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レーガノミクス と サッチャリズム

世界恐慌発生とニューディール政策 行き着いた先は第2次世界大戦

暗 黒 の 木 曜 日

 第1次世界大戦で漁夫の利を占め、疲弊したヨーロッパとは逆に 工業生産の対外競争力をつけたアメリカ経済は、1920年代(大正9年~) おおいに隆昌を極めたけれども  そののち農産物をはじめ 生産過剰が顕在化した。いっぽう 好況期には投機がらみの資金も流入して、株式のバブル的高騰を招いていた。だが 1929年(昭和4年)10月24日 ニューヨーク株式市場で  突然 ゼネラルモータースの株価が80セントにまで下落したことを切っ掛けに、全面的な大暴落が起こった。いわゆる 「暗黒の木曜日」 である。ウォール街は 不穏な空気に包まれ、警官隊が出動する騒ぎになった。

 騒ぎはアメリカ一国で収まらず、これを端緒に 波紋は全世界に拡まった。 銀行の倒産が相次ぎ 金融秩序が揺らいで企業が連鎖的に倒産、巷に失業者があふれた。全産業を通じて生産力が急速に縮小、貿易は低迷して 各国の経済破綻は、爾来 ’30年代の後半に及ぶ長期的なものとなった。

 当時のアメリカ大統領は 共和党のハーバート・フーヴァー。古典的経済学のお題目を唱えるばかりで、なんら有効な対策もとれず 自由放任の “神の手” に委ねるのみ。貿易保護に走ったため  却って世界にブロック化をもたらし悪影響を与えた。’32年 秋から ’33年 (昭和8年) 春にかけてが アメリカにおける実経済不況のピークだった模様で、ニューヨーク市場の株価は80%以上も下落 工業生産は恐慌前の3分の1にまで落ち込んで、失業者は 1200万人 (失業率25%) に達し “革命” の懸念すら囁 (ささや) かれたという。

ア メ リ カ

 1932年(昭和7年)  このような事態に対処するため、米・民主党から フランクリン・ルーズベルトが 「ニューディール政策」 を引っさげ、第32代アメリカ大統領に当選した。“ New Dea l ” とは、ポーカーで親がカードを配りなおすこと、“新規 蒔き直し” を意味する。それは 従来の共和党が取ってきた古典的自由主義経済政策を覆して 180度転換、反対に 政府が積極的に経済に介入して 需要を創出しようとするものであった。彼は、33年3月4日 大統領に就任するや、直ちに国内の全銀行を閉鎖して財務内容を精査し、1週間のちには 国民に対し預金の安全性を保障した。更に大規模な公共投資 (テネシー川流域開発事業など) を興して雇用を生み出したほか、貧困層を対象とした 本格的な福祉政策を展開するなど、イギリスの経済学者 ケインズの論から採った 計画的・社会民主主義的な構想を 大胆に打ち出したのである。また 対外的には保護主義を排して自由貿易に方向を切り替え、大統領権限による関税率の引き下げ 諸外国との互恵貿易協定を締結した。

Photo_3  左の表は、世界恐慌が発生した1929年 (昭和4年) を100とした 各国工業生産指数の推移であるが、アメリカの場合 ルーズベルトの就任後、幾分指数は持ち直したものの ’36年(昭和11年) 以降リセッションに見舞われ、結局 ’41年(昭和16年) 日本軍の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の軍需によって アメリカ経済は息を吹き返す。その意味で ニューディール政策は、必ずしも成功例とは言えないとする説もある。しかし ルーズベルトが取った方法は、間違いなく世界経済に大きな刺激を与え、その後 「ケインズ学説」 は 各国財政運営の主流をなした。

日   本

 日本は 大正11年 (1923年) の関東大震災 並びに 復興のために発行した震災手形処理をめぐ る昭和2年 (’27年) の金融恐慌で 体力が衰えていたにも拘わらず、列国に遅れをとるまじと 濱口雄幸内閣(蔵相 井上準之助) が強行した 「金本位制」 への復帰が、アメリカ発 大恐慌と重なって甚大な被害を被った。日本の特産品 “生糸” の輸出が一挙に落ち込み、株式の暴落が多くの企業倒産をもたらして失業者が続出した。大学を卒業しても就職できず (小津安二郎監督 映画 「 大学は出たけれど」) 卒業難民とも呼ばれた。濱口内閣の緊縮政策に対して 当然 国民からは怨嗟の声が上がった。なにしろ 鉄道員から検事・判事までが ストライキを構えたというから尋常ではない。為に 昭和5年(1930年) 濱口首相は 東京駅頭で、右翼 佐郷屋留雄に狙撃された。

 恐慌を前に 茫然自失の民政党若槻内閣の後を襲った、政友会犬養 毅内閣の蔵相高橋是清は 再び 「金兌換を禁じ」 て井上財政を刷新、 積極予算を組んで 漸く昭和8年ごろには、欧米に先駆けて景気を小康状態に戻した。いっぽう 前蔵相井上準之助が 昭和7年2月、血盟団に暗殺されるという事件がおきた。当時 右翼の跳梁は目に余るものがあり、続いて同年5月15日 犬養 毅首相が 官邸で海軍士官に襲われて射殺された(5・15事件)。軍の一部分子や右翼の過激なテロは、宮廷重臣や 有力政治家を萎縮させ、増長する勢力を抑えることが出来なくなってしまっていたのだ。いわば 昭和の曲がり角である。そこへ 追い討ちをかけてきたのが 冷害と凶作であった。農村で欠食児童が急増、娘の身売りや 満州大陸などへ移民する家族も出たというが、そのような背景で  昭和維新を唱える 陸軍将校主導のクーデター “2・26事件”が起こる。彼らは 岡田啓介首相をはじめ 斉藤 実内相、高橋是清蔵相 らを狙った(岡田首相は九死に一生 難を免れたが…)。大正・昭和期を通して 高橋是清は傑出した財政家だったと思うが、彼もまた この事件で軍部の凶弾に斃れた。

 その後 日本は 大恐慌から逃れはしたが、戦争に続く道に足を踏み入れていく。

ド イ ツ

 ドイツは悲惨だった。第1次世界大戦の敗北で 自国GNPの5倍にも相当する1320億マルクの巨額な賠償金の背負わされた上、しばしの遅滞を理由に 心臓部ルール工業地帯をフランス・ベルギーに占領され、加えて 空前のハイパー・インフレに見舞われて 政府機能も産業も 国民生活も麻痺状態に陥ってしまった。そしてその底から おどろおどろしく ナチズムが台頭してくる。 ヒットラーは国家社会主義と称して 計画的かつ急速に軍備の拡張と公共事業 アウトバーンの建設 等) を実施、失業者を劇的に吸収すると同時に ドイツ人をマインドコントロールした。彼らが目指したのは、ドイツに莫大な賠償を課したヴェルサイユ条約の破棄と、ポーランドやフランスをはじめ 近隣諸国に対する侵略であった。のちに 比較的恐慌の影響を受けなかったファシズム・イタリアもドイツを真似て エチオピアに牙を向けている。

フ ラ ン ス

 経済的困難は それぞれの国に不幸をもたらした。20世紀の初頭 フランスの政情ははなはだ不安定で 通貨フランの価値も定まらなかった。最初 恐慌の影響は軽微と見られていたのに、小党の分立で 政治の決断はとかく曖昧 (あいまい)  人民戦線左翼政権は金本位制の維持に拘わったため、欧州における最後の皺寄 (しわよ) せを 引っかぶる形になってしまった。

イ ギ リ ス

 前の工業生産指数の推移から見ても イギリスは、かなり巧妙に立ち回ったといえる。凋落していたとはいえ 七つの海にユニオンジャックを翻したかつての大英帝国、パックス・ブリタニカを誇った国勢は残存していたもののごとくである。いち早く率先して金本位制から離脱 ポンドの平価切下げ (チープマネー政策) を採って新しいイギリス連邦を形成、スターリング・ブロック内で貿易競争力を保った。だが やがて勃興してきたナチスドイツと 正面きって戦端を開くことになる。

 第2次世界大戦は 第1次をはるかに超越する規模の激烈な戦争が グローバルワイドに展開され、植民地を持たなかったファシズム・帝国主義的国家が 自由経済を標榜する国々と相対立して展開されたが、前者・枢軸国側が一敗地にまみれた。また 第2次世界大戦の結果 経済の覇権がアメリカ一国に集中し、ドルの基軸通貨化 パックス・アメリカーナの時代が どのようにして形成されたかについては、エピソード 「トルーマンとアイクの時代」に触れたのでここでは略し、一足飛びに 1973年 (昭和48年) ’78年 (昭和48年) に発生した オイルショックに派生したインフレーションと不況の共存、いわゆる スタグフレーションの帰趨に話題を転じる。

 その前提として アラブ諸国とイスラエルの相克・角逐について、述べておこう。

O P E C 石 油 政 策 の 発 動 
         オイルショックは 世界経済の流れを変えた

 大戦を境に 鉱物資源の比重に大きな変化が生じた。鉄や銅はそれ程ではなかったが、エネルギーとしての石炭は その非効率において衰微していったし 水力発電はダムの立地と 初期投資がネックとなって敬遠され、代わって石油が重宝されるようになった。とりわけ 化学の発達により 石油は燃料としてだけではなく、ナフサの開発で重要な産業基礎原料として着目され 価値をあげた。石油は その後 北海やユーラシア大陸の北部その他でも 発掘されるようになったが、埋蔵量は圧倒的に中東アラブ地域に偏在していた。

 かつてはバルカンが 世界に火薬庫と言われたものだが、中東の一画に 第2次世界大戦の “落し子” である“ ユダヤ人国家” イスラエルが誕生するに及び、焔硝 (えんしょう) の匂いは 地中海東端から アラビア半島  ペルシャ湾岸一帯に立ち籠めるようになった。まさに 掘削される原油の匂いと  きな臭い火薬の匂いとが交じり合うロケーションである。

 石油を産出する国々は 足元に膨大な量の原油を有しながら、汲み上げる技も 精製する術も持たなかった。それらの技術はすべて 英・米・蘭・仏 先進国石油メジャー “セブン・シスターズ” に拠らなければならなかったのである。メジャーのうち5社がアメリカ (エクソン・モビール・テキサコなど)、他はイギリスのBP オランダのシェルで、彼らはアラブの油田と市場を独占して 価格を自由自在に操った。これら資本は、突き詰めていくとロックフェラーなどユダヤの国際的資本ネットワークに行き着く。 そしてユダヤは 英米に隠然とした影響力を有し、イスラエルの建国と拡張に貢献していた。

 石油市場の旨味は 殆どがメジャーに握られていたので  不満を抱いていた産油国は、1960年 (昭和35年) 対抗する組織OPEC (石油輸出国機構) を、更に ’68年 (昭和43年) 湾岸産油国機構 (OAPEC) を結成した。このOAPECが ’73年 (昭和48年)  第4次中東戦争において 陰の主役を演じたのである。石油資源を武器として 戦争が勃発すると同時に、かねてイスラエルを支持し 与 (くみ) していた国には 原油の輸出を禁ずると宣言し、実際に油井のバルブを調節、更に ’74年からバレル当たりの価格を2倍に引き上げると決定した。湾岸産油国による 「石油戦略」 の発動である。

ス タ グ フ レ ー シ ョ ン の 発 生

 アメリカの “我等の生涯の最良の年" は そう長く続かなかった。ICBMや有人衛星の打ち上げ成功でソ連に水をあけられ、宇宙開発に遅れをとったケネディ大統領の 月面探査計画推進と、ジョンソン大統領によるベトナム戦争への深入りで  大きく歪みを来たしていた米財政は、ニクソン大統領が放った ドルvs金の兌換停止 (プレトンウッズ体制の放擲) という国際信義にもとる強引な遣り口により、ひとまず崩壊を防いだが、 反動として 世界に拡まった通貨の変動相場制で、ドルの価値が漸減していった。金との兌換という歯止めを失ったアメリカは、ドル紙幣の大増刷に走り 世界的なインフレの種を蒔いた。

 不況で産業が停滞して (失業率は増加する) いるのに インフレが進行する (物価が上昇) という、これまでになかった病弊が生じた。この現象は、景気が悪くて失業率が高まるときは、(購買意欲が衰えて) 物価が低下 または安定し、好況になると物の値段が上がって 働く人が増え 失業率が下がるとする、ケインジアンのいう “トレード・オフ関係” では説明できない。これを “スタグフレーション (インフレと失業の共存)” という。スタグフレーションの度合いを示す指標は、便宜的に “悲惨指数” と呼ばれて 「消費者物価上昇率 + 失業率」 で表わすが '73年(昭和48年) の第1次オイルショック時には、既にアメリカにおけるそれは 10ポイントの水準に達し、傾向は ジミー・カーター政権が誕生した頃 イラン革命で石油生産が途絶した '78年(昭和53年) には更に悪化、悲惨指数の平均値は15を指していた。

 アメリカに見られるスタグフレーションの悪化は、欧米主要国に共通して起こり イギリス・イタリアは 第1次石油危機以降インフレ進行著しく、スタグフレーション度は平均20ポイントを越える高水準となった。カナダ・フランスはアメリカ並み これに対して西ドイツは9前後と比較的低く、日本の場合は 昭和49年 ('74年) に第1次オイルショックと土地バブルで "狂乱物価" を経験して  悲惨指数は 25超まで跳ね上がったが、その後改善され 昭和53年('78年) 第2次石油危機が到来した折は 国際的に低い4.9ポイントとカウントされた。

 地球規模で襲った 2波からなる石油危機は、各国経済に大きな影響を及ぼした。各国のインフレ悪化は、それまでの過度の経済拡大策  特にマネーサプライの節度なき増加 世界的な農産物の不作といった要因と 石油高騰の複合的結果だったが、同時に産油国に流れ込んだオイルダラーが 世界金融市場で無視できないパワーとなり、時としては 余剰マネーとして投機的に働き 金融秩序を揺るがすこととなった。

 1980年代 (昭和55年~)、英・米に 期せずして 保守的思想を濃厚に持った二人のリーダーが出現し、困難な経済情勢に立ち向かうことになる。イギリス首相マーガレット・サッチャーと アメリカ大統領ロナルド・レーガンである。

サ ッ チ ャ リ ズ ム

 まず サッチャーのイギリスから見てみよう。

 第2次世界大戦に辛勝したイギリスの戦後経済を概観すると、三つの言葉に集約される。「福祉政策」 「産業国有化」 と 「サッチャリズム」 である。

 1945年(昭和20年) 戦争を指導してきたチャーチル保守党は 総選挙で敗れ 、労働党が政権を握る。アトリー首相は 前年議会に提出されていたものの チャーチルが棚晒しにしていた ベバリッジ卿の福祉報告書を採用して、"医療” の無料化 "退職年金制" “失業保険" の運用開始、“貧困者を対象とする国民扶助法" の実施を宣言 「揺り篭から墓場まで…」 といわれる社会福祉体制が発足した。

 労働党は社会主義政党だったから、重要産業の国有化を 次々と実行した。電力、ガス、鉄道、道路輸送、をはじめ、紆余曲折はあったものの 鉄鋼産業、自動車産業も国有化の対象となった。その上 労働組合が戦闘的で、経営事情や国民の利益も無視し 要求を勝ち取るまで、長期ストライキを頻発した。'45年から ’70年代までの30年間に 保守党が政権に返り咲いた時期もあったが、労組との対決を恐れて 国力の低下に歯止めは掛けられなかった。

 工場・施設への投資はなおざりにされ 製品の品質は劣化して輸出競争力を失ない、ポンド価値はとめどなく下落  労働生産性は欧州各国の2分の1、3分の1に低下してしまったのである。イギリス国民の気力は萎え、福祉のセーフティネットに縋 (すが) るだけになった。かつて 「揺り篭から…」 といわれた代名詞は 「イギリス病」 「老大国」 という蔑称に取って代わられた。'79年(昭和54年) 1月 スタグフレーションの暗雲垂れ込めるイギリスで 炭鉱の山猫スト、 トラック運転手組合の長期ストで国家機能は半身不随、暖房用の石炭・灯油が欠乏して 国民は寒い夜を震えて過ごさなければならなくなり、労働党政権と労働組合は 完全に見放された。

 政権を奪取した 保守党サッチャー首相は、果断な政策転換に着手した。その方向は ケインズ主義的な総需要管理から決別、インフレ抑圧のためにマネタリズムを採用、財政再建の手段として サプライサイドを強化するために 所得・資産課税の大幅減税  付加価値税 (消費税) の増税 財政支出を削減して、国営企業の民営化を強行したのである。労働組合の抵抗には 終始 頑としてたじろがず、突発したフォークランド紛争に対しても 直ちに海軍を派して、侵攻してきたアルゼンチン軍を撃破、南米大陸南端の小島嶼を守り抜き 国民の志気を一気に結束させたが、このあたり “鉄の女" の面目躍如たるものがあった。

 彼女は大学時代 フリードリヒ・ハイエクに傾倒したというが、そのリバタリアニズムが サッチャリズムの基底にあり、国有産業の殆ど全てを民営化 金融の垣根を取り払う 「ビッグ・バン」 を推進した。今日 イギリス経済が活性化し ドイツ・フランスよりも好調を持するまでになったのは、サッチャーが行なった政策の結果とされるが、市場原理尊重の陰で  イギリス社会は貧富の格差が拡大 犯罪が激増する不安定なものとなり、街角には 無数の監視カメラが設置される国になってしまった。

レ ー ガ ノ ミ ク ス

 ハイエクは 訪米してシカゴ大学に籍を置いていたことがあるが、そこには 20世紀後半の主な保守派経済学者の代表的存在 ミルトン・フリードマンがいた。フリードマンは スターリンの迫害から逃れてニューヨークに移り住んだユダヤ人の子として生まれ、幼い頃から貧しい家庭環境と 劣悪な労働条件の中で働きながら苦学して シカゴ大学で修士に、 コロンビア大学で博士号を取得、のちシカゴ大学の教授になった。学者としては “立志伝中の人物” といえる。 当時のシカゴ大学経済学部は自由主義思想の牙城で 錚々たる学者が居並び、その影響を受けたフリードマンは 「シカゴ学派」 の第2世代と目された。彼が新自由主義を唱える背景には ソ連のスターリン治下 並びにナチスドイツが行なった、ユダヤ人迫害に対する 激しい憎悪に根ざす 「人間の自由」 「国家からの自由」 「抵抗の思想」 があった。彼の主張は 奇矯の論と見做されつつも過激で、'29年 (昭和4年) の 「大恐慌」 すら  時の政府の通貨政策の失敗と断じ、また ケインズ理論の核心をなす “国家による所得の再配分" を 全否定した。

 アメリカは建国の始めより "自由" という言葉に魅せられ  時として眩惑させられる傾向がある。「市場に任せれば すべてうまくいく」 とする 彼の市場原理主義 (ネオリベラリズム) は、スタグフレーションで停滞するアメリカで 徐々に受け容れられるようになり、フリードマンが '76年(昭和51年) にノーベル賞を受けたことで その権威は確立し 彼の弟子たちは 「シカゴボーイ」 と呼ばれて、各国・各界で重用されるようになった。

 スタグフレーションの嵐が吹き荒れる中で、カーター政権は ゼロベース的発想で 懸命に財政の見直しと健全化を図った。だが 民主党の伝統的公共事業が長年続くうちに どの事業も肥大化し、重税と "大きな政府" を維持せざるを得ないという悪循環に陥っていた。カーターは苦し紛れに 航空機業界や長距離トラック輸送業界に対し、自由主義的政策・ディ レギュレーション(規制緩和) を導入しようとしたが、狙った競争原理が働かず 歪んだ形の不公正を生んで、パンナムなど大手企業がバタバタと倒産 罪なき労働者は塗炭の苦しみを味わった。このとき航空自由化法の策定に携わったポール・デンプシーという学者は、「要するに 規制緩和とは、ほんの一握りの貪欲な人間に とてつもなく金持ちになる素晴らしい機会を与えるが、労働者にとっては 仕事の安全どころか生活の安定すら ドブに捨てさせられてしまうことだ」 と気づき “シカゴ学派” から離れている (←「規制緩和という悪夢」 内橋克人とグループ2001 文芸春秋 '95年5月刊より)。

 '80年(昭和55年) の大統領選挙で カーターと戦った共和党候補ロナルド・レーガンは、「皆さんの生活は 4年前より良くなりましたか ?」 と 問いかけ、アメリカ国民は 一斉に 「NO!] と大合唱した。

 レーガンは、ミルトン・フリードマンが説く 「新自由主義」 に ベクトルが合ったものと見える。'81年(昭和56年) 1月 大統領に就任するとすぐに (エコノミスト)ブレーンを、マネタリストとサプライサイダーで固め 「レーガノミクス」 と称する “ばら色?" の経済政策を打ち出した。要約すれば ① 小さい政府の構築を目指して 社会保障・教育などの財政支出を圧縮 (そのくせ 軍事費だけは増額)、 ② 税制面では、所得・投資など供給サイドの活性化を意図して大幅に減税、 ③ インフレ抑制のため 金融を引き締めつつ 金利の上昇を是認、 ④ 積極的に規制緩和を促進した。その滑り出しは順調にみえ 実際 幾つかのパフォーマンスに是正が認められはしたけれど やがて綻びが目立ちはじめる。

Photo_4    左の表は 甲南大学の稲田ゼミ資料から流用した 「レーガノミクスの計画と実績(理想と現実)」 である。レーガンは政権発足時 1.1%と予想されていたGNPを '86年(昭和61年) には 3.9%にまで引き上げようと考えたが、実績は 3.2%に止まった。しかし 第1期スタート時 消費者物価の伸びが2桁になっていたものが、目標を大きく下回って 1.9% インフレは収束している。尤も これはオイルショックで高騰していた石油価格が 反落したことが貢献している。改善の気配がなかったのは失業率である。農産物かハリウッドの映画産業しか輸出競争力を持たず、量的にも 品質の面からも他国に遅れを取ってしまった工業生産の手段は、人件費を抑えるため 海外に流出し、アメリカの労働市場は凋落してしまっていた。レーガンの規制緩和が これに追い討ちを掛けた。前述したポール・デンプシーの言葉を思い出してほしい。失業率は通算年平均 8.1%の高率で推移し、この間の悲惨指数も平均 13%と高止まった。悲惨指数がこの程度で収まったのは インフレが進行しなかったからである。

  もともとアメリカ人は貯蓄性向が低く クレディット社会である。そこへレーガノミクスによる大規模な減税が いっそう消費を刺激し、国内生産の不足分をすべて海外からの輸入に頼った。必然的に貿易赤字が膨らむ。もうひとつのマイナスが財政収支の赤字だ。巨額の減税と膨張する軍事費、歳入とのアンバランスが赤字になるのは当然で 「連邦政府財政収支」 は '86年度(昭和61年) 黒字282億ドルのシナリオが、逆にマイナス2123億ドルという惨憺たる結果を招いた。これを賄うためには 海外に向けて大量の国債を発行しなければならないが、その償還と金利がまた大変。ドルが基軸通貨だったからこそ出来た綱渡りで 「双子の赤字」 は、 終にアメリカを純債務国に陥れてしまった。レーガノミクスは どう見ても成功とは言えず、次期 シニア・ブッシュに政権を引き渡したとき 累積財政赤字は倍増していた。

 そのような状態であったにも拘らず 再選を果たしたレーガン大統領は、2期目に入って 堪らず ドル高の解消に舵を切った。それが双子の赤字是正を狙った “プラザ合意” である。

 プラザ合意とは、1985年(昭和60年) 9月22日 アメリカの呼びかけで 当時の先進5ヵ国 (日・米・英・独・仏) の大蔵大臣・財務長官と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルで会合、アメリカの貿易赤字 特に日本の輸出競争力を押さえ込むことが主眼で、会合直前の 1ドル当たり円相場の水準を切り下げることが合意されたのである。日本の大蔵大臣は竹下 登、首相は中曽根康弘であった。日本にそれだけの実力がついていたといえば それまでであるが、'71年(昭和46年 佐藤内閣) のニクソンショック、'79年(昭和54年) 東京サミットの際に  ディスカールデスタン・フランス大統領がやった "頭越し石油割り当て" で 大平首相に歯噛みをさせたデキゴトに続いて、屈辱的な合意だったといえる。

死  屍  累  々

 レーガン、サッチャー と 二人の保守的リーダーが採りあげ、経済政策の流れを 「新自由主義」 に切り替えたことで、世界各国の経済運営も 雪崩を打つように追随した感があった。日本でも レーガンに擦り寄った中曽根政権が 土光臨調の財政再建答申を足がかりに、国鉄・日本電信電話公社・専売公社の民営化に踏み込み、のちの話であるが 橋本龍太郎が “ビッグバン” を真似ようとしたり、小泉純一郎が郵政公社の分割民営化に 血道をあげることになる。その是非については必ずしも結論が出ているわけではないが、懸念されたように 労働環境や国民生活に大きな断層が出来てしまった。他の国々もそうであるように、3%ばかりのリッチと 圧倒的大多数の貧困層に分けられ、かつての中流階層がいなくなってしまったのだ。

 フリードマンら シカゴ学派の経済学者とその弟子たちは、いつしかケインジアンに代わって 政府や国際機関の枢要な椅子に座り 壮大な実験を行なった挙句、多く失敗し それぞれの国民を不幸に陥れた。フォークランド紛争でイギリスに敗れたアルゼンチンも  隣国チリの軍事政権も、そして 酔っ払いエリツィン・ロシアも、新自由主義、ネオリベラリズムに痛めつけられた。なぜ 市場原理主義が流行ったのか判らない。ハイエナのようなリッチ階級が  この思想に 餌の 腐臭を嗅ぎ取っているのか、私は 新自由主義は卑しい経済学ではないか と思っている。

                                    お わ り

 私の別ブログ “ヤクオ ギャラリー” に 「2050年の世界地図に 日本は存在するかを登載しています。世襲議員による政治屋の劣悪化と ますます露骨になってきた官僚主導型政治を排撃しました。書生論かも知れませんが、是非ご一読ください。

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コメント

毎回大変参考になります。昭和50年代生まれの私は、本やテレビでしか 過去の歴史を知ることが出来ません。それらも左翼的な背景を感じることが多く、奥山様のような視点のものには なかなか出会えません。当時の物価等は、とても驚きつつ 楽しく拝見しています。今後も続けて読ませてください。  祇園

投稿: 祇園 | 2009年5月23日 (土) 09時57分

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