、応じなければ 執行官による強制代執行が為され、土地の所有権は空港公団の側に移る。

 農民たち 「反対同盟」 の結束力は固かったとはいえ 動員力は最大時で1000世帯 3000人、季節ごとの農作業も併行しつつ 団結小屋を根城にして、恒常的な空港公団の挑発と闘った。そして 前述した公団側の土地収用手順の節目 節目で、過激派学生が動員する支援部隊が、大規模な闘争行動を展開したのである。のちに 学生たちは小屋に泊り込んだり、防塞を築いて 農民青年行動隊と起居を共にするまでになった。空港公団職員・ガードマンとの小競り合いや、警察隊が出動するような衝突が 連日のように起こった。大規模な集会やデモ  抗議行動で、 数千人もの学生・支援者が糾合される場合は、それに倍する機動隊が動員された。昭和42年、43年、44年・・・・53年と、長い闘争のプロセスは Wikipedia の 「成田空港問題」 に詳述されているが、ここでは その折々のシチュエーションにおける、凄まじい抵抗闘争の幾つかを 若干 事実が前後するかも知れないが、採り上げ纏めてみたい。

   展 開 さ れ た  闘 争 の 地 獄 図

 42年10月10日 空港公団は2000人の機動隊に守られて 農地外郭線の杭打ちを強行、反対同盟側は1200人が座り込み抵抗したため、接点で衝突が起こり 同盟に2人の逮捕者と50人の負傷者(うち1人は重傷) が出た。機動隊の出動は これが初めてであった。この騒ぎの中で 共産党・民青同は “敵前逃亡” し 農民から絶縁状を叩きつけられている。翌月3日に行なわれた 「空港粉砕総決起集会」 に 初めて全学連過激派学生が 集団として参加した。

 43年2月26日 3月10日 には、集結場所を成田市営球場に置いて 約1600人(反対同盟700、学生900) が 「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止 現地総決起集会」 という舌を噛みそうな長ったらしいタイトルの集会を行ない、市中をデモった。学生たちは 空港公団分室の実力封鎖を企図しており 機動隊と激突、両回合わせて 逮捕330人以上、双方及び報道陣を含む500人以上の怪我人を出している。機動隊の動員人数は不明だが、両日デモの参加者を延べ3000人と見ても 逮捕者・負傷者の数が異常に多く、闘争の熾烈さが窺える。

 この間に 空港公団と用地買収の条件付賛成派が 「売買契約調印式」 を行ない、用地の86%が買収可能と見込まれるようになった。調印式には 当時の中曽根運輸大臣が立ち会っている(43年4月6日)。

 44年になると、老人行動隊が 宮内庁に “御料牧場存続” を請願したが、8月には閉場式が行なわれ 同時に地ならしに用いるブルドーザー搬入が始まり、阻止行動した戸村反対同盟委員長らが逮捕された。

 昭和45年2月 空港公団は、建設に反対し続ける 「三里塚・芝山連合反対同盟」 農民に “土地収用法" に基づく立ち入り調査通告書を送達した。何とか 48年4月には開港に漕ぎつけたい 強行手段の予告でもある。対象とした土地は 4000メートル滑走路予定地の北側 約1500平方メートル、この土地は 「一坪運動共有地」 で、既に前年末 千葉県土地収用委員会から権利取得・明け渡し裁決が出ていた。強制収用代執行は 22日午後零時55分に開始され、約200人のガードマンに守られた千葉県と空港公団職員を、さらに警視庁、千葉県警、神奈川、埼玉、関東管区各機動隊2900人がバックアップ体勢をとっていた。対する同盟は バリケードを築き、もんぺ姿の婦人行動隊が 「木を伐り倒すなら 人間も一緒に…」 と 2人一組で抱き合い 鎖で体を縛りつけ 死守しようとしたが、ガードマンたちは遠慮会釈なく 躍り懸かって立ち木とも根もとから伐り倒した。代執行は 3月25日終了。この間に 警官も含め1000人以上の重軽傷者、487人が逮捕されるという弾圧が加えられた。

 6月12日の千葉県収用委員会 第2次採決を受けて、 46年7月26日から30日までの間 農民たちが掘った地下壕は残存したままで、空港公団・警察隊は またも強引な代執行処分を実施、仮処分を終了すると共に 反対同盟の拠点 団結小屋を掃討してしまった。この攻防で 反対派に184人の逮捕者と600人を超える負傷者が出ている。

 引き続き46年9月16日 第2次強制執行では "日大” “BUND” などと書かれた旗、垂れ幕、看板で満艦飾(まんかんしょく) の駒井野鉄塔側壕にブルドーザーが押し込み、せめぎ合い、いつものごとく逮捕・負傷者が数百人も出たが、後方で過激派ゲリラ隊が東峰十字路付近で 神奈川県警機動隊を火炎瓶や鉄パイプで襲撃、火だるまになった警官3人が死亡した。警察にとって初めての死者である。反対同盟のほうでも 青年行動隊の一人が 「この地へ 空港を持ってきた者を憎む」 と書き置いて首吊り自殺している。

 東峰十字路で警官に死者が出た事件に関して 一斉検挙が始まった。特別捜査本部を設けて、46年12月18日から翌47年9月6日まで 実に15次にわたり
執拗に家宅捜索・不審尋問を繰り返し、その都度 5~10数人を 「傷害致死罪」 で逮捕拘束した。Wikipedia の 「成田空港問題」 の筆者は、反対同盟にシンパシーを抱く人だったのか このあたりの叙述に当り、しきりに “拷問(
ごうもん)” ”リンチ(私刑)” という表現を用いているが、事実 その通りではなかったかと思う。47年9月16日 反対同盟・学生・支援団体は、「第2次代執行阻止闘争一周年大会」 と称して6000人集会を催行 10月3日 警察側は長期拘留していた20人を保釈、11月12日の 「東峰十字路事件」 第1回公判に際して、逮捕していた残る139人を 1350万円の保釈金を取って釈放した。

 昭和44年から47年にかけては、学生運動が過激化し 東大・日大闘争から 「全共闘」 が生まれ、44年10月に警察隊8500人の導入で東大・安田講堂の封鎖を解除、45年 よど号ハイジャック、47年 あさま山荘事件、海外赤軍派は 47年イスラエル・テルアビブのロッド空港で無差別殺人事件を起こしている。そして更に 連続企業爆破、クアラルンプール事件、ダッカ事件へと繋がっていくのだが 千里万博に沸いたとはいえ 社会は物情騒然、成田闘争に爆発物が持ち込まれなかったことが、不思議に思える。

   最 後 の  攻 防  ク ラ イ マ ッ ク ス

 そうこうしているうちに 空港工事のほうは、遅ればせながら 少しづつ進捗していた。47年 空港管理ビルが竣工、4000メートル滑走路も姿を現わし 離着陸テストが開始されていた。だが 47年8月 空港公団今井総裁は、ジェット燃料を運ぶパイプライン工事の遅延で年内開港は困難 と 運輸大臣に報告している。滑走路では、反対派の次なる闘争手段を講じ始めた。頻度を増してきた飛行テストの妨害である。滑走路の延長線上に 高い鉄塔を築いたのだ。もちろん 堅牢なものではなく 鋼材や鉄板の切れ端・木材を繋ぎ合わせただけの無様なシロモノで、人間が登るのではなく 旗指物を高く掲げ、飛行機の離発着を邪魔さえすればよかった。それが 「岩山鉄塔(最高時100m)」 である。彼らは その異様な “バベルの塔” に拡声器を取り付け 見張り台を置いた。子供だましのようなもので あっても、かなり長い間 抵抗のシンボルにはなった。その攻防はテレビの画像となって 多くの目に触れたものだ。私は 現在成田空港の航空Photo_2 地図を見ていて、メイン滑走路南端部分に 「航空科学博物館」 なるものの存在を知ったが、その位置から ピンと来るものがあって 調べてみたら、山武郡芝山町岩山111‐3  矢張り ここが 「岩山鉄塔」 の跡地だった。平成元年8月に開館しているが、設立発起人代表に 笹山良一 とあった。左の写真は 博物館屋上展望台から 屋外展示物の一部を撮ったものらしいが、遠望すれば、小高い丘や森らしいものも見え かつての 三里塚の面影を髣髴させるようだ。

 52年1月 福田内閣は閣議で、難航している空港建設工事の促進と 年内開港を指示した。膠着状態に陥っていた空港前線は、俄然色めき 岩山鉄塔を回る攻防戦が活発になる。鉄条網を張り巡らせ 防御を固める反対同盟、撤去のために重機運搬の道路工事に着手する公団側、反対派は 3月に4500人の集会続き、4月17日には23000人もの大動員をかけ 「鉄塔防衛決起集会」 を開いた。警察はバス会社に 成田への人員輸送を禁じたり、野戦病院テントに機動隊を突っ込ませたり、団結小屋数ヶ所を破壊したりして、5月6日には 目的の岩山鉄塔の撤去に成功した。約半月ほどの間に 84人の逮捕、480人の負傷者(うち3人重傷) を出したが、支援者の一人 東山 薫 さんが 水平発射したガス弾の直撃で死亡し、 その翌日 芝山町長宅 警官詰め所に 火炎瓶が投げ込まれ、警官1人が殉職した。

 5月 東京・代々木公園で 15000人による 「沖縄と三里塚を結ぶ集会」、成田で 18000人の反対派が 「東山君虐殺糾弾集会」 を開いたが、8月 空港滑走路にはジャンボ機が発着するようになっていた。

 53年3月末に開港の目途がつき、反対同盟は 「開港阻止決戦突入」 を宣言、空港周辺は 一触即発の危機感が漲った。Xデー7日前の3月23日より 機動隊は14000人を配備 随所で待機した。3月26日になって、過激派が空港内外14ヶ所で いっせいに蜂起した。主力4000人が突入し、機動隊と壮絶な闘いを繰り広げた。彼らの多くは 掻き集められた烏合の衆ではなく、逮捕者の内訳を見ても 公務員・公共企業体職員が 25人、労働者 96人、高校生を含む学生30人余りとある。だが、これまで 反対活動の前面に出ていた過激派は、いったい 何処へ行ってしまったのか。 

 実は “第4インター” をはじめとする “戦旗・共産同” “ プロ青同” など 選り抜きのゲリラ20人は、威嚇射撃をかい潜って地下溝から  空港心臓部の中央管制塔に侵入・占拠に成功した。そして 彼らは 管制室内の無線その他 重要機器を、ことごとく叩き壊してしまったのだ。

 このことによって、愈々 開港準備が整ったかに見えた新東京国際空港の機能は、麻痺してしまった。もちろん 4日後に迫った開港は “お流れ”。日本政府は 恥を内外に曝した。4月2日 千葉県川上知事は、反対派に “休戦と対話" を呼びかけ、反対同盟は  ① 逮捕者の全員解放 ② 開港延期と二期工事の凍結 ③ 成田新法の撤廃と機動隊の撤収 を条件に 「話し合いを拒まない」 との態度をとった。だが この間にも過激派のゲリラ活動は熄まず、5月5日 酒々井町の京成電鉄操作場で深夜 空港特急スカイライナー 4輌に放火、全半焼。開港前日の19日には、中核派ゲリラが千代田市の米本中継所を襲っている。

 巻頭 53年5月20日深更の 密やかな “開港式典" の情景に戻るが、午前零時、日付が変わる時刻をわざと選んだわけではない。この日の開港を阻止すべく 22000人の反対派が、空港周辺に集結する間隙を衝いたのだ。このあと 反対同盟は 「百日戦闘」 を宣言、第5ゲート前の機動隊と衝突 48人が逮捕、25人が負傷している。

 ながながと 成田空港・開港までの経過を追ってきたが、これで全てが終わったわけではない。このあとも 「成田空港問題」 は、平成の今日まで 果てしなく続いているのだが、ひとまずここで筆を置こうと思う。


    

                                
                                             
Photo 「大型旅客機の発着が可能な 4000メートル級滑走路2本を含む、大小5本の滑走路を持つバブ空港を……」 という最初の構想を 半分の3滑走路計画に圧縮して、佐藤首相が 「三里塚案」 を千葉県知事に提示した 昭和41年6月から数えて、延々 12年間、昭和53年に出来上がった 「新東京国際空港」 の姿は、4000メートルのメイン滑走路だけで平行滑走路も 横風滑走路も無い、惨めな不完全空港だった。東京都心までの距離は60kmもあり、交通機関は未整備で 鉄道は京成電鉄か国鉄総武線、リムジン・バスの所要時間は80~120分もかかり 世界一不便な空港と酷評されたものだ。“アジアのハブ空港とは 烏滸(おこ) がましく、12年間も もたもたしているうちに シンガポール・チャンギー、香港・チェプ・ラップ・コック、韓国・仁川、と 各国で大規模な国際空港が誕生、成田は はるか後塵を拝することになってしまった。

 (因みに ボーイング747型 ジャンボ機標準で、成田空港の着陸料金が95万円であるのに対し、香港は38万円、韓国・仁川は33万円、シンガポールも成田の1/3で、とても太刀打ちできない

 公式な数値を見出すことは出来なかったが、いったい この空港を建設するために “空費” してしまった総金額は、如何ほどにのぼったことか。地主を喜ばせたり 地元経済を潤すことも無く、徒 (いたずら) に 機動隊の人件費ばかりを膨らませ、破壊修復に無駄ガネを投ずるなど、厖大なロスを発生させてしまっただけではなく、過激派グループの暴力行為を誘発助長して 人心を荒廃させてしまった罪は、決して 見逃せるもにではない。“憎しみ” と “怨念" のみが渦巻く 負のエネルギーになって、随所で 何度も噴き上がった。そしてそれは、単に三里塚空港建設地周辺だけのことに止まらず、学生運動の暴走を助長、企業の連続爆破や 過激派の抗争分裂を惹起して、日本赤軍派が跳梁 (ちょうりょう) する 不安定な社会を現出してしまった。

 “もし…” という言葉は許されないが、敢えて 「もし 北総・三里塚御料牧場の地に、空港建設を思い立ったとき 政治に携わっていた人たちが、自らその地を訪ね そこに住まう農民に “辞を低くし 条理を尽くして" 協力を求め、十分な補償と代替地を斡旋するなど」 誠意ある姿勢で接していたら… と思う。それを 佐藤栄作は、傲岸不遜 (ごうがんふそん) にも、問答無用の強権的態度で臨んだのだ。傲岸不遜とは 権勢を笠に着て 驕り高ぶり、 殊更に威張る態度をとることをいう。“一寸の虫にも 五分の魂” というが、三里塚や芝山で 国家権力に蹂躙された人々が、過激派メフィストの魔手に引き摺られたとはいえ 死を以って抵抗した心情は察するに余りある。比肩するところありとすれば それは、沖縄基地だろう。

 私が この昭和エピソードに 「日本の悲劇」 と題したのは、国民の生命と財産を守り、平和と幸福を約束すべき 総理大臣に、佐藤栄作のような人物を頂かざるを得なかった 当時 三里塚の犠牲者、そして 今も猶 引き続いている日本の政治体制を指して、“悲劇" と称したのである。 

 

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新東京国際空港 日本の悲劇 1

嵐 の 中 の 開 港 式

 漆黒の闇の中で エプロンを照らす投光器の光芒を、よこなぐりの 激しい雨が降りつのっていた。天井の高い 新築ロビーの巨大なガラス壁面を通して 外の嵐はうかがい知れるのだが、雨あらしの音は まったく聞こえない。昭和53年5月20日の関東地方には、強い嵐が襲っていた。台風4号が南方洋上にあり 神奈川県海老名市の1時間雨量は 51ミリに達して、首都圏の通勤時間帯には 交通機関の乱れが発生しそうだった。

 日付が変わる午前零時、新東京(成田)国際空港の広大なロビーの一画で 空港公団関係者 52人だけの簡素な 「開港式」 が執り行なわれた。神事のあと 総裁の宣言、若干の祝電が、深夜 皓々と照明が灯された空間に 空しくこだました。もちろん 売店などは閉ざされ 人影はなかった。いや 空港内の至るところの物陰に、 膨大な数の警察機動隊が潜み 厳重な警戒網が張り巡らされていた。さらに空港の周囲には 数千にのぼる 「開港反対勢力」 が雨のなかで 隙あらば…と屯していた。 ロビーに政府要人は 誰ひとり姿を見せず 式典は形ばかり、ごく短時間で終了したが 緊張感こそあれ、晴れ晴れしい笑顔を見ることはなかった。

 翌21日から 空港は運航を開始、午前8時34分 到着第1便は ロサンゼルス発日本航空貨物便、旅客機の到着第1便は フランクフルト発日本航空 午後零時04分着陸。出発旅客便は 22日 サイパン・グアム行だった。航空機運行開始と同時に 京成電鉄空港線 (京成成田駅~成田空港駅) が開業。京成上野駅からの特急 “スカイライナー” が運行し始めている。

 振り返れば 昭和41年7月 新国際空港建設予定地を 成田市三里塚付近と閣議決定してから、当初目標の昭和46年6月開港予定を大幅に超え、主滑走路4000メートル(アプローチエリア750mを含む) 一本だけの片肺とはいえ 延々12年間もの歳月を費やし、ともかくも開港に漕ぎつけた 日本のハブ空港なのだから、本来は国を挙げての慶事として 盛大に祝典を挙行すべきところなのに、賑々しいセレモニー、フェスティバルは いっさい取り止めになったのは何故か。その経緯を辿ってみようと思う。

 占領下の航空事情 と 米対日政策の180度転換

 昭和20年 敗戦の日本は、GHQ (日本占領連合軍総司令部  場合によってはアメリカと呼び替える) によって 「官民を問わず 全ての日本国籍航空機の運行は停止」 され、航空管制権は米軍の手に渡った。トルーマン大統領は 「降伏後の初期対日方針」 を承認、その実施をマッカーサー連合軍総司令官に命じた。GHQは日本に進駐した直後、将来日本が 再び戦争を惹き起こす能力を持つことの無いよう、間接統治ながら 自由・民主主義的国家体制を確立させる諸施策を講じたものだ。いわく 「人権指令」 いわく 「憲法の改正」 をはじめ  ① 婦人解放 ② 労組結成 ③ 学校教育民主化 ④ 秘密審問司法制度の撤廃 ⑤ 経済機構の民主化、などである。拘禁されていた 政治・思想犯を釈放させ、代わって 戦時中指導的立場にあった者20万人以上を 公職追放に処した上、戦争犯罪人と目された者たちを逮捕 「東京裁判」 に付して断罪した。農地を地主層から解放、旧財閥は全て解体、工業力を削ぐために大型軍需工場の幾つかを取り壊し接収した。残っていた軍艦などは 太平洋上で水爆実験の餌食になっている。

 日・独・伊 軍事帝国主義的枢軸国を 協力して屠り去った 自由経済・民主主義西欧諸国と ソ連を中心とする共産主義東側陣営は、第2次世界大戦終了後 蜜月期間を置くいとまも無く、たちまち 対立状態に落ちいった。ただ、それぞれが核を持ったことで 抑制力がはたらき、いわゆる 「冷戦状態」 になる。その緊張が昂じた接点で 国境紛争・民族対立・内戦など 局地的代理戦争が起こり始めたのである。「ベルリン封鎖」 「中国内戦」 などだが、昭和25年に勃発した 「朝鮮戦争」 も そのひとつであった。

 ここにきて アメリカの対日政策は大きく転換する。昭和23年1月6日 米ロイヤル陸軍長官は 「日本をして 反共の防壁にする」 と言明、3月20日 ドレーパー調査団を日本に送り込んでき 「ジョンストン報告書 (経済安定9原則)」 を作成させた。ジョンストン報告書は、当時 ハイパー・インフレに喘ぎ 竹馬に乗ったような日本経済をテコ入れしようとするものだったが、ロイヤル長官は 元デトロイト銀行頭取ドッジ公使や 経済学者シャゥプらを使って、日本経済に荒療治を施した。マッカーサーは “戦争放棄” の憲法を作らせておきながら、日本に軍備を持つ警察予備隊 → 自衛隊を組織させ 朝鮮戦争では核爆弾の使用まで仄めかすようになった。日本は “逆コース” を辿らざるを得なくなる。

日本の復興 高度経済成長と航空需要の増大

 講和条約が取沙汰されるようになり、アメリカは 日本が独立国としての体裁を整えるよう 配慮し始めた。米軍の引き揚げを果たすためにも、管理下に置いていた旧軍需工場 例えば八幡製鉄所など850件、羽田をはじめ主要な空港、軍事基地周辺を除く航空管制権などを 返還するようになった。日本側は 昭和24年には、YS‐11(短距離・中型) のプロペラ機開発を進め テスト飛行に成功している。このような流れのなかで GHQは、昭和25年6月 「日本の航空機運行停止を解除」 した。むろん 日本国籍でない海外の航空機は、既に多数 日本の空を飛び回っており、復興著しい日本経済と 外国企業ビジネスを結び付けていた。但し外貨制限もあり いわゆる観光客が 彼我往来することは、ほとんど無かった。

 日本国籍の航空機運行解除を契機に、26年6月 日本航空(会長・藤山愛一郎) が創立され 米ノースウェスト航空他5社で構成するJADCに運行を委託する形で営業を開始している。そのうちのマーティン2‐0‐2型機 “もく星号” が伊豆大島で墜落事故を起こしたこともあって、日本航空は 新たにダグラスDC-4B型機を購入 自社運航機と自社運航要員による 「自主運航」 を開始、のちに日本のフラッグ・キャリアーとして発展していった。

 昭和26年9月 サンフランシスコ講和条約が締結され、返還を受けた羽田空港が 「東京国際空港」 として業務を開始 日本航空は ホノルル、サンフランシスコへの国際線を運航するようになって Aクラス空港と認められるようになった。33年に米軍が撤退して 羽田の全施設管理業務が日本に移り、35年 大蔵省は、日本人の海外渡航・外貨制限を緩和 為替自由化措置を講じた。政権は池田内閣の時代に入っており、所得倍増、経済高度成長の緒についている。テレビの受信契約が500万件に達し カラー放送が始まったこの年、国内の航空機利用者が120万人を突破 海外旅行者の数も10万人台に近づいていた。伊丹や名古屋の空港も機能し 東京~札幌線にジェット機が投入されるようになると、品川沖の羽田空港が手狭になることは必定である。当時の技術では これ以上東京湾での 陸地埋立て造成は不可能とされた。ここに至り どうしても首都東京に近い場所に  海外にも通ずる 新しいハブ空港の建設は焦眉 (しょうび) の急務と認識され、37年11月 候補地未定のまま閣議決定された。因みに 39年には 貿易外為替(上限500ドル) の携行が許可され、海外旅行が自由になっている。

 新国際空港の建設候補地  選定の混乱

 昭和38年中には 少なくとも6回 会議が持たれ、浦安、木更津、霞ヶ浦、富里などの地名が浮かび上がっていた。またこの年 何故か日本の空に航空機事故が続発している。昔 海軍の航空学校があった茨城県霞ヶ浦は、ボーリングの結果 大型機の離発着に不向きと判定され、河野一郎らが推した木更津など東京湾岸沿いも 立地としては 友納千葉県知事も賛意を示していたものの、あまり表立たなかったが、東京都福生市・横田基地、東京都・厚木 立川基地、神奈川県・横須賀基地と 関東平野を縦に連なる米軍基地航空管制空域の 見えない壁が立ちふさがって事実上困難。いきおい 北総 富里周辺に 候補地は絞られていった。この間 地元千葉県 友納知事は、農業主体の北総台地の発展を考えたか 佐藤首相と協議、富里案に傾き 40年11月18日 関係閣僚懇で審議発表した。富里市は勿論 近接する酒々井、芝山町議会も反対を表明した。特に富里市住民は トラクター50台のデモ行進を行ない、“反対派” 3000人が 41年2月7日 千葉県庁に押しかけ 警備警官隊と大乱闘になった。この事件で 富里案は暗礁に乗り上げた形となったが、運輸省航空局の試算で 「都心から100粁以内、羽田空港の7倍の面積に 4000メートル級の滑走路2本を含む 5本の滑走路を持てる平坦な土地」 は、そう簡単に 見出せるわけが無い。

 富里は古えよりの農耕地帯で 候補とした地域には、昔からの住民が数多く居住している。空港を建設するには 1500戸以上の立退きを必要とするだろう。前年来の反対の気勢を見るならば、これを抑え 実行することは容易ではない。政府・与党は甲論乙駁するばかりで、地元への説明や 協力を求めようとする姿勢は、最初からまったく無かった。佐藤栄作は 旧鉄道省の出身、或いは かつて 昭和15~6年ごろに行なわれた 「東海道広軌別線敷設工事(現 東海道・山陽新幹線)」 において、強権を以って土地を収奪した記憶が残り、民意を窺う気持ちなどは さらに無かったのではあるまいか。航空写真を覗き込むことはあったかも知れないが、一度たりと 現地視察をしていないのである。

 三里塚 皇室御陵牧場利用案と 住民の反対

 候補地の選定が行き詰まっているとき 密かな知恵者が蠢動した。千葉県出身の川島正次郎自民党副総裁と 若狭得治運輸事務次官が 佐藤首相に対し、富里より10粁ばかり東に位置した 「三里塚御料牧場」 を当てる提案を行なったのである。三里塚は宮内庁の管轄区域が大部分を占め 住民は戦後の満蒙引揚げ開拓農家が多く、富里地区で予想される立退き1500戸に比べ せいぜい500世帯未満で済む。不足する面積は 千葉県の公有山林を併せれば 十全とは言えないまでも、比較的円滑に計画が進むのではないか、というのだ。千葉県知事も合意、佐藤首相も 安易にこの案に飛びついた。三里塚の住民には 事前の根回しなどいっさい無く、頭越しの決定であった。佐藤首相が 友納知事に示した案は、当初計画が 1/2 に圧縮されていた。

 成田市には、江戸時代に興された軍馬や農耕馬の牧場が、幾つか散在していた。今でも地名にその面影が残る。明治政府は、これらを牧羊場、牛馬の種蓄場として サラブレッドやアングロ・アラブ種の競走馬の飼育を行い、所管を宮内庁に移して下総御料牧場とした。明治の開設を前にしては、時の内務卿 大久保利通が駕を進め 親しく検分している。戦後 牧場としては維持できなくなったものの、かつての満蒙開拓団や外地からの引揚げ家族を迎え入れて、畑地としては荒蕪の土地ながら 再び開墾に当たらせていた。もちろん 彼らの労苦は並々のものではなかったと想像できるが、やっと 一息つき、将来が見通せるようになったところで、寝耳に水の 空港建設話が降りかかってきたのである。

 もし 当時の為政者に、今で言う “国民の目線??” で政策を考える心があれば、かかる大事業については ひたすら 地元住民の協力を得るべき配慮が、そこにあって然るべきだったと思うが、佐藤栄作らには 大久保利通の姿勢の欠片すらなく、容貌が示すとおり “傲慢・横着" そのものであった。のちに政府は、このことを “ボタンの掛け違い" と称した。

 41年7月7日 「新東京国際空港 建設公団 (NAA)」 が発足、反射的に10日 「三里塚・芝山連合空港建設反対同盟」 が結成された。NAAの総裁は 成田 努(なりた つとむ)…。これは、ブラック・ジョークか。

澎湃として  地元に反対の声あがる

 佐藤首相が、友納千葉県知事に “三里塚" を候補地として挙げ 協議した際、「三里塚の御料地(皇室の領地) と 周辺の県有地を中心にして、民有地にかかる面積を 極力圧縮したい」 と申し入れたのだが、これに従って知事は 成田市長に協力を要請している。だが 41年7月4日 政府の建設予定地公式発表に対して、早速 千葉県議会、成田市議会は 「反対決議」 を可決した。周辺自治体とて同じこと、既に 富里市をはじめ 酒々井町・芝山町議会も 反対を決議していたし、航空機の騒音を心配する町村もあった。それ以前の5月頃から 富里・八街の反対者は 「農地不売運動(一坪 マンモス登記) を開始している。

 新東京国際空港公団 (以下 空港公団という) は、 地元住民に説明会を開催し 土地の買収予定価格 (畑地10アール〈300坪>当り 110~60万円) などの条件を示した。どんな場合でも 反対するものがいれば 必ずそれに反対し、賛成 または条件付賛意を現わすものが出る。それに伴って自治体内にも対立が表面化する。8月には、早くも さきに反対決議していた成田市議会が 決議を白紙撤回、41年末には 町民の傍聴もなく 芝山町も白紙に戻し、翌42年3月 富里市議会もこれに倣い、行政単位の反対は皆無になった。国などの利権工作が奏効したのか、成田市議会が反対決議を白紙撤回したことを受けて 住民の中に条件派組織 「成田空港対策部落協議会」 が発足した。空港公団の買収条件発表が呼び水になったのは間違いない。

 地域の条件付反対論者が離れていった分、反作用の法則で 自らの生命の存在を懸けた人々の団結は 固さを倍加した。8月2日 反対同盟が 「一坪共有化運動」 を開始、最初の抗議行動として運輸省にデモを行なった。年末ごろには、天神峰に最初の団結小屋 (闘争本部) を作り、以後 駒井野、天浪、東峰、木の根 などに次々と増設していった。

 反対同盟のリーダーは 地元で農機具店を営んでいた戸村一作、敬虔なクリスチャンで (画家・彫刻家でもあった) その独特のキャラクターは、運動の最後の最後 自らの死を迎える日まで 闘争の先頭に立ち続けた。

 農繁期、農閑期、また農繁期へと、農作業と併行しつつ 開拓民の闘争は続いた。中心は青年行動隊、それを追って 婦人行動隊、少年行動隊が結成され 老人決死隊が加わって 家族ぐるみ、村ぐるみで戦った。婦人行動隊の一人は
「戦災に遭い 夫はこの地で死んだ。私は子供たちと ここで やっと自分の土地を拓いたんだ」 と叫んだ。力は足りずとも、この時期までは純然とした 農民たちのレジスタンスであった。

                                     つ づ く

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 7

高度成長経済の終焉を 認識できなかった角栄の悲劇

 「決断と実行」 をスローガンに エネルギッシュに滑り出した、田中内閣に対する国民の期待は大きかった。朝日新聞の調査によれば 内閣の発足時支持率は62%にのぼり、「日中国交回復」 の余勢を駆って 角栄は、かねて公表していた “日本列島の改造” に着手しようとした。組閣早々 私的としながら 「日本列島改造問題懇談会」 と称する諮問機関を編成、一般会計 14兆円  財政投資 7兆円という 48年度の超大型予算を閣議決定し、引き続き 基本法としての 「新国土総合開発法」 を策定している。積年の構想実現に向けて 歩を踏み出したわけだ。

 だが その足許にひたひたと 不気味な景気循環の翳が忍び寄ってきていることに、角栄は気付かなかった。景気は長期・短期の差こそあれ、如何なる時代にあっても、常に上昇し続けることも 逆に 下降し続けることも無く 波動・循環を繰り返す。池田内閣の所得倍増計画推進に端を発し、オリンピック後の小さい谷や 証券不況と呼ばれた時期を挟んで、日本経済は “黄金の60年代" “いざなぎ景気” と呼ばれた高度経済成長を遂げてきたが、佐藤政権下で開催された “大阪・千里万国博覧会" のころを絶頂にして、長かった好景気は下降局面に入っていたのである。インフレの昂進、地価の高騰、相次ぐ大規模な賃上げスト、頻発する爆破事件など過激分子の跳梁 (ちょうりょう)、工業生産指数等 国際収支や景気動向に、その兆候は顕われていたと思われるが 角栄は気に留めなかった。慢心が彼の目を曇らせたのか、それとも 体系的な学問を修められなかった 角栄の限界だったかも知れない。

 眼前で起こる変事・変動に対しては 瞬時に反応して過またず、ときとしては 誰も思いつかぬ奇想天外な手段を以ってして たちどころに問題を解決する異能の持ち主であったとはいえ、畢竟 (ひっきょう) 角栄は 経済の趨勢や大局を洞察 (どうさつ) するチカラに欠けるところがあったらしい。にも拘らず 周囲にブレーンを置くことをせず、池田勇人に於ける 下村 治のごとき人物の存在を許さなかった。仮に諌める声があったとしても 彼は聴く耳を持たなかっただろう。田中派の幹部や 知識に長けた霞ヶ関の官僚たちも、権力の座にある角栄からすれば手勢に過ぎず 采配を振るう対象でしかなかった。カネを扱うときと同様 彼は自らのみを恃 (たの) む、猜疑 (さいぎ) 心の強い人物ではなかったか。

 昭和47年1月28日 総理府統計局は、46年度の消費者物価指数が6.1%上昇したと発表しているから  佐藤政権の末期 既にインフレの気配は兆していた。10年以上に亘って続いた好景気も 昂ずればインフレーションに通じる。ゴムの紐は 伸びきっていたのである。それに角栄が政策として発表した 「日本列島改造論」 が、あっという間にミリオンセラーになってしまったことが 仇 (あだ) となって土地投機を誘発、全国で土地成金が続出してバブル現象が起こった。(これは全くの余談だが、ある地方税務署の高額所得者リストに 引退した往年の大女優の名前が出て びっくりしたのもこの頃だった) 更に加えて48年10月6日 第4次中東戦争が始まり、ペルシャ湾岸石油輸出機構 (OAPEC) の石油戦略の発動を誘った。湾岸産油国は、アメリカ・オランダなど親イスラエル国に禁輸措置、石油を減産するとともに 価格を2~3倍に引き上げた。日本の場合、一部は産油国から直接輸入していたが、大部分は エクソン・シェルなど欧米メジャーに依存していたから、たちまち国内需給は逼迫 省エネに狂奔 (きょうほん) せざるを得なくなったばかりか、石油を原料とする生活必需品が品不足となり 悪性インフレの懸念さえ抱かされた。11月初旬 関西のスーパーマーケットの店頭で トイレットペーパーの争奪戦が展開される有様。その辺りの状況は 昭和47~49年の 【デキゴト】 並びに 巻末 【この年】 に詳述した。

『田中角栄研究 … その金脈と人脈』 立花 隆 の告発

 そのようななかで、49年9月号の 角栄に関する記事 「君 国を売り給うことなかれ (石原慎太郎)」 で当てた 雑誌 “文芸春秋" が、別の視点から角栄を俎上 (そじょう) に乗せようと考えて企画したのが 立花 隆の 「田中角栄研究…」 と 児玉隆也の 「寂しき越山会の女王」 であった。

 児玉には 4年前の45年11月 角栄に呼びつけられて、角栄の金庫番 佐藤 昭 について密かに取材・執筆していたドキュメントを 破棄せざるを得ぬ立場に追い込まれた屈辱の記憶があったが それが 文春によって再び世に問えることになった。そして彼は、文春発刊5ヵ月後の50年5月22日 肺癌でこの世を去っている (享年38歳)。 但し この文章では 「寂しき…」 は採り上げない。

 文芸春秋編集部と立花 隆は 少人数の取材チームを設け、これまでに角栄が行なってきた錬金術のいちいち、即ち 複数にわたるファミリー企業や 実体の無いペーパーカンパニー間における土地転がし、あるいは 役職を笠に着た国有地の払い下げ、幽霊会社をでっち上げての脱税行為などを洗い出し、これに繋がる金脈と人脈の形成過程を暴いた。事実のみを積み上げ、抜き差しならぬ証拠で裏付けた 緻密なレポートは、雑誌が発行されたのち 国民に大きな衝撃をもたらした。単行本となった 立花 隆の 「田中角栄研究 上・下」 から 一部を抜書きしてみようか。

 「…水面下の土地 約26万坪。水面下である限り無価値。といっても 坪400円 総額1億円で買い占められ、これが埋め立てられると 忽ち 100億円とも200億円ともいわれる “価値ある土地” に大化けする… (鳥屋野潟)」

 「…これは一種の合法的詐欺事件ではないか。頭が良くて 権力中枢の情報に接することが出来る人間には、合法的に 恐ろしいまでの金儲けが出来る…」

 「…こうした ウソみたいにボロイ金儲けで生まれたアブク銭が、あちらこちらから金脈に流れ込み 滔々たる流れとなって金権政治を支えるのである。千万単位のカネに群がる陣笠どもに ホイホイと配る金権政治は、いかなる大金持ちといえども  それが自分の血と汗の結晶のようなカネなら、できるものではない…」

 立花 隆 の取材班は、角栄が動かした土地の登記簿謄本まで 逐一取り揃えて その履歴を確認したり、区画整理で地名が変わっている場所に 足を運んで、事実関係を突き止めるなど、一分の隙も無い綿密な調査を行なっている。

 「田中角栄研究」 が載った 49年11月号文芸春秋が発行されたのは、10月10日であった。横槍が入らないよう ゲラは、角栄がカナダ・アメリカ・ブラジルを外遊している期間に刷られたという。発行後12日目の10月22日、角栄は 外国人記者クラブで "記者会見" に応じている。彼は外国人記者が 日本語の雑誌に関心を払っていようとは思っていなかったようだ。だが 当日の質問は “金脈一色" で塗りつぶされた。遠慮会釈もない外人記者質問の集中砲火の前で さすがの角栄も、うろたえ しどろもどろになって立往生した。

 日本のジャーナリズムの "金脈第一報" は 外電によるものとなった。街頭では既に 大きな話題となっていたにもかかわらず、新聞もテレビも 沈黙し続けたのである。かつて 角栄に恫喝されていた新聞記者が、漸く記者会見に臨んだのは 外国人記者クラブに遅れること半月、11月7日のことだった。これを傍聴した立花 隆は、「(文春記事発表後) さまざまなマスコミ取材にも応じなかったのだが、自分から積極的に行動したのは この首相記者会見で、田中角栄がウソ八百を並べたときに、即座にこちらも記者会見をして そのウソに反撃した…」 と述べている。

 11月26日 角栄は 首相官邸に党四役を呼び、「政局に混乱を招いた」 として辞意を表明した。角栄は記者会見には顔を見せず、次なる文章を 竹下官房長官が代読した。

 『私は、フォード大統領の来日という わが国にとってまさに歴史的な行事が つつがなく終了し、日米友好の基礎が一段と固まったこの機会に、内閣総理大臣 および 自由民主党総裁を辞任する決意を致しました。
 政権を担当して以来二年四ヶ月余り、私は決断と実行を肝に銘じ、日本の平和と安全、国民生活の安定と向上のため 全力投球を続けてまいりました。しかるところ、最近における政局の混迷が 少なからず私個人に関わる問題に端を発していることについて、私は国政の最高責任者として 政治的 道義的責任を痛感しております。
 1人の人間として考えるとき、私は裸一貫で郷里を発って以来、一日も休むことなく、ただ真面目に働き続けて参りました。顧まして、些かの感慨もあります。しかし、私個人の問題で、かりそめにも世間の誤解を招いたことは、公人として、不明、不徳の致すところであり、耐え難い痛苦を覚えるのであります。私は、何れ真実を明らかにして、国民の理解を得てまいりたいと考えております。
 今、国の内外には、緊急に解決すべき課題が山積しております。政治には瞬時の停滞も許されません。私が、厳粛にかつ淡々として自らの進路を明らかにした所以もここにあります。わが国の前途に思いを巡らすとき、私は一夜、沛然として大地を打つ豪雨に 心耳をすます思いであります。
 自由民主党は、一日も早く、新しい代表者を選出し、一致団結して難局を打開し、国民の負託に応えるべきであります。私も政治家の一人として、国家、国民のため更に一層の献身を致す決意であります (
全文)』

 この声明文には 「私の決意」 と題されていたが、私は今 この文章の行間からは、角栄が己が行為を愧じる 反省の意を読み取ることが出来ない。将来の復権を予告する宣言書のように思える。今日的に言えば、いったんリセットして出直そうという気分だ。しかもその後 終に “真実" が明らかにされることはなかった。 角栄は首相官邸執務室で秘書官に囲まれて、竹下官房長官が声明文を読み上げているテレビ映像を見入りながら ポロポロ涙を流し

 「ボヤだと思っていたんだが、まるで “ヤマトカタケルノミコト” が 枯野で火に囲まれたようなものだ。 草薙の剣を振るえば血路を開けんこともなかったが、世の中  出来ることと 出来ないことがある」

と 呟 (つぶや) いたと言う。

 今ひとつ 立花 隆 「田中角栄研究」 単行本から引く。

 「49年暮れ、つまり 田中退陣直後の時点では、私は 単純にも、これでひとつのドラマが終わったのだと思っていた。しかし 実際には、田中退陣は 田中再起という もうひとつのドラマのプロローグでもあったのだ。(中略) 50年が終わる頃には 「田中角栄待望論」 の声が大っぴらに聞かれ始め、これに呼応するように 田中角栄とその一派の政治活動が 公然となされるようになってきた。おそらく ロッキード事件さえ起こらなければ、田中再起は 完全に成功していたに違いない」

い わ ゆ る    ロ ッ キ ー ド 事 件

 評論家 田原総一郎の論文に 「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄 (中央公論)」 があり 多くの人々がロッキード事件なるものが、角栄を失脚させるために仕組んだアメリカの謀略と考えていた。その原因は、角栄が米中国交回復に先駆けて 中国との交渉を纏め上げたことに キッシンジャーが激怒したことを挙げる人、あるいは オイルショックが発生した際、角栄が 中東の石油資源や欧米のメジャーに依存するわが国石油産業の体質を改めるべく、原子力発電を含む新たなエネルギー資源開発を模索したことに対する 国際石油資本の意趣返しだとする説もあったが、立花 隆は 何れも荒唐無稽 (こうとうむけい) と一笑に付した。

 実は私も 昭和47年の 【デキゴト】 と 【この年】 に 類似の表現をしているが、石油がらみではないにしても不確かだったので  この際  謹んで撤回する。(キッシンジャーやニクソンは、角栄が ロッキード事件で逮捕され 保釈になってからのちも 何度か目白の田中邸を訪問している

 ロッキード事件とは、昭和51年2月4日 アメリカ上院外交委員会の 多国籍企業小委員会 (チャーチ委員会) が、公聴会において 「ロッキード社が 自社航空機売り込みのために 世界14カ国に及ぶ国々の中枢に莫大な贈賄工作を行っていることを摘発、そのなかで 日本に対しては1000万ドル (約30億円) が投じられている旨、ロッキード社コーチャン副社長の証言を引き出したとするものである。コーチャンは 日本の右翼大物児玉誉士夫と 早くから工作コンサルタント契約を結んでおり、既に 前年までに21億円もの巨費を手渡したと述べ、贈賄した相手に 政府高官として田中角栄の名前も挙げられていた。

 当時 日本の航空大手は、ナショナルフラッグ日本航空 (JAL) と 後発全日空 (ANA) が双璧であったが、日本航空は ダグラスDC‐10や ボーイング747SR (ジャンボ) を配備していたので、ロッキードL‐1011トライスターの売り込みターゲットは全日空とされた模様。しかし トライスターはエンジンの開発が遅れていたため 全日空の大庭社長は、マクドゥネル・ダグラス社のDC‐10を仮発注した(46年)。ところが大庭社長がその後 不可解な陰謀によって社長の椅子を追われることとなり、後任に元運輸省事務次官の若狭得治が後釜に座ったのだ。(因みに 47年9月 ハワイで行われた田中・ニクソン首脳会議で、ニクソン大統領がしきりにトライスターの全日空導入を働きかけたというが 角栄はこれを断った とされた) 全日空の新社長に就いた若狭は 10月 なぜか 次期大型旅客機を、ダグラスDC‐10からロッキードL‐1011トライスターに変更し 商社 “丸紅” 経由、ロッキード社に急遽 発注しているのである。

 アメリカから飛び込んできた 衝撃的なニュースに、三木首相はすばやく反応した。(クリーン三木の面目にかけて) 事件真相の徹底追及を表明、フォード米大統領に関係資料の送付を要請する親書を送った。検察は ロッキードとコンサルティング契約を結んでいるとされる児玉誉士夫をはじめ 関係先の捜査を開始しているが、国会もまた負けじと 国際興業社主 小佐野賢治、全日空社長 若狭得治、丸紅会長 檜山 広、常務 大久保利春 らを "証人喚問" して、質問を浴びせた。国政調査権の発動とものものしいけれど、 いつも空回りに終わって 国民を失望させるのだが、ロッキード証言も同様だった。ただ テレビに映し出された証人たちのことさらに白々しい態度は、見るものを憤激させ 事件に対する関心を高める効果はあった。とりわけ 角栄 "刎頚の友" 小佐野が繰り返した 「記憶にございません…」 というフレーズは、この年の流行語になったものだ。

 この間 検察庁は 刑事事件として捜査を進め、検事をアメリカに派遣 “司法取引" で コーチャンらの嘱託尋問結果や、“ピーナッツ〇〇個" などと記された現金受領証などの資料を入手、前首相公設秘書らの取調べをもとに、47年7月27日 前総理大臣 田中角栄を 外国為替法違反 並びに 受託収賄容疑で逮捕勾留した。

 検察が立件したのは、

(1) ロッキード社から丸紅を経て 田中首相に5億円が渡ったとする = 丸紅ルート

(2) 全日空から 政界へばら撒いたとする = 全日空ルート

(3) ロッキード社が 児玉を経由して小佐野に渡ったと見る = 児玉ルート

であった。角栄の逮捕に先立って 東京地検は、丸紅 檜山会長・大久保専務、全日空 若狭社長らも、それぞれ逮捕しているが、児玉・小佐野らは 病気入院中として収監はしていない。

 自民党内では、三木首相の姿勢に反発の声が上がった。「三木には惻隠 (そくいん) の情が無い」 「はしゃぎすぎている」 とする 椎名悦三郎らの “第一次 三木おろし工作" である。しかし これは 世論やジャーナリズムが “ロッキード隠し” だと 非難したので いったんは収まったかに見えた。はじめは 呆っ気に取られていた田中派も 親分が逮捕されるに及んで危機感を覚え、再び反三木で蠢動する。逮捕1ヵ月後 角栄が二億円の保釈金を積んで目白に帰ってきてからは、その動きが俄然 激しくなる。 角栄は三木に対し 復讐の鬼になったのだろう。私には 彼の憤怒の形相と、権力の妄執をたぎらせて "文化大革命" を強行した毛沢東の顔が、二重写しになって見える。逮捕によって 聊 (いささ) かも権威が揺らがなかった角栄と、その後の政局に関しては 51年以降の 「Yの昭和史」 【この年】 に譲って先を急ぐ。

 昭和52年1月27日の 「丸紅ルート」、6月2日の 「全日空ルート」、7月21日から始まった 「児玉ルート」 の初公判以後、いわゆるロッキード裁判は、東京地裁、東京高裁、更に最高裁へと それぞれ数百回を超える審理が延々と続いた。また裁判所の外では 角栄の有罪・無罪をめぐってさまざまな人たちが、甲論乙駁、喧々囂々と遣り合ったが、私はそれらを論評する気は無い。想像すれば 丸紅が角栄に5億円の献金をアプローチしたのは47年9~10月、増長した角栄は 得意の絶頂で 「よっしゃ よっしゃ」 と頷いたのではなかったか。

 判決はどうなったか。前掲 (1) の 「丸紅ルート」 は 昭和58年10月に東京地裁が、田中に対し 懲役4年 (実刑)  追徴金5億円と判決したが、角栄は直ちに上告。丸紅会長 檜山 広ら 及び 角栄秘書 榎本は、結局 最高裁まで争って有罪が確定したが、檜山は高齢のため 収監されることなく 平成12年に死亡している。田中は徹頭徹尾 無罪を主張し続け 、高裁での角栄は 判決に至らぬまま打ち過ごされたものの、秘書榎本の最終審判で 最高裁により事実上 5億円の収受が認定された。元首相にとって致命的だったのは 捜査の早い段階で 田中邸運転手が現金授受の情況を克明に証言し、自殺後にも 本人が描いた現場の見取り図が遺されていたことだった。同時に授受にタッチした榎本元首相秘書官が 事件発覚直後に、丸紅側の窓口伊藤専務に対し 証拠隠滅を依頼していた事実を検察に握られていたこと。角栄はそれらのことを知らず 否認を押し通したのだが、最後に元榎本夫人のハチの一刺しで 観念せざるを得なかった。裁判長が第1審の判決を言い渡した際、元首相は この上なく不機嫌な表情で 2時間余りの判決理由朗読中も、配られた理由書に目を遣らなかった。
なお 俗に言う灰色と目された議員の名前が発表されたのは このルートである。

 (2) の 「全日空ルート」 は 所轄官庁の橋本登美三郎 元運輸大臣や、佐藤孝行 元政務次官の収賄について裁かれたものだが、贈賄側の若狭全日空社長も含め有罪となった。  (3) の 「児玉ルート」 では 取調べの結果 小佐野国際興業社主が議院証言法違反で懲役1年と言い渡されて控訴。児玉は扱った金額が大きく 事件の核心を握る人物だったにも拘わらず、捜索は難航して裁判は進まなかった。当初 ロッキードから受け取った21億円のうち、丸紅が5億円を 角栄宛の贈賄資金に使ったとされたのだったが、丸紅は ロッキード社から直接6億円を受領しているので、児玉の高額資金の流れは不明のままである。憶測だが、歴代内閣で防衛計画が改訂されるごとに 戦闘機の機種選定に関わる疑惑が取沙汰され、ロッキ-ド事件ののちにも ダグラス・グラマン事件が発覚していることなど、あるいは われわれの思い及ばぬ闇の世界が存在するのかも知れない。児玉、小佐野とも 結審に至るまでに死亡している。

 田中角栄が 東京地方裁判所 第一審で有罪判決を受けたとき 即日控訴したが、国会では野党が田中の議員辞職を要求して紛糾した。時の中曽根内閣は 、衆議院を (田中判決) 解散して民意を問うたのだけれども、案の定 大逆風に遭って過半数を割り 新自由クラブとの連立で、辛うじて命脈を保った。ところPhoto が 当の角栄の場合 自民党が大敗したのに、新潟3区選挙人は あろうことか過去最大の22万票を、彼に投じたのである。(左図参照 角栄の地元に対する利益供与が 如何に大きかったかは知らぬが、新潟県人の見識を疑うし、民主主義とは何か 無力感を覚える。

 角栄の控訴は 昭和62年7月29日に棄却されたが もちろん納得せず 更に最高裁に上告、平成5年12月16日 田中の死によって控訴が棄却となり、審理は打ち切られた。まさに角栄は “生ある限り" 裁判を争い、結局 なんらの結論も得るところがなかった。そして逮捕後も16年余に亘って “目白の闇将軍”  ”キングメーカー” と呼ばれて隠然とした権勢を張り、最大派閥を擁して 政界に君臨し続けた。

 驚くことは 彼が検察から保釈中の身であるにも拘らず、田中派閥を構成する議員数が増え続け、竹下 登の創世会が発足するまで 最大 143人にまで膨れ上がっていることである。 “政治は数  数はチカラ  チカラはカネ” とする彼の哲学からすれば、そこには依然 金権政治が罷り通っていたことが窺われ、金脈は涸れることなく流れ続けていてことを意味する。従って ロッキード事件で大騒ぎされた 角栄の収賄額 5億円は、取るに足りない “端たガネ” ではなかったか。わが国の司法が健全に機能するものであったならば、本スジは 立花 隆が衝いた 「金脈疑惑」 の究明にあったと思うのだが、検察の矛先は 幾度も機会を逃し、大木の幹ではなく 枝葉のほうに捉われてしまった。

 角栄の錬金術は 奸智に長けた詐欺的な手段を弄したものであったが、規模こそ大きいものの 俗な言葉でいえば セコイのである。会社の乗っ取りとか 株の買占めなら 被害者も出ようが、彼の金儲けの被害者は常に国 ひいては納税者である国民だった。権力を行使 (共犯はもっぱら官僚) したからこそ為し得た犯罪であった。

 かくのごとき金権政治が公然とまかり通り マスコミで (一部) 報じられることがあっても 大方は平然と読み飛ばされたこと (中略) 上は政治評論家から 下は床屋の政談に至るまで “日本人の常識" と化し、誰もそのことに根本的な疑義を差し挟まない状況 (←立花 隆 「田中角栄研究」) が、この時代から今日に及んでいるのだ。牙を抜かれたジャーナリズムは 救いようがなく日和見、迎合的になってしまって、さながら 軍の横暴に屈した戦前に回帰したようだ。

 裸一貫 越後から花のお江戸に出てきた書生が、家族に残したものは 目白御殿 (敷地 2600坪) と呼ばれる広壮な邸宅をはじめ、200億円(?) とも言われる資産であったが 彼は実業家ではなかった。希代の宰相といわれた田中角栄は、初心の頃とは異なり 権力の権化 (ごんげ) と成り果せたのちは、日本の政治を貶めてしまった。

 長い時間を要した 「総理大臣の犯罪」 は ここで閉じるが、田中角栄の軌跡を辿って 私は、彼が後世に向けて もっと大きな負の遺産を残していることを知った。整理がついたら、いずれ その問題について考察してみたい。

                                   お わ り

参 考 に し た 資 料

「田中角栄」 考   田中角栄内閣  =  History of Modern Japan
Taurosのインターネット案内‐3                〃
田中角栄の履歴     =    www.marino.ne.jp  れんだいこ
田中角栄入門       =    www.owari.ne.jp   Mr Hashimoto
「戦後日本政治略史」 田中政治の終焉  =  matsuyama.ac.jp
すべてを疑え! MAMO´s Site   放送事件史・田中角栄
全国総合開発計画    =       www.nishnet.ne.jp/~andou
日本列島改造論 と 金権政治 “田中角栄の政治”  ………  木原 龍
“事件史探求”  =    田中角栄・金脈事件    ロッキード事件
日本列島改造論   田中角栄 著   日刊工業新聞社 刊
ノリオ ウェブ    "湯気の出るようなカネ”  “出処進退”
Apes ! Not Monkeys!  ロッキード事件  Q&A 裁判編
閨  閥  新特権階級の系譜  神 一行 著  毎日新聞車 刊  
Wikipedia    ロッキード事件  田中角栄             等 々

『総理大臣の犯罪』 の付録として、“ヤクオ ギャラリー” に
「2050年 世界地図に “日本" は存在するか」 を登載しました。

ご高覧ください。                        ヤ ク オ









  

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 6

政権簒奪 (さんだつ) を巡る "角福戦争" の熾烈

 昭和47年7月5日 佐藤栄作退陣のあとを受ける 自由民主党総裁選挙が、東京・日比谷公会堂で行なわれた。第1回投票結果は 田中角栄 156票、福田赳夫 150票、大平正芳 101票、三木武夫 69票であった。立候補を見送っていた中曽根総務会長の手配で 直ちに 1位・2位による決選投票を実施、田中が282票 福田 190票で勝負がついた。その瞬間、角栄の喉 (のど) から 「うぉッ」 と うめきにも似た声が、ほとばしり出た。学歴も 門閥も持たぬ男が、とうとう 総理大臣の座を射止めたのである。宿敵福田に圧勝しただけでなく、積年 領袖と仰いで尽くしてきた佐藤栄作をも 組み伏せたのだ。

 田中角栄と福田赳夫。二人のあいだで共通するのは  「頭がよかった」 ということぐらいで、全く対照的な境遇を過ごしてきた。福田赳夫は群馬県金古町の産、江戸時代から名主 (庄屋) を努めた名門、福田善治の二男である。小学生の頃から神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し 第一高等学校から東京帝国大学法学部に進学、高等文官試験を一番の成績で突破 大蔵省に入省したと言う絵に描いたようなエリートだ。明治38年1月の生まれというから、角栄からすれば 13歳の年長に当る。大蔵省でも主計畑を歩いて トントン拍子の出世街道を突っ走り、局長にまで上り詰めた。いわゆる 閨閥に連なる人物ではないが、父や兄も金古町長を務めるなど 地方の名家で育った 順風満帆の人生だったといえる。

 その福田が 事務次官を目前にして蹉跌 (さてつ) を踏んだのは、昭和23年 かの昭電疑獄に連座し 収賄容疑で逮捕されたことだ。結果としては無罪になったものの、彼は これを機に大蔵省を退官、雌伏の時期をおいて 昭和27年の第25回総選挙に 群馬3区から無所属立候補、当選を果たした。このとき福田は47歳。田中角栄は 34歳の3年生議員として 議員立法の立案に勤 (いそ) しむと同時に、党の建設委員会地方総合開発小委員会委員長として のちに池田内閣における 「全国総合開発計画 = 一全総」 のベースとなる報告書をまとめ上げている。

 いっぽう 福田の党内での躍進も 目覚しいものがあった。かねて 野田卯一、池田勇人とともに “大蔵省の三田" と称された逸材である。昭和30年 岸 信介に目をかけられて その庇護の下に、自民党政調副会長に昇進している。同年2月 角栄は衆議院商工委員長に就任。片や 党の準三役、片や 国会の常任委員長、両雄は互角の立場になった。角栄が最年少郵政大臣に抜擢されれば、福田も農林大臣に起用され 周囲から “自民党のクラウン・プリンス” と囃される。だが 福田の場合は、政界の実力者 岸 信介の寵児 (ちょうじ) として、一高 → 東大法学部 → 高級官僚 という上流階級の出世ベルトに乗っかったというべきだろう。

 福田はもともと “均衡財政志向の安定経済成長論者" だったが、岸内閣の後を襲った池田勇人の “高度経済成長路線" を 党政調会長の立場から批判して池田の激怒を買い、以後池田政権下では 一切の要職から締め出され、干しあげられた。

 角栄と池田勇人は相性が良かったが、派閥としては 角栄は佐藤派に属した。それはかつて 長期政権を疎まれて進退窮した 吉田 茂の下野に殉じた 佐藤栄作らと行動を共にして以来の因縁があり、いわば角栄は 佐藤派の生え抜きだったのである。これに対し 福田は (昭和35年) 岸派が解散したとき、川島正二郎、藤山愛一郎らと袂 (ともと) を分かち 一分派を成していた。佐藤栄作は常に両者を 天秤にかけるかのように使いこなしつつ 長期政権を維持した。派閥の流れからいけば、福田を後継に擬するのは 如何かと思われるところだが、彼は 実兄 岸 信介派の跡目を継いだ 福田赳夫への禅譲を目論みこだわった。その辺の政局人事の動きは 昭和46年47年の 【この年】 で触れたので ここでは省略する。

 昭和47年1月 “沖縄施政権返還日程" を確定し、前年の2度にわたる “ニクソン・ショック” の ぎくしゃくを修復するための 日米首脳会談に臨むべく、佐藤は米西海岸サクラメンテへ 角栄・福田を帯同した。その途中で佐藤は 福田への政権禅譲を角栄に言い含めるつもりだった。現地での会談は順調に進んだが、ニクソンは角栄を極めて厚遇した。何しろ角栄は ニクソンにとって、長年 “のどに刺さった小骨 = 繊維交渉” を 苦もなく取り去ってくれた人物なのだ。ランチの折は角栄の背に腕を回して 隣席に座らせたが、その椅子は福田のために用意された席だった。また午後 ゴルフコースに出たときも、ニクソン大統領は 自らが運転するカート車に角栄を乗せ、福田は そのあとをトボトボ歩いてまわったそう。アメリカからの帰途に立ち寄ったハワイでも、角栄は終始 佐藤に付け入る隙を与えず、角栄 対 佐藤・福田の 対決構図が歴然とした。

 吉田学校以来 陰に陽に 佐藤のライバル池田勇人との仲を取り持ち、8年間という長期政権を後ろから支えてきた角栄だったが、官僚派のエースと目された福田と 正面きって "血みどろ" の金権抗争を展開 80億円の資金をつぎ込んで、遂に天下を勝ち取ったのである。 「創価学会を斬る」 出版問題について、幹事長時代の角栄に サシで詰め寄られた政治評論家 藤原弘達は、いみじくも こう述べている。

 「権力 (Might) を構成するには 4つの m が要る。多数 (majority)、カネ (money)、権謀術数 (machiavellism)、マスコミ (mass communication)。つまり この方程式を当てはめれば、田中はすべてにおいて福田に優っており、勝つべくして勝ったということだ」 (← 神 一行 "閨閥" より引用

権力の頂点を極めた角栄の 自信と驕り

 ひとつの m  角栄のマスコミ支配を象徴する こんなエピソードがある。

 首相就任翌月の47年8月 田中角栄は軽井沢の別荘に集まった 新聞各社の “田中番記者" 9人に対して、

 「俺はマスコミを知り尽くし 全部わかっている。郵政大臣のときから 俺は各社の内容を知っているんだ。その気になれば これ (
クビを刎ねる手つき) だって出来るし、弾圧だって出来る…」
 
 「いま 俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは 社長も、部長も、どうにでもなる」
 
 「つまらんことはヤメだ、ワカッタナ。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」
 
 酒でも入っていたのか、その場の雰囲気は不明だが、余人の言葉ではない。凄みのあるダミ声で、あからさまに 暴言というより むしろ恫喝されて、居合わせた記者連中は 反発の声もなかったようだ。本来ならば 全社挙って反撃し・弾劾するべきところだが、
日本の新聞は これを一切報じなかった。それどころか 以来、巨大新聞と放送局は 田中の真実を伝えるべき 木鐸 (ぼくたく) としての使命を 放棄してしまったのだ。ただ一社 「文芸春秋」 と 立花 隆・児玉隆也ら フリージャーナリストを除いては……。 角栄によってキバを抜かれた日本のジャーナリズムは 権力に対して萎縮してしまったまま今日に及んでいる。

 田中角栄は 権力の頂点を究めて 向かうところ敵なく、生来の自信が慢心に変わり 積極性が強引さを帯びるようになった。その延長線上に 「日本列島改造論」 があり、「日中国交正常化交渉」 の成功をもたらしたといえる。沖縄返還後 中国との国交回復は “世論" となりつつあり、前 (さき) の総裁選でも 三木武夫から強い要望を受けていたこともあり、満々たる自信をたぎらせていた角栄は 大平外相に (清水寺の舞台から) 「いっちょう 飛び降りるか…」 と 9月末 訪中した。昭和史エピソード 「角栄の日中国交回復その他の後半部分)」 でも述べたように、周恩来側には 既に 米・日に対する外交シナリオが出来上がっていた形跡も窺え 彼の掌 (たなごころ) のうえで踊ったに過ぎなかったのかも知れないが…。それはともかく 内閣成立後83日目 中国との談判は、角栄の度胸を以ってしたからこそ よく成し得たことで  振り返って "日中国交回復" は、田中角栄の治世に於ける 唯一の功績だった。

角 栄 の  「 日 本 列 島 改 造 論 」

 サクラメンテの日米首脳会談から帰国後、角栄は 47年5月9日 柳橋の料亭 “いな垣” に同志を糾合、満を持して 「田中派」 を旗揚げした。参集した議員は 衆議院から40人 参議院から41人、佐藤派のおよそ8割を手勢に収めたのである。佐藤栄作は6月9日 田中と福田を個別に呼んで、総裁選調停工作を行なったが、角栄はその翌日 自らの政策方針とも言うべき 「日本列島改造論」 を発表した。佐藤はブチ切れて17日 テレビ相手に醜悪な退陣表明劇を演じ、続いて 福田の支持工作を始めた。角栄は6月20日 日刊工業新聞社から 「日本列島改造論」 を出版、たちまち 80万部のベストセラーになった。

 論の内容は、今の言葉で言えば マニフェスト だろうか。218ページ B5版のPhoto_2 体裁であるが、いたるところに 具体的な地名と数字、それに時期までちりばめた精緻極まるモノである。左に その目次部分のみ掲げた (画像をクリックすれば拡大表示される)。

  角栄は もともと能筆達文家で 自ら文章を書く場合が多かったと聞くが、さすがにこれだけのボリュームともなれば独りでは無理、日本列島改造論のゴーストライターは 通産官僚の 小長啓一 (岡山大学法文学部) が務めた 。角栄がとくとくと喋る 半ば自慢噺の戦後インフラ整備の経緯と 将来に向けての政策構想 あるいは願望を、小長は克明に聴き取って作文、それに各省庁から掻き集めた数字を貼り付け裏付けた労作だ。生々しいほど具体的な表現が随所に盛り込まれ、全国土木建設業者や地域不動産屋 それに 地方自治体の関連部署にとっても、垂涎 (すいぜん) の必読 How to 本であったと思われる。

 角栄の主張はこうだ。従来の輸出入振興、折からのベトナム特需など 貿易外需依存型ではなく、恒久的な内需を創造するために 日本の産業構造と地域構造を積極的に改造すること、すなわち、

 ① 太平洋ベルト地帯に集中する既存の工業を 裏日本側に分散させること。
 ② 都市の立体化等 改造と 25万人規模の地方都市を整備すること。
 ③ これらを結ぶ高速自動車道路ネットワークの構築 とりわけ新幹線鉄道網を敷設すること。

かくして 全国を一日行動圏とし、人口の過密と過疎を同時に解消しようとする雄大なものであった。もちろん 社会生活の基盤となるべき電源 ダム・原発の開発や 巨大タンカーが接岸可能な港湾建設、自給率8割を維持するための農耕・畜産の奨励、河川・灌漑用水の整備 等々、遠大な構想が漏れなく網羅されている。しかも これが、角栄の独創から組み立てられたことに驚く。彼は 手懐(てなづ) けた官僚は数多く擁していたが、学者・専門家によるブレーンは持たなかった。

 池田内閣は (角栄が下図を描いた) 「全国総合開発計画(一全総)」 を打ち出し、地域分散をテーマとした 新産業都市と工業整備特別地域に重化学工業の集積 (コンビナート) を造成 所得倍増計画を達成したが、高度経済成長路線を引き継ぎながら アンチ池田的思考の佐藤内閣は、定見無く 情報化・技術革新を重視 (新全総) して 企業の本社機能の首都圏集中を助長、大都市への人口流入が加速した。列島改造論は、角栄がまたもや 政策の方向舵を地方分散に切り替えると宣言したものであった。

 2~3 例示する。昔は工場ひとつ無かった琵琶湖畔の寒村 滋賀県栗東町は、名神高速道路が開通後 200を超える大小工場が進出し 新興工業地帯に様相が一変した。 その名神と東名高速自動車道路の接続点となった 愛知県小牧市は、それまで 零細な食品・繊維の町工場が散在する田舎町に過ぎなかったものが、いまや大型工場と 物品の集積・流通基地としての機能を備え 脚光を浴びるようになった。

 また 全国中小市町の郊外に "工業団地" と称する 殺風景な 「ミニ・インダストリアル・パーク」 が 雨後のタケノコのごとく出現したが、工場を誘致するために地方自治体は 僅かな補助金に釣られた公債の発行で巨額の債務を負い、 その上 将来の税収と当座の雇用を求めるあまり 進出工場に免税措置を講じた為 今日 財政疲弊の原因となった。

 後年のことだが 野放図な役人の標本が巣くっていた厚生省社会保険庁が、列島改造論に便乗してか それとも阿(おもね) ってか、年金受給者に意義ある老後生活を提供すると称して 全国 13ヵ所に作った “グリーンピア” のお粗末がある。建設当初から利権の汚辱 (おじょく) に塗れていたばかりか、畑違いの保養所に天下った官僚に経営の才などある筈がなく、全ての施設で莫大な赤字を垂れ流したあげく 地域自治体に投げ渡してしまった。例えばグリーンピア三木 (兵庫県三木市) は、´80年代に 年金保険料から 1953億円もの巨費を投じた上 年々損失を積み上げ、地元兵庫県に48億円で払い下げているが、北海道から鹿児島まで全てのグリーンピアが同工異曲、二束三文で叩き売られたものの 誰一人責任を取ったものはいない。

 角栄は 川を挟んだ上流と下流の町が 架橋陳情に来れば、無駄を承知で 2本の橋を作ったという。自分のハラを傷めることなく票になるのなら 何でも来いというわけだ。彼は この流儀で日米繊維交渉を片付けたし 本州と四国を結ぶ橋を 3本架けた。

 東海道新幹線と山陽新幹線は 国鉄 (現JR) が独自に建設 営業を始めていたが、「全国新幹線鉄道整備 (昭和45年)」 に基づき 国が昭和48年に整備計画を決定した 5本の新幹線を 「整備新幹線 (北海道・東北・北陸・九州鹿児島ルート・同長崎ルート)」 という。整備新幹線の中には 既に運行している区間もあるが 一部または全線が未着工のものもある。このほかに 「整備計画を決定しょうとしていた路線」 もあって、毎年 予算編成時期になると 道路・運輸族の議員と 「オラガ国 ニモ 道路・新幹線ヲ…」 と 各県知事が財務省に押しかけるが、あたかも 角栄の亡霊がさ迷っているようだ。

 日本列島改造論の結びで 角栄は、「人口と産業の地方分散によって 過密と過疎の同時解消を図り、その処方箋を 実行に移すための行動計画」 と定義づけているが、そもそも この本が爆発的なミリオンセラーになってしまったことが誤算だった。金権のネタも仕込まれていたのかも知れないが あまりにも具象的な記述だっただけに 開発の実用書として重宝され 利権の Know ‐ how 本として膾炙 (かいしゃ) されてしまった。いかに政策表明とはいえ “過ぎたるは 猶 及ばざるが如し" で、クルマに譬えれば アクセルだけで制動装置がついていなかったから イケイケドンドン、凄まじい土地投機を招く引き金となった。改造論には そのような場合の対応策は何も書かれていない。角栄としては 想定外のデキゴトが起こったのである。

 事実 総理大臣になるまでの角栄は、為すこと全てが図に当っていたのだが、一気呵成 (いっきかせい に 「日中国交回復」 が実現したあと “いすかの嘴 (はし) の食い違い" というか 物事が噛み合わなくなった。選挙にはめっぽう強い角栄だったのだが 天下人 (てんかびと) になってから、47年12月の “日中解散" 第33回総選挙と 49年の第10回参議院選挙を戦い、総選挙にはまさかの敗北を喫し、参院選では 与野党伯仲するところまで追い詰められている。その経緯は各年 【この年】 で述べているので略すが、国民は結局 彼のインフレ政策に懸念を覚え オイルショックとも重なって現実のものとなった物価の騰貴に怯えたのだった。角栄は選挙結果に焦り 小選挙区制 (ゲリマンダー = カクマンダー) の導入を図ったが実現しなかった。もし阻止されなかったら 彼は独裁を狙っただろうか??? 東南アジアを歴訪してデモに遭ったり、石油以外のエネルギー資源を求めて オーストラリア、カナダ、ブラジルを行脚したが不調に終わるなど 政権運営は精彩を欠き、心労からか とうとう顔面神経痛に罹ってしまった。

                                   つ づ く

 

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 5

角 栄 の  撒 き っ ぷ り

 私はこの 「Yの昭和史」 において エピソード “角栄の日中国交回復 その他“  “ウソか マコトか”  “モータリゼーションと交通戦争 2”、昭和40年山一證券特融) 昭和46年 (日米繊維交渉) 昭和47年七日会・田中派旗揚げ) (田中内閣成立) 昭和48年自民 まさかの敗退・地価暴騰) 昭和49年オイルショック・金権選挙) など、各年の 【この年】 に 田中角栄の記事を書いてきた。

 率直に言って “日中国交回復” 以外は 総じて斜に構えたもので、好意的に表現したものではない。「バカの壁」 の著者 養老孟司教授の言葉に 「知る前と 知ったあとでは 自分が違う、モノを知るってことは、自分を (或いはモノの見方を) 変えることだ」 とあったが、今回わたしは 田中角栄について、Webから厖大な量の情報を取り出して読み込み 頭の中で整理していくうちに 何だか彼の生きざまに引き摺りこまれて、これまでとは異なる魅力を覚えるようになり、困っている。環境が似通ったからとか そういうことではなく、ある時期までの彼は 昭和ヒトケタ生まれから見れば、『男子 志を立てて郷関を出ずる、学もし成らずんば 死すとも還らじ』 的 強烈な “立志伝”中 の人物像として迫ってくるからだ。

 人間の脳には 約1千億個以上の神経細胞が存在して相互に電気信号を処理し 記憶し 考えるそうだが、脳細胞の潜在的能力 (ヒューマンポテンシャル) のうち その10%以上を開発した人間は、かつて いたことが無いと 心理学者ウィリアム・ジェームズは言い、オットーは せいぜい5%ぐらいだと主張したらしい。私は そんな高尚な学問には門外漢だが、ひょっとして角栄は、人間の持つポテンシャルを 10%近く発揮することが出来たのではないかと思う。そのことは 今回初めて 「日本列島改造論」 を通読して感じたことだが、後述する。

 前の章で 私は角栄が最初にカネを撒き始めたのは、霞ヶ関の官僚たちに対してではなかったか と書いた。当てずっぽうである。そんなことを記録した資料なんか出てくるわけがない。同じように 政治家仲間に向かって 積極的な金権工作を行なった跡も掴みようが無いのだが、対官僚のそれよりも規模が大きかったらしく、断片的ではあるが記事を見つけることが出来る。

 歴代総理大臣は ダーティなカネが絡む場合には、必ず中間に人を介せしめ 自らが表立つことを避けたが、角栄は いつも自身が直接動いた。そんな角栄を指して、彼が総裁選で福田に勝った時 岸 信介 は 「角栄は 湯気が出るようなカネにも手を突っ込む、そういうのが総理になると 危険な状況を作りかねない。カネは濾過して使うものだ」 といっている。

 “れんだいこ” さんの年表によれば、昭和33年 (角栄40歳) の暮れ、「佐藤派を超えて 角栄は 他派閥の議員にまで “指導料” の名目でモチ代を配った」 とあるが、勿論 佐藤栄作の指示ではあるまい。角栄は 32歳で 「建築士法」 を議員立法してこの方 40歳のこの時期までに、起案提出し 成立を見た法律が21件、立法に参画し可決されたものが6件にのぼっていた。前回 “ぽりてぃかニッポン” の記事にも窺えるように、角栄自身が 委員会及び本会議場で 趣旨説明・答弁に当り、与・野党双方から出る反対質問にも 独り敢然と答弁に立って、最終的には 衆・参両議院の可決を勝ち取ってきたのである。譬え 謂われるように、道路・河川・港湾や寒冷地対策 等 土木建築にかかる案件が多いとは雖も 私心より出た議員活動とはいえず、むしろ動機は 社会正義にあったと思う。然も これら成立した法律の中には 道路三法を始め、首都圏整備、電源開発、土地区画、宅地建物取引、公営住宅など 社会的インフラ整備を目的とした重要法案が多く含まれ、若輩の角栄からすれば 一人でも多くの好意的支持者が欲しかったということではなかっただろうか。

 日銀法第25条を発動して あわやの証券危機を救ったのち、47歳で 始めて自民党幹事長に就任した年の暮れ、慣例に従って角栄は 院内紙 (ブラックジャーナリズム) に対しては、お歳暮として 一律 5万円を配り 「こんな端たガネが受け取れるかっ」 と 憤激を買っているが、それまでの幹事長は 50万、100万円を包んでいたというから、角栄は意図して彼らミニコミに挑んで見せたわけである。

 角栄のカネの遣いっぷりに関する話はまだある。

 他派閥の陣笠議員が、あるとき大病に罹って入院した。その話を聞いた角栄は 早速見舞いに駆けつけ 「大丈夫か、少ないかも知れないが…」 といいつつ さりげなく封筒を枕の下に差し入れ、サッと その場を後にした。翌日 その議員の派閥領袖が おもむろに来院、重々しく渡した見舞金は 角栄が置いていった封筒の中身の10分の1ほどだったという。

 派閥が蝟集する自民党では、いったん政局となると 各派が合従連衡を繰り返す。“昨日の敵は今日の友” そんな世界で角栄は、常に 広く 厚くカネをばら蒔いた。相手が驚くほどに強烈なインパクトを与えなければ カネは活きない。ただ 誰にでも渡せばよいというわけのものでもない。選挙に際しても 十分に集金能力を持っている者には、激励だけでもいいのだ。選挙のとき 派閥のボスは軍資金を渡す。当時なら300万円か 500万円が相場だったらしいが、角栄は 500万円を受け取って出て行く議員に 「ちょっと待て、キミのところの選挙区は厳しかった」 といって300万円を追加する。幹部だろうが 陣笠だろうが、勝って戻ってくれなければ意味が無いのである。なかには アタッシュケースを持ってきたが札束が這入らなくて、ボストンに詰め替えたものもいたという。福田赳夫と総裁を争ったとき、三木武夫には “日中交渉” を約し、大平正芳には外務大臣を、中曽根陣営には 5億円が渡ったというハナシもある。

 田中の死後、公設秘書の山田泰司は こう述べている。

 「田中政治が金権政治だったという批判があるが、それは認めざるを得ない。確かに犯罪だったと思う。しかし、田中先生には学閥も門閥も無かった。裸一貫から総能力を傾注して のし上がり 総理となった。その間に他人と対抗していく為には、ある程度のカネが必要だった。カネが無ければ そう急に伸びられるものではない。金権政治といわれるものは、その時代として やむを得ないもののひとつだった…」

学 閥 ・ 門 閥 無 き 角 栄 の 戦 い

 一介の働きアリに過ぎなかった私は トンと意識したことがなかったが、戦争や革命騒ぎの無かった昭和後半、時代の流れに いつの間にか新しい支配秩序が形成され、端的にいえば 日本の社会がホンの一握りの特権階級 エスタブリッシュメントによって牛耳られてきたことを知った。( “閨閥” 新特権階級の系譜・神 一行 著・毎日新聞社刊)。本来 民主主義の大原則たるべき機会均等の能力主義 (憲法の思想) がないがしろにされ、戦前の華族や財閥にも繋 (つな) がる形で 政・財界に架け渡された閨閥グループが アメーバのように増殖していたのだ。

 例えば 戦後60年の治世のうち、11年余の期間を担った 岸 信介・佐藤栄作兄弟の閨閥について見てみよう。

 長州の名門 佐藤家から出た両首相の閨閥には、既に 戦前の外相 松岡洋右がおり、のちに叔母の嫁ぎ先 吉田祥朔から 元首相 吉田 茂 (在任 通算7年余) 家に繋がっていた。そしてこの係累は 信介・栄作の次の世代になると 三木武夫、鈴木善幸、大平正芳、鳩山一族までが 濃淡の差こそあれ “血の連鎖” で結ばれ (←神 一行・閨閥より) 孫の世代では 安倍晋三、麻生太郎を輩出し、麻生太郎の妻は鈴木善幸の娘、妹は三笠宮家に嫁している。ここに名を挙げた総理大臣だけで 驚く勿れ、戦後政治の4割を統べているわけだ (安倍・麻生は これに含まず)。

 そして この閨閥の中には、元宮内庁長官、大学教授、医師、海軍将官、外交官、セメント会社会長、東京ガス会長、 日産自動車社長、NEC副社長、森永製菓会長、ウシオ電機会長、複数の衆議院議員 等 多士済々が居並び、まことに華麗を極める。

 その他の宰相の家系・閨閥図も (ここでは省略するが)、吉田・佐藤家の係累に負けず劣らず 名家・富豪を擁しているのだ。

 昭和50年代までの首相で、かかる支配階級からはみ出るものといえば、社会党内閣を率いた片山 哲、ジャーナリスト出身 病を得て短命政権に終わった石橋湛山 が想い浮かぶが、貧農から身を起こした田中角栄もその一人に数えられる。のちに角栄が福田赳夫と 党総裁の椅子を巡っ展開した抗争を指して、財界総理といわれる経団連会長 石坂泰三が 「土建屋あがりに 総理の椅子が渡せるか!」 と言い放った(← 閨閥より) あたり、前述 岸 信介の言葉を重ね合わせると、“財界の言うことを聞かぬ首相” の出現に対し、既成の支配秩序を乱しかねない者として警戒の念を露 (あらわ) にした特権階級の、まがまがしい眼差しが窺い知れる。

 角栄は おそらくその空気を もっと早い段階から察知していただろうし、それが彼の闘争心を 激しく掻き立てたに違いない。彼が 『総理の座』 を意識し始めたのは、そも 何時ごろからだっただろうか。

 昭和36年 角栄は43歳の若さで自民党政調会長 初の三役入りを果たし、翌37年7月 池田内閣の第2次改造に際して大蔵大臣に就任しているが、田中蔵相時代は その後池田~佐藤内閣を通して昭和40年6月まで、異例の連続4年に亘って続き  もはや押しも押されもせぬ実力大臣として業績を挙げることとなった。この間に 日本は、GATT 11条国への移行、国際通貨基金(IMF)加盟と 8条国に移行、経済協力機構(OECD) に参加、東海道新幹線の開通、東京オリンピック開催 など ビッグなデキゴトが実現した。

 信長好きの田中角栄が 「あるいは 天下を取ることが出来るかも知れない…」 と考えたとしたら、大蔵大臣に起用されていた この時期ではなかったかと思われる。

 だが かかる環境のもとで 彼が野望を達成しようとするためには、前掲 公設秘書の言葉ではないが、“…カネがなければ そう急に伸びられるものではなかった…" ということになるのだろう。「政治は数であり、数は力、力はカネだ」 という角栄の政治哲学は、このようにして生まれたのではないか。

 日本開発銀行から巨億の融資を受け 突貫工事で完成した路線電化が奏効、長岡鉄道の業績が回復したのを機に 角栄は 田中土建を廃業している。そして この経験によってか、彼は議員立法で 昭和28年7月 「地方鉄道軌道整備法」 を成立させた。この前後 半ば自然発生的に 新潟3区各地で角栄支持者の後援会が誕生し始めている。ただ 事件内容は詳 (つまび) らかにしないが、長岡鉄道不正容疑で 本社が警察の捜索を受け、角栄が特別背任で書類送検された事実がある。

 これも定かな話ではないが、昭和32年7月 39歳で郵政大臣として初入閣した際、角栄は 岸 信介のところへ "手土産” 代わりに 300万円をリュックサックに詰め込み持参したという (勿論 手渡したわけではあるまいけれど…)。聖徳太子の一万円札が発行されたのは 昭和33年12月のことだから、リュックに詰めて…という表現が 妙にリアリティを覚える。その昭和33年 彼は小佐野と、東急グループの総帥 五島慶太と共に 長岡鉄道の競争相手、栃尾鉄道・中越自動車株の買占めに動き 35年には3社を合併 「越後交通」 に改組して、自ら会長 のち社長に就任しているが、この社名は "金脈" の話題にしばしば登場する。

 角栄が 佐藤派内の議員だけでなく、他派閥議員にまで 歳暮のモチ代を配り始めたのも この頃だ。角栄といえば、のちにいう “族議員" の先駆者的存在であり、予ねて 鉄道・道路・電源開発・ダム・河川・港湾 等 多方面にわたるインフラ整備諸法案を連発する 党内屈指の実力者であっただけに、さまざまな形で 建設業界その他からの “政治献金" には こと欠かなかったと思われるし、その額は 並みの陣笠議員などとはケタが違っただろう。地元新潟県の県議グループが 小出只見線 (50号線 シルバーライン) の全線開通を要請したとき、「県会議員が天下の代議士に頼むんだ。わかっているだろう」 といったとも伝えられている。

 昭和33年7月、新潟で毎年のように氾濫に見舞われてきた “信濃川河川敷の耕作者” たちから、当該地の買い上げ陳情を受けた。これが 「角栄金脈」 の代名詞となる 「信濃川河川敷問題」 の端緒である。そのときは いったん断っているが、農民からの陳情は 再三にわたってなされた模様で、あるとき角栄は傍らの者に 「彼らが陳情に来るたびに俺は <難しいがやってみる> と答えている。彼らは今は 俺の支持者じゃないが、目をかければ こちらに靡 (なび) く。ツツガムシが巣くっているあの畑じゃァ 連中もかわいそうだ」 と洩らしている。

 そして 最初の陳情を受けてから4年目、室町産業という 田中ファミリーの “ダミー会社” を作り、耕作者301人から 長岡市蓮潟地区の信濃川河川敷畑地 74ヘクタール (約25000坪) を 1坪当り500円、ざっと1億1千万円で買収した。角栄は農民の困窮を救った、と 話がここまでなら美談だった。 ところが間を措かずして、この地域は 川の堤防が嵩上げされ 国道のバイパス工事などで立派な橋が2本も架かり、市の中心部から数キロという立地であるため 700億円という土地におお化けした。売買が成立するまでの4年間に いったい何があったのか。造成された土地は 長岡市が買い取ったり、県立近代美術館や長岡日赤病院、大学校 有料老人ホームが建ち、その他には大型ショッピングセンターやシネマコンプレックスが進出してきているようだ。

 新潟市では、市のど真ん中にあって 生活雑排水が流れ込んでいた鳥屋潟 (約1.1ヘクタール) の湖底地買収問題が取沙汰された。

 大蔵大臣時代の角栄に 小佐野賢治と絡む "虎の門国有地払い下げ事件" があったが、別に NHKの放送センター用地を巡る疑惑もある。昔 NHKは千代田区内幸町の狭い敷地に建っていた。東京オリンピックの誘致条件に、従来のラジオ中心の報道ではなく 衛星による画像を欧米に送ることになっていたので、 新放送センター敷地としてNHKは、代々木の旧米軍宿舎跡 (国有地 森林公園造成の予定) に目をつけ 払い下げ工作を行なった。結果 第1期と第2期に分割して払い下げが実現するのだが、第1期部分は約1万8000坪が 17億円で 昭和38年3月に国から直接払い下げられている。問題は第2期である。大蔵省は 代々木の隣接地を払い渡すために、何故か わざわざ千葉県稲毛の埋め立て造成地を NHKに13億円で買い取らせ、これと 第2期分5900坪を “等価交換" したのだ。稲毛の売主は朝日土地興業という会社だったが 実際の地価はわずか6億円程度のもので 小佐野賢治が仲介斡旋している。従って 第1期払い下げの坪単価は約9万4千円、第2期のそれは22万円を要したわけで、第1期坪単価を正しいものとすれば 約7億4300万円のサヤが 小佐野と角栄の懐に入ったものと考えられる。あまりにも露骨な この払い下げは、さすがに国会でも問題となった。

 前さき に “テレビ放送局一括大量免許" の件で検索、利用させてもらった 「MAMO’s Site」 から NHKエピソードを綴ったが、田中錬金術の核心を ズバリ衝いた次の文章を下記引用する

 「まず 河川敷や埋め立て可能な土地 荒れ地など、単価の安い土地に目をつける。これを関係する土建屋に造成させる。その後 関係会社 (ペーパーカンパニー) 間で転売を繰り返し 価格を吊り上げていって 最後に 国、自治体、誘致した公的機関などに押し付ける。だから 田中や小佐野の関連会社に入る利ザヤは、税金からまかなわれたことになる。NHKのケースでは 利ザヤを負担したのは、受信料を支払う契約者だった」

 まだ この他に、柏崎・東京電力刈羽原発建設地の “土地転がし”。昭和57年に 時の建設大臣もその存在を認めた、建設省と水資源開発公団が 将来 全国に建設する予定の48件のダム工事の発注先を、各ゼネコンに割り振った 「官製談合表」 2枚に載っている 工事費8000億円の内、その3%240億円が 角栄の手に渡ることになっていたという話など、数多くの疑惑が浮かび上がってくる。 際限がないので 金権政治の源泉探しは この辺りで打ち切るが、権力を嵩に 田中角栄は 日本の政治を壟断 (ろうだん) した。広辞苑によれば、壟断とは 「(孟子 公孫丑下) ある男が 市が立つたびに高所を探して登り、市場を見渡して安いものを買占め、高い値で売りつけて 利を貪 (むさぼ) った」 という意である。

                                  つ づ く


 古川柳に 「 講釈師 見てきたような嘘をいい 」 というのがあるが、さしずめ 私の “昭和史エピソード” は それに類するものかも知れない。デキゴトの現場に居合わせたわけでもなく、ひたすら インターネットから事象を取り出しては、老耄し 貧弱になった“ 灰色の脳細胞" に微かに残る 記憶を呼び覚ましながら “真偽" をまさぐり、 縒り合わせる作業をしているに過ぎないからだ。それにしても Web空間には、厖大な情報が飛び交っていることに驚く。ひとつの事柄を確認しようとすれば 更にまた新しい事実が示され、何れが真実か、手繰れどたぐれど 止め処がない。

 この 「総理大臣の犯罪」 シリーズも、はじめは 5回で収めるつもりだったのだが、予定を大きく食み出してしまった。このぶんでは、もう 1~2回 お付き合い頂かなければ ならないようである。
                                   ヤ ク オ 

 

 

  

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 4

議 員 立 法 を 連 発   角 栄 頭 角 を 顕 わ す

 第24回総選挙に “獄中立候補” し、厳しい選挙戦を 辛うじて勝利した角栄は、議員3期生として国会に戻った。戦前からの議席を有する先輩は別にして、敗戦の年 幣原内閣が公布した “選挙法” 以後に代議士となった大多数の国会議員の中では、32歳に過ぎぬといえども少壮気鋭の中堅に位置し、角栄は建設委員会理事 次いで建設委員会地方総合開発小委員長に擬せられている。またこの頃 彼は首都建設法や住宅金融金庫法の立案に参画し、猛然と法律の勉強に挑戦し始めた。「六法全書」 を読破し、理解できたページは 片っ端から破り捨ててしまった (食ってしまった?) という伝説が生まれたのも この時期からではなかったか。

 日本に限らず、民主主義を標榜(ひょうぼう)する憲法を持つ国は、「三権分立」 体制をとる。 三権とは、立法、行政、司法のことであり わが国の憲法に於いても国民主権の原則のもと、第41条後段に 国会は 「国の唯一の立法機関」 と定めている。則ち 国会議員たるもの すべからく 自ら法案を作って審議を受け、成立させるのが役割なのだが、わが国の場合 実際はそうなっておらず、ほとんどの法律は 行政サイドの官僚 (規則を作ることは出来るが…) によって立案され 内閣(総理大臣) が国会に提出、国会議員は ひたすら審議している風を装って “可決” するだけの役回りを演じているに過ぎないのである。

 かつて 明治憲法においては 立法権は天皇 (お上) にあり、議会は 実質 “賛同” する役割しか持たなかったのだが、戦前と 全く変わらぬ悪弊を 新憲法施行後も 慣行として惰性的に引き摺ったままで、国会議員は( 所属する党の 党議に拘束された) 単なる “首振り人形偽員” になってしまっているわけだ。

 田中角栄が そのことを意識していたか どうかは知らない。彼にしてみれば、問題がそこに存在していることが判っていながら、間怠(まだる)っこい官僚の作文を待つよりも 手っ取り早く自ら鉛筆をなめなめ、構想や政策を 「法案」 として端的に表現しようとしたのだと思う。 国会議員ならば 当然そうすべきであるにも拘わらず、国民の付託を受けているはずの 選良たる日本の代議士は、昔も 今も、誰一人として 議員立法を行なおうとしない。初出馬の際 立会演説会で、競争相手の社会党立候補者に 「…どうすれば 政治の勉強が出来るだろうか…」 と尋ねていた彼が、独学で ここまで成長していたのである。

 角栄は さる月刊誌に 「(戦後の政治家は) 行政に精通し、予算書が読めて、(官僚が作った)法律案文を修正することが政治だと 錯覚しているものが多い。それでもいいが、国民各層の個別的な利益を吸い上げ、それを十分に濾過した上で 国民全体の利益に統合し、自らの手で立法化することにより、政治や政策の方向を示すことこそ 政治家本来の仕事であることを明確にしておきたい」 と述べているが、掬(きく)すべき言葉である。

 現に田中角栄は 議員活動の若いころ、自から議員立法として提案・成立させた法律の数は 33件にのぼり、この記録は いまだに破られていないという。幾つかの実例を挙げてみよう。

 建築士法 (S26・5・24 角栄初の議員立法 自身が 1級建築士第1号となる
 
積雪寒冷単作地帯振興臨時措置法 (S26・3・23
 
公営住宅法 (S26・5・28 母子家庭・引揚者を対象に大規模団地を建設
 
道路法 (S27・6・2 道路行政の骨格となる基本法 再提案し成立
 
道路整備特別措置法 (S27・6・10  いわゆる有料道路法 道路の通行を
     有料化するという 角栄の奇想天外なアイデァ 有料道路は世界初 
 
道路整備費の財源等に関する臨時措置法 (S28・7・13 道路建設の
     財源確保のために ガソリンに課税するという破天荒なアイデァを盛込む
 
国土開発縦貫道路建設法 (S32・3・29 日本列島に高速道路網を巡らす

 等々である。このほか 彼の法律作成能力が評価されてか、多くの法律立案に際して 「参画」 を求められているが、建設省をはじめ 官僚が、角栄に知恵を借りようとしたものか  ある場合はお墨付きを得るためだったかも知れない。その数は 私がザッと数えただけでも50件以上にのぼり、彼が党の幹部 更には首相になってからも 立案に参画しているケースが見られた。寄与の程度は不明だが、主なものを若干列挙しておく。

金融金庫法 (S25)  国土総合開発法 (S25)  日本住宅公団法 (S30 愛知用水公団法 (S30) 日本道路公団法 (S31)  北海道・東北開発公庫法 (S32)  工業用水事業法 (S33)  特定港湾施設整備特別措置法(S34)   首都高速道路公団法 (S34)  治山・治水緊急措置法 (S35)  豪雪地帯対策特別措置法 (S37)  関越自動車道路建設法 (S38) 自動車新税法 (S46)  全国新幹線鉄道整備法 (S45)  本州・四国連絡架橋公団法 (S45)  自動車重量税法 (S46)  etc

 角栄の土建屋的問題意識が色濃く、 議員立法であれ、行政官庁から 立案に参加要請を受けた案件にせよ、上掲のリストは 総じて土木建築に関わるもの、臨時特別措置と名付けたもの、目的税化したもの、そして 矢鱈に 公社・公団を新設しようとしている点が 気になるところだが、角栄が 行政の隅々にまで 睨みを利かせていくプロセスが窺い知れる。彼の発想は 常に細かい気配りに裏付けられたもので、たとえば あまり知られていないが、議員在籍期間が10年あれば 一般庶民よりはるかに高額な “議員年金” を受けられるように仕組んでいるあたり、官公労・民間労組出身の議員が 参議院を2期勤めれば、引退後に優雅な老後生活を保証するもので 野党や労組対策としても 心憎いばかりである。

Photo   だが彼が 議員立法に手を染めるようになった当時の心情は、真摯に 国家の繁栄を願い 国民生活の向上を追及する姿勢から発したものと思われる。左にインサートした新聞記事画像は、昭和49年に改正成立していた いわゆる 「ガソリン税暫定引き上げ特別措置法」 が期限切れになって、ほんの1ヶ月ほど ガソリン価格がリッター当り25円安くなったころの 平成20年2月4日、朝日新聞・月曜コラムに掲載された 早野 透 さんの “ポリティカにっぽん” 「角栄と道路財源」 全文である。昭和27年 角栄が道路法を作り、翌28年ガソリン税を目的税化したことから 同49年 インフレ対策と総需要抑制のために、更に税率を上乗せするに至る経緯を、見事な筆致で 的確に活写されている。この文章は なまじっか私ごときが 下手に改竄してはならないと考え、先日 朝日新聞から正式に転載の承諾を得 敢えて写真画像とした。画像の上にマウスポインターを置き左クリックするとポップアップしてパソコンの画面いっぱいに拡大する。文字は若干小さめだが ルーペを利用すれば十分読み取れるので、若いころの角栄を知り、政治の現状を考えるうえでも、是非 読んでいただきたい記事である。

 猶 画像の文章を無断で使用 又は転載することは 固く禁じられている。

花 嫁 の 父 は  3 8 歳

 昭和33年12月末、第2次岸内閣の警職法改訂の目論見、衆議院の抜き打ち30日間延長 など、強引な国会運営に反対して、三木武夫経企庁長官・灘尾広吉文部大臣と連袂(れんけつ)辞職した池田勇人に対し、翌34年7月 岸首相は通産大臣としての再入閣を求めた。池田にしてみれば 前年末に いわば辞表を叩きつけてから半年しか経っていないところだったし、去就に迷った。無論 池田派宏池会側近らは挙って反対である。

 だが 嫌がる池田にひざ詰めで入閣を勧めたのは、田中角栄だったという。角栄はこのとき 池田に向かって 「官僚なんていうものは その地位から離れたら干乾しになる。全く無価値だ。大臣というものは なりたいと思ってもなれるものじゃない。チャンスは掴まなきゃ駄目だヨ」 そして “History of Modern Japan” によれば 「姻戚に当たる角栄は むりやり (池田) 満枝夫人に モーニングの用意をさせた」 とあった。池田勇人は 翌年 岸 信介 の後を襲って 第58~60代内閣総理大臣になる。

 しかし 私は、それはナイだろ と思った。池田勇人と田中角栄が 姻戚関係であるはずがない。池田家といえば広島の素封家。代々 造り酒屋を営んできた由緒ある家柄である。遠く離れた越後の 水呑み百姓の子倅と繋がるとは 到底考えられなかったからだ。それでもと思って Web上で池田家の家系図まで取り出し、4代前まで遡って調べてみたが 無論 徒労だった。昭和34年の 【この年】 を書いていた 昨年11月のことである。結局そのときは 前(さき) の資料が間違っていると判断して 採りあげなかった。

 ところが、今回 神 一行 の 「閨閥・新特権階級の系譜(毎日新聞社刊)」 を読んでいて、アッと 驚いた。池田と角栄とは まさに姻戚関係にあったのである。

  池田勇人が国会議員に初当選すると同時に、第3次吉田内閣の大蔵大臣に大抜擢されたが、その陰に 吉田 茂 の女婿 麻生太賀吉と組んだ角栄の強力な推挽があり、そのことを知った池田が 角栄に 「政界に出て いちばん最初に借りを受けたのはキミだ。この恩義は忘れない。ボクに出来ることがあれば 遠慮なく言ってくれたまえ」 と感謝した話は 既に述べた。当時角栄は31歳だった。

 それから7年が経ち、55年体制が確立して 自由民主党が誕生、鳩山一郎初代総裁のもとで 党政策審議会委員になったころ、妻のはなさんの連れ子 静子さんは、妙齢の娘盛りになっていた。義理の仲とはいえ 角栄も人の親、あるとき池田に 「実を言うと 俺には一人娘がいる。どこか良いところへ嫁がせたいんだが、世話をしてくれ」 と 頭を下げた。純粋な気持ちからだったろう。池田は黙っていたが、後日 自分の甥 (氏名 略) と 結婚させているのである。挙式は 昭和31年11月吉日、花嫁の父は 38歳であった。権謀術数渦巻く 政治の世界にあって、なんだか心温まる話ではある。

 いい話を もうひとつ。 第25回総選挙 (抜き打ち解散 投票日S27・10・21) では、池田の秘書官 大平正芳が出馬しているが、池田との交流深い角栄は、ナゼか大平とウマが合い 誼(よしみ)を通じていた。せっかち角栄と アーウー鈍牛の大平とは、何とも奇妙な取り合わせであったが 大平の逸材を見抜いた角栄は、自分の選挙区をほったらかして 香川2区に貼りついた。後援会が固まってきた新潟3区は 62788票でトップ当選を果たしたが、角栄が入れ込んだ大平も見事初当選し、以後 田中・大平のコンビが 政治を動かすことになる。

 “頼まれれば 越後からでも米搗きに来る” という古諺があるが、角栄には、頼まれなくても応援に入れ揚げる 義理堅さがあった。

角 栄 の  官 僚 操 縦 法

 「歴代総理の通信簿 (PHP新書)」 を書いた八幡和郎によれば、田中角栄ほど 霞ヶ関の官僚たちに好かれた政治家は いないのだそうだ。「なぜなら 彼は 省庁の壁や前例主義で 身動きがとれなくなっている官僚たちを、手品のようなアイデアで 救い出す術を心得ていたからである」 角栄は天才的な人心収攬術と、コロンブスの卵的な問題解決力を持っていたうえに、直感的に物事の本質を見抜く洞察力と、底知れぬ胆力を身につけていた。若年時代から 実社会の荒波に揉まれ 何回も修羅場を踏んできただけに、少々のことでたじろぐことはない。官僚にとっては 実に頼み甲斐のある人物だったのだ。自ら法律を書く能力を身につけていたから 生半 (なまなか) なことでは 騙 (だま) しは効かない。

 そもそも 霞ヶ関の住人といえば、全国の秀才が 東京大学法学部を上位で卒業した連中で固められているのだが、頭脳の明晰さと 人間としての品性・品格は まったく別物で、官界に永年伝わってきた 卑しい根性と無責任な風土は 矯め直しようがなく、毎年、毎月 全省庁に亘って事件や悪事が 露顕しているところである。役人のトップである事務次官に昇進した人物と同期入省者は、いっせいに職を離れるという奇妙な慣例が存在するから、 世の顰蹙を買う天下りの押し付けと 受け皿作りが横行する。公務員を対象とする共済年金制度とともに 唾棄すべき “官尊民卑” の残滓である。

 金権を以って伸し上がっていく角栄が 最初にカネを撒き始めたのは、腐臭漂う 官僚の世界からではなかっただろうか。さしづめ 建設・郵政・大蔵省の幹部辺りが 最も効果的だったと思う。“端た金” ではない。しょっちゅうではないものの、いわゆる 盆暮れ 冠婚葬祭の折、十万単位、百万単位の 桁外れなカネが配られた。役人どもは これを “別封” と呼んだ。百万円の借財に困っている者があると聞けば 三百万円渡した。「百万は借金返済に、百万は当座の生活費に、残る百万は不時の場合に備えて貯金しておけ…。返済は無用」 というわけである。官僚が 角栄に靡 (なび) かぬ筈がない。

 角栄が出したカネは、“受け取らなければ ならなかった”。もし受け取らなかったら、角栄は その人物を “敵” と見做したからだ。何しろ かつて民自党の 「全国選挙地図」 を作り上げた男である。官僚個々の情報は 細部にわたって掌を指すがごとく知悉しており、役人の処遇は 角栄の恣意に拠って定まった。OBの天下り先、時としては天上がり (政界への出馬と当選)。角栄は政治的立場が強まっていくとともに 官僚の生殺与奪の人事権を握った。

 建設省事務次官だったある人物が こう語っている。「矢張り田中さんには 道路財源を確保するガソリン税など、大変 恩義を蒙っていますからネ。先生ら) 頼まれたことは、断ることなく できる限り協力しています。省としても協力するにやぶさかではないでしょう」

 昭和32年 「テレビ放送局の一括大量免許」 40年 「山一證券に対する日銀特融」 46年 「日米繊維交渉の解決」 など、角栄が鮮やかな政治的手腕を発揮し、また 全国新幹線鉄道整備法 首都圏高速道路公団法 など 数々の法律を成立公布していった陰に、金縛りに会い、自在に使いこなされた、無数の官僚たちがいたのだ

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 3

初 当 選 と 代 議 士 活 動  陣 笠 角 栄 奮 闘 記

 昭和20年12月17日 幣原喜重郎内閣は 「衆議院議員選挙法」 を公布、翌18日 衆議院を解散した。「終戦解散」 と呼ばれ、総選挙投票日は 21年4月10日とされた。今から見れば ずいぶん余裕をとった日程だが、敗戦によって日本の国家体制は大きく変わり、これからの政治に携わっていく 新しい政党もほぼ出揃ってきたので、国民に熟考の余地を取って その意思を問おうとしたのだろうか。主な政党を列挙すれば、日本社会党(書記長・片山 哲)、日本自由党(総裁・鳩山一郎)、日本進歩党(総裁町田忠治)、日本共産党(委員長・徳田球一)、など。新憲法はまだ発布されていなかった。新しい選挙法では、初めて婦人参政権を認め 被選挙権は25歳からとなっていた。

 「15万円出して 1ヶ月間、黙って御神輿(おみこし) に乗っていれば、当選は請合う…」 大麻唯男は こんどは角栄本人の出馬を勧めたものだ。田中角栄は、御神輿ならぬ 大麻の口車に乗ってその気になり、田中土建の新潟支店を柏崎に開設し 進歩党の候補として運動に取り掛かった。ところが 大麻が紹介してきた選挙参謀に 資金を手渡したトタンこの男、ころっと裏切って 同じ選挙区で しかも自由党から立候補してしまったのだ。政治の世界とはまことに奇っ怪千万、さしもの角栄もあっけに取られてしまった。大選挙区の定員8名のところ、角栄の参謀になる筈だった男も含め 立候補者37名という乱立の中で、さりとて引き下がるわけにも行かず、角栄は徒手空拳 見よう見真似で選挙戦に臨んだ。演説会で聴衆を前にすれば 治っていたはずの吃音がぶり返す。野次られて立ち往生をしたときには チョンガリでごまかし、立会演説会では 対立候補に 「オレにはちゃんとした教育がない。どうすれば政治の勉強が出来るだろうか」 と尋ねる始末。健闘及ばず、結局 得票数34124票 11位で落選する破目となった。

 選挙というものを一度体験すれば、悪性のヴィールスに取り憑かれたようになって、もう止めようと思っても止まられないものだそうで、角栄も落選はしたものの 多くの知己を得ることが出来 「全くいい経験だった。今回は不徳の致すところだったが、次の選挙で捲土重来を期す」 と述べている。

 その機会は 意外に早くやってきた。昭和21年11月3日 新しく公布された 「日本国憲法」 は、その内容を広く民意に問う必要があるとする GHQの意向を受ける形で、第1次吉田内閣が22年3月31日 衆議院を解散したのである。角栄は直ちに進歩党を改組した「民主党公認」 として新潟3区から立候補(定数 5議席 11人出馬) した。前回の失敗を教訓に “人任せではない” 自前の選挙戦に乗り出したのである。柏崎と長岡に田中土建の出張所を設け 100人もの社員を貼り付けて組織化、自ら先頭に立って機能的選挙運動を展開した。選挙区都市部の人口が多いところは 先輩政治家が抑えているから、角栄の行動範囲は 他候補も入り込まない山間僻陬 (へきすう)の地になる。彼は しばしば陸の孤島のような辺境の集落まで 一升瓶を片手に 一日に 9会場も回わり 村民と膝をくっつけて語り かつ聴いた。

 このときの選挙で 角栄は、およそ彼とは似っかわしからぬ 詰襟・角帽の学生たち10人ばかりの 思わぬ応援を受けている。早稲田大学雄弁部の面々である。演説はお手のものだ。これには訳があった。敗戦直後のハイパーインフレのころ、老朽化し 空襲で焼け落ちてしまった校舎の屋根などを補修する必要があった早稲田大学が 工事を大手建設会社に発注したとき、軒並みに断られるか 資材の値上がりを理由に工事費の増額を要求されるなか、独り田中土建のみが 当初契約どおり 誠実に完工してくれたお礼返しに、大学が弁論部のえり抜き学生を ボランティア的に新潟まで派遣してくれたのであった。

 田中角栄は 初当選するこの第23回総選挙の中で、次のような演説をぶっている。

 「皆さん この新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまう。そうすれば、日本海の季節風は太平洋に抜け 越後には雪が降らなくなる。みんなが 大雪に苦しむことはなくなるのであります。 ナニ 切り崩した土は日本海に持ってゆく。埋め立てて佐渡を陸続きにしてしまえばよいのであります…」

 角栄政治の原点である。

 新憲法下初の 第23回総選挙(22年4月) において 田中角栄は見事に当選した。得票 39043票 新潟3区第3位 (角栄29歳) であった。同期に 中曽根康弘、鈴木善幸の名前が見える。この選挙では社会党が第一党になり 片山 哲を首班とする連立内閣 (社会、民主、国民共同) が成立したが、民主党は連立を是とする 芦田 均派と 自由党に近い幣原喜重郎派に割れており、角栄は幣原派に属した。片山内閣は 「炭鉱国家管理法案」 を提出して大いにもめ、社会党内左右両派の内紛もあって 翌23年2月には政権を芦田民主党に “たらい回し” してしまった。これを機に民主党反芦田の幣原派は、斎藤(隆夫) ら無所属議員8人を加えた36人で 「民主クラブ」 を結成、角栄もその一員になった。

 因みに 斎藤隆夫とは、昭和15年衆議院壇上で 時の政府の戦争政策を痛烈に批判する 有名な “粛軍演説” を放ち、民政党を除名された気概の士、その人である。

 5月 民主クラブは自由党に合流、角栄は 民主自由党 (総裁・吉田 茂、幹事長・山崎 猛、議席152) に移り、いきなり 党選挙部長の要職に任じられている。彼はここで早くも異才を発揮し、ごく短期間のうちに 日本全国選挙区情報を網羅・集約した 「全国選挙地図」 なるものを作成している。むろん独創で、それまでにこのようなものは存在しなかった。議員の生年月日・学歴・家族構成・人脈・資金力・選挙区の人口構成・有権者数・支持率・地域産業構造・分布・所得水準・各選挙参謀の動きまでを悉く(ことごとく) 調べ上げたもので、自党のみならず 各政党議員も含めた精緻極まるデータベースといえた。まだコンピュータは存在せず、全て手作業であったと思われるが、これら全国選挙区の情報・情勢は角栄の頭脳にインプットされ、周囲から 「選挙の神様」 視されることになった。

 6月 「昭電疑獄」 がもちあがり、経済安定本部栗栖長官 西尾末広前国務相が検察に逮捕される事態となって、10月7日 芦田民主党内閣が総辞職してしまった。政権のお鉢が民主自由党に回ってくることになったのだが、自分たちの頭越しにマッカーサー元帥と通じ合える 吉田 茂の再登場を煙たがったGHQ民生局が、民自党山崎幹事長を擁立するよう画策し民自幹部に働きかける。そのことが議された総務会で、一年生議員の角栄が 「ちょっと待った」 と声をあげた。「いかに敗戦国といえども、首班人事にGHQが容喙してくるのは内政干渉ではないか。民主自由党が組閣するなら 総裁である吉田首相でいくのが憲政の常道だ」 というのである。この発言で議論の流れが一変し、第2次吉田内閣が成立した。この内閣で彼は法務省政務次官に就任している。吉田の論功行賞であった。(この挿話は 角栄伝説として夙に語り伝えられているが、今回調査では 必ずしも確認はできなかった)

 だが 次官就任2ヶ月足らずで 角栄は炭鉱国管疑獄の収賄容疑で逮捕されてしまった。片山内閣が炭鉱の国有化を狙って提出した 「臨時石炭管理法案」 に対し 彼が反対の急先鋒に立っていたとき、業者から賄賂を受け取ったとされたのである。

 吉田内閣は成立したものの 如何せん少数内閣、総選挙をして国民の認知を得たいところだが、憲法第7条による 天皇の国事行為としての衆議院解散に GHQが横槍を入れてきた。吉田に対する嫌がらせである。已む無く、吉田は野党と示し合わせて “内閣不信任案” を成立させ、憲法第69条を援用してGHQの鼻をあかし のちにいう 「馴れ合い解散」 を打った。23年12月23日、総選挙投票日は 翌24年1月23日、民主自由党は264議席を獲得、圧倒的多数を占めることになる。吉田 茂は 第1次内閣での学習経験から、旧来の党人よりも 政策遂行能力に長けた官僚の政界導入を企図し、事実この第24回総選挙で、池田勇人(大蔵)、佐藤栄作(運輸)、岡崎勝男(外務)、前尾繁三郎(大蔵)、大橋武夫(戦災復興院)、ら 官界の俊英たちが多数初当選してきている。

 しかし 田中角栄にとってこの選挙は 剣が峰に立たされたような状態に陥った。何しろ 身柄を検束されているのである。総選挙告示と同時に 小菅刑務所内から 「獄中立候補」 はしたものの動きようがない。投票日まであと10日と迫ったところで やっと保釈となり、角栄は雪の新潟3区へ転び帰ったが、そこには厳しい状況が待ち受けていた。田中土建の経営が悪化し、土木作業員への給金が滞るほど資金が逼迫、全てを叩いても現金は30万しかなく、金庫番から “選挙” か “経営” か 二者択一を迫られたのである。角栄は ためらうことなく “政治” を選んだ。

 地元の支持者たちは 身銭を出し合って選挙資金を作り、角栄を励ました。彼は涙を流さんばかりに喜び 吹雪の中を駆けずり回った。街頭で声をからし、時には 上越線が不通になって他候補が二の足踏む中を、雪の鉄橋伝いに対岸の小集落にまで出向いたという。絶体絶命の立場に立たされた中 奮迅の運動の甲斐あって、第24回総選挙における角栄の得票は、前回を3500票上回る 42536票、2位で当選を果たした。

 選挙に大捷した吉田首相は、政界に進出した官僚出身者を重用し 第3次内閣を組閣した。このときの閣僚人事で最も紛糾したのは、新議員となった池田勇人の大蔵大臣抜擢であった。党歴の古い党人たちは “反対決議” などして抵抗したものだが、こののち池田蔵相が アメリカが突きつけてきた 「経済安定9原則」 に基づく緊縮予算 いわゆる “ドッジ・ライン” や シャウプによる“税制勧告” にがっぷり取り組み、ハイパーインフレ下の難局において 厳しい財政政策を推進していき、吉田の命令で首をかしげながら党内の反発を抑えた 時の民自党幹事長大野伴睦をして 「ホームラン人事だった」 といわしめた。

 吉田によって引き立てられた官僚組の政治家は、自ずと吉田 茂の側近集団の形成していき 「吉田学校」 と呼ばれるようになるが、田中も吉田のメガネに適ってその一員となり もっぱら連絡役を担っていた。吉田とのつながりは角栄のほうが一足早いわけだが、池田勇人抜擢に際しては、吉田の女婿である麻生太賀吉らと組んで 強く池田の蔵相起用を推挽した。のちにこのことを知った池田は 角栄に対し 「政界に出て いちばん最初に借りを受けたのはキミだ。この恩義は忘れない。ボクに出来ることがあれば 遠慮なくいってくれたまえ」 と感謝の気持ちを伝えている。

 昭和25年 角栄は32歳になっていた。炭鉱国管疑獄の第一審で東京地裁は 角栄に懲役6ヶ月 (執行猶予2年) の刑を言い渡したが 角栄は直ちに控訴、翌26年 東京高裁は逆転無罪と判決、検察が控訴しなかったので田中角栄の無罪が確定した。

 田中土建は命脈を保っていたが、この年 経営不振に陥っていた新潟県長岡鉄道の再建依頼が持ち込まれている。角栄にとっては あまり乗り気になれない話だったようだが、調査・熟慮の上 労組委員長に 「沿線住民、株主、従業員が一丸となってくれれば引き受けてもよい」 と伝え、5月の長岡鉄道株主総会で 労組がワンマン社長を退任させ、角栄を社長に迎え入れている。彼は就任早々、役員全員無報酬の荒療治を施したほか、山間部にバス路線を拡充させた。その際 車両の提供を受けたのが国際興業の小佐野賢治からで、以後 “刎頚(ふんけい) の友” と呼び合う関係を築く。

 また 池田勇人の後押しもあって、日本開発銀行から1億2千万円(総工費の92%) の融資を引き出して、廃線寸前の危機に呻吟していた長岡鉄道の電化を完遂、見事 蘇生に成功させた。サンフランシスコ講和条約が締結をみた年のことである。

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 2

神 童 と 呼 ば れ た  少 年 期

 田中角栄は 大正7年(1918) 5月4日、新潟県 刈羽郡 二田村(現 西山町) の牛馬商 田中角次と フメ の次男(長子は夭折) として出生した。祖父は宮大工の棟梁 二田村円満寺の檀家総代を勤めていたという。生家は五反歩ばかりの (水呑み ? 百姓) だったが、父 角次は耕作を嫌い 牛馬を商う いわゆる “馬喰(ばくろう)” をしていたというが、あるとき 高額な洋種の牛を死なせてしまって家産が傾き、角栄は極貧の生活をすごす。2歳のころ 高熱に冒されることがあって、少年期には 吃音の後遺症に悩まされた。

 この文章を書き始めるにあたり Googleの地図で、新潟の南部 長岡周辺の地形図と航空写真を見てみた。“上越新幹線” や ”関越自動車道” が表示され “信濃川” が流れている。ズームしていくと “JR信越線” が見え “西山バイパス” が通じ 角栄の生家近くには “道の駅” が出来ていたりしていて、彼の少年時代とは ずいぶん様変わっているようだが、日本海沿岸の柏崎とは それほど離れてはいないものの、内陸には高い山岳地帯が広がり、過年発生した中越地震の惨状や その年の豪雪に閉ざされた村々のテレビ画像を想い起こすと、大正10年代 角栄の少年時代の 恵まれない生活や厳しい自然環境が髣髴とする。

 聡明だった角栄少年は 学業成績をほぼ 「全甲」 でとおし、学級の級長として “神童” とも噂されていたようだ。ひとつエピソードを見つけた。四年生の折 師範学校を出たばかりの担任教師が、雑談で何気なく 「実家へ松茸を送ってやりたい…」 と洩らしたことを小耳に挟んだ角栄が、「先生は親孝行者だ。みなで手分けをして松茸を集めよう」 と誘って、瞬く間に 大きなみかん箱二杯分を 裏山から運び込んできた。今と違ってそのころは 松茸なんか穫り放題だったのだ。驚いた先生が 「有難いが 多すぎる」 というと、角栄が 「全部送ってください。食べ切れなかったら 隣近所に分けてあげたらいい……」 案の定実家では 周りから大喜びされたと知らせてきて、担任の先生は 「負うた子に教えられた」 と述懐したそう

 若いころの角栄が、浪曲をうなって吃音を克服した話は 広く有名だが、浪曲とは波花節(なにわぶし) のこと 越後ではチョンガリといったらしい。角栄11歳のころ、村では時々 浪曲の興行がかかったので、角栄は 担任に連れて行ってくれろとせがんだ。そして 翌日の昼休みの教室で、昨夜聞いたばかりのチョンガリを、筋立てはもちろん 節回し、声のシブさまで、そっくりそのまま 本職顔負けに語り聞かせて、級友から やんや やんやの喝采を浴びたのである。その底知れぬ記憶力に、担任は驚嘆してしまったと伝えられているが、興行期間の数日 角栄はチョンガリに通いつめ、連日クラスで続編の口演会を開いたそうだ。一夜で浪曲を覚えてしまう記憶力、これが その後の角栄の人生で、大きな武器となる。そして 発声に抑揚をつけることで、角栄は次第に吃音コンプレックスから脱していくのである。

 成績優秀の角栄には、当然 上級学校進学の話が持ち上がる。だが 生家の窮状を知る彼は、尋常高等小学校を卒業しただけで 家計を助ける道を選んだ。昭和8年 角栄15歳のときであった。

刻 苦 勉 励   青 年 時 代

 彼は地下足袋を履き、早朝から夕刻まで 土方仕事に汗を流した。その後 県の土木工事派遣員に応募して 採用されている。これが 角栄が土木建築の世界に足を踏み入れる端緒になった。土方として汗水流しているとき、角栄は 一人の面白い人物に出会っている。「土方 土方 と言うが、土方は いちばんでかい芸術家だ。パナマ運河で 太平洋と大西洋をつないだり、スエズ運河で地中海とインド洋(紅海) を結んだのも みんな土方だ。土方は地球の彫刻家だ」←―( “れんだいこ” さんのブログから引用)

 この言葉は 若き角栄の人生において、大きな動機付けになったのではなかろうか。“れんだいこさん” は、日経新聞社 「私の履歴書・田中角栄(1967年) から抜粋しておられたので 孫引きした。このあとも 随所でずいぶん勉強させていただいた。

 昭和9年 16歳になった角栄は、笈を負うて上京し 日本橋の土建会社 井上工業東京支店に住み込んで働き、夜は 神田猿楽町の 私立中央工学校 土木科に通う生活に入った。以後数年 地方からの苦学生が 等しく辿ったと同じ、何回か職場と仕事を変えながら 中央工学校には通い続け、昭和11年3月には 見事に卒業している。巷間 田中角栄は高小出身とする説が横行しているが さに非ず、私立とはいえ 今で言うなら専門学校、あるいは 短大を卒業しているわけで、然もこの間 研数学館、正則英語学校、錦城商業学校にも籍を置き、勉学に励んでいるのである。また この頃の青年らしく、江田島の海軍兵学校を志望したりもしている。

 角栄は 昭和12年3月、19歳で独立して 「共栄建築事務所」 を開設し、機械の据付工事を請け負っていたが、新潟県出身の実業家 大河内子爵が経営する 「理化学研究所 = 理研」 からも 建築設計を受注するようになって、かなり難しい仕事でも 臆することなく率先垂範 その猛烈な仕事振りと 若いながら情のあるリーダーシップが注目された。20歳の頃には、普通の雇われ人の 10倍以上の月収を上げるようになっていたという。

 起業に成功し ようやく順風満帆の日々を迎えたかに見えた角栄だったが、徴兵検査で甲種合格していた彼に召集令状が来て、盛岡騎兵第3旅団に入隊することになった。旅団は 昭和14年4月に、ソ満国境に近い富錦(フーチン)に派遣され 同年5月ソ連軍との “ノモンハン戦役” に遭遇している。この戦いで日本軍は ソ連の新鋭戦車隊に蹂躙され大敗を喫したのだが、5月末の停戦までに 在満日本騎兵隊だけでも、そのほとんどが壊滅したという。日本歴代の総理大臣の中で 実際に従軍経験を持っているのは、田中角栄 ただ一人である。騎兵上等兵になった角栄は 軍隊で肺炎にかかり、そのため内地に移送され 一時期 危篤に陥っている。ほぼ丸一年を病床で苦吟したあと やっと回復、昭和16年10月 除隊となった。(角栄 23歳)

 実業の世界に戻った角栄は、早速 飯田橋にあった建設業・坂本組の一画を借りて 「田中建築事務所」 を創業した。一からの再出発である。そして またも理研との繋がりを持つようになる。電子百科事典 Wikipedia によると、「理化学研究所 は 大正6年(1917) に創設された 物理学、化学、工学、生物学、医科学 など、基礎から応用研究までを行なう 日本で唯一の自然科学総合研究所。鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇一郎、長岡半太郎、池田菊苗、本多光太郎、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄 など、優秀な科学者を輩出し、のちに理研コンツェルンと呼ばれる 製造企業グループを形成して、十五財閥のひとつに数えられたが、それらの中には 軍需に結びつく分野も含まれ 太平洋戦争の終結とともに解体された」 とあるが、今日に至る わが国 “重化学工業・先端技術” の ルーツというべき存在であった。

 実は、 そもそも 高等小学校を卒業したばかりの角栄少年が、16歳のとき 上京を決意したのは、角栄の才能を惜しんだ 柏崎の県土木事務所の古老が、郷党の実業家で 理研三代目の所長であった大河内子爵邸の、住み込み書生に推挙してくれたことがきっかけだったのだ。このときは 話が行き違って、志を達せられなかったのだが、兵役前といい、再出発後といい、「理研」 との取引は 奇しき縁というか、あるいは 国策事業としての理研の将来性を洞察した 角栄の慧眼(けいがん) のなせる業というべきか、彼にとって 極めて幸運であった。

 昭和17年3月 田中角栄は、家主の娘 坂本はな と結婚している。角栄24歳、はなは8歳年上の姉さん女房、出戻りで 先夫との間に生した 女児(静子・9歳) がいた。角栄は はなの物静かな振る舞いのなかに 芯の通った性格を見出し 惚れ込んだようである。11月には長男を得たが のちに 夭折させてしまった。

 はなとの結婚で 坂本組の業務も引き継ぎ、田中建築事務所を 「田中土建工業株式会社」 に改組している。家庭を持った角栄は 大車輪に働いた。若い社長がふんぞり返っていては 従業員がついてこない。社員と一緒になって 資材を運んだり、深更まで設計図を描き、ときには 車座になって 闇酒を酌み交わしたりする 活気にあふれた職場を作った。戦時中のことである、軍関係の工事も請け負い “月 月 火 水 木 金 金” 日曜・祭日も無い忙しさが続くうちに、田中土建は急成長し、昭和18年には 年間施工実績で、全国50社のうちに数えられるようになっていた。

 戦争が激しくなって 米軍の空襲が始まると 陸軍航空本部が国内理研工場の分散・移転を命じ、角栄は都内に在った理研設備の朝鮮移設を受注した。総工費 2400万円(現在なら優に数千億円を超えようか?)。角栄は幹部数名を伴って渡鮮 工事の内金1500万円を受け取ったところで、20年8月15日 日本の敗戦に遭遇している。機を見るに敏な角栄は 施工中の資材等の一切を擲って、現金900万円程度だけを鞄に 逸早く8月末には 青森港に引き上げ帰国、焼け野原の東京にたどり着いた。何より幸運だったのは、家族はもちろん 飯田橋の住宅や事務所が、戦災に会うことなく無傷で残っていたことである。ハイパーインフレが昂進するなか、持ち帰った現金が減価せぬうちに 直ちに資材の購入に当てた筈で、当時 埼玉県の山林地主だった荒船清十郎から 大量の杉・檜を買い取った挿話が残っている。

 彼は もっと大きな買い物をしている。昭和20年11月16日に 日本進歩党(総裁・町田忠治) が結成されているが、角栄は請われて その結党資金にポンと大枚300万円を提供したのだ。話しを持ち込んだのは、戦前 田中土建の顧問に迎えていた政界の寝業師大麻唯男。大麻は 「年内に占領軍の命令で衆議院が解散される。そこで われわれは “進歩党” の結成を目論んでいるが、総裁には いちばん早く資金300万円を調達した者がなる約束だ。私は町田忠治先生を推しているのだが、何がしか 献金してくれないだろうか…」 と申し入れたのに対して、角栄は 「その300万円 全部出させていただきましょう」 と応諾した。現在の値打ちにして どれほどになるのだろうか、角栄の即決断行は、このとき 早くも萌芽を見せていたのである。

                                   つ づ く

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 1

鮮 や か な   角 栄 の 政 治 手 腕

 学閥と閨閥で塗り固められた日本の政界に、いつの間にか その才幹を発揮して “押しも押されもせぬ” 異能の実力政治家として存在感を示し、学歴も持たず 裸一貫の身から  終には 内閣総理大臣の座にまで上り詰めた 田中角栄という人物について述べなければ 「昭和史」 が成り立たない と思うようになった。彼については 既に巷間 充分に語り尽くされているので、敢えてこれ以上は…? と 考えていたのだが、ネット上にも数多く書き留められている事跡と、彼の生い立ち 人となり、そして蹉跌の跡を辿っていくうちに、どうしてもいま一度 角栄の人物像を確かめてみる必要を覚えたのである。

 昭和32年2月 石橋湛山から 居抜で内閣を譲り受けた 岸 信介 は、7月になって内閣を改造 自前の政権を発足させた。田中角栄はこのとき 39歳の若さで郵政大臣に抜擢されている。

 郵政省に初登庁した日、玄関に掛かっていた 「全逓信労働組合」 の大きな看板を見咎め 「大家よりでっかい看板を出す奴があるかッ」 と叱った後、省内の幹部を集め、「私は 新潟・柏崎生まれの39歳、未熟者であるが さきを見て、ま 使い甲斐のある男だと思ってもらいたい…」 と挨拶したのだが、そのあと 郵政電波行政には素人の角栄が どえらい仕事をやってのけた。

 角栄が郵政大臣になって、すぐさま着手することになったのは テレビ放送の大量許可免許発行である。当時 テレビ放送を行なっていたのは、昭和28年からのNHK(東京・大阪ほか10局)、民放が日テレ、TBS(ラジオ東京)、北海道放送、中部放送、大阪テレビの5局に過ぎず、予備免許は下りていたものの フジやNETは まだ電波を出していなかった。いっぽう テレビの受信契約数は、昭和31年6月 20万、11月 30万件、32年6月 50万、翌33年5月には累計100万件を突破するなど 着実に増え続けていたし、33年12月には 東京・芝に 高さ333メートルの電波中継塔 “東京タワー” が竣工する予定になっていた。日テレなど 先行していた局が活況に沸いているのを見て、全国各地から郵政省に免許申請が殺到してたのだが、電波管理局の役人は、これに対して 「技術的・経営的にも無理、時期尚早」 として許可せず、郵政大臣の机の上には 四年越しの書類が うず高く積み上げられていたのである。

 昭和33年10月には、明仁皇太子と正田美智子さんの婚約が発表されることになっており (新聞・放送各社は報道を自主規制していたが、角栄は立場上 縁談の進行状況を知悉していたと思われる)、そうなれば 力道山のプロレスどころではなく ソフト ハード共に通信・情報の爆発的需要が発生する。時はまさに テレビ時代の “あけぼの期” に差し掛かっていたのだ。

 インターネット上で “MAMO’s/放送制度・官僚論” の 「歴代郵政大臣回顧録(逓信研究会)」 の当該部分を孫引きさせてもらうと、次の如くだ。

  『…大臣用の机の上に分厚い書類が置いてあるので 電波管理局次長を呼んで 「結論はどうなんだ」 と質したら、「たくさん理由は書いてありますが、結論はノーです」 と答えた。 (
中略)  …次官を大臣室に呼んで 「電波の事務当局から 一括免許反対という書類を持ってきたのだが、あんたはどう思うか。自分は日本の電波の将来に 重要な歴史を作るときだと考えている。また全国的混乱に終止符を打つチャンスと思っているのだが…」 (中略)  …分厚い書類の表紙(係官・課長・局長…と、印鑑の朱で真っ赤になっている) の全面に 赤ペンで大きな×印を入れてから、「この表紙だけ “本件 許可然るべし” と書いたのに 取り替えてくれんか…」 と依頼した。(後略) 』

 国会も法律も無視した乱暴な話であるが、角栄はこのようにして 153局のテレビ申請を39局に纏めて、一挙に 「大量一括予備免許」 を認可してしまった。

 角栄は 申請を決済しても、後を官僚任せにするのではなく、次の手を打ってフォローしている。即ち 開局申請者全員を 土曜・日曜の二日間に 大臣室へ順次呼び出し、グループ毎に 新会社の設立を要請して数を整理、各人・各社の持ち株比率から役員構成まで 調整してしまったのである。否やと異議をさし挟めば認可が下りないだけ、結局申請者たちも ありがたく納得して、39歳田中の差配を受け入れたという。申請者たちが なぜ納得したか。許可が欲しいだけでなく、強引な申し渡し的裁量のウラに 「誰もが恩恵を感じるような 配慮がなされて」 いたからであった。“三方一両損” と思っても、三人合わせてみれば 結局それぞれ望みが適っていた。角栄の 魔術的政治手法である。

 このようにして 東京と地方を結ぶ四系列の 通信ネットワークが形成され、後に角栄が、朝日、毎日、読売、産経 というマスコミ・テレビ業界に絶大な影響を及ぼす下地を作りあげた。

 郵政大臣は一期のみで 後任にバトンを渡したが、充分すぎる果実を手にして党務に戻り 自身 猛烈な勉強に励みながら、’60年安保条約騒動のときは 川島正二郎幹事長の下で副幹事長、院内委員会の顕職を歴任、昭和36年には党政務調査会長となって 三役入りを果たしたが、折から起こった全国医師会の 「保険医総辞退」 問題に際しては、医師会館に乗り込んで、武見太郎会長(別称 ケンカ太郎) と ひざ詰め談判、事態を収束した。

 昭和37年7月 第2次池田内閣で 田中角栄は(44歳) 大蔵大臣に就任、推測だが 「ひょっとしたら 天下が取れるかも知れない」 と 思うようになったフシがある。この頃の角栄の猛勉強振りは 語り草になっている。何しろ大蔵官僚が一週間かけて読む財政案を、彼は ひと晩で読みこなし 次官以下と個々に面談、官僚中の官僚といわれる東大法学部出の面々を論破し、同時に肝胆通じ合う仲になって、その有能さは舌を捲かせた。

 佐藤栄作が 池田から政権を禅譲されたとき、引き続き角栄は 第1次佐藤内閣の大蔵大臣に留まったが、そのときに突如として発生したのが 「証券パニック」 であった。40年5月 山一證券が資金ショートを起こし 取り付け騒動に発展しかかったのである。この時 角栄は関係者を一喝、ためらうことなく 日銀法第25条を発動して、山一證券に対し 「無担保・無制限の特別融資」 を実施させ 市場の危機を救った。傍らに献策する者がいたかどうかは 知らぬが、かかる大事を即断実行できるものは ざらにはいない。角栄に備わっていたのは、“度胸” あるいは “胆力” といったものではなかったか。このデキゴトに関しては、昭和40年の 【この年】 にも触れている。前出の “MAMO’s” ブログには、角栄のことを “カンピュータつきブルドーザー” と表現されているが、蓋し名言だと思う。如何に精密で大容量のコンピュータでも “勘” を働かせることのできる機械は いまだに存在しない。

 田中角栄は佐藤派に属していたが、佐藤内閣の第1次改造に際して党に戻り、幹事長に就いた。彼の秘書 佐藤 昭 によれば この時期の角栄は “水を得た魚” の感があり、生涯で最も活き活きとしていたというが、折から次々と閣僚連中の野放図な所業が明るみに出、佐藤栄作は已む無く 「黒い霧解散」 を打たざるを得なくなったが 角栄も 党内監督不行き届きの責めを負って幹事長を辞任している。だが 昭和43年11月には、三度 自民党幹事長に返り咲き、「沖縄返還解散」 を受けた第32回総選挙には 大車輪の活躍で、自民党の大捷に貢献した。

 昭和46年 角栄(53歳)は、前任 宮沢喜一や大平正芳たちが 度重なる折衝に失敗して、縺(もつ)れきっていたアメリカとの繊維交渉に臨むために 敢えて 火中の栗を拾うかのように通産大臣の役割を引き受け、たちまち “快刀乱麻を断つ” が如く 鮮やかに解決してしまった。その経緯は 46年の 【この年】 に詳述しているので 参照していただきたい。

 いまや田中角栄は 向かうところ敵なく、思うが侭に三面六臂 いや 八面六臂の働きで、自民党の中でも図抜けた実力者と目されていた。自らの力で伸し上がったのである。毀誉褒貶ありとしても これほどの異能を持つモンスターが、いったい どのようにして、日本の政界を牛耳るまでになったのか。その “人となり” を 尋ねてみようと思う。彼が 昭和22年 第23回総選挙で初当選して以来、波瀾万丈の政治生活を送って 終に罪を得るところとなり、平成2年年頭 かつて角栄の股肱の臣であった 時の首相 竹下 登 が、「重篤な病床に在られる天皇が崩御されても、恩赦に 元首相を加えない」 と言明するまでの40年間、田中角栄の政治履歴は、ぴったり 昭和史の後半と重なるのである。

                                 つ づ く

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学生運動の行きついたさき 2

三 派 全 学 連   激 動 の 七 ヶ 月 か ら

Photo_2   学生たちの くっついたり離れたりのいきさつは、私には到底理解できないが、マイクロソフト・エンカルタ総合大百科の 「全学連の主なセクトの流れ」 を示した図が、比較的簡略化されて 納得できるものだったので、昭和40~50年代 世界を震撼させることとなる “日本赤軍派” に 専ら視点を合わせてアレンジした 「日本の学生運動変遷軌跡図」 を作ってみた。左の画像の上にマウスポインターを置いて クリックすると拡大する。正鵠を射たものとはいえないまでも、上下に列記した海外国内の 主なデキゴトと見比べていただければ、おおよその流れが掴めるのではないか と思う。

 昭和41年12月に 中核派・再建ブント(社学同) ・日本社会党の青年組織である社青同解放派が合同して 「三派全学連」 が結成されたが、彼らは街頭闘争を重視し のちに “激動の七ヶ月” と呼ばれる一連の活動を展開した。佐藤首相訪米を阻止する 「第2次羽田闘争」、アメリカの原子力空母エンタープライズの 「佐世保入港阻止闘争」、「王子野戦病院建設阻止闘争」、千葉県三里塚・芝山の 「成田空港建設阻止闘争」 などである。(成田新国際空港問題については 別途稿を改める) これらの過激な行動は、醒めたりとはいえ 社会の耳目を集め、テレビにもたびたび映し出された。警察機動隊との激しい攻防は、さながら内戦の様相を呈して 国民の眉をひそめさせたが、三派全学連の闘争においては、ヘルメットにタオルの覆面 角材のゲバ棒を振り回す 中核派の重武装が目立った。

 39年度 慶応大学、40年 早稲田大学、41年 中央大学 と続いた 「学費値上げ反対運動」 は、一般学生も加わって 次第に全国に波及し、43年ごろには そのピークに差しかかっていたが、紛争を抱えた165大学のうち、学生がバリケードを築いて実力封鎖を行っていた大学は 70校以上にのぼり、紛争というより もはや闘争の段階にあった。

東大闘争・ マンモス日大騒動 安田講堂の占拠と陥落

 かねて幾つかの大学医学部で 登録医制度やインターンについて紛議があったが、昭和43年1月29日 東大医学部自治会が無期限ストに突入し、いざこざの挙句 内科医局長を監禁 暴行を加えるというトラブルが起こった。これに対し 医学部教授会が17人の学生や研修生を処分したのだが、その中に人違いを含んでいたため 紛争はさらにエスカレートして、 6月15日 大学側に抗議する医学部学生数十人が 安田講堂を占拠する騒ぎとなった。6月17日 大河内一男東大総長は 警察に要請して機動隊を大学構内に導入、学生たちはいったん 講堂を退去している。

 また この騒ぎの間に3月末 43年卒業式を 医学部全闘委の学生が妨害し、大学は卒業式を中止してしまった。機動隊の大学構内導入をきっかけに 闘争は一挙に拡大、ほとんど全学部に波及して無期限ストに突入 安田講堂前で一万人の学生集会が開催された。はじめ 学生との交渉を拒否していた大河内総長は、6月28日 安田講堂で学生代表3000人との 「総長会見」 に臨んだ。あふれた学生2000人は 別教室でテレビ参加したというが、まさに大衆団交以外のなにものでもなく、学生たちの怒号と野次の中で 大河内総長にはドクターストップがかかり退場、7月2日 安田講堂は またしても学生に占拠されるところとなった。

 このあたりまでは 基本的に 東大内部学生自治会の行動だったと思うが、学内で全学連活動を行なっていた過激派学生やノンセクト・ラジカルが 全学共闘会議、いわゆる 「全共闘」 を組織した。彼らは 大学個々の紛争やイデオロギーの垣根を越えて、あらゆる既存概念や 秩序・体制を拒否し、大学解体をスローガンに 共闘しようとして  全国の大学にも共鳴する動きが見られた。従って 東大紛争の後半は 各地から集まってきた全共闘の学生たちが 東大構内にたむろし、大学当局と対峙するだけでなく 学生内部ででも、 互いに鬩ぎ合っていたのだ。例えば11月20日 東大紛争の天王山といわれた 安田講堂の封鎖に際しても、封鎖反対を主張する学部も少なくなく、バリケードを構築しようとする全共闘系7000人に対し、これを阻止しようとする日共系(民青) 学生7000人が 全国から参集して睨みあい 一触即発の状態になったという。

 ちょっと余談になるが、本来 反日共系の革マルは、初め全共闘に積極的な姿勢をとっていたが 途中で腰が退け、機動隊が安田講堂に踏み込む前夜、死守すべき場所から 忽然と敵前逃亡し、以後 全共闘から排除されてしまった。また 44年9月 日比谷音楽堂で “全国全共闘連合会結成大会” が開かれたとき、先に 三派全学連の 「第2次羽田闘争」 に参加せず、除名扱いになっていた 関西の武闘派最左翼 共産同赤軍派 約100人が、その姿を現した。

 ところで 彼ら学生運動家の 左翼用語混じりの演説は、独特の抑揚でがなり立て その上 拡声器で声が割れるものだから、 何を言っているのやら  さっぱり聞き取れなかったものだが、その頃から 若い人たちの会話に、「あのオォ…」 とか 「それでェエ~…」 と 語尾を撥ね上げたイントネーション口調が流行り、そのことは 半世紀たった今も変わってなくて、年寄りには耳障りだ。そういえば、ひところ共産党の議員たちの口調が、猫も杓子も一様に 語尾を強めて念を押す 不破哲三調の演説をぶっていたのを思い出す。

 閑話休題 混乱の極みに陥った東大は、文部省と協議のうえ 翌年の入学試験も中止してしまった。

 そして 44年1月18日 大学側は機動隊8500人を構内に導入し、封鎖されていた校舎を次々と解放した。機動隊は 安田講堂に対しても 放水や催涙弾を以って攻め、講堂内に立て篭もり 火炎瓶や投石で抵抗する学生を追い詰めて、600人以上を逮捕、重傷76人を含む多数の負傷者を出しつつ、35時間の解放作戦を終えた。東大紛争の顛末は およそ以上のとおりである。

 マンモス大学 日大騒動の発端も、東大の場合と同じく 43年1月であった。

 理工学部教授による裏口不正入学斡旋に絡み 東京国税庁が、日本大学そのものの経理に 22億円にのぼる使途不明金を摘発したのだ。日ごろ 利益優先のマスプロ教育と、自治活動に無理解 時代錯誤的管理体制をとっていた 大学側に不満を抱いていた学生たちが、 各学部・サークル単位で会合を積み重ね、次第に学校側に対する糾弾の声を挙げていったのである。ある意味では 日大学生の行動は当初 素朴で、大学側はビラや掲示をも許さず 体育会系学生を煽って暴力的弾圧を加えていた。5月23日 日大学生たち2000人は、神田で 初めてのデモを決行したが、25日には 更に5000人の学生たちが 神田白山通りを埋め尽くすまでに膨れ上がっていた。5月28日には 日大にも全共闘が結成され、学校側が雇った右翼団体と乱闘の末 校舎を占拠、 全学無期限ストに突入した。

 ここに至って遂に 大学側は 「大衆団交」 に応じたのだが、その対応は はなはだ醜悪であった。団体交渉は 9月30日 両国講堂において、約3万5000人の学生と、日大・古田重二良会頭以下 全理事が出席して、翌日午前3時まで 12時間続けられたが (ことは どうであれ、これは糾弾会というべく、人権問題の謗りは免れないと思うが…)、結局 大学側が前面屈服し、(1) 経理の全面公開 や (2) 検閲制度の廃止、(3) 全理事の即時退陣などの 確認書に署名した。しかし 翌10月1日の閣僚懇談会席上で、「この大衆団交は集団暴力であり 許せない」 とした 佐藤首相の発言が伝えられるや、大学側は 前日の “舌の根も乾かぬうちに” 周章狼狽して 確認書を白紙撤回し、全理事も そのまま居座ってしまったのである。 日大全共闘は 東大とも共闘体制を組んだが、安田講堂陥落ののちは、鉾先を転じた警察機動隊によって 占拠校舎のバリケードは忽ち解体されてしまった。

 43年から44年にかけて燃え盛った 東大・日大の闘争が制圧されたのち、全共闘は セクト色の濃い不安定な組織となり、多くの学生から見放され 消滅の道を辿る。学生活動家たちは、シラケの季節に入ったのである。

武 闘 派 最 左 翼   赤 軍 派 の 妄 想 と 暴 走

 それとともに 一部に “より過激な” 考えを抱き 武装をエスカレートさせようとするグループが台頭しつつあった。そんなひとつに 共産主義者同盟の関西地区学生らから成る武闘派 「赤軍派」 が、街頭闘争の総括を経て 「国家権力と戦うには 早急に軍隊を編成して銃や弾薬を整え、“武装蜂起” しなければならない」 そのために 「M作戦(金融機関襲撃による資金奪取)、P作戦(要人を人質にとって要求する)、B作戦(海外に活動拠点を設ける)、などとする計画を立てた。児戯に類するような発想だが、彼らにしては大真面目だったのである。事実そのころ 松江相銀米子支店強盗事件や 一部地域で郵便局が狙われたり、栃木県真岡では銃砲店が襲われて 大量の散弾銃や弾薬が奪われる事件が起こっている(真岡事件は後述する京浜安保闘争の仕業)。彼らはまた 拳銃奪取を目的とする一連の交番襲撃―― “大阪戦争” や “東京戦争” と称して 日大デモに紛れ込んでゲリラを行なったり、パトカーを転覆炎上させたりしているが、この頃から 鉄パイプやピース缶を用いた爆弾を使い始めた。

 (´70年安保条約の改訂は自動延長になっていたが…) 44年11月 赤軍派は 「11月闘争」 と称して 山梨県の山中で軍事訓練を行なっていた。首相官邸や警視庁を襲撃し 革命前段階とするつもりだったというのだが、動きを察知した警察は 大菩薩峠の山小屋 “福ちゃん荘” に集合していた彼らを襲い、一網打尽 53人を検挙してしまった。これが 世にいう 「大菩薩峠事件」 であり、塩見議長を含む重要メンバーを失った赤軍派は、壊滅的打撃を受けた。

 いっぽう 「国際根拠地論」 を志向する者のうち 田宮高麿のグループは、B作戦の一環として45年3月 日航機よど号をハイジャックして北朝鮮へ渡ろうとした。日本の大型旅客機が乗っ取られたのは初めてのデキゴトであったが、その詳細は 45年の 【この年】 に書いた。のちにアラブ・パレスチナで 「日本赤軍」 を名乗ることになる奥平剛士・重信房子らが、PLOのゲリラ組織 「PFLP(パレスチナ解放人民戦線)」 との連帯を求めて レバノンのベイルートへ飛んだのは、46年2月のことであった。

 大菩薩峠で絶滅に瀕した赤軍派国内残存組は、幹部を失なっているので 暫定的に 森 恒夫をリーダーとし、森は 組織を立て直すために 思想的には異質の小集団 共産党神奈川の武闘左派 「京浜安保共闘(永田洋子ら)」 と 手を結び、ここに 「連合赤軍」 が生まれた。さきに 栃木県真岡の銃砲店を襲ったのは 京浜安保共闘のメンバーで、彼らは大量の武器弾薬役を擁していたのである。また 出自は同じだが 連合赤軍と日本赤軍は、この段階で袂を分かった 別組織と見做すべきといえる。事実 重信房子はベイルートから連合赤軍に対し 決別状を送りつけたという。47年2月 群馬県警は 妙義山中で 森 恒夫と 永田洋子を捕らえた。二人は妙義山麓に移した 軍事訓練ベースに戻ろうとしていたのだが、群馬県警はそのアジトを急襲 潜伏中のメンバーをほほ殲滅した。このとき警察の包囲から脱した 坂東国男ら5人の残党が惹き起こしたのが、かの 「あさま山荘事件」 である。

 日本国民にとって 「あさま山荘事件」 は、まことにショッキングなデキゴトであった。なにしろ “赤軍” というおぞましいものが存在していたとは、ほとんど “誰も知らなかった” し、まさか “銃撃戦” が 国内で行なわれ、そのライブを見せ付けられるなど 想像もしなかったことが、現実に起こったからだ。昭和47年のコメントで触れたので詳述は避けたいが、2月16日 群馬・長野両県警が行なった大規模な山狩りから脱した 坂東国男、坂口 弘、吉野雅邦、加藤倫教とその弟(高校1年生) の5人が、榛名山アジトから山中を3日間彷徨して 長野県軽井沢までたどり着いたのは 2月19日のことだった。冬の別荘地で 彼らは偶然 河合楽器の保養所 「あさま山荘」 に押し入り、留守番をしていた管理人の妻女を人質にとって立て篭もるとともに 追跡してきた警官に発砲し重傷を負わせた。

 急な斜面に立つ 「あさま山荘」 は、犯人たちも逃げられない代わりに、攻撃もし辛い立地の二階建てだった。20、21、…… 26日と 警察隊は山荘を包囲したまま膠着状態が続いた。犯人説得のために呼び寄せられた 父親や母親の悲痛な声が 雪の軽井沢に谺したが、彼らは それにすら威嚇発砲で酬いた。警察隊との小競り合いが起こり その都度警官に死傷者が出た。篭城210時間を超え 人質の身も案じられて、周到な準備を整えた上 警察側は28日 一斉に総攻撃をかけた。ビルの取り壊しに用いるモノケンという鉄球で山荘の壁面を穿ち その穴から強力な放水筒で水を放射 突撃隊が突っ込んだ。午前10時から午後7時まで 9時間に亘る攻防の結果、終に人質を無事保護するとともに 犯人5人を逮捕したのだが、事件発生以来 警察側は死者3人(内民間1人) 重軽傷27人(うち報道関係1人) の犠牲が出た。この間 NHKテレビは 終始実況を中継 視聴率は90%を超えたという。現場に詰め掛けた報道陣は延べ1000にのぼったというから、警察が投じた人員は それを遥かに上回ったはずである。

 そして この事件の前後に捕らえた 連合赤軍メンバーの自供から、アジト内に於ける恐るべき 「総括大量リンチ殺人」 が発覚した。榛名山に集結していたメンバー29人のうち 12人が、些細なことで次々と仲間から批判を浴び なぶり殺しに合っていたのである。3月19日 まだ凍てついた土の中から掘り出された遺体を見た捜査員たちは、その凄惨な暴力や衰弱の跡に思わず目をそむけた。骨は砕かれ 性別も定かならぬ死体の胃の中は空っぽだった。首謀者は 京浜安保共闘のリーダー格 永田洋子、赤軍派の森 恒夫。殺されたものを含めて 全員が加害者であり被害者で、その所業に 人間の魔性を見たと 関係者はつぶやいたものだが、報告を受けた警察庁長官 後藤田正晴も 「…そんな馬鹿な…」 と 絶句したという。

 「あさま山荘事件」 の衝撃まだ醒めやらぬ47年5月30日、海外に出た赤軍派が 世界を驚愕させた。イスラエル・テルアビブのロッド空港旅客ターミナルで、奥平剛士、安田安之、岡本公三 の三人が 突然 自動小銃を乱射、手榴弾を投げて、居合わせた無辜の民間人100人以上を殺傷したのである(死者24人)。イスラエルでは パレスチナ人によるテロを警戒していたので、PFLPが 日本人なら空港イミグレーションを通過できるだろうと 奥平に襲撃を依頼したものといわれる。

 46年2月にレバノン入りしていた奥平は、パールベックの軍事訓練所で 自動小銃の射撃や 手榴弾投擲訓練を受けていたが、あさま山荘やリンチ事件で かつての朋輩が見せた無様を憤り、PFLPの要請に応じて安田・岡本を誘ったのだった。旅客ターミナルで自動小銃を撃ち尽くしたのち 奥平の安田は、最後に残った手榴弾の上に突っ伏して 血の海の中で自爆を遂げた。岡本は更にターミナル・ビル前に駐機していたイスラエル機を射撃したが、背後から警備員に羽交い絞めにされ 自死する機会を失なった。取調べに際し岡本は 「われわれは ジャパン・レッド・アーミーだ。われわれは オリオンの三つ星になろうと思った」 と答えた。彼は イスラエルの軍事法廷で “終身刑” となったが、のちアラブとイスラエル間の捕虜交換で釈放されてレバノンに戻り  一躍 “アラブの英雄” と目された。

 奥平剛士と偽装結婚をしてレバノンに渡っていた重信房子は、テルアビブで仲間3人を失なった後 47年秋に日本国内の新左翼系の新聞や雑誌に檄文を掲載した。題目は 「闘うあなたへ アラブよりの招請状」 とあった。

ハイジャック戦術に転じた 日本赤軍の末路

 昭和47年9月には、パレスチナ・ゲリラが ミュンヘン・オリンピックの選手村でイスラエル選手を殺傷したり、48年3月になると 同じパレスチナ・ゲリラが スーダンのサウディアラビア大使館を襲って アメリカ大使らを殺害するという事件が起こった。また 48年7月 アムステルダム空港発の日航機がアラブ・ゲリラにハイジャックされ 各地を転々としたのち、最後にリビアのベンガジ空港で機体が爆破されたが、犯行には日本赤軍の 丸岡 修が関与していたと伝えられた。更に11月には、オランダ航空東京行きがパレスチナ・ゲリラに乗っ取られ マルタ島で人質が解放されるということもあったが、直接日本に 影響の及ぶデキゴトではなかった。

 日本では49年 新しい “グレムリン” が誕生していた。ノンセクトラジカル 「東アジア反日武装戦線」 なる鬼っ子グループが、次々と大企業の本社を狙って爆破事件を起こし始めたのである。彼らは、かつて 日本帝国がアジアで行なってきた悪行の数々を学習して 独善的に過激な反日思想を醸成し、戦後アジアで企業活動を展開している企業を 帝国主義の走狗と決め付け “天誅” を加えなければならぬ としたのだ。あらかじめ 爆弾の作り方を勉強して 一連のテストを行なったのち、8月30日 財界の奥座敷とも言うべき 東京・千代田区丸の内の三菱重工本社玄関に 時限爆弾を仕掛けた。爆弾の威力は 彼らも驚いたほど強大で、周辺高層ビルの窓ガラスまで 爆風で砕け散り、被害者はビル内部のみか 街路の通行者も巻き添えにして、死者8人 重軽傷者376人が出る 大惨事となった。彼らは 爆発8分前に電話で予告をしてきたが、事件発生後1ヶ月目に 東アジア反日武装戦線の 「狼」グループと名乗り、犯行声明を発表している。

 「狼」グループは 佐々木規夫・大道寺将司ら4人、この他に 「大地の牙」 斎藤和・浴田由美子、「さそり」 黒川芳正・宇賀神寿一ら がいた。彼らは連携を取りながら 10月14日 三井物産、11月25日 帝人中央研究所、12月10日 大成建設、鹿島建設、翌50年2月 間組などを相次ぎ爆破し、東京都民を震え上がらせた。警視庁公安部は懸命の捜査で、50年5月 都内に潜んでいた一味を逮捕したが、その後も北海道庁・道警本部などの爆破や、「やみのつちぐも」 「大地の豚」 など ふざけた名前を名乗るグループが、京都・平安神宮や梨木神社を爆破または放火するが、模倣あるいは愉快犯の類と見られる。それはともかく 東アジア反日武装戦線と称する、本来 赤軍派とは関わりの無いノンセクトラジカルから、佐々木規夫・大道寺将司ら過激分子が 警察に捕まったという事実を 記憶の端に留めておきたい。

 さて 話を日本赤軍に戻す。重信房子の “招請状” が効果を挙げたのか、アラブ赤軍(日本赤軍) はコマンドを順次増やしていた模様で シンガポールやクェートで動きを示し、49年9月 和光春生、奥平純三、西川 純 らがオランダ・ハーグのフランス大使館に短銃を持って乱入・占拠、大使ら11人の人質と交換に パリで逮捕されていた山田義明の引渡しと オランダ政府に30万ドルを要求した上、パリより飛来したフランス機でシリアに飛行し そこで投降するというデキゴトがあった。いわゆる 「ハーグ事件」 である。この事件で 彼らは初めて自らを 「日本赤軍」 と名乗っている。

 そのあとマレーシアで、 日本赤軍は 「クアラルンプール事件」 を起こす。昭和50年8月4日 クアラルンプールAIAビルの9階にあった アメリカ大使館とスエーデン大使館を日本赤軍が占拠、アメリカ領事・スエーデン臨時大使ら 52人を人質に取り、日本政府に “逮捕拘留中” の坂東国男・坂口 弘(2人は連合赤軍)、 松田 久・松浦順一(赤軍派M作戦)、戸平和男・西川 純(日本赤軍)、それに 佐々木規男(東アジア反日武装戦線) ら7人の釈放と日航機の差遣を要求してきた。この中で 佐々木が過去赤軍派とは関わりを持たなかったが 「企業爆破」 で当局に捕まったのちも 彼だけが “完全黙秘” を貫いていたことを評価したものと思われ、日本赤軍が人選に意を用いていたことが窺えた。

 当然ながら 検察は当初、日本赤軍の要求を強く拒んでいたが、終に 人命に関わることだけに 最終判断を政府に委ねた。8月5日午前零時20分 井出官房長官は 「超法規的措置」 として要求に応じ、釈放出獄を拒否した2人を除き 坂東ら5人を乗せた日航機を午前6時に出発させると表明した。政府の対応が早かったのは 犯人が 「ステビンズ米領事を処刑する」 と脅していたこと、折しも 三木首相が訪米中であったことにもよる。当時 三木内閣としては椿事だったかも知れないが、クアラルンプールで発生したデキゴトは 前年のハーグ事件と同様の手口である。人命が懸かっていたとはいえ 対応はいささか無策ではなかったか。日本政府の軟弱な姿勢は 国際的批判を浴びた。警察当局は 「日本赤軍は思想犯に非ず 刑事犯である」 として、国際刑事警察機構(ICPO)を介して 重信房子・奥平純三・和光春生・丸岡 修・吉村和江の5人を、加盟120カ国に “国際指名手配” した。

 51年9月 奥平剛士の実弟純三と日高俊彦が、リビアから偽造旅券でヨルダンに入国しようとして逮捕、奥平は10月 日本に強制送還されたので羽田空港で再逮捕。

 52年夏 日本赤軍は、新左翼系 “人民新聞” に 同志奪還のためのハイジャックを予告した。…そして……

 同年9月28日 パリ発羽田行の日航472便DC‐8型機が 給油地のインド・ボンベイを離陸直後、日本赤軍のメンバー5人に乗っ取られた。メンバーの中には クアラルンプール事件で不法出国した佐々木・坂東らも加わっており、乗客乗員151人を人質に 日航機をバングラディシュ・ダッカ空港に着陸させたのち、日本政府に 国内拘禁中の赤軍派ら9人の釈放と 身代金600万ドル(約16億2000万円) を要求してきた(人質の中には 米大統領とも親しい、銀行頭取も乗り合わせていた)。政府は直ちに 「対策本部」 を設置したが、結果としては 要求どおり現金を支払い かつ超法規的措置という、全面降伏とも言うべき屈辱的決断しかなく、 キャッチフレーズ好きの福田首相は 「人の命は 地球より重い…」 と 宣わった。

 釈放要求のあった9人のうち 3人は自ら出国を拒んだが、奥平純三・城崎 勉(赤軍派)、大道寺あや子・浴田由美子(東アジア反日武装戦線)、仁平 映・泉水 博(一般刑事犯、任侠の徒)、ら6人と 身代金を受け取った犯人たちは、ダッカ空港を離陸 クェート~ダマスカスなどで少しづつ人質を解放しながら10月4日 アルジェリアのダル・エル・ベーダ空港で 残る全員を解放したのだが、最後までハイジャック劇に付き合わされた乗員乗客は、実に 134時間の拘束を受けていたのである。わずかに 救いとなったことは 犯人たちが意外に優しく、機を降りる乗客・乗員一人一人に 謝罪をしながら握手を求めたという。

 当然のこととはいえ、今回もまた 日本政府が取った措置に、国際世論は非難を加えた。同じ時期(10月13日)に、ドイツ赤軍なるものがルフトハンザ機をハイジャックして 西ドイツ要人シュライヤー氏らを人質とする事件が起こったが、西ドイツ政府は、断固として犯人の要求を撥ねつけて 狙撃隊を空港に潜入させ、人質を全員救出  犯人たちを全て射殺したが その中にシュライヤー氏が遺体となって見つかったという悲劇が伝えられた。

 ダッカ事件の後 杳として日本赤軍は鳴りを潜めていたが、昭和61年 インドネシアで 日・米・加大使館に迫撃砲が撃ち込まれた事件で 現場に城崎 勉の指紋が残っていたり、62年 ベネチア・サミット開催中 ローマの英・米大使館がロケット砲攻撃を受け、ローマ地検が奥平純三・城崎 勉を国際手配。63年の若王子三井物産マニラ支店長を誘拐したフィリピン共産党 「新人民軍(NPA)」 にも 日本赤軍の影がさす。61年には 山田義明が警視庁に出頭 「体力的にコマンドとしてやっていけなくなった」 と述べたと言う。平成7年 浴田由美子がルーマニアで発見され逮捕。平成9年 吉村和江がペルーで、城崎 勉が ネパールで逮捕されているが、それらの事実は 彼らが世界の至るところへ流浪して行ったか あるいは 何らかの暗躍を試みていたことを示している。平成12年11月8日には、何と 大阪・高槻市で重信房子が逮捕された。そのニュースについて “クタビレ爺ィ” さんの “廿世紀裏話” には こんなふうに書いてある。

 「各テレビ局は 重信が 新幹線で東京の警視庁に移されるまで、延々と 彼女が連行される姿を追っていた。(中略) 途中で女性のレポーターなど 『重信サーン』 と金切り声を上げていた。その女性レポーターは 重信 がどんな非道なことをし、多くの人命を奪った容疑者であるのか を知らないのではないか? まるで 政治犯もタレントも区別できないようであった。それに 重信容疑者が連行中に終始見せていたポーズは、55歳という 年齢並みに衰えた容姿とともに、何か時代に取り残されたことを 必死に振り払おうとしているようで 哀れでもあった…」

 赤軍派の連中は、すでに 還暦の年代に 差し掛かっていたのである。彼らがやってきたことの理非は ひとまず措くとして、彼らにも 青雲の志を抱いた時期があったであろうに…。ふとしたことで われ知らず道を逸れ、それから40有余年が経っているのだ。凄まじかった来し方を顧みれば、肉体的にも精神的にも 消耗しきり 疲労困憊していた筈だ。その間 果たして人生における達成感、生き甲斐を覚えたことがあったか。なにより 一夜でも、平安な眠りに就いたことがあっただろうか。岡本公三は オリオンの星になる といったが、そも 彼らは如何なる運命(ホシ)を負って生まれてきたのか。そぞろ 惟いを致せば、暗澹たるものがある。それは 決して 彼らだけの問題ではなく、何かのはずみで道を踏み外す惧れは、誰にしもあったことなのだと思う。危険と察することもなく 猪突してしまう場合があるのだ。想い起こせば私にも、深淵を覗き込んだ時期の記憶が蘇り 慄然としている。

 痛ましいのは親御の立場だ。 成人してしまったわが子を律することは出来ない。…にも拘わらず 親としての責めからは 逃れられないのである。浅間で 血を吐くように掻き口説いた母親に還されたのは、威嚇の射撃音だった。「あさま山荘」 の陥落までを見続けたある父親は、ツンとテレビのスイッチを切って そのまま裏の小屋で首を吊った。兄弟揃って中東の果てまで流れて行った 奥平や岡本の両親の心中を思うと言葉も無い。重信房子の父親は もと血盟団の一員だったとか、戦後パンの行商をする父親と 極貧の生活を体験したというが、彼女の場合 “血” の為せる業だったか と思えぬでもないが、今回さまざまな資料を漁った限りでは、学生運動で左翼に奔った者の家庭環境は 概して健全 親の学歴も高く、その息子たちはみな 優秀な頭脳の持ち主だった。

 人間が抱く概念の中で “正義” という概念ほど、曖昧で 時として恐ろしいものは無い。彼らが 若く(稚く) 聡明であっただけに、大学という環境の中でひとつの思想と接し 社会の革命こそ “正義” と信じたとき、自らの “正義”に相対する者を “絶対悪” とする憎しみが  闘争心を掻きたて、彼らをして 止めどなく破滅に突き進ませたのであろう。だが 学生運動は、社会から見るならば 結局 小規模な蠢動に過ぎなかった。センセーショナルな事件を起こし 多くの人々を殺戮したが、なんら人類に益するところのない 無意味・徒労のテロ行為でしかなかったのだ。平成19年3月 東京地裁は、「ハーグ事件」 「ダッカ事件」 に関与した西川 純に対し 「独善的、反社会的な犯行で テロリズムによる法秩序への攻撃は 断じて許されない」 として求刑通り 無期懲役を言い渡した。

 私は、学生運動について まったく無知識のまま、長年 人事業務に携わってきたかと想うと、いま 忸怩たる思いを禁じ得ない。

                                    完

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学生運動の行きついたさき 1

血のメーデーから  共産党・穏健路線への転向まで

 皇居前広場に25万人もの群衆が押しかけ、天皇を誹謗するプラカードが出たという 昭和21年の 「飯米獲得人民大会」 のことは記憶にないが、敗戦から数年 片道30kmの中学校までの行き帰り 飢(かつ)えた毎日は、未だに忘れない。昭和44年の 【この年】 に、東大・安田講堂の攻防戦について 「親のスネを齧っている学生どもが ゲバ棒を振り回して “戦争ゴッコ” なんかしやぁがって…、楯を持って防いでいる警官のほうが よっぽどプロレタリアートではないか」 と書いたものだが、その思いは 実は 昭和27年 「血のメーデー」 乱闘シーンを、たぶん ニュース映画か ナニかを観て 警官隊に抱いた同情の念を、引き摺ってきたものだった。

 講和条約が成立した当時の大学生は 戦前の生まれ、中には 苦学したり、復員後 大学に戻ったものもいたが、一般的には少数で 多くは恵まれた階層の子弟であった。学生運動は自治会が主体で、活動家はマルクス主義にかぶれ 共産党の影響を受けて、学校側の干渉に抵抗しながら 朝鮮戦争反対、反米・反レッドパージ闘争を行ない 「全日本学生自治会連合会」 略して 「全学連」 を結成していた。

 共産党は GHQの政治犯釈放命令で、長い拘禁生活に堪えて出獄してきた徳田球一らが、合法政党として活動し 国会に議席を有していたが、コミンフォルムに平和路線を批判され、以後 武力闘争を専らとする “所感派(主流)” と 反武闘を主張する “国際派(反主流)” とに分かれ、徳田ら主流派は レッドパージで地下に潜っても強硬な武装闘争路線を推進した。

 昭和30年になると 日本の政治地殻は大きく変動する。社会党の左派と右派が再統一して 革新陣営を形成したのに対し、自由党と日本民主党が保守合同して 自由民主党を結成した。いわゆる 「55年体制」 が構築されたのである。28年3月 ソ連首相スターリンが死亡し、10月には徳田球一が北京で客死していたが、昭和30年元旦の共産党機関紙 “アカハタ” は 極左冒険主義を自己批判している。これを受けて 7月 共産党の 「6全協」 は、野坂参三・宮本顕治ら “国際派” が それまでの武装闘争を排して 平和・穏健路線に転じる。

 話を少し戻すが、終戦直後の日本は、凶作と 猛烈なハイパーインフレに曝されたところへ 復員兵士や家族を抱えた引揚げ者を受け入れ、疎開したまま居座らざるを得なかった人々で、都市・農村、地域社会や職場が膨れ上がり、いきおい 労働運動は、食糧要求や賃上げ 人員削減に対する抵抗など、生命維持や 生活に根ざす切実なものとして 盛り上がった。国鉄労働組合の先鋭化や 定員法によって 職場を追われる危機に立たされた官公庁労働者、理屈も判らぬままに “民主主義” を唱える民間労働組合が、共産党や社会党の後押しで デモやストライキを敢行、そこかしこで気勢を挙げた。

 同時代の学生運動は といえば、少数の活動家が 政党・党派にシンパシーを抱きつつも、一定の距離を置き、独自の反戦運動、学費値上げ反対、自治要求を展開していた。日常的には 自治サークルを拠点に討論や学習を行ない、時として 自前の立看板やアジビラを作成、構内や街頭に出て自らの主義主張をアピールする程度の地味なものであったが、過激な動きを見せることもあった。例えば共産党´51年綱領 (民族解放革命、火炎瓶闘争) に則って 「破壊活動防止法反対」 に動く者、「吹田事件」 「大須事件」 も起こった。そんな彼らにとって 昭和31年のフルシチョフによる “スターリン批判” や “ハンガリー動乱” は、衝撃的なデキゴトであったと思われる。共産党の影響を残す民青系の学生と マルクス主義を信奉しつつも 反共産党的立場を鮮明にし始めた 「共産主義者同盟(ブント)」が結成されるに至った。共産同(ブント)は こののち 「全学連」 の主流派としての位置を占めて、反代々木(共産党)姿勢を確かなものにしていくが、その代々木(共産党)が武装闘争を棄てて 穏健路線に舵をきったことは、謂わば 学生たちの梯子を外した形となり、かえってそれが 全学連の尖鋭化を招く結果となった。


岸 伸介 内閣の登場から  日米安保条約改定まで

 日米安保条約改定の前段階に、日教組による 「勤務評定反対闘争」 と 「警察官職務執行法改正阻止闘争」 があった。総評の御三家といわれた日教組が、折から進められていた教職員の勤務評定実施に 激烈な 全国的反対闘争を展開していたこと、将来 安保条約改定途次に 巻き起こるであろう反対運動を見越して、昭和32年に誕生した岸内閣が 警察組織の権力強化を意図して提出してきた 「警職法」 が、総スカンを食ったのである。何しろ その内容は、令状なしに 不審者の身体検査や 予防検束・強制連行を行なう権利を 警察官に付与し、必要あれば 土地建物など施設に 立ち入り検査をも認めようとするものだっただけに、つい先ごろまで 特高警察に痛い目に会わされていた者が、戦前の 「治安維持法」 を連想したのも無理はない。さすがに 警職法は流れたが 岸内閣の出現は、社会に 警戒じみた緊張をもたらした。

 岸 伸介が目論んだ 「日米安全保障条約の改訂」 なるものは、反体制側から見て 命をかけて阻止しようとしなければならないほど、危険なものだったのだろうかと思う。もともと この条約は、昭和26年(1951) サンフランシスコで対日平和条約が締結された際 独力で国を守る能力を持たない日本が、講和条約とは別に アメリカと取り交わした軍事条約…と言えば聞こえはよいが、有り体に言えば、万一にも日本が 外国の侵略を受けることの無いよう、アメリカが保有する核の傘の下で 庇護して貰おうとするものであった。 実際 あの時期 選択肢は それしかなかった筈だ。当時 彼我の力関係からすれば、不平等な部分があったとしても可笑しくは無い。だからこそ 吉田 茂 は、平和条約調印ののち 余人を排して独り プレデシオの米軍基地に赴き、初回条約締結に 臨んだのであった。吉田が調印した “旧安保条約” には、(1) 米国の日本防衛義務が 明記されていなかったばかりか むしろ (2) 日本国内の内乱に際して 米国が介入できる とする部分が含まれていたため、当の吉田自身が 機会あればそれら改訂を 強く希望していたと言う。

 岸は かかる旧条約の瑕疵を 単なる彌縫にとどめず、抜本的な改訂を志向して  ① 米国をして 日本防衛の義務を負わしめ ② 内乱条項 同意条項を削除し ③ 在日米軍の地位や利用区域、目的の明確化と事前協議 ④ 政治・経済上の協力 ⑤ 国連憲章との関係明確化など、真っ当な事項を謳い込んでいる。 常識的に見て 日本の主権を保持しつつ、日米相互の協力関係を維持しようとしたものと言えよう。対する社会党、総評、原水禁は、「安保条約改定阻止国民会議」 を結成しているが、反対の根拠は如何なるものだったのだろうか。彼らの主張は、この条約について アメリカのアジア戦略体制に、日本が巻き込まれる危険性を あげつらおうとしたに過ぎない。ならば 改訂阻止ではなく、破棄・廃止を主張するべきであった。にも拘わらず、35年1月に社会党は 「新安保条約には反対するが、(欠陥だらけの)旧安保条約の 即時廃止にも 反対する」 と述べているのだ。畢竟 彼らは、岸内閣の持つ反動的体質に懸念を抱き、ただ 反対のための反対を唱えて、大衆を煽り立てただけではなかったか。デモに駆り出された人たちは、果たして 新・旧 日米安全保障条約の内容と その意味するところを熟知熟考して、反対運動に身を挺したのだろうか。日本人は予てから、物事を冷静に熟慮するより アジられれば、たちまち 一気に付和雷同する性癖があるのだ。

 それにしても、´60年(昭和35年) 安保改訂阻止行動の盛り上がりは、凄まじいものがあった。昭和34年4月15日 日比谷公園で 「安保条約改定阻止国民会議」 の 第1次中央総決起集会が開かれて以来、35年6月15日 全国で実力行使参加者が580万人を数え、国会を取り囲むデモ隊が 構内突入を図って警官隊と激突 午後7時 国会で 東大生樺美智子が 揉み合う渦の中で圧死する事故が起こり、その夜半 つまり6月16日午前零時に、既に強行採決されていた新安保条約が自然成立するまで、十数次 数十回に亘る実力行使行動が、毎回10数万人のデモ隊を動員し、その都度 警察・右翼・右翼に唆された暴力団まで加わって、怒号と阿鼻叫喚の世界を現出した。とりわけ 記録に残る騒乱は、岸首相ら全権団の渡米を 阻止しようとした全学連主流派(反代々木) 学生による 1月16日 羽田空港ビル座り込み、5月16日 国会請願デモ、5月20日 首相官邸突入行動、5月26日 空前の17万人国会周辺デモ、6月10日 米大統領秘書官ハガティを 学生デモが取り囲んで立ち往生させ ヘリで救出する事態になったことなどである。

 実力行使の主力は 学生であった。常に数千人の単位で動員され 警官隊と戦うだけではなく、右翼・暴力団にも 刃向わなければならなかったため、この頃から 竹竿・棍棒のみか 徐々に 角材や鉄パイプまで揃えた重武装をするようになっていた。この時期 共産党がどのような動きをしたかは知らないが、全学連は殆ど 反日共系よりさらに過激な集団と化し、内部では無数のセクトに分裂して 互いに覇を競っていたものの如くである。国会南門付近で非業の死を遂げ 学生運動のジャンヌ・ダルク視された樺美智子さんも ブント(共産主義者同盟) の一員であった。ノンポリ一般学生も参加し、労働組合員は無論のこと、「声なき声の会」 という プラカードを掲げた未組織市民までもが、モノに憑かれたように昂揚した´60年安保騒動も 条約が自然成立し、予定していたアイゼンハワー大統領の来日も 反故にせざるを得なくなって、岸首相は辞意を表明することになるが、一連の嵐が過ぎ去ってしまった後は、学生たちの心に 挫折の空洞を残した。

 岸内閣のあと 「所得倍増計画」 を引っ提げて、池田隼人が登場してくる。かつて 「貧乏人は 麦を食え」 とか 「中小企業の一人や二人…」 などと こわもての放言癖で話題をまいた人物だったが、荒廃した´60年の世相に向けて、君子は豹変していた。当時 安保闘争と並行して泥沼に陥っていた 三井三池炭鉱の紛争を 手際よく解決し、東京にオリンピックを招致するためのインフラ整備を推進するなど、“黄金の60年代” に向けて 反動 岸内閣とは 全く肌合いの異なる政治を行って、世上を安定させた。


安保闘争の挫折と 黄金の60年代の翳で…

 だが 一見 穏やかになった社会の陰の部分で、安保闘争の “総括” の名の下に 左翼学生諸派の間で 陰湿なせめぎ合いが進行し、“内ゲバ” が横行するようになっていた。その動きは既に 昭和30年代前半から起こっていたのだ。31年秋ごろ 砂川基地拡張測量の阻止に 住民と共闘して成功した全学連は、そのプロセスで 共産党 = 前衛党 = 革命党 といった幻想が崩壊し、反日共系の学生が出始めた。当初 33年5月ごろには 反日共トロッキスト集団 「社学同」 が主導権を握っていたが、12月になると 「共産主義者同盟(ブント)」 が有力になり、さらに別途 「革共同」 も形成される。これらは何れも 反代々木(日本共産党)系の左翼学生の集まりであった。しかし 34年になると 初め優勢であった革共同から 多くの学生がブントに流れ 「ブント全学連」 が執行部を独占した。委員長の唐牛健太郎は 警察に拘禁されていたが、安保闘争は このブント全学連が中心的役割を果たしたという。

 安保闘争敗北後 全学連大会での総括で、ブントは分裂・分解してしまった。街頭極左として活動の中心だった彼らの多くを、安保闘争の最中に組織されていた 「日本マルクス主義学生同盟(マル学同)」 が吸収して、全学連における主導権を継承しようとした。これに反発する諸派や ノンセクト・ラジカル学生らと、マル学同は 卍巴(まんじどもえ)に入り乱れて抗争を行ない 反帝国主義・反スターリン主義色を濃くするが、彼らもまた 路線対立を起こして分裂 「革マル派(マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派)」 と 「中核派(マルクス主義学生同盟・中核派)」 が誕生する。

 「新左翼系の諸党派は、そのほとんどが ´50年代後半に結成された 革命的共産主義者同盟(革共同) と 共産主義者同盟(ブント) に源流を発している」 と 立花 隆 氏は 著書 「中核革マル」 の中で述べているが、インターネットで 「共産主義者同盟分裂略図」 や 「学生活動家組織の変遷」 なる図表を取り出して、一所懸命 睨み付けても どこがどうなっているのか、皆目 理解できない。政治家が離合集散し、会社組織の中に 利に依って集まる 派閥が存在するように人間というものは ある程度数が纏まってくれば、分裂騒ぎを起こすものなのか 譬えれば まるで 宗教宗派の分裂図を見るようなものだ。他宗教も似たようなものだろうが、仏教の場合でも 聖徳太子の昔から土着し、戦後 公認されているだけでも 13宗56派ある由で、そのほか 雨後の筍のごとく乱立する新興宗教も併せれば 数え切れぬほど (平成8年度には157もあったとする説もある)、なかには 政権に擦り寄って 初志を忘れたような宗派もあれば、善男善女の喜捨を掻き集めて 国宝を落札する第三宗教も出現して驚かされた。

 話が横へ逸れかけたが、極左学生党派と 宗教に共通するのは、“感情” のみが思考を支配し “問答無用”、論理が通用する世界ではないことである。いったん嵌まり込んだら “たとえ火のなか 水のなか” 理非善悪を問わず 信ずるところへ突き進んでしまう。再び 立花氏の文章を引用すれば 「人が悪の意識なしに人を殺せるのは、信仰のなかに於いてだけである。我々の時代の物神化された革命概念は、革命への帰依者たちに いかなる宗教にも優るとも劣らぬ 強固な信仰を与えている…」 と述べているが、同根から芽生えた 「中核派」 と 「革マル派」 は、´70年代 “近親憎悪” を募らせて 凄惨な相克 “内ゲバ” を繰り返し、相互に殺し合いを展開する。最高学府に学び 将来有為の若者たちが、理性を失ない なぜ こんなにしてまで 相手を殲滅し尽くそうとしたのか、私は 立花氏の 「中核革マル」 を読みながら、幾度か 嘔吐をすら催した。安保闘争の総括に始まって 四分五裂どころか、山坂を転がり落ちた赤い岩石が、谷底で微塵に砕け散ったような 極左学生たちの軌跡を 辿ってみてもせん無いことだ。マスコミも いつしか、彼らの行動を記事にしなくなっていた。

 そのような裏面のデキゴトを知らない 一般社会は、安保闘争が沈静化したあと オリンピックに興奮し、万博の成功に酔い、いざなぎ景気を謳歌しつつ 経済好況の絶頂を極めていた。新聞やテレビが またしても学生運動を かまびすしく取沙汰するようになったのは、沖縄施政権の返還と 南ベトナムを含む 佐藤首相の渡米外遊阻止を叫ぶ全学連の、羽田空港闘争、医療制度の改正に反対する 東大医学部自治会の無期限スト、全国各地の大学で巻き起こった 大学紛争の、動向報道からであった。

 またその頃 関西で、のちの鬼っ子 “赤軍派” が 蠢きはじめていた。彼らは、団塊の世代から生まれた。
                            
                               つ づ く

 今回は参考にした資料などに、 リンクは貼りません

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角栄の日中国交回復 その他


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 2008年1月 文芸春秋 “新年特別号” に、『パール判事 知られざる出自 (生まれた村を訪ねてわかった 東京裁判 「全員無罪」 の理想)』 という記事が載っている。記事といっても 約1万7千字あまりの長い文章だ。 筆者は  高木 徹 という NHKディレクター。 2007年8月14日に放送され “ギャラクシー賞” に輝いたという NHKスペシャル 「パール判事は何を問いかけたのか ~ 東京裁判 知られざる攻防」 という、ドキュメンタリー番組の 制作・演出者である。

 作品はその後 数度も再放送され、前記 受賞に至っているところから、上質な出来と思うが、残念ながら 私は まだ観ていない。従って今回 私は、この作品 或いは パール判事の判決について、その 是非を論じるつもりはない。私が感銘を受け、いや 感動をすら覚えたのは、高木ディレクターの (私たちと 複数形で述べられているから、何人かのスタッフを伴ってのことだろうが…)、徹底した取材姿勢と それが許される、NHKという組織の度量、または組織体質 といったものに対してである。 

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近ごろ 経営委員会・委員長の不穏当な発言や、その委員長によって 会長の首が挿げ替えられたり、政府筋からの番組介入が報じられ、ケネンされるところ多いが…

 ラダ・ビノード・パールは、インド・東ベンガル地方 (現在バングラデシュ) の “一日に一回食べたら 二度目の食事は食べられないことが多かった” 貧しい環境に生まれ、自身 「私は みんなよりも下の人間です。私はブラフマン (いわゆるバラモン) ではない。下層階級のパール家出身です」 と いっている。インド・カースト制シュードラで、パールという姓は “陶工を生業” とすることを意味し、どんなに優秀な頭脳の持ち主でも 絶対に教育を受ける機会のない境遇だったのだが、地元の大地主に その利発さを認められ、終生の師と仰ぐこととなるイアン・アリ先生の寺子屋で 最初の学問を授かった。

 ヒンズー教徒として生まれた 彼の才能を見出したのが、イスラム教徒だったことは 後のパール判事の生きざまに、大きな影響を及ぼしたものの如くである。少年パールは、その後 より高い教育を受けるために村を出て 刻苦勉励。援助者に出会ったり  奨学金を受けるなどして 19歳のころ、遂に 全てのカーストに開かれた国立大学 “プレジデンシー・カレッジ” に入学する。彼は法学を目的とし、社会の底辺から 自分の頭脳と運だけを頼りに這い上がって、カルカッタ(コルカタ) 高裁判事、カルカッタ大学副学長(事実上の学長) にまで昇りつめた。

 将来 独立を予期したインドが、東京裁判への判事派遣を 強硬に主張したものの、人選に手間取り 曲折の挙句、パール判事にお鉢が回ってきた。インド政府は 彼が 無難に判事としての職責を遂行することを望んでいた節があり、この人選が 既決していた 「ニュールンベルク裁判」 の根拠までも揺るがしかねない、衝撃的な 「全員無罪の少数意見」 を 提起するとは、誰も予想していなかった。これを知った ネルー首相すら、対応に苦慮したとも言う。

 高木さんたちは、先駆的な研究者 鹿児島大学の日暮吉延教授の大著 「東京裁判の国際関係」 に インスパイアされ、インド・コルカタから 首都ニューデリーを取材して、インド国立公文書館の第一級資料(1次資料)を入手したあと、更に ヨーロッパに飛んでいる。それは 裁判のプロセスで、法理上 鋭くパール判事と対立し、影響を受け、彼らも亦 それぞれ 少数意見を書いた オランダのレーリンク判事、フランスのベルナール判事、或いは 覚書合戦をやった イギリスのパトリック判事らが持ち帰った、第一級資料を精査するためだった。これらは、各地の図書館や大学に寄贈されていたようだが、何れも 現存が初めて確認されたものだという。

 実際 取材のために費やされた 時間と労力・コストは、如何ほどのものになったのだろうか。取材班は 終には、ガンジス・デルタ  バングラデシュの辺境 ジャングルの中にある、パール判事の生地にまで赴いているのである。しかも パール少年の才能を最初に見出した大地主の 子息に当る、いまは百一歳にもなる村の古老、ムハンマド・バリーさんから 直接多くの証言を得ているのだ。

 NHKスペシャルは、(時には 前・後編に分けられることもあるか…) 一編 45分で ひとつの題材が展開される。その45分のために、 これだけの長期間取材と その整理・編集がなされていること自体 まさに ジャーナリズムの良心と言うべく、独立した報道組織体NHKなればこそ為し得る 知的創造、貴重なデータ集積である。これらは、歳月の経過とともに 厖大なデジタル・アーカイブスとして 次世代に引き継がれていくのだ。テレビ映像には 活字にはないリアリティと 迫力がある。NHKは 地球の隅々にまで最新のカメラ技術を持ち込み、さまざまの貴重な映像を記録 各国の放送局とネットワーク結んで、嘗ては想像も出来なかったような 視覚的報道や ドキュメントを世界中に提供している。殊にハイビジョンの先端的技術は白眉といえよう(例えば 月面からの “地球の出” 映像)。 これは、凄いことだと思う。

 高木 徹 氏の文章の最後に綴られた、東京裁判中 インドの留守宅で病床にあったパール夫人との時間を過ごすために、再度に亘って帰印し 法廷を欠席することが多かったパール判事を、最後まで信頼し続けた マッカーサー元帥との交流。裁判が終わり、帰国すると間もなく 夫人の死にについて報告し、併せて 在任中の厚遇に感謝の意を述べた パール判事自筆の手紙のエピソード。 バングラデシュの生地に、パール判事が 生前から無人の荒野に土地を手配し、“ヒンズーもイスラムも 仲良く平和に暮らせる 「ジャッジ・パーラ(判事の村)」 ” を開拓している という挿話が紹介されている。ここに転載したいくらいなのだが スペースの都合で 出来なかった。


 そのNHKが 過般BS2で、「証言でつづる現代史 世紀の外交・米中接近」 というドキュメンタリー 前・後編 を放映した。ちょうど 私がこのブログで登載中の 「Yの昭和史」 の時期と重なるので、DVDに録画し じっくりと