市場原理主義が もたらしたもの Ⅱ
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憲 法 第 25 条 と 生 活 保 護
平成21年(2009)8月30日に行われた "総選挙" において、国民の支持を失ってしまっていた自由民主党は 雪崩を打って惨敗、命脈を絶った。日本国憲法が実施されて以来62年間、自民党は 「改憲」 を党是に掲げるなど 限りなく憲法をないがしろにしてきた。目下 辞任した麻生太郎に代わる総裁選出を画策しているが、(一部中断した時期はあったにせよ) 昭和30年(1955)から 半世紀以上も続けてきた "憲法軽視" の独善的悪政を、徹底的に総括し自らその非を糺さなければ この党の再生はあり得ないだろう。
堅苦しいことを言うようだが、憲法第99条には 「天皇または摂政 及び 国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し 擁護する義務を負ふ」とある。つまり 憲法(Constitution)は、国家 (言葉を替えていえば “公” の立場に在るもの) が 拳拳服膺(けんけんふくよう)、忠実に守らなければならないものだ。99条でいう国務大臣の中に 総理大臣が含まれていることは言うまでもない。これに対し 第一章第一条に 「(天皇は日本国の象徴であり… この地位は) 主権の存する日本国民の総意に基づく」 と 高らかに “主権在民" が謳われ、併せて 平和主義 (第二章 戦争放棄) 人権尊重 (第三章 国民の権利及び義務) が 明確に示された。そして 基本的人権をはじめ 国民が享受すべき自由や権利、あるいは義務が 幅広く網羅的に列挙されている。しかし 国民はこれらの条項を直接的に守ったり遂行したりする必要はない。憲法を厳しく守らなければならないのは 前述の公人たちであって、国民は 憲法にのっとって制定された法律 (Law) に従って 具体的に権利が庇護され、決まりを守り 義務を果たすことにより 社会秩序を維持することになるわけだ。
自民党の考えは 現行の憲法が、GHQ マッカーサー元帥からの押し付けであるとし 殊に第二章 戦争放棄・戦力の不保持を目の敵(かたき)にして 「改憲」 を主張し続け,常々憲法の細部履行を怠る傾向があった。平成13年から政権を握った小泉純一郎に至っては、自衛隊を軍隊と認めたうえ 小細工を弄してイラク派遣を強行 (名古屋高裁は違憲と断じた)、また 意固地に靖国神社公式参拝を繰り返して 憲法第20条③項を蹂躙 (じゅうりん)、近隣諸国の顰蹙を買ったのは記憶に新しい。
一昨年(平成7年)のゴールデンウィークに放映されたNHKスペシャル 「日本国憲法 誕生」 は、同じ年に公開された “昭和21年帝国議会 憲法小委員会 (秘密会) 議事録” を手掛りとして、憲法が 必ずしも 押し付けられただけのものではなかったことを論証していた。これによると 敗戦の年 昭和20年に 日本を占領した連合国軍総司令官マッカーサーは、その後の日本国の "形” を示す新憲法の作成を幣原喜重郎首相に命じている。この動きを知った 鈴木安蔵、森戸辰男ら 7人の在野学者・ジャーナリストが 「憲法研究会」 を組織し、20年11月に どこよりも早く 「憲法草案要綱」 を発表、のちのGHQ草案に大きく影響を及ぼしたことにスポットを当てていた。
幣原内閣は、閣僚であった商法学者 松本烝治を中心とした 「憲法問題調査委員会」 を編成して草案を作成、21年2月8日にGHQに提出する運びに漕ぎ着けたのだが これが1週間前の2月1日に、毎日新聞にスクープされ 内容をすっぱ抜かれてしまった。マッカーサーは 日本政府案 (松本案) が 明治以来の "欽定(きんてい)憲法” を手直しした程度の 旧態依然 (きゅうたいいぜん) としたものであることを知って これを否認、急遽 GHQの民生局に憲法草案を起草させ 2月13日には 早くも日本政府に手渡している。このとき民生局が参考に用いたのが、前(さき)に森戸らが発表していた 「憲法研究会」 の草案要綱であったと言う。
昭和21年当時 民生局法規課長だったマイロ・ラウエル中佐は、次のように証言している (トルーマン・ライブラリーのテープ)。「憲法研究会の提案に感心した。国民主権が明確に謳われており、男女平等、言論の自由、基本的人権を保証し 平和主義の思想も盛り込まれていた」 特に 森戸辰男は 「天皇は君臨すれども統治せずとすべし。天皇は国民の委任により、専ら 国家的儀礼をつかさどる」 と していた。ラウエルは テープ証言で 「ここに含まれている条文は民主的で、容認するに足る」 と述べている。幣原首相の胸中は “天皇制の存続” に深い関心を抱き、そのためには GHQ草案を受け容れざるを得ないと決断し、一説によれば 事前にマッカーサーを訪ねて 自ら 「戦争放棄、戦力の不保持」 を申し出、天皇制維持の担保にしようとしたという。
GHQの憲法草案を受けて調整し、3月6日 国民に発表された 「日本政府案」は、前述 帝国議会でも修正作業が進められた(昭和22年3月31日の衆議院解散により 帝国議会は消滅)。このときの小委員会議事録が "秘密資料" として 国会図書館に 50年間封印保管され、ようやく解禁・公開されたのが平成7年だったのであり、この資料の中から 「生存権」 と言う考え方が 憲法に導入された経
緯が発見された。最初 この条項は、日本政府の調整草案には含まれていなかった。発議者は社会党議員で、のちに 片山 哲 内閣の文部大臣になった社会学者 森戸辰男 (広島大学学長・大原社会問題研究所理事長) であった。(左写真 A) 彼は戦前 言論弾圧を受けて東京大学を追われ、ドイツに渡ってワイマール憲法を研究、その中の一節 「経済生活の秩序は 各人に、人たるに値する生活を保障する目的を持つ 正義の原則に適合するものでなければならない」 と言う規程に深い感銘を受けていたが
、敗戦直後 戦争の被災者たちや、地方で損害を蒙った人々の悲惨な生活 (右写真 B) を見るにつけ、憲法小委員会委員として 「生存権の思想」 を憲法に盛り込むよう 粘り強く主張した。その結果 第25条に 「 ① すべて国民は、健康で文化的な 最低限度の生活を営む権利を有する。 ② 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障 及び 公衆衛生の向上 及び 増進に努めなければならない」 という条文を挿入することになったのである。
今年の憲法記念日 (平成9年5月3日) にNHKは2本の佳作を発表した。ひとつはNHK総合 (21:00~22:13) 大型シリーズJAPANデビュー 第2回 「天皇と憲法」 であり、もうひとつは (22:00~) ETV特集 「いま憲法25条 "生存権” を考える」 であった。特に後者は 前年のNHKスペシャルの画像も採り入れながら、昨年末から急増した大手製造業の “派遣切り” のために、真冬の路頭に放り出された失業者の群れが “職と食と住” を求めて放浪し (右写真 C) 大晦日の日比谷公園に集まってきたとき "派遣村" を運営、村長役を果たした 湯浅 誠 氏と、この10年小泉構造改革を批判し続けてきた経済評論家 内橋克人さんの対談は まことに時宜に適った好企画だったと思う。 ( 注) 写真 A・B・C は、ETV特集 「いま憲法25条 “生存権” を考える」 YouTube より
湯浅 誠さんの存在は 歳末の 「日比谷派遣村」 での活躍で知ったのだが、東京大学在学中から ホームレス支援などのボランティア活動にのめり込み、自らも困窮した生活を送りながら 「反貧困ネットワーク」 作りに奔走してきたという。著書 『反貧困―「すべり台社会」 からの脱出』 で 平和・協同ジャーナリスト基金賞大賞、大佛次郎論壇賞を受賞したりしているが、平成8年大晦日には 社会問題化した いわゆる "派遣切り” への緊急対策として、他のNPOと協働 東京日比谷公園に 「年越し派遣村」 を開設したうえ "村長" として運営を取り仕切り、収容しきれなくなった失業者を 正月4日まで 霞ヶ関の厚生労働省本庁講堂を開放させて話題となった。
(おにぎりが食べたい という餓死者を出した) 「北九州方式 (水際作戦)」 に代表されるように現在の日本では 生活保護担当の公務員が あれこれ口実にして、生活困窮者を追い返す事例が非常に多いというが、湯浅は これら当然保護されるべき人々が 水際で排除されることのないよう 支援活動を続けている。
憲法第25条が定める国民の生存権 (生活権保障) は、独立して存在するものではなく、11条 (基本的人権)、18条 (奴隷的拘束・苦役からの自由)、26条 (教育を受ける権利)、27条 (勤労の権利)、28条 (勤労者の団結権・団体交渉・行動権) 等を 全体として構造的に捉える必要がある。だから社会保障制度の中に 所得保障の機能を果たすものとして、① 公的扶助制度 (生活保護法・災害救助法 等)、② 社会保険制度 (公的年金・健康保険・失業給付金等諸手当・育児や介護の休業手当等)、③ 損害補償・所得保障などが定められているうという (私は あまりお世話になったことがないので、よく判らないが…)。
昭和32年に岡山県で起こった 「朝日訴訟」 は 療養所に入所していた重症の結核患者 朝日 茂 さんが、医療扶助と僅かな生活扶助では “健康で文化的な最低限度の生活を営む” ことが出来ず 生命すら維持できないとして、憲法と生活保護法に違反していると 国を訴えた事件である。この裁判は “人間裁判" と呼ばれ、生活保護基準が労働者の最低賃金額にまで影響することから 思想・信条を超えた広範な団体や国民に支えられた。昭和35年東京地裁は 国が朝日さんに月額日用品費を600円に抑えていたのは違法であると 原告全面勝訴の判決を示したが、第2審の東京高裁は 600円はすこぶる低いが 不足額は70円にすぎず、憲法25条違反とまではいえないとして原告の請求を棄却してしまった。これに対し 最終憲法判断を行うべき最高裁判所は、上告審途中で死亡した朝日さんの訴訟を終了したものとする判決を下したうえ(昭和42年)、肝腎の憲法判断を避け 「なお念のため…」 と称して 「憲法25条1項は、すべての国民が 健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように 国政を運営すべきことを国の責務として 宣言したに止まり、直接 個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」 「何が健康で文化的な最低限度の生活であるか の認定判断は、厚生大臣の合目的的な裁量に委されている」 とする、とんでもない意見を付したのである。(この考え方をプログラム規定という)
最高裁判事は かねて任命権を持つ政府 (行政) 側に忖度 (そんたく) する傾向があり、そのくせ 第79条2項に定められた 総選挙時に併行される 「国民審査」 において、彼らは実に狡猾な方式の投票様式を用いて 罷免をまぬがれ続けている(事実これまで 1人の罷免者も出ていない)。 泉下の森戸辰男は かかる状況をどのように見ているだろうか。
中曽根政権以降 自民党と官僚は、社会的責任を放擲し市場原理主議にかぶれた財界の意向を容れつつ 既成労働法を次々と改悪し、経団連の御用学者 (国際基督教大学 田代尚宏教授ら) が "働き方の自由化" とか “労働の多様化" だとか、一見 大義名分的なレトリックを用い 労働者を身分的に差別化して (正規社員 vs 非正規社員)、低コスト労働層なる社会的弱者・負け組みを輩出させた。同時にこれまで 曲がりなりにも整備してきた雇用保険・失業保険・年金などのセーフティ・ネットをズタズタにしていたことが、平成9年歳末 “派遣村騒動" で暴きだされ 時代が60年も遡ったかのごとき様相を呈した (前掲写真 B・C を参照)。
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第102回国会 大蔵委員会での参考人質疑
私は 「土光臨調の答申は新自由主義化へのロードマップ」 に次のような記事を書いた。
56年3月にスタートした第2臨調は、次年度予算編成に間に合わせるべく 大童 (おおわらわ) で審議を進め 「緊急に取り組むべき改革の方策 (生活保護を除く 補助金の一割削除、国民健康保険国庫負担分の地方へ移譲、年金の支給開始年齢・保険料の引き上げ、40人学級編成計画の凍結、公共事業費を前年同額以下に抑制、国家公務員の削減計画強化、公務員給与の抑制 等)」 を提出した。(以下略)
第2臨調は昭和58年の最終答申までに 五度 (鈴木内閣及び) 中曽根内閣に答申書を提出しているが、聖域なしとした行政改革部分で 一貫して生活保護については除外とされていることに 疑念を抱いた村山富市 (当時社会党) は "社会労働委員会" に土光第2臨調会長を参考人喚問したのだが、土光氏は出席せず 代わりに瀬島龍三を送り込んだ。手許に 昭和60年4月10日に衆議院の連合委員会で繰り広げられた 村山・瀬島両氏の質疑応答の 「議事録」 があるが、原文は些か冗長なので 要約してみた。
委員長 … 臨時行政改革推進審議会 土光会長のご出席をお願いしていましたが、
ご都合が悪く 会長のご指名により行革審瀬島龍三君の出席を願ってお
ります。
質疑の申し出がありますので これを許します。 村山富市君。
村 山 … 委員長にお尋ねいたしますが、臨調答申について 政府の解釈とわれわれ
の 解釈に違いがある。その点を明らかにしてもらうために 私は、第2臨調
の責任者 土光会長のご意見を伺いたいと思い 出席を要請したのです。瀬
島参考人ご本人を どうのこうの 言うわけではありませんよ。しかし 制度と
して第2臨調の代表として責任ある方の見解を聞きたいのです。
委員長のお考えを伺いたい。
委員長 … 土光会長に出席をお願いしましたが 瀬島委員に出てもらいたい と こうい
うことでありましたので、瀬島参考人にお願いした次第であります。
村 山 … 土光会長から 瀬島参考人にというお話があったようですけれども、これは
矢張り 私的な 個人的な話であって 制度としては 第2臨調の責任者 固有
名詞としては土光さんでなければならない。このことを確認したうえで質問
に入ります。瀬島参考人、きょうは ご足労を頂きすみません。まずお尋ね
したいと思います。第一次及び第三次答申で 生活保護費を除く、こういう
ふうに明確に書 かれていますけれども、これは どういう理由で除くことに
なったわけですか。
瀬 島 … 本日は土光会長が出席すべきですが、健康上の都合もございまして 私が
代って出て参りましたことを ご了承願いあげます。
只今の村山先生のご質問でございますが、臨調の第一次答申で 生活保
護を除き…ということにつきまして 当時まとめの役をやっておりました私か
ら、次のようにお答え申し上げたいと存じます。
基本的な態度として臨調は、社会保障、特にその中の 本当に生活に困っ
てお られる方々に対する保護 これは非常に大事なことである。しかしなが
ら臨調は 行政部門全体にまたがりまして、聖域を設けることなく 効率化、
合 理化を検討する、こういう姿勢で一貫してまいりました。第一次答申は
ご 承知lの通り臨調が56年3月に発足しまして、当時の鈴木首相から57
年度予算を 増税し ないで組むための方策を緊急に答申してほしい との
要請が ございまして、56年7月10日に第一次の答申をしたわけでござい
ます。
このときの補助金の整理合理化において 私どもは二つの考え方をとり
ました。一つは金額が非常に大きくて重要なものは 個別に検討して意見
を出す。小さい金額で 各省庁の判断で処理できるものは、各主管省庁で
総括的に合 理化するように考えました。そこで生活保護は前者 つまり個
別に検討すべきでした。何しろ一兆数千億円の額にのぼり、百数十万人
もの受給者が存在する 大事なことでございますので 正味 四、五十日の
間に事態把握が出来ませんでした。従って第一次答申には 生活保護関
係を除きと記述したわけでございます。
村 山 … 臨調の審議というのは全部非公開だし 秘密になっていますから、議事録
というのも なかなか手に入らないわけですね。いろいろな方の意見を総合
して調べた結果を 私なりに議事録らしいものを作ってみると こういうこと
になるのです。
これは第三次答申を出す際の あなた方の議論ですけれども 「生活保護費
を除いたことは…非常によい。厚生省の代弁をするわけではないが 生活
保護費を除かないと一割削減にならなくなる。また弱者を切り捨てないとい
う印象を与えるためもあった」 「ここは これで結構である。良いと思う」 こう
いうやり取りがあったのですね。ですから今 あなたもおっしゃったように、
生活保護を除くということは 第三次 答申に至るまで一貫して臨調の意見
統一がなされていますね。そのことにつ いては 変わりないのでしょう。
瀬 島 … 臨調におきましては、……本当に いろいろの議論がありました。当然でご
ざい ます。先ほど私が申し上げたのは、最後に答申をまとめる委員会で
の結論を申し上げたわけであります。
村 山 … これは今 私が述べたことと あまり違いはないわけですネ。生活保護費は
除く。 除外したということについて 意見一致は十分図られていたわけで
す。問題は 第五次の最終答申です。この中で 生活保護費にも言及してい
ます。
わざわざ一項設けて…ちょっと読み上げてみます。「不正受給者を排除
し、制度の適正な運用を確保するため 資産及び収入の的確な把握
、関係機関との連携の強化等、不正受給者防止対策を徹底する」
それから二つ目は 「長期入院者の社会復帰の促進、レセプト審査
の強化等による医療扶助の適正化を図る。また就労促進等の自立
助長(助成と言うべき) 対策を推進する」 三つ目として 「真に生活に
困窮するものに対して必要な保護を確保することを基本として、生
活扶助基準の設定方式、加算制度等 生活保護制度の在り方を見
直す」 こういうことを書いていますね。これは 明らかに運用と制度と
を区別して、運用については もっと厳しくや るべきではないかという
意味を わざわざ付しているわけですよ。
その点については間違いありませんネ。
瀬 島 … 第五次の答申の中で、生活保護補助金の問題に関する三つのご指摘は
その通りであります。ただ 補助金の整理合理化のところは国と地方の関
係で見る。次に別個の問題で生活保護を挙げて、最後に一般的なやり方
はこういうふうにすべきだと記述してございまして、すなわち生活保護につ
いては 補助金 全体の整理の原則から別個のものではないという記述でご
ざいます。そのように ご諒解願いたいと思います。
村 山 … いや 私がご質問申し上げたのは、この最終答申の中味には わざわざ
「生活保護費補助金」 という一行を設けて、先ほどいった三点が指摘され
ているのですね。これは明らかに 制度に対する見直しと 運用の改善を
図るということとは、区別しているのではないかということを尋ねているの
です。
瀬 島 … 制度と運用を 特別に分けたつもりはありません。これは相関関係です。
村 山 … あなた方の論議の中に 「制度としての保護生活費には切り込めない。運
用としてなら切り込む余地はある」 「運用として 相当節約しようと思えばで
きる」「これはまた 相当の投書が来るかもしれない」 といったやり取りがあ
ったようですネ。これは明らかに生活保護については制度そのものに
は切り込めない けれども、運用では可能だ。だから前述三点を指摘
して、徹底的にやるべきだ。
これは 事務局が 「はい、その通りです」 と答えていますよ。こういう事実か
らすれば明らかじゃないですか、第五次答申の趣旨というのは…。
どうですか。
瀬 島 … 生活保護におきましては、特に 真に生活に困っておる方々に対する制度
として堅持であります。ただ 長い間のいろいろな経過から、制度上のことで
ありまても 正さなければならぬこともございます。まして 運用上の問題は
直していくという考えに立ちました。
村 山 … そういうふうに 一委員としての釈明を 私は聞いているんじゃないのです。
私は冒頭に申し上げたように、瀬島参考人は 臨調の一員としての解釈を
言っている。決して臨調を代表する まとまった意見とは受け取れません。
議事録を公開してもらいたい。そうでなければ この点は解明できませんヨ。
私もそれなりに調査したんだから。委員長 どうする。
委員長 … 臨時行政開花推進審議会 事務局 山本次長……。
村 山 … そんな人の意見は聞いていないよ。 (…と叫ぶ)
山 本 … まず事務局から お答えいたします。先生ご案内の通り 臨調におきまして
は、審議会内部におきまする議事内容は、非公開ということになっており
ます。
村 山 … 臨調の議事内容は非公開 機密だという。かりにも ここは国会ですヨ。
私も相当調べ上げたうえでの質問です。もし私が言うことがウソで 参考人
の言うことが本当なら、矢張り これは議事録を公開してもらわなければ
いかぬですよ。これだけ この問題に疑義が残っていることを申し上げて、
質問を終わります。
――以下省略
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平 成 自 民 党 政 治 の 軌 跡 を 駈 け 足 で 瞥 見
“昭和史エピソード” では 私はタイトルどおり、昭和年代のデキゴトの中で 単発の事件ではなく ある程度の期間に亘って、日本の社会を揺るがした 潮流のようなものを重点的に採りあげ、平成の時代には 努めて踏み込まずに来た。平成は 歴史というにはまだなまなましく、むしろ “現在” そのもので 一つ間違えば どう転ぶか判らないからである。だが 今回 「市場原理主義が もたらしたもの」 について考察しようとしたら、どうしても 昭和57年に始まった中曽根時代から今日に至る ひ弱な世襲首班内閣、ひたすら スポンサー財界の意向を忖度 (そんたく) し 官僚に牛耳られて新自由主義に引きずられた、平成自民党の悪政に 筆を走らせざるを得ないと思った。
毀誉褒貶 (きよほうへん) があったにしても、岸・池田・佐藤 と続き 大平正芳までの戦後第一期の政権が行なった政治には それなりの節度をわきまえていたと思えぬでもないが、中曽根康弘が政権を握ってからのち 日本政府の対米姿勢は卑屈なものになった (佐藤栄作の折、沖縄返還交渉のプロセスで 既にその兆しは見られたが) 。ロン・ヤスの関係を殊更にいい募り フリードマンの学説に則った “レーガノミクス” に擦り寄ったあたり “風見鶏” の本領発揮とも言えた。日本が 高度経済成長から日本列島改造、再度のオイルショックを凌いで 行政機構が見る見る肥大化していった時期、彼は 鈴木善幸内閣の行政管理庁長官として 「(土光) 第2臨調」 を発足させた。悪賢いというか 深慮遠謀 (しんりょえんぼう) というべきか、善幸のあとを襲ってからのち 中曽根は この 「土光臨調」 を足がかりに 懸案の行政改革を推進し、国鉄、電信・電話、専売公社など 不採算大型組織民営化の道筋を作った。折から 梟雄 田中角栄が脳梗塞で政治的生命を絶ったこともあって、その後 首相在任5年間に 中曽根は存分に政治力を駆使し 政権を竹下登に 禅譲したものだ。
ほんの少数を残して 田中派の大部分を簒奪 (さんだつ) し “創世会” (昭和62年 “経世会” と改称) を立ち上げた 言語明瞭意味不明瞭の 竹下 登は、何を考えたのか 全国の市町村に 「ふるさと創生事業」名目で 一律に一億円を配分して世間を驚かせたが、いっぽうでは 大平・中曽根が積み残した 「消費税」 を強行採決 成立させた。昭和63年 リクルート事件に逢着して辞職はしたものの 大派閥 “経世会” をバックに政治的余力を維持し、後継に宇野宗佑、海部俊樹を相次ぎ起用した。宇野は三本指のスキャンダルがばれて 僅か69日で総辞職。已む無く選んだ三木派の海部は完全な 経世会の傀儡で、政権の後半で政治改革を目論んだが 誰にも相手にされず、結局 突如勃発した湾岸戦争には ムリムリ掃海艇を派遣したけれども、クェート政府からは感謝の言葉もなく 多国籍軍 (アメリカ) に戦費130億ドルを巻き上げられただけだった。
英語だけは達者で 経済にも強いと目されていた72歳の老骨 宮沢喜一が、遅れ馳せに内閣を組閣したが、所詮は信念なき評論家。クリントン大統領に 内政干渉も極ったと言うべき 「年次改革要望書」 の交換を押し付けられ、これを受け容れてしまったことは、 佐藤栄作の “赤字国債初発” 中曽根の “プラザ合意” に匹敵する戦犯的行為だった。このことで 以来 自民党政府の政策は アメリカの言うが侭になる。宮沢は 賢しげに論評を加えはするが 政権運営にはリーダーシップを欠いた。内閣不信任案を可決されて解散に突っ走り、同時併行で自民党を離れた 新生党・ 羽田 孜、さきがけ・武村正義、日本新党を結成した元熊本県知事 細川護煕らの前に惨敗を喫し、いわゆる 55年体制を終焉させ 「政権交代」 が起こった。日本新党ら にわか政党が連合した 細川内閣が成立したのである。見かけのよさで 細川の国民的人気は高かったが、母方の祖父オ坊ッチャマ宰相 近衛文麿の血を引いてか 若い頃から軽佻浮薄 (けいちょうふはく) なところが目立つ貴公子、政治家を志したとき 熊本藩15代目の実父 護貞に勘当されているから、必ずしも世襲議員とはいえない。乱立した与党諸会派の野合が 幼稚な鬩ぎ会いを繰り返しているところに、細川首相自身の献金スキャンダルが暴かれ 内閣は僅か8ヶ月で倒れた。唯一の治績といえば 自民党河野洋平総裁と話し合って 「小選挙区比例代表制」 を成立させたのみ。この政治改革が、のちに小泉劇場の猿芝居を惹き起し その4年のちには民主党政権への雪崩現象を招く因を作ったのである。
一連の自民党分裂と 名前も思い出せないほどの小党分立、離合集散は "壊体屋” 小沢一郎の暗躍が然らしめたもので、彼が 小渕恵三・梶山静六と対立して自民党をオン出たときに担いだ新生党 羽田 孜 を立てて "野次郎兵衛内閣” をデッチあげたが、結局少数与党でバランスを失し 64日間という短命政権に終わった。功績は何も無い。羽田内閣成立直後の新会派 「革新」 の発足で 社会党は雑居与党から外されてしまった。
ここに 政権を失って一年、離党者が続出したと言えども 比較第1党の地位だけは保っていた自民党と、平成5年の総選挙で議席数を70にまで減らしていた社会党の マサカの連立が実現することになる。
社会党委員長には 長らく同党の国会対策委員長を務めて、自民党梶山静六らと深いパイプを持っていた 村山富市が就いていた。既に細川内閣で閣僚を出しており 土井たか子が衆議院議長に就任していることもあって、社会党はかつての万年野党 ガチンコ反対党ではなくなっていた。羽田内閣を支えた院内会派 「革新」 の 社会党を排斥する姿勢に強く反撥した村山が 「革新」 ら 連合からの離脱を表明したのを機に、自民党河野総裁が 社会党委員長首班の 連立政権 樹立を打診、羽田内閣総辞職の後を襲って “自・社・さ 連立内閣" が誕生したのである。総理大臣になって いちばん面喰ったのは村山本人だっただろう。国会における施政方針演説で 「人にやさしい政治」 を掲げたが、従来の保守自民党的発想からは 出てこない言葉だった。その代わり 『自衛隊合憲』 『日米安保堅持』 とも発言し、それまでの社会党の信条をコペルニクス的に転換してしまった。回り合わせだろうが 村山は総理在任中、大きな デキゴトに立て続け見舞われた。平成7年1月 「阪神・淡路大震災」 が発生、同年3月には オウム真理教なる狂信集団が 「地下鉄サリン事件」 を惹起、6月 「全日空ハイジャック事件」 に遭遇した。それぞれ対応に多少の不手際があり 村山の “危機管理能力” が非難されたが、後藤田正晴ならばいざ知らず あの場合誰がやっていても同じこと 気の毒だったとしか言いようが無い。その意味では 「むらやま Who ?」 といわれながら、独特の風貌が幸いしてか 外交面でも多くの人々から愛された。そして 何よりも ´95年8月15日に発表した 「戦後50周年の終戦記念日に当たって」 とする談話で、日本が戦時中に行なったとされる “侵略" や ”植民地支配" についての公式謝罪 『村山談話』 は、宮沢内閣時代に河野洋平官房長官が行なった 「従軍慰安婦関係調査報告結果」 いわゆる 『河野談話』 とともに、近隣諸国に対する日本政府の “良心的発言" として 今もなお高く評価されている。発足時から戦後の政治的懸案事項に取り組まざるを得なかった村山富市は お飾りではなくひとまず任を果たし、平成8年1月5日 「もうこの辺で いいじゃろう」 と退陣を表明、11日 橋本龍太郎内閣がスタートした。
橋本龍太郎は 故橋本龍伍の息 昭和38年 26歳で衆議院に登場した二世議員である。初登院に母親が同伴してきて話題になったが、“自・社・さ 連立内閣” のころには 数字や法律にも強い 自民党切っての政策通・仕事師になっていた。選挙区は父親譲りの岡山4区だが 東京生まれの東京育ち、若い頃から 向うっ気が強かった。いつも ポマードをべったり塗りつけたリーゼントスタイルで、甘いマスクが女性に受けて 「龍サマ りゅうサマ…」 と 囃された。政治家をタレント並みに キャー キャー騒ぎ立てる風潮は、この頃から始まったか。スイスの直接民主制が 女性も参政権を得て国民投票に参加するようになってから、廃れていったことを連想する。坊ちゃん育ちのわがままは 政治家となってからも 「怒る・威張る・拗ねる」 傲慢な性格で 人望を欠いた。年上の後藤田正晴に対し 先輩面して最後まで 「クン」 付けで呼んだ話は有名である。首相になったとき 「ペルー大使館人質事件」 が起こり、軍を強行突入させようとするフジモリ大統領を抑えるのに苦労した。平成8年 第2次内閣では、「行政改革」 「財政構造改革」 「金融システム改革 (ビッグバン)」 「社会保障構造改革」 「教育改革」 と 六つの風呂敷を拡げた。ブレーンを有していたか、あるいは本人が勉強していたのかは知らないが、“六大改革" は 市場原理主義を基調としたものだ。折から景気低迷のあおりを受け 北海道拓殖銀行や山一證券が倒産、金融システムが揺らぎ 失業率が悪化するなか 既定の措置だとして消費税の引き上げ (3 % → 5 %) を強行したこともあって、平成10年7月の参議院選挙に惨敗 その責めを負って総辞職した。前(さき) の首相 宮沢喜一 や 羽田 孜 も二世議員だったが 橋本龍太郎もまた世襲、以後 小渕恵三はじめ 自民党の歴代首班は連綿として世襲議員が続き、年を追って政治が劣化していく。
“橋龍” が慶応出身なのに対して 小渕恵三は早稲田の出。父 光平は群馬県で製糸業などを興して一代で財を成し 衆議院議員を二期務めた。恵三はその次男 大学院生時代から意欲的に政治家を志していた模様だが 地盤の旧群馬3区は 名にし負う激戦区、福田赳夫、中曽根康弘、山口鶴夫 (社会党) の間に挟まって 小渕自身が “ビルの谷間のラーメン屋” と喩えながら、初出馬・初当選以来連続12回 議席を維持した。実兄 二代目光平 (地元 中之条町町長) が稀にみる有徳人だったというが 恵三もまた政界では “人柄の小渕” と称された。彼と同じ昭和38年に政界入りした 傲岸不遜 (ごうがんふそん) な橋本龍太郎が、終生 小渕とは誠実な交友関係を続けたとい言うから 人間の相性とは判らぬものである。橋本の後継者選び総裁選候補三人を 田中真紀子は “軍人・変人・凡人" と評した。軍人は梶山静六、変人は小泉純一郎、凡人は小渕恵三だ。人は好いものの風采の上がらぬ小渕の総理就任は 如何にも頼りなく、ニューヨーク・タイムズは 「冷めたピザ」 と呼び 国内紙でも 「一刻も早く退陣を…」 と書くほど政権基盤は不安定だったが、就任早々 破綻寸前に追い込まれていた長銀や日債銀を国有化、不良債権に喘ぎ自己資本比率が落ち込んでしまっていた民間金融機関に 莫大な公的資金 (総額 7兆5千億円もの税金) を投入するなどして、金融不安を ひとまず鎮静化した。そのあと彼は 天敵だった小沢一郎自由党 次いで 事ある毎に “おねだり癖” のある小判鮫公明党とも連立を組んで国会議席数の劣勢を回復、「周辺事態法」 「憲法調査会設置」 「国旗・国家法」 「通信傍受法」 などと右よりの政治を進め、更には 「労働者派遣法」 を改悪して 派遣の原則禁止・例外容認から 原則容認・例外禁止 と 換骨奪胎どころか立法の精神まで変えた。この悪法のために 非正規社員なる層が生まれる原因を作った。小渕内閣の時代から 政治のそこここに、中谷 巌 や 竹中平蔵の名前が聞かれるようになり、新自由主義的色彩が濃くなっていった。日銀のゼロ金利政策・所得税のフラット化や 法人税基本税率の引き下げ などであり、そのしわ寄せは 巨額な赤字国債の発行で賄われ 小渕は 「日本一の借金王」 と自嘲した。平成12年になって 自・自・公 連立を快しとせぬ小沢一郎が 比例代表定員削減を強硬に迫ったが、小渕 vs 小沢の直接交渉は決裂 自由党の連立離脱を通告された4月1日夜 小渕首相は脳梗塞に倒れた。
その直後に行なわれたのが、青木幹夫内閣官房長官、森 嘉朗幹事長、野中広務幹事長代理、亀井静香政調会長、村上正邦参議院会長 いわゆる “五人組” の密室会議 (4月3日午前零時ごろ) である。病院へひとりで見舞った青木が 「(小渕と言葉を交わせたか どうかも不明のまま…) 後事を託された」 とし、村上が幹事長の森に 「あんたが (総理を) やれば いいじゃないか」 と発言して 後継が決まったというミステリーだ。
疑惑の “密室談合" のあと ともかく自民党両院議員総会にかけて 森 嘉朗の内閣が出来上がったのだが 在任期間は385日、この間 失言を連発するばかりで 政治的治績は何一つ無かったといって過言ではない。マスコミは 「首相としての資質に欠ける」 とまで酷評した。そのお粗末ぶりを 失言も含めて幾つか列挙してみよう。
① 神官(かんぬし) である綿貫民輔議員らの集まりで 「日本は天皇を
中心にした神の国」 と発言、問題になった。(平成12年5月15日)
② 側近で官房長官に据えた中川秀直に、愛人問題や右翼幹部との交
際などスキャンダルが発覚、任命責任が問われた。(平成12年10月
27日)
③ 高校生の練習船 “えひめ丸”が ハワイで米潜水艦に衝突され 9人
が死亡した事故の報告をゴルフ場で受けたが、その侭第3報が入
るまで 1時間半もプレーを続 けた。(平成13年2月10日)
④ I T革命を謳い インターネット博覧会を催したが、当の本人は“イ
ット革命”と いい続けた。
⑤ 「子供をひとりも産まなかった女性が 自由を謳歌しておいて、老後
を税金で面倒を見ろというのはおかしい」 と発言したり、選挙の際
「無党派層は 家で寝ていてくれればよい」 と言って、顰蹙を買っ
た。
これらの事実が森首相の人気に影響し 内閣支持率は低迷、鳩山由紀夫から「消費税並みに (5.7%) なった」 と 揶揄された。 ―― いずれにしろ 図体は風船みたいに でかかったが、お粗末さは のちの麻生太郎といい勝負であった。
・
小 泉 純 一 郎 の 暴 政
「Yの昭和史」 昭和58年の 【その時】 欄に述べたように 私は 小泉純一郎という政治家が大ッ嫌いなのだ。面相 (めんそう) を見ただけで虫酸が走る。他人を見透かすような細い冷酷な眼つき、嘲笑っているかのごとき薄い唇 (くちびる) からは 尖った二枚の舌が覘いていそうに思える。その小泉は 厚生2回 郵政1回の閣僚歴と、自民党総裁選に2回立候補し 森 嘉朗が政権に就いたときは、清和政策研究会 (森派、旧福田派) の会長を引き受けるまでになっていた。といって 派閥の長たるに相応しいとも思えず、党内の批判をよそに “郵政民営化" を唱え続ける “変人・一匹狼” にすぎなかった。いっとき アンチ平成研究会 (橋本派・旧田中派) を旗印に 山崎 拓・加藤紘一らと組んで “ Y・K・K” と呼ばれていたが、山崎・加藤が 森内閣不信任案に同調する動きを察知するや、党内外に二人の造反を触れ回り 為に加藤は失脚してしまった。
森内閣は 党内からも離反者が出るほど権威を失墜し、自民党そのものが国民から愛想を尽かされて 平成13年4月25日 総辞職に追い込まれた。早速の総裁選に 小泉は三度 (みたび) 立った。対抗馬は橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香 で 最大派閥の橋本が有力視されたが、小泉は田中真紀子の支援を受けて ど派手な予備選を展開した。曰く 「① 自民党をぶっ壊すッ !」 「② 私の政策を批判する者は すべて抵抗勢力だッ」 「③ 終戦記念日には (A級戦犯を合祀した) 靖国神社に参拝する」 かつて 自民党のリーダーが口にしたことも無い (右寄り…) ラディカルな発言が、党議員はともかく 一般党員に共感され 愚昧な大衆の喝采を浴びて "小泉旋風” 現象を巻き起こして地滑り的な予備選大勝を博し、本選挙をも制して4月24日 念願の自民党総裁の地位を獲得した。短いフレーズを積み重ねながら ひとつのプロパガンダに纏め上げる舌鋒 (ぜっぽう) を聞きながら 私は彼の鼻下に “ちょび髭” を見る思いがしたものだ。
組閣に際しては 慣例になっていた派閥からの推薦を無視した “一本釣り” をとおし、一内閣一閣僚と称した。民間から経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に起用、若手で人気のある石原伸晃を行政改革担当 防衛庁長官に自衛隊出身の 中谷 元を抜擢、、外務大臣に田中真紀子を当てた。橋本派からは、片山虎之助総務大臣 村井 仁国家公安委員長の2人だけ、党三役には誰も受け容れず平成研究会を干しあげた。自民党の閉塞した状態に "変化" を渇望していた国民は、小泉内閣に空前の支持率を呈し 4月29日の読売新聞調べでは 87% (同日 朝日でも78%) を記録している。余勢を駆って自民党は 平成13年7月の参議院選挙にも勝利した。
小泉純一郎と竹中平蔵との接触が いつから始まったのかは詳らかにしない。たぶん 橋本内閣時代からだろうと思われるが、新自由主義を標榜する気鋭の経済学者と小泉が "市場原理主義” について相通じ、共鳴・肝胆相照らしたとは思えない。なぜならば 小泉にそれだけの素養があったとは、到底考えられないからである。小泉は 慶応で 加藤 寛に学んだとされているが、学生時代 半ば愚連隊的に遊びまわり 大学3回生には単位不足で上がれず、何らかの事件に巻き込まれそうになって 当時防衛庁長官だった父親純也が手を回して 彼をロンドン大学へ留学させてしまったという。ロンドン大学では聴講生に席を置いたものの 殆ど出席することなく、昭和44年 純也の死亡を機に帰国し 第32回総選挙で落選したあと、福田赳夫の書生になり 47年初当選しているのである。(← Wikipedia) 小泉にしてみれば政権に就いたとき 世界的潮流になっていた 「小さい政府」 を志向し、積年の政治的信念であった 「郵政民営化」 を実現するために、竹中の知識と力量を借りようとしたと思われる。いっぽう竹中にしても悪い話ではない。意欲満々 政権内部に入ることによって、自らが学んできた新自由主義経済学を現実のものとして駆使しようと考え 互いに "有無相通じ" たのではあるまいか。
プロンプター竹中の入れ知恵で 小泉は 「構想改革なくして 景気回復なし」 と唱え、聖域なく あらゆる分野で 「規制緩和」 を推進していった。道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫など、かつて 平成研究会 (旧 田中派) 系が作った特殊法人利権構造を (形式的に) 民営化して “ 官から民” への流れを演出するとともに、何が “三位一体” なのか判らぬ、 むしろ地方から中央への収奪的財政政策を強行した。森政権時代に設けられていた 「経済財政諮問会議」 を足場に予算編成基準を総理管轄下に置き、経済財政担当竹中平蔵に 財界有利の税制・経済政策を壟断 (ろうだん) せしめた。因みに 竹中が経済に采配を振るうようになってからの 日本の (1人当たり) GDP世界順位の推移は、´01年 = 5位、´02年 = 7位、´03年 = 10位、´04年 = 11位、´05年 = 14位、´06年(平成18年) = 18位 と低迷している。
一内閣一閣僚と言いながら、田中真紀子外相が 外務官僚をヒステリックに支配しようとして騒動を惹き起したので、これを更迭。成算があったのか なかったのか、引き続き北朝鮮を電撃訪問 「日朝平壤宣言」 に調印して 拉致家族2組を連れ帰ったところまではよかったが、後始末は放ったらかして “我関せず焉” 留守家族には会おうともしなかった。彼の二度目の訪朝からも既に5年、いわゆる 拉致問題は一歩も前進していない。
2001年9月11日午前 (現地時間) ニューヨークの世界貿易センタービルや ワシントン.DCの米国国防省本庁舎 (ペンタゴン) などが、アラブ イスラム原理主義ゲリラ “アルカイーダ” にハイジャックされた大型旅客機によって 自爆攻撃を受けるという 「同時多発テロ」 事件が発生した。日本時間では深夜のデキゴトであったが、私も登ったことがある100階超のツィンタワーが 垂直に崩落する “信じられない" 光景を目にした。ブッシュ大統領の 「テロとの戦い」 に応じ小泉は 米軍のアフガニスタン侵攻を支援する。「テロ対策特別措置法」 を成立させて海上自衛艦による “給油活動” を実施、´04年(平成16年) には イラクが核兵器を製造または保持していると言う、ブッシュのガセネタを真に受けて 陸上自衛隊をイラク南部サマーワに派遣した。これに先立ち 長年安全保障上の懸案になったいた 「有事関連3法」 を可決成立させている。
平成15年の総裁選で再選された小泉は、弱冠 安倍晋三を幹事長に起用する サプライズ人事をやってのけた。社会保険庁職員の覗き見から 政界に "年金未納騒ぎ” が持ち上がり、民主党の菅代表 小沢一郎らが 次々と役職を辞任、足元の政府内部からも 福田康夫官房長官が辞職しているのに、小泉は疑いを掛けられても 「人生いろいろ 会社もいろいろ…」 とふざけた言い訳で突っ張りとおした。無責任発言は、これだけではない。「各年 国債発行額を30兆円以下に抑える」 と公約しておきながら 達成できたのは2ヵ年だけ、党首討論会で追及されると 「(守れなかったことは) 大したことではない」 とうそぶき、イラクで起こった “日本人 人質事件" に際しても 「自己責任」 と言い放った。
キリが無いので、彼が在任中に行なった暴政を 労働・福祉に限って列挙してみよう。
① 労働基準法と労働者派遣法を改悪して、製造業にまで範囲を拡
げ 派遣社員の派遣期間を 3年から無期限に延長した。
② 更に 労働基準法で禁じられていた 企業の解雇権 濫用 を無効と
すると改悪した。
③ 介護保険では、特別養護老人ホームなど施設入所者の居住費・
食費を有 料とした。
④ 財政再建のためとして 診療報酬の再度に亘る引き下げ、サラリー
マンの窓口負担を2割から3割に増額、保険料を年収総額をベース
に引き上げ。
⑤ 後期高齢者医療制度を導入 健康保険から分離。
⑥ 生活保護費や児童扶養手当を削減。
⑦ 障害者自立支援法を作り、受益者には 今まで無料で済んでいた
介護・訓練費の1割を負担することにした。 …… 等 等 々 々
その上 何が“骨太” なのか意味不明の予算編成で、年々 福祉・社会保障の分野を逓減させていった。
最大の暴挙は 小泉が “改革の本丸” と位置づけていた 「郵政民営化と関連法案」 が、参議院で否決されるや 無法にも衆議院を解散してしまったことである。(憲法解釈上も 過っているとする学者は多い) 持論だった “郵政民営化” の可否を 直接国民に問うというのである。彼は 法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、彼らの選挙区に 「公認印」 を貼り付けた いわゆる “刺客” を落下傘的に送り込む、前代未聞の戦術を展開した。まさに 「そこまで やるか」 と言ったていのスネーキーな手法を執ったのである。社会の木鐸たるべきマスコミは 本来ならばかかる行為を指弾し、国民の意識を覚醒させる役割を担っている筈なのだが、あろうことか 逆に 「小泉劇場」 と煽って面白おかしく囃し立てたものである。とりわけ 民放の報道番組の罪は深い。結果 小選挙区制が持つ欠陥が もろに露呈して、多くの有象無象 日ごろ政治なんかには トンと無関心なB層を投票場に動員し、自民党296が当選 (うち世襲が4割) 公明党と合わせた与党議席数 327の圧倒的勝利を収め、直後の衆・参両院で 小泉は念願の 「郵政民営化」 を果たした。
彼の郵政改革は 巷間 アメリカの 「年次改革要望書」 に起因すると見られたが 然に非ず、昭和50年代から 強く主張し続けていたことだ。先般 “かんぽの宿不公正入札" が話題になったが 郵政民営化に関して、小泉にかかる疑惑は取沙汰されていない。もし裏に 利権などが絡んでいれば “一大疑獄" にも発展しかねないところだが、現在までは その気配は報じられていないのである。だが 第三者的に考えても、彼がとった執念的行動は異様であった。このことについて 長年 自民党の幹事長室長を勤めてこられた、奥島貞雄氏が 著書 「自民党抗争史 (権力に憑かれた亡者たち)」 の 第4章に次の如く書いておられる。
引用 = 「(前略) ところが ここに 怨念を胸のうちに秘めた男がいた。それが かつて福田赳夫の薫陶を受け、彼を師と仰ぐ小泉純一郎だったのである。小泉は 若手から中堅と呼ばれるようになってからでも、福田が 最高顧問会議などに出席するときは いつでも福田のそばに寄り添っていた。小泉にとっては 「福田派」 と言うより 「福田赳夫」 が全てなのだ。 独特の感覚で政権奪取に成功するや、小泉は世論をバックに 積年の恨み (角福の怨念) を晴らすべく行動に出た。ターゲットは 敵将・田中角栄が足場を築いた 「郵政」 だったのだ。「改革の本丸」 とは言っても、郵政事業は十分に採算が取れている。民営化したからといって 行財政改革の視点から見たメリットなど 殆ど無いのだ。にもかかわらず 民営化を力ずくで押し切ろうとした理由は、「田中憎し」 「経世会 憎し」 にあった―――。私はそう考える。「自民党をぶっ壊す」 のではなくて 「経世会をぶっ壊す」。それが小泉の真意だったのである。 考えてみれば 橋本派の分裂、そして郵政民営化によって、昭和47年(1972) の “角福戦争" 勃発以降、ひたすら煮え湯を飲まされ続けてきた福田系は この選挙で初めて “田中的なるもの" に勝利することが出来たのだ。 (引用終わり)
奥島氏の説が 正鵠を射たものであるか どうか は知らない。触れはしなかったが、小泉の靖国神社参拝の茶番劇も 彼の趣味、あるいは特異な性格の所産で、隣国が批判すればするほど 意固地になる。マスコミにとっては 面白いネタにすぎない。もし 郵政問題で 外資とつるむ動きがあったとすれば、竹中平蔵が 陰で職を涜して蠢動 (しゅんどう) した可能性はある。フリードマンの新自由主義とは、その程度の卑しい経済学なのである。
・
拡 が っ た 格 差 (生活保護世帯の増加 と 自殺者数の推移)
・
それにしても 一国のリーダーたる者の根性が、偏執狂的にねじ曲がっていては 国民を不幸に陥 (おとし い) れる。小泉・竹中のコンビは はじめは言葉を巧みに操った。“構造改革” “規制緩和" “聖域なく” などと言い立て (御用) 学者が煽りあげ ジャーナリズムが声高に囃したてると、無知識なB層が意味もわからず惑わされるのも無理は無い。「当然だ」 と納得し、「暫し我慢」 をすれば “バラ色の素晴らしい時代がやってくる” と思い込んだのである。市場原理主義 (ネオリベラリズム) とは そんなアマぃものではなかった。小泉・竹中が差配した 平成13年4月から 18年9月までの5年5ヶ月目、気が付いてみると 日本の社会は “弱肉強食” のすさまじい世界に変貌してしまっていたのである。経済アナリスト 森永卓郎氏の言を少しく借りると、
「名目GDPは 小泉構造改革時代に501兆円から 507兆円と、6兆円増加しているが伸び率は1.5%、年平均成長率は0.3%に過ぎない。雇用者報酬の数字はもっと悲惨だ。小泉内閣の5年半で雇用者報酬は271兆円から 266兆円へ5兆円の減。マイナス1.9%になっている。国民総生産 (GDP) が6兆円増えても、労働者の収入は 逆に5兆円減ったのである。しかもその間に 厚生年金や健康保険など 社会保険料の負担が4兆円増え、定率減税の廃止や配偶者特別控除の廃止などで、5兆円の増税が行なわれた。収入が5兆円減って 負担が9兆円増えれば、国民の家計が苦しくなったのは当然である。いっぽう 平成12年度と17年度の決算を比べてみると、大企業の経常利益は52%も増加しており 一人当たりの役員報酬は、85%もアップしている。更に 企業が支払った 株主に対する配当金は 158%と大幅に増加している。何のことはない 正規社員が非正規化され 労働力がモノのようにアウトソーシングされ 人件費が削減されたいっぽうで、経営者や富裕層の所得が大きく増えていたのだ。株式配当で大きな収益を得たのは、インサイダー取引の出来ない企業の創業者とそれに繋がる縁者のみ。
反面 中小零細製造業・小売店などは、銀行による阿漕(あこぎ) な貸し渋り貸し剥しで資金の道を断たれ バタバタと倒産、失業者が累増していた。一般国民が増税や社会保険の負担増で喘いでいる中、株式配当の減税、I T投資減税、連結納税制度の創設、欠損金の繰り延べ期間の延長 など 主としてお金持ちや大企業向け減税が3兆円も行なわれていたのだが、蒙昧な庶民は 新聞紙上に躍る税制や予算編成記事には 殆ど関心を払わなかった」
日本の低金利政策は 昭和60年の “プラザ合意" に端を発するものであり、低金利を維持することで 日本の円資金が赤字大国アメリカに流れ出る道を作り、為替レートは 止めどなく円高になった。先進国の中でも 貯蓄性向の高かった日本人の蓄えが 手にする筈だった利息収入は、400兆円以上 独占企業に移転収奪されてしまった。無金利時代の老後を案ずる退職者が ヘッジファンドに走って 結局 莫大な損失を被り、年寄りが性懲りもなく 日本特有の犯罪 「オレオレ詐欺」 に引っ掛かるのも、小泉内閣が残した弊風 (へいふう) である。自民党政権と地方自治体が抱える 1100兆円もの赤字国債・地方債の累積は、もはや 如何とも為し難いだろう。
左に 「日本の生活保護動向」 をグラフにしてみた。巻頭 憲法第25条 「生存権」 について 書き始めたときに作成したものである。昭和48年 オイルショックを機に高度成長に翳 (かげ)りが差しはじめ 社会保障が削られるようになる。第2臨調が設置され 行財政改革の動きが顕著になってくると、厚生省は 「生活保護の適正実施について」 という通達を出した。私が 当時社会党の議員だった村山富市と、臨調委員 瀬島龍三との 衆議院委員会における討論議事録を 要約掲載したのは、その辺の動きを知るためであった。臨調答申は ナショナル・ミニマムである生活保護法には 直接立ち入らぬものの、運用で対処・規制しようとした跡が ありありと判る。厚生省通達は 市町村 生活保護窓口での対応強化を求め、いわゆる “水際作戦" を徹底させるものであった。そして 生活保護受給者数は 前半ピークの昭和60年 147万人 (76万1000世帯) から、7~8年で およそ4割減の 88万人 (56万5640世帯) まで激減した。この間 21世紀初頭に訪れた短いバブル景気で 家計が些かは潤ったせいもある。だが 平成10年 小渕恵三内閣の頃、受給世帯 66万9050 (人数91万人) あたりから 再び生活保護は 騰勢を示し始めた。以後は うなぎ登り、平成21年2月時点では 受給者数 163万人(119万2745世帯) に達したと報じられた。これは 前年下半期から リーマンショック、GMほか 米自動車産業の倒壊がトリガーとなった 世界不況を切っ掛けに、キャノン・トヨタなど大企業が 理不尽な派遣社員切りを行なって
家なく職なき失業者が町に溢れ、見かねた湯浅 誠氏 や 日弁連が 積極的に生活保護申請支援に乗り出したことも 作用している。流浪する派遣社員たちは 保護申請の仕方や 制度そのものについて知らなかったのだ。これにたいして今年6月 厚生労働省は 「代理人による申請は なじまないとする見解を示し、支援団体を牽制した。」
左表は 昭和53年以降 平成9年までの 「年次別自殺者数」 を一覧にしたものである。背景に朱を入れた部分は、年間自殺者が3万人を超えた年であるが、奇しくも これもまた小渕内閣の平成10年以来 連続10年間も続いて今日に至っている。しかし これは氷山の一角だ。死んでいった人の陰には、おそらくその10倍の 未遂者がいるに違いない。自殺願望に駆られた人は、いったい どれほど居ることだろうか。昭和30~40年代に交通事故死亡者が 年間1万人を超える時代があって問題視された。その後 平成元年ごろから数年間、再び 1万人の大台が記録され 警察は飲酒運転摘発など自動車事故防止に躍起 (やっき) となり、平成19年には 5千700人ほどに落ち着いているが、毎年 自殺者が 3万人も出るというのは尋常ではない。洋の東西を問わず高齢者が高い自殺率を示すことは、福祉モデル国家と言われたスカンディナビアでも 一時期 憂慮されたと聞く。高齢者自殺原因の多くは、ガンなど いまだに不治とされる病を宣告されたり、“うつ” など 諦観的心境に支配されて自ら死を選ぶケースが見られるが、最近の日本は 些か事情が異なる。もともと自殺は、生活保護者数や失業率の増加と密接な相関関係を有するが、最近の様相は 倒産した中小企業の経営者や高年従業員 すなわち40~50歳代男性と ロストジェネレーション30歳前後の男性が、大きな山を作っているようだ。
「死にいたる病とは "絶望" である」 と言ったのは、キェルケゴールだったと思うが 日本の社会は いま 病い重篤である。
北九州市は 余程因果な市政を敷いているのか。先年は 「おにぎりが食べたい…」 と書置きを残して餓死した30代男性を出し、生活保護担当が 「われわれに瑕疵はない」 と 薄ら笑いしながらコメントしていたが、今回も亦 39歳の男性がやせ衰えて死亡していた (NHK)。働くに働けない事情があったのか、それは判らないが 「助けて…」 と声を上げなかったのが哀しい。北九州市だけではない、北海道の母子、大阪で電車に飛び込んで死んだ夫婦。新聞ダネにもならないような、しかし 深刻な事例は 日本列島のいたるところで発生しているのではないか。昨年末 北陸・東尋坊で地元NPOが 何人かの “派遣切れ” 失業者の投身自殺を食い止めたと聞いた。
国家の役割とは、国民の生命と財産を 安全に守ることが本義である。国勢をつかさどるのは政府、"経世済民” 世の中を治め 常に国民の苦難を救わなければならない。だが 戦前・戦後を通じて 実際に国の屋台骨を支えてきたのは官僚であった。取っ換え 引っ換え 崩れ 倒壊する内閣をよそに、天皇の股肱 (ここう) として育成された優秀な役人は、頼りにならぬ政府の動向とは関わりなく 実質的に自己完結組織を構築し、思うがままに振舞った。その極致が戦前では軍部であった。彼らは天皇の統帥権を盾に 帝国を破滅に追いやった。
「2050年の世界地図に "日本” は 存在するか 3」 で述べたように、廃墟となった敗戦直後の日本に 不死鳥のごとく生き残った官僚機構は、戦前からの悪しき遺伝子を温存しつつ この国を支配してきたと言える。事実 戦後第1期の首班たちは、幣原・吉田・岸・池田・佐藤・ と (ホンの一部 少数の党人を除いては) すべて東大卒 保守的官僚上がりであり、自民党に所属した。第2期 平成の総理大臣はどうか、(これまた一時期 一部を除いて) 特徴は 有名無名の私大出身 ほとんどが劣性遺伝の世襲議員ばかり、自ら働き 額に汗して 経世済民に励もうとはせぬどころか、官僚に仕事を丸投げして今日に及んだ。公僕であるべき筈の役人は 自らの優越性を嵩に、再び 戦前とは異なる完結的体制を張り巡らせた。縦割り、天下り、渡りのシステム化である。
平成21年8月30日にB層が 雪崩を打ってわれ先に 民主党へ票を投じ、政権交代が起こった。鳩山民主党内閣は 発足1ヶ月、誠実に政治を行なおうとしているふうだが まだ先行きは判然としない。国民の一人として 成功を祈るのみだが油断はならない。とんでもなく巨大になってしまった “破壊屋ダイナマイト” を、腹中に抱えているからである。
それはともかく、今回の大敗北を 真剣に反省すべき自民党の 体たらくはどうであろう?。総裁選が 反省・自己批判の場になるのかと思ったが、現出したのは 互いに 罵 (ののし) り合うだけだった。彼の党の、強欲・無節操・野放図な体質は、全く変わっていない。それは 最近報じられて 知るところとなった 「八ン場ダム」 造成の経緯にシンボリックに顕われている。自民党が自ら反省しないのなら代わって回顧してやろうと、意図して戯画的に表現したら 又候 (またぞろ) 長い文章になってしまった。
最後に、調べを進めるうちに “五十嵐仁の 「転成仁語」 ” と言う素晴らしいブログを見つけた。五十嵐さんは、かつて森戸辰男氏も関わられた 法政大学 大原社会問題研究所の現所長さんらしいが、「転成仁語」 は
五十嵐さんの私的ブログのようだ。去る 10月7日・8日と連載された 「労働の規制緩和 ―― 今こそチェックすべきとき 上・下」 は、雑誌 「職場と人権」 に掲載された 本年5月の講演記録と言うことだが、 さすがに労働問題研究の大家 のお話だけに 熟読玩味に値するものだ。ブログご発表の時期から考えて 既に命脈尽きようとしていた 自民党時代の労働政策について、この辺で ひと区切り して置こうと考えられたものと拝察した。リンクを貼らせて頂こうと思ったが メールアドレスを存じ上げず、已む無く ご講演のレジュメふうの目次を作成し、その中にURLを表示した。五十嵐さんには ご諒承を得ていないが、読者の皆様のご一読を お勧めする。
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お 詫 び
8月25日に 「市場原理主義が もたらしたもの Ⅰ」 を搭載してから、50日あまりも
ブランクを空けてしまいました。比較的低温だった今夏を 何とか凌げたと思った
トタン、体調を崩して 「政権の交替劇」 は病院のベッドから眺めました。
去年から一年ぶりの入院でたが、おかげさまで 今は元気になりました。
休載中も毎日 多くの方が私のブログを ご覧くださいまして感謝いたしますと
ともに、ご無沙汰をお詫び申し上げます。
奥 山 和













