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土光臨調の答申は 新自由主義化へのロードマップ

第2臨調の仕掛け人は 中曽根康弘

 私は 昭和56年の 【この年】 欄に、「土光臨調は 昭和58年3月に最終答申を取りまとめ、"国から地方へ、官から民へ…" わが国の進むべき道を示した。国鉄、電信・電話、専売公社の民営化は、その路線上で実現したものである。第2臨調の主たる目的は、肥大化した行政機構を見直すこと、悪化した財政を 増税することなく再建すること、活力ある福祉社会を作ることなどにあり、 欧米で進み始めていた新自由主義的発想に汚染されたものではなかった。レーガノミクス思潮に影響されるのは、次の中曽根政権になってからである。」 と さらり知ったかぶりに 書き流したものだが、そののち 《ホントに そうだったのか?》 と 疑念を抱き、以来 夜 眠れなくなった。

 結論から言えば、この記述は まったく私の思い込み、 間違ったコメントであった。 読者の皆さんに 謹んでお詫び申し上げ、土光第2臨調が どのようにして編成され、如何に論議・答申され、その後 日本の行政・社会に大きな影響を及ぼすことになったかについて、ここに 改めて述べてみる。

 土光臨調に 第2とナンバーが冠せられたのだから、当然 第1次の行政臨時調査会が存在した筈、調べてみたら 昭和36年 池田勇人内閣時代に組織されていた。この調査会のメンバーは、会長が佐藤喜一郎 (三井銀行会長)、会長代理 高橋雄豺 (読売新聞副社長)、委員には安西正夫 (昭和電工社長)、今井一男 (国家公務員共済連合会理事長)、太田 薫 (日本労働組合総評議会議長) らが任命され、当時 進展しつつあった高度経済成長に伴なう 「行政需要の質的変化と量的拡大に対して 行政側が、如何に弾力的に 対応していく能力を回復するか」 という点が課題だった。

 第1臨調は 長期にわたる調査と審議の後、昭和39年9月 (ちょうど 池田首相の病気退陣、佐藤栄作への政権禅譲の時期と重なったが…) 行政改革に関する提言を行なっている。主な内容は、内閣の総合調整機能の強化、各省庁間の割拠主義 (セクショナリズム) の解消、行政における民主化の徹底、運営面の合理化・能率化の推進などであった。この提言は 1省庁 1局の削減や、国家公務員総定員法の成立などをもたらし、公務員3万7000人削減の実を挙げてはいるが、調査のプロセスで 早くも、行政改革 イコール 行政機構の縮小、人員整理と受け止められ、官庁労働組合、官僚たちからの激しい抵抗に逢着 (ほうちゃく)、 全体としては 十分な成果を上げることは出来なかった。それよりもむしろ 経済の高度成長に引きずられるように 行政府は次第に膨張していき、昭和48年 オイルショックのダメージを受けて 政府の財政事情は急速に悪化していった。

 そのような背景の中で、鈴木善幸内閣は 「第2次臨時行政調査会」 を設置した。私は 昭和57年のコメントに 「善幸 唯一の業績と見做されている 第2臨調の創設は、果たして彼自身の発案だったのか、それとも…」 と 疑問符を投げたが、鈴木内閣に行政管理庁長官として入閣した 中曽根康弘が、同年9月12日に 基本的構想として 「行政サービス改革の推進、事務・事業の縮減・移譲 (法令の廃止・整理、許・認可等の整理、官業の民業への移行、特殊法人の経営実態の見直しと国庫納付) 審議会等の見直し、公務員倫理の高揚、地方自治体の定員抑制などと共に 「80年代以降の行政を展望した 新たな臨時行政調査会の設置」 を唱えているから、仕掛け人は 間違いなく中曽根であったと判る。鈴木善幸は 荒法師土光から 「行政改革の断行は、首相の決意ひとつに懸かっている!」 と 叱咤される役回りを 担ったに過ぎない。

 以下は 私の推測であるが、既にイギリスのサッチャーや ´81年 (昭和56年) アメリカの大統領に就任したロナルド・レーガンが 旧弊のケインズ経済学から離れ、勃興してきた 新自由主義思想を基調とする 財政経済政策に転換しようとする風向きを、敏感に察知した “風見鶏” 中曽根康弘が 日本財界の意向を汲んで、停滞していた日本の政治経済、なかんずく 危機に瀕していた国鉄や、非効率な三公社 (このときはまだ 郵政など五現業は 視野に入っていなかった) の経営形態に活力を取り戻すべく、いち早く手を打とうとしたものだろう。現に経団連などは、土光の前任 植村甲午郎会長のころから 「増税なき財政改革」 の必要性を主張していたのである。

 昭和56年3月16日に 土光臨調は発足したのだが、主要メンバーには 加藤 寛、瀬島龍三、屋山太郎 たちが名を連ねている。

 加藤 寛 は 慶応義塾大学教授、のちに政府税制調査会長を長く務めた 経済学の大家である。数多くの著作を発表、訳書の中には 共訳ながら 市場原理・新自由主義者 「F・A・ハイエク全集」 もあり また 「国鉄・電電・専売 再生の構図(昭和58年)」 「郵政は崩壊する――頭取のいない “国家銀行" のゆくえ(昭和59年)」 などのタイトルが見える。いってみれば 日本に新自由主義学説を導入した 先達だったのだ。教育者として 後に財界・銀行・政界・大学など 様々の分野で活躍する人材を輩出しているが、その中には 橋本龍太郎、小泉純一郎、竹中平蔵らも含まれている。

 屋山太郎は時事通信社出身のジャーナリスト。日本の 親米保守論壇を代表する右派評論家で、ミルトン・フリードマンの 新自由主義経済政策の信奉者と自称して憚らない。

 瀬島龍三は 伊藤忠商事の元会長・相談役、また 中曽根政権のブレーンとして 財界から第2臨調に参画したものだが、本来は軍人。陸軍大本営参謀として、マレー半島上陸作戦、ガダルカナル、ニューギニア撤収作戦、インパール作戦、航空機特別攻撃、満州方面 対ソ防衛作戦を立案主導しているが、太平洋戦争の緒戦を除き 作戦はことごとく失敗、無慮何百万の命を敢え無くした張本人であった。殊に (現代歴史学者 保坂正康氏によれば)対ソ停戦交渉に臨み "賠償として (抑留者の) 一部労力を提供することに同意す" という文言を残したという。にも拘らず彼は、終に その生涯のいかなる局面においても 言い訳こそすれ、自らの責任を認めようとしなかった稀有 (けう) の人物であった。

 会長の土光敏夫は 元石川島播磨重工 中興の祖、その頃の猛烈な働き振りから 「土光タービン」 とあだ名されるほどであったというが、昭和40年 経営難に陥っていた東京芝浦電気 (現 東芝) の再建を託されたときには、「社員諸君には これから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺は それ以上働く」 と怒号して辣腕を振るった。東芝を立て直した後は 昭和49年、財界総理 経団連会長として 第1次石油危機後の日本経済の安定化や、企業の政治献金の改善に尽力した。謹厳実直な人柄と 余人の追随を許さぬ抜群の行動力、質素と伝えられた清廉 (せいれん) な 私生活など、臨時行政調査会の 「顔」 として、うってつけの人物であった。

 第1次臨調のときの “世間受け” の轍を踏むまいとしてか、土光臨調の発足までに 誰が知恵者だったのか知らないが、実に狡知に長けたプロパガンダ、パブリック リレーションズが展開されている。国鉄の累積赤字が 繰り返し報道され 赤字線が次々と廃止された。健康保険財政の逼迫や、企業の定年延長、年金受給年齢・保険料の引き上げも噂された。鉄道建設公団の組織ぐるみ不正、国際電電の乱脈、各省庁役人どものカラ出張・カラ超勤・カラ会議・ヤミ賞与・ヤミ休暇・公金の流用など、不正、無駄遣いが、しばしば 新聞・テレビを賑わせ "汚職天国" という言葉が流行した。 それらは 新聞記者のスクープもあっただろうし 会計検査院の調査結果発表もあったが、中には意図したリークも 少なからず潜んでいたと思われる。

メ ザ シ の 土 光 さ ん

 そこへ 社会に対して大きなインパクトを与えたのが、“メザシを食べる土光さん" の映像であった。

 56年3月にスタートした第2臨調は、次年度予算編成に間に合わすべく 大童 (おおわらわ) で審議を進め 「緊急に取り組むべき改革の方策 (生活保護を除く補助金一割削除、国民健康保険 国庫負担分の地方へ移譲、年金の支給開始年齢・保険料の引き上げ、40人学級編成計画の凍結、公共事業費の前年同額以下への抑制、国家公務員の削減計画強化、公務員給与の抑制 等) を提示した。答申はまた 行政改革を 「国の歩み」 を変えるものと位置づけ、差し当たりの理念として 「活力ある福祉社会の実現」 「国際社会に対する貢献の増大」 の二つを示しながら、緊急に取り組むべき改革方策を その "突破口” だと述べた。改革する社会への入り口とすれば ハードルが高く、改革の治療薬と受け取れば "苦い味" のするものであった。土光会長は答申後の記者会見で 「これは 57年度の予算編成に関係あるものを答申したのであり、これから いよいよ本格的な議論を進める…」 と語っている。

Photo  この答申と相前後して 昭和56年7月23日  NHKは 総合テレビ・ゴールデンアワーに、「85歳の執念 ~行革の顔 土光敏夫~ 」なる 50分ものの報道特集を電波に乗せた。NHKアーカイブスの解説によれば、狙いは第2臨調ではなく 土光敏夫の顔にあったのだという。明治29年生まれの 日本人の顔である。土光は 「俺の私生活なんて 面白くも何ともないよ」 と逃げ回ったが、「会長に出ていただくと 第2臨調のPRにもなりますから」 と周囲が説得して やっと取材のOKが出たそうナ。 番組を見た人々が驚いたのは、彼の日常の 見事なまでの “つましさ” であった。キャベツの外側も大根の葉っぱも捨てず、歯ブラシやコップも年代もの、拾ってきた麦藁帽子をかぶっての畑仕事、そして あの夕食のメザシと梅干……。

 皿の上の 二匹のメザシを指して 「これだけかい…?」 「はい さようでございます」 と交わす夫妻の会話に、日本全国が感動し 放送中からNHKには電話の波が殺到し、一挙に 「行革 断行すべし」 の世論が巻き起こった。土光の 「元 石川島播磨重工社長」 「財界の荒法師」 といったイメージは消し飛び、儒教的とも言える禁欲的な暮らしと 「明治人」 の気骨に圧倒された。沢山の電話の中には 「土光さんの好物はビフテキだった…」 「豪華な弁当を 旨そうに食っていたゾ…」 という異論もあったそうだが、NHKは それらを すべて無視し 「数秒間の映像が持つ力のすごさを見せた話題作」 と自賛している。

 実は 斯くいう私も、あのときの画像に感動したひとりであった。80歳近い老体でありながら 節電のためと称して経団連ビルの階段を、エレベーターを使わずに昇り降りしたり、毎日の通勤に公共機関を利用していたとか、地方へ出張しても 物入りになるからと日帰りをもっぱらとし、その代わり 朝食会を名目の早朝会議を開いて、財界のお偉方を辟易させるなど、土光にかかる その種の逸話を数多く耳にしていたから、土光臨調答申を 彼の新自由主義的発想になるものではない と 殊更に思い込んでしまったのも、“メザシの画像" が 然らしめたものだったかも知れない。

 そもそも 当時私は "市場原理" とか "新自由主義" とかいう意味も、言葉すら知らなかったのだ。(今も さっぱり判らないが…?) ずっと後になって 内橋克人さんの 「規制緩和という悪夢 (平成7年)」 「悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環 (平成18年)」 を読んで、ほんの少し目が開かれた程度なのである。それにしても今回 再度調べてみて、第2臨調が出た1980年代後半から  2010年代 小泉内閣の規制緩和までの四半世紀、橋本龍太郎が目論んだ “ビッグバン” を挟んで、日本の 政・財・官・学、ほんの一握りの権力者たちは、奇矯な (人間の心を持たない) 学説を唱えたミルトン・フリードマンの呪縛にかかったかのごとく、 ひたすら モラルハザードに落ち込み、資本主義の悪しき本卦帰りをしてしまった。土光臨調の答申は、その最初のロードマップだったのである。

 その道筋において、インサイダーの側に立つ ホンの少数の 非情で 貪欲な階層に、とてつもなく金儲けの出来る機会を提供し、多くの人々にとっては 否応なく 仕事の安定と生活の安全が奪い取られ、中流と意識していた人たちも 気が付くとスベリ台を滑り落ちて、限りなく下流に押し流されている時代になっていたのである。この間の 相次ぐ労働条件の改悪lは、労働者の生存環境を 百年後退させてしまった。

 話をもういちどメザシに戻す。既にお気づきの通り あのカットは、いわゆる 「やらせ」 だったのだ。偶然 見つけたブログの文章から、当該部分を引用する。

 「ここに歴とした証言があります。朝日新聞 1995年2月3日付の “にゅうすらうんじ” というコラム記事として、編集委員の 早房長治 の署名入りで 『土光敏夫さん 行革推進へメザシの演出』 というのが書かれていますが、その最後に まったく以って聞き捨てならないことが 記されているのです。「メザシの土光さん」 といわれましたが、あれは殆どウソです。故郷の岡山から送られた 山海の珍味を使った直子夫人の手料理を、私は彼と一緒に食べさせてもらった。テレビなどの演出に乗ったのは、"質素なリーダー” のイメージを利用して 行革を成功させるためだった…」 と。   Wikipediaの土光敏夫の項目でも、やらせの事実が記されている。用いられたメザシは、高級品で知られる丸高商店のもので、当時でも 500~600円したという。

 当時の 「報道特集」 現在の 「NHKスペシャル」は、ドキュメンタリー番組である。 私は NHKのこれら作品を、極めて上質なものと理解し 時として尊敬しながら視聴している。そのことは、「Yの昭和史」 でも 何度か採りあげたものだ。しかし ドキュメンタリーに作為を施したり、ウソをやらせて 国民を謀(たばか) ってはいけない。いったん偽装が入ったら、後の作品の真実性も疑ってかからなければならないからだ。オフレコだったのかも知れないが、10年も経ってから記事にする 朝日新聞編集委員も お粗末なら、NHK会長は 辞職ものではなかったか。

 私の 土光さんに対する尊敬の念は 今も失せないが、「土光さんもツミなこと」 をしたものだと思う。

 

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