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2009年7月

国鉄 電信電話・専売公社の民営化

第2臨調の構成と  加藤 寛 教授 屋山太郎氏 の存在

 昭和56年3月16日に 第2臨時行政調査会 (土光臨調) は発足した。土光敏夫会長 (元 経団連会長) のほかに、円城寺次郎 (日本経済新聞 顧問)、林 敬三 (日本赤十字社長)、宮崎 輝 (旭化成工業社長)、瀬島龍三 (伊藤忠商事会長)、辻 清明 (国際基督教大学教授)、谷村 裕 (東京証券取引所理事)、労働界を代表して 丸山康雄 (総評副議長・自治労委員長)、金杉秀信 (同盟副会長・造船重機労連委員長) ら 9人の錚々たる顔ぶれが 委員として任命されている。これら委員の任命については 2月27日、参議院 議員運営委員会において賛成多数で承認され、殊に 総評・丸山康雄に関しては 桧垣徳太郎委員長が 「同意与えるに 異議ありませんか…」 と 再度 確認を取っている。(←国会議事録

 また 専門委員21人には、労働界から鶴園哲夫 (元 全農林委員長)、山田精吾 (政策推進労組会議 事務局長) が選ばれたが、臨調は4月にかけて 顧問5人 参与49人を各界代表として選出し、これには 槙枝総評議長・宇佐美同盟会長・樫山中立労連議長も含まれていたものの、臨調の審議に加わった委員、専門委員、顧問、参与の大多数は 財界の論客が占め、会議は非公開・多数決とされた。

 ところで 一般に土光臨調といえば、たちどころに 加藤 寛 慶大教授、ジャーナリスト屋山太郎 の名前が思い浮かび、事実 Wikipedia などの Web 辞書で “第2臨調" と牽くと 「…主要メンバーは 加藤 寛 屋山太郎  瀬島龍三」 と出てくる。にも拘らず 公式記録には 瀬島の名前はあるが、加藤  屋山 が記されていないのである。二人とも 決して "小者” ではない。如何にも不思議なので 更に突っ込んで調べていくと、次のようなことが推測された。臨調には かねて改革のターゲットと目されていた国鉄や 電電・専売公社など、民営化を進める 「第4部会」 なるセクションが設けられ、両氏は “スゴ腕の ウラ臨調" とも称された この実働部隊で活躍したらしい。その辺を 以下のブログから抜き出し、実証してみよう。

 『土光臨調のとき 国鉄を担当した 加藤 寛 部会長は、当初16人の委員のうち 分割・民営化に賛成の者は 5人しか居なかったにも拘らず、最後には 全員を分割・民営化案にまとめて 全会一致の答申を出した。議論が引っかかると、説き来たり 説き去る 加藤節を聞かせ、私などは 幾つかの疑問もあったが 「まとめるほうが 先決だ」 という気にさせられた』 (←屋山太郎談 平成14・10・12 産経新聞 正論

 その 加藤 寛 氏は、フジサンケイ Business の特集 “わが道 わが友” に、次のような一文を草しているので 少し長くなるが 引用する。

  『…50年代 現実の社会に役立つ学問を実践しようと、行政改革に関わるようになった。1981 (昭和56) 年に 元経団連会長の土光敏夫氏が会長を務める 土光臨調が発足すると、私は 国鉄を担当する第4部会の部会長を任された。土光さんは生活が質素というイメージが強いが それは本当だ。家に行ってもテレビも冷暖房もなかった。当時85歳。行政管理庁長官だった中曽根元首相が 会長就任を頼んでも、「(高齢で) つらい」 と固辞していたのが 「国のためです」 と言われて引き受けた。いったん引き受けたら、断行する意志の強さはもの凄かった。

 国鉄改革に関しては 「(関わった人が) 何人も殺された」 と言う話を聞いていて、身の危険を感じた。警察官が警護してくれたほか 電車を待つときはホームの端に立たないことを徹底させられた。帽子やヒゲで 変装するよう勧められもした』  (以下 中略 後段で再引用の予定)

 ほかに 日本労働年鑑 第53集1983年版 (法政大学大原社会問題研究所) の中に、こんな文章もあった。

 『非公開を原則とした臨調審議のもとで、「素案」 「中間報告」 が 相次いでスクープされた事態は異様であった。"裏臨調" と言う言葉が流行した。“裏臨調” は 特に国鉄改革、省庁統廃合問題で 力 を発揮したと伝えられたが この時期 新聞紙上に次のようなコメントが続いて注目された。

 臨調7月答申の目玉である 「国鉄改革案」 が具体化するとともに "裏臨調" のスゴ腕ぶりが にわかに脚光を浴びている。数人の委員で構成し 臨調審議の表舞台とは別に、非公式に 政府・自民党・関係団体などと折衝を重ね、実行可能な答申作りへの 地ならしを行なう機動部隊である。三段階方式による国鉄改革案も この "裏臨調" が 自民党の担当実力者との協議で練り上げたものだし、23日に発表された運輸省案も "裏臨調" が 改革へのスタート台として運輸省側に作成させたものだと言う。それだけに 臨調 自民党内には、「臨調と党が 並行して審議しているウラで 何様のつもりだ」 と反発も強い。しかし "裏臨調" でまとめた国鉄改革案は、こうした声があるにも拘わらず定着しつつあり  5月10日に正式提案される臨調部会報告も、"裏臨調" の線に沿って決定される見通しが強い』

 加藤 寛氏が掲載したと同じ Business の “わが道 わが友” に、ウシオ電機・牛尾治朗会長が こんな文章を載せている。

 『…56年に土光臨調がスタートした時 桜田 (元 日経連会長 桜田 武) さんに呼ばれ、「土光氏は 東京高等工業学校(現 東工大) 出身だから 行政のことは判らない。君が きちんと助言しなさい」 と 忠告された。それから4ヶ月ほど経って 近況報告に伺ったところ、桜田さんは一転して 「俺は間違っていた。土光氏は "小さな政府” の本質をよく知っている。君は土光氏のために命を捨てよ」 と言う…』

 インターネットから検索した これら資料から、私は 土光臨調の中で 加藤・屋山氏が 枢要な位置を占め、実働部隊を率いていたことを確認できた。

メタボリック症候群に陥っていた 国家体質の改善

 第2臨調は、土光敏夫氏を頂点とする 厖大 かつ多岐な組織が編成され、広範な領域に亘る改革が、短期間 隠密裏に強行された。そこに投じられた 委員・専門委員・参与ほか 実働した人々の数も膨大な員数に上っている。現場で実務に携わっている官僚、公社・公団の職員も動員した模様であるから、総数は にわかには数え上げられないほどだっただろう。そもそも 行財政改革の根底には 「小さい政府」 を作ろうとする考え方があった。高度経済成長期から、日本列島改造を強行し 途中 思いがけないオイルショックに遭遇した時代を経て 日本の行政機構は膨れ上がっており、そこには 重複、矛盾、無駄 など、人員も含めて そぎ落とさなければならない脂肪と贅肉が ぶよぶよの肥満体を作っていたのだ。臨調は 限定された時間の中で、強引と批判を浴びつつも 能 (あと) う限り手際よく事を処理しなければならなかった。臨調の巨大化した組織の随所で 激しく火花を散らしながら 発足後2年余と言う時間の中において、将来を見据えた指針を示しつつ最終答申を纏め上げることが出来たのは、"土光" と言う冠が放つオーラにも似たガバナンスによるものであった。

 昭和58年(1983)  第2臨時行政調査会は 最終答申を行なって解散したが 中曽根内閣は、答申の実現を監視し 更なる提言を行なう “総理大臣の私的諮問機関” として 「臨時行政改革推進審議会」 を設置し、会長に 引き続き土光敏夫氏を起用した。この 「行革審」 は 昭和61年(1986) 6月に 「今後の行政改革の基本方針」 を答申して解散している。だが その後も第2 第3の 「行革審」 が編成されて、平成の年代に至るまで 財界主導・新自由主義型の行政改革、規制緩和が推し進められていった。

 ここまで 第2臨調が、どのように構成され 機能していったかについて概観してきたが、これ以後は、土光臨調の核心とも言うべき三公社 および国鉄の分割・民営化にのみ焦点をあわせて その変革の軌跡をなぞってみようと思う。

 三公社とは、専売・電信電話・郵政公社を指すが、このうち郵政公社については その業務内容が、あまねく日本全国に公平なサービスを提供するもの (郵便集配事業)、既存の民間企業との競合を避けるべきものであること (郵便貯金・ 簡易保険事業) 等を勘考して、行革の対象とすることは この段階では “時期尚早” として見送られた。

(専売公社)

 いっぽう その規模から考えても、専売は民営化して当然と見做されていた。

 塩は人間の生命維持、生鮮食品の貯蔵に必須のものであり、洋の東西を問わず 権力者は塩の流通を独占管理して 利益を上げていた。物々交換の時代は貨幣同然で、紀元前の中国でも古代王朝が塩の管理を徹底し、 またヨーロッパでは地中海から北方へ アルプス越えの "塩の道" が拓かれたほか、岩塩が発見されて ザルツァッハ川を航行する "塩の運搬船" から通行税を取り立てる城砦の地 サルツブルグという地名も残っている。日本では 嘗て今川義元に塩を断たれて難渋していた甲斐の武田信玄に対し、 宿敵であるにも拘わらず 越後の上杉謙信が 塩を信玄に送り 「敵に塩を送る」 美談を生んで 今に伝えられている。

 ま それはさて置き、明治政府は1904年(明治37年) 大蔵省煙草専売局を 「専売局」 と改称して 本格的な専売事業を開始したが、翌明治38年 日露戦争での国庫収入増大を目的に “塩” と “樟脳” が専売品目に加えられた。

 戦後 昭和24年 煙草専売法に基づいて 「日本専売公社」 が発足、塩の専売事業も移管されている。1980年代 (昭和55年ごろ) にはいるとアメリカの市場開放要求が強まり、専売事業は民営化の第1候補と目され 臨調答申に促されて、昭和59年8月には タバコの輸入自由化を含む専売改革関連5法が成立、昭和60年 タバコの専売制度が廃止されるとともに 民営化の一環として 「日本たばこ産業株式会社 =  JT」 が設立された。JTは 独立採算する株式会社に変貌するや、官の頸木 (くびき) を脱し 外国製タバコの輸入はもちろん 農業関連事業、不動産事業、食品加工事業、医薬品事業 など、多彩な分野に触手を伸ばし、平成6年には東京証券取引所に株式の上場を果たしている。その後の社業拡大と発展の実績を見ても 公社時代とは様変わりで、行政改革の見本のような存在だと言える。

(電信・電話公社)

 むかし 中学生の頃だったか、日本の郵便制度は 前島 密によって形作られたと 教わった記憶がある。

 戦前 電信・電話は、郵便とともに逓信省の管轄にあった。意外なことに逓信省は 明治18年伊藤博文を首班とする 内閣制度が創設された最初から存在し、初代逓信大臣は、かの "五稜郭の戦い” で有名な幕臣 榎本武揚であった。明治時代から昭和にかけて 逓信省は、電信・電話 郵便のほかに 海事、鉄道、航空など 様々な分野の業務を抱え込み、時代の要請にしたがって 他部署へ分離移管したり また独立させながら、欧米の先進技術を導入し 日本の近代化を推進する役割を担ってきた。それぞれは 国家として関与しなければ 到底 果たし得ないような大規模なユニバーサル・サービス的業務であった。

 電信と電話の所轄は 明治以来 ほぼ一貫して逓信省のものだったが、昭和27年 「日本電信電話公社」 に改組され、郵政省に監督されることになった。日本の復興につれて電話網が拡大し システム・機器・端末が どんどん進化して、交換方式も手動から自動に転換 電話機が個々の家庭にまで入り込む時代が到来したのだが、電電公社は “親方日の丸" 毎年多額の国家予算が投入され、また 加入者に電話機をレンタルして徴収する (1台あたり数万円の) いわゆる 「加入権」 を使って、ひたすら全国に より巨大で より稠密なケーブルインフラ作りに励んだ。競争相手がいない独占だから唯我独尊 (ゆいがどくそん) 企業体質は お役所よりも始末が悪く、その意味で 民営化するのが最も難しいだろうと言われていた。

 第2臨調の土光会長は、そんな所へ “愛弟子” の元石川島播磨重工社長 → 相談役の 真藤 恒 氏に 白羽の矢を立てて送り込んだ。国家の通信事業を独占し 胡坐 (あぐら) をかいているマンモス組織を民営化するには、人もシステムも含め 公社全体を徹底的に変革しなければならない。それを可能にする "鬼” となり得る強烈な個性、豪腕の持主・乱世の改革者として 真藤を評価していたのだ。

 実際 真藤には、それだけの赫々とした実績があった。九州大学工学部の出身 技術者・生産管理者として 世界的に “シントー船型” と呼ばれる新船首工法を開発して造船工業を革新、国際営業マン 経営者としても “ミスター合理化” と渾名された辣腕家、強固な意志で突っ走るブルドーザーのような力技の持ち主であると同時に、インスピレーションで出来たバネの如き 柔軟性も併せ持っていた。だが今回 私が判らなかったのは、既に実業の第一線から身を引き 70歳を過ぎていた真藤氏が、従業員総数30万人を越える大組織電電公社に 総裁として、単身 乗り込んだのだろうか? ということである。心知った右腕 左腕を伴なった 気配がない。 同時に 電電公社側からも 民営化に向けて、真藤氏に献身した人物の名前が 顕われて来ないのだ。

 幾つかの エピソードは見つけた。

 国営独占と言う通信の世界は、民間の常識とは 全てが逆さまだったという。電電ファミリーという閉鎖的な縄張りに閉じこもり、前例踏襲と模倣の繰り返しが目立った。幹部階層になればなるほど 旧来の陋習 (ろうしゅう) にしがみついた。その結果 身に付いた高コスト体質に 誰も責任をとろうとしない。総裁就任直後 「このままでは 赤字になるぞ」 と言ったら、総裁室に幹部連中が 「利益は ちゃんと上がっている」 と抗議に押しかけた。真藤が 「料金値上げのおかげじゃないか」 と 数字を示して指摘すると、彼らは黙り込んでしまった。その当時 東京~博多間の通話料は 3分720円だった。真藤はまた しばしば 「電電語で喋るな、日本語で話せ」 とも言った。

 合理化という言葉が 人員整理と同義語なら、真藤が電電改革でやったことは逆だった。民営化のプロセスで 事業部制の導入と人事制度改革 (評価基準の刷新) をメインテーマと している。その上で 三公社の中で突出した賃上げを実施、後藤田正晴官房長官が独走に待ったをかけると 「何のための民営化か」 と応酬し、大喧嘩になったこともあるそうナ。賃金は政府が決めるのではなく 電電自らが決める。経営者が当たり前のことを実現しないと、職員のエネルギーが 凋 (しぼ) んでしまうと主張した。

 民営化するということは、自由な競争状態を作るということだ。しかし 電電が巨大なインフラを構築して独占していては、競争相手なんか 出て来っこない。仮に手を上げる者がいたとしても  マンモスの牙に挑む カマキリのようなもので、鎧袖 (がいしゅう) 一触 跳ね飛ばされるのがオチだろう。だが 昭和60年当時、時代の要請にこたえ 独占に風穴を開ける形で 民間の大企業などが提携し、第二電電 (DDI) や 日本高速通信 (テレウェイ)  国際電信電話 (KDD) など 2~3の会社が設立され 電信電話の分野に参入して来た。日本電電公社は 昭和60年(1985)4月1日、日本電信電話株式会社法に基づき NTTとなり 真藤 恒氏は 初代社長に就任した。インフラを抑えている巨大NTTと、カマキリとは言わぬものの幹線通信手段を持たない新参企業との間に、どのようにして競争関係を成立させ維持するか が 問題であった。

 その方法は 『自由化した市場で 既成業者の圧倒的に優位な競争力を 強制的に制限するいっぽう、新規参入者には 競争格差を解消するほどの優遇策を講じ、需要のうち 儲かる部分のみ “いいとこ取り” を認め 奨励する』 二重基準を適用することにあった。専門用語では これを 「非対称規制のクリームスキミング」 というのだそうだが、素人の私には意味がよく判らない。

 元 臨時行政調査会事務局 調査員 旭リサーチセンター会長の鈴木良男氏は 次のような発言をしている。

 「…国鉄の改革が成功したのは、分割を受け容れ 相互に競争する仕組みを導入したからです。それに対して電電は、分割や競争に  前向きであるとはいえませんでした。(中略)  真藤氏は、民営・自由・競争 が ワンセットであることをよく理解なさっているということでしたから、お任せしても しっかりやっていただけるという前提で 答申をまとめました。ところが真藤氏は 初代社長になると、なぜか 後ろ向きになられたようです。われわれは その後の見直しのとき (´99年) も 「分割して競争体となり 非対称規制のくびきから解かれ、より自由に出来るようになることがNTTのためになる」 といい続けましたが、結果はご存知の通りです」

 この言葉から察する限り  改革の大なたをふるおうとしたドクター合理化は、必ずしも 所期の目的を果たしたとは言い難いようである。それどころか あの 「リクルート・コスモス事件」 に連座、昭和63年12月に NTT会長を辞任してしまった。この間 NTT内部で如何なる葛藤が繰り拡げられていたのかについては 詳 (つまび) らかにしない。ただ 私は5年ばかり昔 別の用件で真藤氏の人となりや 活躍の事績を調べたことがあるが、事 NTTに関わることとなると 全くといっていいほど資料が検索できず 挙句 Nikkeibp.jpのページを辿って、次なる文言に行き着いたものだ。曰く 「…実は NTTにおいて真藤氏の存在は、今やタブーなのである。NTTのWeb‐siteに "真藤 恒” と入力・検索しても何も出てこない」 「…更に 真藤氏の著書をインターネットで検索してみると すべてが絶版になっている。つまり 真藤氏について何か調べようとするなら、公共図書館にでも 行くしか方法がないわけだ」

 私は 真藤氏の行蔵 (こうぞう) からして、氏がかかる事件に巻き込まれたウラには、電電に潜む官僚の魔性が 氏を罠 (わな) に嵌め 改革の舞台から抹殺し去ったと、今も確信している。氏は元秘書共々 逮捕収監されたが のち出所に際して 「(清廉な) 土光さんが生きていたら 俺は破門だな」 とつぶやき、他には一切弁明することなく身を退いた。

 電電ファミリーからは反撥を受けたが、真藤氏は 若手財界人たちからは憧憬 (しょうけい) された。リクルートの江副浩正会長もその一人であった。公判中 被告席で終始 無表情を通した江副だったが、真藤氏への容疑に審議が及ぶと 声を上げて泣きじゃくったという。 

 NTTは ようやく平成11年(1999) 7月1日、大きく4つに分割・再編された。ひとつは NTT全体を統括運営する持ち株会社で、その傘下にNTT東日本と西日本の地域通信会社と 長距離・国際通信を担当する NTTコミュニケーションズ、その後 携帯・システム構築という6分社化体制になったが、資本分離が不徹底なまま、依然として通信業界のガリバーとして君臨している。光ファイバー網が急速に普及し、電話も固定から携帯へ主役が代わり NTTは、真の民営化が達成できるのか 大きな疑問符が付いている。

 結果から見て NTTの体質は、まったく変わらなかった。

 晩年 ボランティアで インドネシア造船業を指導していたと仄聞した 真藤 恒 氏の訃音は、平成15年(2003) 1月26日 新聞の片隅に小さく報じられた。92歳であった。

(  国   鉄  )

 昭和39年(1964) 9月7日 東京・ホテルオークラで開催された IMF総会において、時の首相 池田勇人は 各国代表を前に日本の復興振りを誇示した。10月10日に開催される 第18回 東京オリンピック を控えて、10月1日 東海道新幹線が 東京~新大阪間の営業を開始し “国鉄のシンボル” となった。

 この時期 東京~京阪神間の電話も 即時 ダイヤル方式となり、失業率は0.8で戦後最低を記録 “完全雇用" が達成された。白黒テレビの普及率が70を超し 電気洗濯機や冷蔵庫  炊飯器・掃除機など、家庭電化が急速に進んで、ようやく日本人も 敗戦直後にあこがれたアメリカ映画 「我等が生涯の最良の年」 的 文化生活に一歩近づいたようだった。そして この年11月9日 池田首相は、政権を 佐藤栄作 に禅譲している。

 誰も関心を払わなかったが、華やかなニュースの陰で 実はこの年 昭和39年度  皮肉にも 国鉄 (日本国有鉄道) は、初めて 単年度収支で8300億円の赤字を計上している。当初は繰り越し利益でカバーしたが 昭和41年度決算から完全な赤字経営に転落、以後 黒字を回復することはなかった。東海道新幹線に対する初期投資や 償却が禍 (わざわ) いを為したのでは 決してない。新幹線は運行開始後半年の40年3月には 早くも乗客数1000万人に達し、2年10ヵ月後の昭和42年7月13日には1億人を突破するなど 滑り出しとその後の経営は 極めて順調であった。そもそも 鉄道建設に最もコストかかる路線土地の買収は 戦時中に完了し、一部 トンネルの掘削まで着手していたのだ。このあたり 東海道新幹線の建設秘話は、40年 【この年】 に紹介している。

 戦前から国鉄という組織ほど 時の政府・官僚 政治家たちに、くわえて振り回されてきたところも珍しい。列車を運行し 客や貨物を乗せるだけで、自らは 何の権限も有しなかった。鉄路の建設にしろ運営にしろ 予算は運輸省の役人が作った宛がい扶持 (あてがいぶち)、一応国会を通るから その上に代議士たちのわがまま勝手が乗っかってくる。採算性なんか度外視して 票になるならば…の “我田引鉄(がでんいんてつ)”、殊に 田中派なる地元利益誘導族が跋扈 (ばっこ) するようになってからは、国鉄は食い物にされ 全国各地でローカル線が急増した。これは 道路も橋も同じだ。

 国鉄の総裁は内閣が任命し 任期は4年だが、賃金の決定権すら与えられていなかった。国鉄従業員の賃金は 「公共企業体労働委員会(公労委)」 という 現場の実情もわからぬ組織が握っていた。いっぽう 40万人に垂(なんな) んとする従業員=労働者は、労働者の基本的権利である ストライキ権が剥奪されていた。公共性の強い職種は、権利より公共の福祉が 優先するという論理である。賃上げ決定が出来ない経営者と スト権を封じられた労働者との間に、正常な労使関係が成立する筈がない。

 かつて 戦場からの復員者を受け容れて膨れ上がった国鉄で、9万5000人の人員整理を強行しようとして 「三鷹事件」 や 「下山事件」 が起こり  労働関係に大混乱をきたした労使だったが、昭和40年代 国鉄は 国鉄労働者組合 (国労=総評系)、国鉄動力車労働組合 (動労=総評系)、鉄道労働組合 (鉄労=同盟系) というナショナルセンターの異なる労働組合を抱えていた。鉄労は スト戦術を取る国労に反対して脱退し 穏健路線をとったものの、総評の中核でもあった国労・動労は 繰り返し 「順法闘争」  更には 「スト権スト」 に踏み込んで、国民の迷惑も省みなかった。殊に 国労・動労が 「マル生反対闘争」 を展開し 経営側の不当労働行為によって磯崎総裁が謝罪 辞任した頃からは、国鉄内部の沈滞・腐敗 職場秩序の荒廃が著しくなり、国鉄自身の経営努力だけでは 最早 如何とも為し難いまでに自壊していた。

 その頃、道路網の整備 モータリゼーションは ますます進展し、また 地方空港が相次ぎ誕生、短距離移動はマイカー 長距離旅行は航空機との競合で  国鉄は旅客・貨物とも輸送シェアを減少させていた。昭和50年11月26日から 8日間に及ぶ 「スト権奪還スト」 を全国的に打ち抜いたとき、国労・動労幹部は愕然とした。狙いの生鮮食料品の輸送のほとんどが トラック輸送に切り替わっていて、大都市の商品流通に 何の打撃も与えず 市民生活は まったく痛痒 (つうよう) を覚えることがなかったのだ。巷では “国鉄貨物安楽死論" が 語られたほどである。

 国鉄の活路を求めて、首都圏や関西・中部圏の通勤混雑解消のため 列車本数 スピード競争など、私鉄との競争に目を向けざるを得なくなっており、針一本通すのも難しいような 過密ダイヤを編成 車両の軽量化に走った。この傾向は 特に関西圏で目立ったようだ。だが 国鉄の幹部・技術陣は 公共交通機関にとって 最も大切な安全性の確保、何よりも自分たちが 100 km/h  120km/h と 走行を加速させている車両が  私鉄と違って 狭軌軌道の上にあることを忘れてしまっているかの如くだった。(平成に入ってからのことだが、JR福知山線 尼崎駅近くで 脱線・転覆・衝突という大惨事が起こった

 昭和56年 第2臨調が動き始めたとき、現場の悪慣行が 次々とマスコミにリークされ 国鉄全体が 世論から集中砲火を浴びるようになっていたし、走れば走るほど 赤字が雪ダルマのように膨れ上がる様相を示していた。第2臨調は、破綻会社の 更生法を作ることを考えていた。土光臨調は 57年7月に提出した基本方針で 国鉄の分割・民営化を打ち出したが、分割・民営化には 国鉄幹部や国労ほか労働組合だけではなく 運輸省にも反対論が根強く、自民党や政府にも 実現を疑問視する空気が支配的だった。ただ NTTと異なったのは 国鉄内部に、現状を憂え  改善に向けて立ち上がろうとする 少数の若手が存在していたことである。 再び 先の 加藤 寛 教授の文章を借りる。

 「…第4部会は 仲間が良かった。瀬島龍三さん (元伊藤忠商事会長) や 住田正二さん (元運輸省事務次官)、牛尾治朗さん (ウシオ電機会長)、佐々木春夫さん (元総務庁行政管理局長)、田中一昭さん (拓大名誉教授)  更に 評論家の屋山太郎さん 山同陽一さんら 硬骨漢が、非公式に夜ごと集まり 国鉄改革の方向性を論じ合った。(中略) 田中さんは 国鉄内部の改革派 10人を連れてきてくれた。内部情報がないと、とても具体策など出来ないからだ。中でも 急進派だったのが 松田昌士(まさたけ)さん (元JR東日本会長)、葛西敬之(よしゆき)さん (元JR東海会長)、井出正敬さん (元JR西日本会長) の 3人だ。

 彼らは 国鉄本社の近くでタクシーを拾うと 会社に分ってしまうので、離れたところから乗り  降りたのちも 周りを確認するなど大変だった」

 上記 国鉄改革若手急進派3人のうち、元JR東海会長 葛西敬之氏が 「国鉄改革の真実……宮廷革命と啓蒙運動」 という好著を 出しているようだ。私はまだ読んでいないので 暇が出来れば図書館へでも行ってみようと思う。推測だが “宮廷革命" というのは 当時の氏の立場から見れば、雲の上の存在だった 国鉄民営化反対派幹部に対する 説得工作だったのかも知れず、“啓蒙運動” とは 鬼の動労を始め 労働組合員の意識改革を意味するのではないだろうか。宮廷の主 頑固な反対派だった 仁杉 巌 総裁は、昭和60年6月 中曽根首相によって更迭された。後任に 運輸省から 分割民営を支持する杉浦喬也が送り込まれ、これを機に 国鉄内部の旧守派と革新若手が攻守ところを代え、臨調によって設けられた 「国鉄再建管理委員会」 が  着々と分割・民営化の準備を整えていく。

 労働組合は 意外な対応をした。元西日本旅客鉄道労働組合 執行委員長 矢後希悦氏の文章を引用する。

 「昭和60年 杉浦総裁誕生後は、中曽根内閣総理大臣の強烈なバックアップと 国民世論に押され、 経営陣の中も 「改革派」 が主導権を握って 2年弱のあいだに 一挙に民営分割化への道を直進した。いっぽう労働組合の側は、国鉄再建への考え方に 各組合の方針に違いがあったのだが、民営分割化反対の立場では 一致していた。当時 国鉄の最大組合は国労で、終始民営分割に反対の立場で行動し 昭和62年 JR以後も その方針転換すら出来なかった。(ところが) 「鬼の動労」 と言われてきた動力車労働組合は、杉浦総裁誕生前後から 突如 方針転換を図って 61年1月 国鉄当局の民営分割化路線に協力することを前提とした 「労使共同宣言」 締結に応諾し、同年7月には それまで犬猿の仲であった鉄労ほか3組合とで 「国鉄改革労働組合協議会」 を結成 (人数的には 11月に国労を凌ぐようになる)  それを母体に62年2月 「鉄道労連」 を結成することになる。このことは 国鉄内外を問わず 驚きの目で見られた。

 かくして 国鉄再建監理委員会は、昭和60年(1985)7月 国鉄の旅客部門を6分割 (東日本、東海、西日本、九州、四国、北海道) 並びに貨物部門 1社の民営化案を答申した。実際に民営化され 株式会社に移行する直前の 昭和62年3月31日時点で 国鉄は、新幹線と在来線合わせて 総延長1万9639kmの鉄道路線と 関連船舶事業 (132km)、自動車事業 (バス 1万1739km)その他を有していた。37兆6000万円の不良債務や 土地など遊休資産は 別途 日本国有鉄道 「清算事業団」 が継承することになった。

 職員 (従業員) 数は 昭和55年ごろまで おおむね40万人台で推移していたが、合理化により大幅に削減され 民営化直前には27万7000人に減少、このうち20万1000人がJRグループ新会社に採用された。つまり この段階で 更に 約7万6000人が整理され JR以外の職場に散っていった。そのやり口の中には 中小企業が組合潰しに用いたような、阿漕 (あこぎ) ナ手段も弄されたようだが 定かには知らない。(前出 葛西敬之氏の 「国鉄改革の真実」 には 詳述されている由……

 昭和62年(1987)4月1日 第2臨調最大の難関とされた 「国鉄分割・民営化」 が成り、JRグループ11法人と国鉄清算事業団が発足した。

                                  終わり

 

 

 

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土光臨調の答申は 新自由主義化へのロードマップ

第2臨調の仕掛け人は 中曽根康弘

 私は 昭和56年の 【この年】 欄に、「土光臨調は 昭和58年3月に最終答申を取りまとめ、"国から地方へ、官から民へ…" わが国の進むべき道を示した。国鉄、電信・電話、専売公社の民営化は、その路線上で実現したものである。第2臨調の主たる目的は、肥大化した行政機構を見直すこと、悪化した財政を 増税することなく再建すること、活力ある福祉社会を作ることなどにあり、 欧米で進み始めていた新自由主義的発想に汚染されたものではなかった。レーガノミクス思潮に影響されるのは、次の中曽根政権になってからである。」 と さらり知ったかぶりに 書き流したものだが、そののち 《ホントに そうだったのか?》 と 疑念を抱き、以来 夜 眠れなくなった。

 結論から言えば、この記述は まったく私の思い込み、 間違ったコメントであった。 読者の皆さんに 謹んでお詫び申し上げ、土光第2臨調が どのようにして編成され、如何に論議・答申され、その後 日本の行政・社会に大きな影響を及ぼすことになったかについて、ここに 改めて述べてみる。

 土光臨調に 第2とナンバーが冠せられたのだから、当然 第1次の行政臨時調査会が存在した筈、調べてみたら 昭和36年 池田勇人内閣時代に組織されていた。この調査会のメンバーは、会長が佐藤喜一郎 (三井銀行会長)、会長代理 高橋雄豺 (読売新聞副社長)、委員には安西正夫 (昭和電工社長)、今井一男 (国家公務員共済連合会理事長)、太田 薫 (日本労働組合総評議会議長) らが任命され、当時 進展しつつあった高度経済成長に伴なう 「行政需要の質的変化と量的拡大に対して 行政側が、如何に弾力的に 対応していく能力を回復するか」 という点が課題だった。

 第1臨調は 長期にわたる調査と審議の後、昭和39年9月 (ちょうど 池田首相の病気退陣、佐藤栄作への政権禅譲の時期と重なったが…) 行政改革に関する提言を行なっている。主な内容は、内閣の総合調整機能の強化、各省庁間の割拠主義 (セクショナリズム) の解消、行政における民主化の徹底、運営面の合理化・能率化の推進などであった。この提言は 1省庁 1局の削減や、国家公務員総定員法の成立などをもたらし、公務員3万7000人削減の実を挙げてはいるが、調査のプロセスで 早くも、行政改革 イコール 行政機構の縮小、人員整理と受け止められ、官庁労働組合、官僚たちからの激しい抵抗に逢着 (ほうちゃく)、 全体としては 十分な成果を上げることは出来なかった。それよりもむしろ 経済の高度成長に引きずられるように 行政府は次第に膨張していき、昭和48年 オイルショックのダメージを受けて 政府の財政事情は急速に悪化していった。

 そのような背景の中で、鈴木善幸内閣は 「第2次臨時行政調査会」 を設置した。私は 昭和57年のコメントに 「善幸 唯一の業績と見做されている 第2臨調の創設は、果たして彼自身の発案だったのか、それとも…」 と 疑問符を投げたが、鈴木内閣に行政管理庁長官として入閣した 中曽根康弘が、同年9月12日に 基本的構想として 「行政サービス改革の推進、事務・事業の縮減・移譲 (法令の廃止・整理、許・認可等の整理、官業の民業への移行、特殊法人の経営実態の見直しと国庫納付) 審議会等の見直し、公務員倫理の高揚、地方自治体の定員抑制などと共に 「80年代以降の行政を展望した 新たな臨時行政調査会の設置」 を唱えているから、仕掛け人は 間違いなく中曽根であったと判る。鈴木善幸は 荒法師土光から 「行政改革の断行は、首相の決意ひとつに懸かっている!」 と 叱咤される役回りを 担ったに過ぎない。

 以下は 私の推測であるが、既にイギリスのサッチャーや ´81年 (昭和56年) アメリカの大統領に就任したロナルド・レーガンが 旧弊のケインズ経済学から離れ、勃興してきた 新自由主義思想を基調とする 財政経済政策に転換しようとする風向きを、敏感に察知した “風見鶏” 中曽根康弘が 日本財界の意向を汲んで、停滞していた日本の政治経済、なかんずく 危機に瀕していた国鉄や、非効率な三公社 (このときはまだ 郵政など五現業は 視野に入っていなかった) の経営形態に活力を取り戻すべく、いち早く手を打とうとしたものだろう。現に経団連などは、土光の前任 植村甲午郎会長のころから 「増税なき財政改革」 の必要性を主張していたのである。

 昭和56年3月16日に 土光臨調は発足したのだが、主要メンバーには 加藤 寛、瀬島龍三、屋山太郎 たちが名を連ねている。

 加藤 寛 は 慶応義塾大学教授、のちに政府税制調査会長を長く務めた 経済学の大家である。数多くの著作を発表、訳書の中には 共訳ながら 市場原理・新自由主義者 「F・A・ハイエク全集」 もあり また 「国鉄・電電・専売 再生の構図(昭和58年)」 「郵政は崩壊する――頭取のいない “国家銀行" のゆくえ(昭和59年)」 などのタイトルが見える。いってみれば 日本に新自由主義学説を導入した 先達だったのだ。教育者として 後に財界・銀行・政界・大学など 様々の分野で活躍する人材を輩出しているが、その中には 橋本龍太郎、小泉純一郎、竹中平蔵らも含まれている。

 屋山太郎は時事通信社出身のジャーナリスト。日本の 親米保守論壇を代表する右派評論家で、ミルトン・フリードマンの 新自由主義経済政策の信奉者と自称して憚らない。

 瀬島龍三は 伊藤忠商事の元会長・相談役、また 中曽根政権のブレーンとして 財界から第2臨調に参画したものだが、本来は軍人。陸軍大本営参謀として、マレー半島上陸作戦、ガダルカナル、ニューギニア撤収作戦、インパール作戦、航空機特別攻撃、満州方面 対ソ防衛作戦を立案主導しているが、太平洋戦争の緒戦を除き 作戦はことごとく失敗、無慮何百万の命を敢え無くした張本人であった。殊に (現代歴史学者 保坂正康氏によれば)対ソ停戦交渉に臨み "賠償として (抑留者の) 一部労力を提供することに同意す" という文言を残したという。にも拘らず彼は、終に その生涯のいかなる局面においても 言い訳こそすれ、自らの責任を認めようとしなかった稀有 (けう) の人物であった。

 会長の土光敏夫は 元石川島播磨重工 中興の祖、その頃の猛烈な働き振りから 「土光タービン」 とあだ名されるほどであったというが、昭和40年 経営難に陥っていた東京芝浦電気 (現 東芝) の再建を託されたときには、「社員諸君には これから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺は それ以上働く」 と怒号して辣腕を振るった。東芝を立て直した後は 昭和49年、財界総理 経団連会長として 第1次石油危機後の日本経済の安定化や、企業の政治献金の改善に尽力した。謹厳実直な人柄と 余人の追随を許さぬ抜群の行動力、質素と伝えられた清廉 (せいれん) な 私生活など、臨時行政調査会の 「顔」 として、うってつけの人物であった。

 第1次臨調のときの “世間受け” の轍を踏むまいとしてか、土光臨調の発足までに 誰が知恵者だったのか知らないが、実に狡知に長けたプロパガンダ、パブリック リレーションズが展開されている。国鉄の累積赤字が 繰り返し報道され 赤字線が次々と廃止された。健康保険財政の逼迫や、企業の定年延長、年金受給年齢・保険料の引き上げも噂された。鉄道建設公団の組織ぐるみ不正、国際電電の乱脈、各省庁役人どものカラ出張・カラ超勤・カラ会議・ヤミ賞与・ヤミ休暇・公金の流用など、不正、無駄遣いが、しばしば 新聞・テレビを賑わせ "汚職天国" という言葉が流行した。 それらは 新聞記者のスクープもあっただろうし 会計検査院の調査結果発表もあったが、中には意図したリークも 少なからず潜んでいたと思われる。

メ ザ シ の 土 光 さ ん

 そこへ 社会に対して大きなインパクトを与えたのが、“メザシを食べる土光さん" の映像であった。

 56年3月にスタートした第2臨調は、次年度予算編成に間に合わすべく 大童 (おおわらわ) で審議を進め 「緊急に取り組むべき改革の方策 (生活保護を除く補助金一割削除、国民健康保険 国庫負担分の地方へ移譲、年金の支給開始年齢・保険料の引き上げ、40人学級編成計画の凍結、公共事業費の前年同額以下への抑制、国家公務員の削減計画強化、公務員給与の抑制 等) を提示した。答申はまた 行政改革を 「国の歩み」 を変えるものと位置づけ、差し当たりの理念として 「活力ある福祉社会の実現」 「国際社会に対する貢献の増大」 の二つを示しながら、緊急に取り組むべき改革方策を その "突破口” だと述べた。改革する社会への入り口とすれば ハードルが高く、改革の治療薬と受け取れば "苦い味" のするものであった。土光会長は答申後の記者会見で 「これは 57年度の予算編成に関係あるものを答申したのであり、これから いよいよ本格的な議論を進める…」 と語っている。

Photo  この答申と相前後して 昭和56年7月23日  NHKは 総合テレビ・ゴールデンアワーに、「85歳の執念 ~行革の顔 土光敏夫~ 」なる 50分ものの報道特集を電波に乗せた。NHKアーカイブスの解説によれば、狙いは第2臨調ではなく 土光敏夫の顔にあったのだという。明治29年生まれの 日本人の顔である。土光は 「俺の私生活なんて 面白くも何ともないよ」 と逃げ回ったが、「会長に出ていただくと 第2臨調のPRにもなりますから」 と周囲が説得して やっと取材のOKが出たそうナ。 番組を見た人々が驚いたのは、彼の日常の 見事なまでの “つましさ” であった。キャベツの外側も大根の葉っぱも捨てず、歯ブラシやコップも年代もの、拾ってきた麦藁帽子をかぶっての畑仕事、そして あの夕食のメザシと梅干……。

 皿の上の 二匹のメザシを指して 「これだけかい…?」 「はい さようでございます」 と交わす夫妻の会話に、日本全国が感動し 放送中からNHKには電話の波が殺到し、一挙に 「行革 断行すべし」 の世論が巻き起こった。土光の 「元 石川島播磨重工社長」 「財界の荒法師」 といったイメージは消し飛び、儒教的とも言える禁欲的な暮らしと 「明治人」 の気骨に圧倒された。沢山の電話の中には 「土光さんの好物はビフテキだった…」 「豪華な弁当を 旨そうに食っていたゾ…」 という異論もあったそうだが、NHKは それらを すべて無視し 「数秒間の映像が持つ力のすごさを見せた話題作」 と自賛している。

 実は 斯くいう私も、あのときの画像に感動したひとりであった。80歳近い老体でありながら 節電のためと称して経団連ビルの階段を、エレベーターを使わずに昇り降りしたり、毎日の通勤に公共機関を利用していたとか、地方へ出張しても 物入りになるからと日帰りをもっぱらとし、その代わり 朝食会を名目の早朝会議を開いて、財界のお偉方を辟易させるなど、土光にかかる その種の逸話を数多く耳にしていたから、土光臨調答申を 彼の新自由主義的発想になるものではない と 殊更に思い込んでしまったのも、“メザシの画像" が 然らしめたものだったかも知れない。

 そもそも 当時私は "市場原理" とか "新自由主義" とかいう意味も、言葉すら知らなかったのだ。(今も さっぱり判らないが…?) ずっと後になって 内橋克人さんの 「規制緩和という悪夢 (平成7年)」 「悪夢のサイクル・ネオリベラリズム循環 (平成18年)」 を読んで、ほんの少し目が開かれた程度なのである。それにしても今回 再度調べてみて、第2臨調が出た1980年代後半から  2010年代 小泉内閣の規制緩和までの四半世紀、橋本龍太郎が目論んだ “ビッグバン” を挟んで、日本の 政・財・官・学、ほんの一握りの権力者たちは、奇矯な (人間の心を持たない) 学説を唱えたミルトン・フリードマンの呪縛にかかったかのごとく、 ひたすら モラルハザードに落ち込み、資本主義の悪しき本卦帰りをしてしまった。土光臨調の答申は、その最初のロードマップだったのである。

 その道筋において、インサイダーの側に立つ ホンの少数の 非情で 貪欲な階層に、とてつもなく金儲けの出来る機会を提供し、多くの人々にとっては 否応なく 仕事の安定と生活の安全が奪い取られ、中流と意識していた人たちも 気が付くとスベリ台を滑り落ちて、限りなく下流に押し流されている時代になっていたのである。この間の 相次ぐ労働条件の改悪lは、労働者の生存環境を 百年後退させてしまった。

 話をもういちどメザシに戻す。既にお気づきの通り あのカットは、いわゆる 「やらせ」 だったのだ。偶然 見つけたブログの文章から、当該部分を引用する。

 「ここに歴とした証言があります。朝日新聞 1995年2月3日付の “にゅうすらうんじ” というコラム記事として、編集委員の 早房長治 の署名入りで 『土光敏夫さん 行革推進へメザシの演出』 というのが書かれていますが、その最後に まったく以って聞き捨てならないことが 記されているのです。「メザシの土光さん」 といわれましたが、あれは殆どウソです。故郷の岡山から送られた 山海の珍味を使った直子夫人の手料理を、私は彼と一緒に食べさせてもらった。テレビなどの演出に乗ったのは、"質素なリーダー” のイメージを利用して 行革を成功させるためだった…」 と。   Wikipediaの土光敏夫の項目でも、やらせの事実が記されている。用いられたメザシは、高級品で知られる丸高商店のもので、当時でも 500~600円したという。

 当時の 「報道特集」 現在の 「NHKスペシャル」は、ドキュメンタリー番組である。 私は NHKのこれら作品を、極めて上質なものと理解し 時として尊敬しながら視聴している。そのことは、「Yの昭和史」 でも 何度か採りあげたものだ。しかし ドキュメンタリーに作為を施したり、ウソをやらせて 国民を謀(たばか) ってはいけない。いったん偽装が入ったら、後の作品の真実性も疑ってかからなければならないからだ。オフレコだったのかも知れないが、10年も経ってから記事にする 朝日新聞編集委員も お粗末なら、NHK会長は 辞職ものではなかったか。

 私の 土光さんに対する尊敬の念は 今も失せないが、「土光さんもツミなこと」 をしたものだと思う。

 

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