新東京国際空港 日本の悲劇 1
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嵐 の 中 の 開 港 式
漆黒の闇の中で エプロンを照らす投光器の光芒を、よこなぐりの 激しい雨が降りつのっていた。天井の高い 新築ロビーの巨大なガラス壁面を通して 外の嵐はうかがい知れるのだが、雨あらしの音は まったく聞こえない。昭和53年5月20日の関東地方には、強い嵐が襲っていた。台風4号が南方洋上にあり 神奈川県海老名市の1時間雨量は 51ミリに達して、首都圏の通勤時間帯には 交通機関の乱れが発生しそうだった。
日付が変わる午前零時、新東京(成田)国際空港の広大なロビーの一画で 空港公団関係者 52人だけの簡素な 「開港式」 が執り行なわれた。神事のあと 総裁の宣言、若干の祝電が、深夜 皓々と照明が灯された空間に 空しくこだました。もちろん 売店などは閉ざされ 人影はなかった。いや 空港内の至るところの物陰に、 膨大な数の警察機動隊が潜み 厳重な警戒網が張り巡らされていた。さらに空港の周囲には 数千にのぼる 「開港反対勢力」 が雨のなかで 隙あらば…と屯していた。 ロビーに政府要人は 誰ひとり姿を見せず 式典は形ばかり、ごく短時間で終了したが 緊張感こそあれ、晴れ晴れしい笑顔を見ることはなかった。
翌21日から 空港は運航を開始、午前8時34分 到着第1便は ロサンゼルス発日本航空貨物便、旅客機の到着第1便は フランクフルト発日本航空 午後零時04分着陸。出発旅客便は 22日 サイパン・グアム行だった。航空機運行開始と同時に 京成電鉄空港線 (京成成田駅~成田空港駅) が開業。京成上野駅からの特急 “スカイライナー” が運行し始めている。
振り返れば 昭和41年7月 新国際空港建設予定地を 成田市三里塚付近と閣議決定してから、当初目標の昭和46年6月開港予定を大幅に超え、主滑走路4000メートル(アプローチエリア750mを含む) 一本だけの片肺とはいえ 延々12年間もの歳月を費やし、ともかくも開港に漕ぎつけた 日本のハブ空港なのだから、本来は国を挙げての慶事として 盛大に祝典を挙行すべきところなのに、賑々しいセレモニー、フェスティバルは いっさい取り止めになったのは何故か。その経緯を辿ってみようと思う。
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占領下の航空事情 と 米対日政策の180度転換
昭和20年 敗戦の日本は、GHQ (日本占領連合軍総司令部 場合によってはアメリカと呼び替える) によって 「官民を問わず 全ての日本国籍航空機の運行は停止」 され、航空管制権は米軍の手に渡った。トルーマン大統領は 「降伏後の初期対日方針」 を承認、その実施をマッカーサー連合軍総司令官に命じた。GHQは日本に進駐した直後、将来日本が 再び戦争を惹き起こす能力を持つことの無いよう、間接統治ながら 自由・民主主義的国家体制を確立させる諸施策を講じたものだ。いわく 「人権指令」 いわく 「憲法の改正」 をはじめ ① 婦人解放 ② 労組結成 ③ 学校教育民主化 ④ 秘密審問司法制度の撤廃 ⑤ 経済機構の民主化、などである。拘禁されていた 政治・思想犯を釈放させ、代わって 戦時中指導的立場にあった者20万人以上を 公職追放に処した上、戦争犯罪人と目された者たちを逮捕 「東京裁判」 に付して断罪した。農地を地主層から解放、旧財閥は全て解体、工業力を削ぐために大型軍需工場の幾つかを取り壊し接収した。残っていた軍艦などは 太平洋上で水爆実験の餌食になっている。
日・独・伊 軍事帝国主義的枢軸国を 協力して屠り去った 自由経済・民主主義西欧諸国と ソ連を中心とする共産主義東側陣営は、第2次世界大戦終了後 蜜月期間を置くいとまも無く、たちまち 対立状態に落ちいった。ただ、それぞれが核を持ったことで 抑制力がはたらき、いわゆる 「冷戦状態」 になる。その緊張が昂じた接点で 国境紛争・民族対立・内戦など 局地的代理戦争が起こり始めたのである。「ベルリン封鎖」 「中国内戦」 などだが、昭和25年に勃発した 「朝鮮戦争」 も そのひとつであった。
ここにきて アメリカの対日政策は大きく転換する。昭和23年1月6日 米ロイヤル陸軍長官は 「日本をして 反共の防壁にする」 と言明、3月20日 ドレーパー調査団を日本に送り込んでき 「ジョンストン報告書 (経済安定9原則)」 を作成させた。ジョンストン報告書は、当時 ハイパー・インフレに喘ぎ 竹馬に乗ったような日本経済をテコ入れしようとするものだったが、ロイヤル長官は 元デトロイト銀行頭取ドッジ公使や 経済学者シャゥプらを使って、日本経済に荒療治を施した。マッカーサーは “戦争放棄” の憲法を作らせておきながら、日本に軍備を持つ警察予備隊 → 自衛隊を組織させ 朝鮮戦争では核爆弾の使用まで仄めかすようになった。日本は “逆コース” を辿らざるを得なくなる。
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日本の復興 高度経済成長と航空需要の増大
講和条約が取沙汰されるようになり、アメリカは 日本が独立国としての体裁を整えるよう 配慮し始めた。米軍の引き揚げを果たすためにも、管理下に置いていた旧軍需工場 例えば八幡製鉄所など850件、羽田をはじめ主要な空港、軍事基地周辺を除く航空管制権などを 返還するようになった。日本側は 昭和24年には、YS‐11(短距離・中型) のプロペラ機開発を進め テスト飛行に成功している。このような流れのなかで GHQは、昭和25年6月 「日本の航空機運行停止を解除」 した。むろん 日本国籍でない海外の航空機は、既に多数 日本の空を飛び回っており、復興著しい日本経済と 外国企業ビジネスを結び付けていた。但し外貨制限もあり いわゆる観光客が 彼我往来することは、ほとんど無かった。
日本国籍の航空機運行解除を契機に、26年6月 日本航空(会長・藤山愛一郎) が創立され 米ノースウェスト航空他5社で構成するJADCに運行を委託する形で営業を開始している。そのうちのマーティン2‐0‐2型機 “もく星号” が伊豆大島で墜落事故を起こしたこともあって、日本航空は 新たにダグラスDC-4B型機を購入 自社運航機と自社運航要員による 「自主運航」 を開始、のちに日本のフラッグ・キャリアーとして発展していった。
昭和26年9月 サンフランシスコ講和条約が締結され、返還を受けた羽田空港が 「東京国際空港」 として業務を開始 日本航空は ホノルル、サンフランシスコへの国際線を運航するようになって Aクラス空港と認められるようになった。33年に米軍が撤退して 羽田の全施設管理業務が日本に移り、35年 大蔵省は、日本人の海外渡航・外貨制限を緩和 為替自由化措置を講じた。政権は池田内閣の時代に入っており、所得倍増、経済高度成長の緒についている。テレビの受信契約が500万件に達し カラー放送が始まったこの年、国内の航空機利用者が120万人を突破 海外旅行者の数も10万人台に近づいていた。伊丹や名古屋の空港も機能し 東京~札幌線にジェット機が投入されるようになると、品川沖の羽田空港が手狭になることは必定である。当時の技術では これ以上東京湾での 陸地埋立て造成は不可能とされた。ここに至り どうしても首都東京に近い場所に 海外にも通ずる 新しいハブ空港の建設は焦眉 (しょうび) の急務と認識され、37年11月 候補地未定のまま閣議決定された。因みに 39年には 貿易外為替(上限500ドル) の携行が許可され、海外旅行が自由になっている。
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新国際空港の建設候補地 選定の混乱
昭和38年中には 少なくとも6回 会議が持たれ、浦安、木更津、霞ヶ浦、富里などの地名が浮かび上がっていた。またこの年 何故か日本の空に航空機事故が続発している。昔 海軍の航空学校があった茨城県霞ヶ浦は、ボーリングの結果 大型機の離発着に不向きと判定され、河野一郎らが推した木更津など東京湾岸沿いも 立地としては 友納千葉県知事も賛意を示していたものの、あまり表立たなかったが、東京都福生市・横田基地、東京都・厚木 立川基地、神奈川県・横須賀基地と 関東平野を縦に連なる米軍基地航空管制空域の 見えない壁が立ちふさがって事実上困難。いきおい 北総 富里周辺に 候補地は絞られていった。この間 地元千葉県 友納知事は、農業主体の北総台地の発展を考えたか 佐藤首相と協議、富里案に傾き 40年11月18日 関係閣僚懇で審議発表した。富里市は勿論 近接する酒々井、芝山町議会も反対を表明した。特に富里市住民は トラクター50台のデモ行進を行ない、“反対派” 3000人が 41年2月7日 千葉県庁に押しかけ 警備警官隊と大乱闘になった。この事件で 富里案は暗礁に乗り上げた形となったが、運輸省航空局の試算で 「都心から100粁以内、羽田空港の7倍の面積に 4000メートル級の滑走路2本を含む 5本の滑走路を持てる平坦な土地」 は、そう簡単に 見出せるわけが無い。
富里は古えよりの農耕地帯で 候補とした地域には、昔からの住民が数多く居住している。空港を建設するには 1500戸以上の立退きを必要とするだろう。前年来の反対の気勢を見るならば、これを抑え 実行することは容易ではない。政府・与党は甲論乙駁するばかりで、地元への説明や 協力を求めようとする姿勢は、最初からまったく無かった。佐藤栄作は 旧鉄道省の出身、或いは かつて 昭和15~6年ごろに行なわれた 「東海道広軌別線敷設工事(現 東海道・山陽新幹線)」 において、強権を以って土地を収奪した記憶が残り、民意を窺う気持ちなどは さらに無かったのではあるまいか。航空写真を覗き込むことはあったかも知れないが、一度たりと 現地視察をしていないのである。
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三里塚 皇室御陵牧場利用案と 住民の反対
候補地の選定が行き詰まっているとき 密かな知恵者が蠢動した。千葉県出身の川島正次郎自民党副総裁と 若狭得治運輸事務次官が 佐藤首相に対し、富里より10粁ばかり東に位置した 「三里塚御料牧場」 を当てる提案を行なったのである。三里塚は宮内庁の管轄区域が大部分を占め 住民は戦後の満蒙引揚げ開拓農家が多く、富里地区で予想される立退き1500戸に比べ せいぜい500世帯未満で済む。不足する面積は 千葉県の公有山林を併せれば 十全とは言えないまでも、比較的円滑に計画が進むのではないか、というのだ。千葉県知事も合意、佐藤首相も 安易にこの案に飛びついた。三里塚の住民には 事前の根回しなどいっさい無く、頭越しの決定であった。佐藤首相が 友納知事に示した案は、当初計画が 1/2 に圧縮されていた。
成田市には、江戸時代に興された軍馬や農耕馬の牧場が、幾つか散在していた。今でも地名にその面影が残る。明治政府は、これらを牧羊場、牛馬の種蓄場として サラブレッドやアングロ・アラブ種の競走馬の飼育を行い、所管を宮内庁に移して下総御料牧場とした。明治の開設を前にしては、時の内務卿 大久保利通が駕を進め 親しく検分している。戦後 牧場としては維持できなくなったものの、かつての満蒙開拓団や外地からの引揚げ家族を迎え入れて、畑地としては荒蕪の土地ながら 再び開墾に当たらせていた。もちろん 彼らの労苦は並々のものではなかったと想像できるが、やっと 一息つき、将来が見通せるようになったところで、寝耳に水の 空港建設話が降りかかってきたのである。
もし 当時の為政者に、今で言う “国民の目線??” で政策を考える心があれば、かかる大事業については ひたすら 地元住民の協力を得るべき配慮が、そこにあって然るべきだったと思うが、佐藤栄作らには 大久保利通の姿勢の欠片すらなく、容貌が示すとおり “傲慢・横着" そのものであった。のちに政府は、このことを “ボタンの掛け違い" と称した。
41年7月7日 「新東京国際空港 建設公団 (NAA)」 が発足、反射的に10日 「三里塚・芝山連合空港建設反対同盟」 が結成された。NAAの総裁は 成田 努(なりた つとむ)…。これは、ブラック・ジョークか。
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澎湃として 地元に反対の声あがる
佐藤首相が、友納千葉県知事に “三里塚" を候補地として挙げ 協議した際、「三里塚の御料地(皇室の領地) と 周辺の県有地を中心にして、民有地にかかる面積を 極力圧縮したい」 と申し入れたのだが、これに従って知事は 成田市長に協力を要請している。だが 41年7月4日 政府の建設予定地公式発表に対して、早速 千葉県議会、成田市議会は 「反対決議」 を可決した。周辺自治体とて同じこと、既に 富里市をはじめ 酒々井町・芝山町議会も 反対を決議していたし、航空機の騒音を心配する町村もあった。それ以前の5月頃から 富里・八街の反対者は 「農地不売運動(一坪 マンモス登記) を開始している。
新東京国際空港公団 (以下 空港公団という) は、 地元住民に説明会を開催し 土地の買収予定価格 (畑地10アール〈300坪>当り 110~60万円) などの条件を示した。どんな場合でも 反対するものがいれば 必ずそれに反対し、賛成 または条件付賛意を現わすものが出る。それに伴って自治体内にも対立が表面化する。8月には、早くも さきに反対決議していた成田市議会が 決議を白紙撤回、41年末には 町民の傍聴もなく 芝山町も白紙に戻し、翌42年3月 富里市議会もこれに倣い、行政単位の反対は皆無になった。国などの利権工作が奏効したのか、成田市議会が反対決議を白紙撤回したことを受けて 住民の中に条件派組織 「成田空港対策部落協議会」 が発足した。空港公団の買収条件発表が呼び水になったのは間違いない。
地域の条件付反対論者が離れていった分、反作用の法則で 自らの生命の存在を懸けた人々の団結は 固さを倍加した。8月2日 反対同盟が 「一坪共有化運動」 を開始、最初の抗議行動として運輸省にデモを行なった。年末ごろには、天神峰に最初の団結小屋 (闘争本部) を作り、以後 駒井野、天浪、東峰、木の根 などに次々と増設していった。
反対同盟のリーダーは 地元で農機具店を営んでいた戸村一作、敬虔なクリスチャンで (画家・彫刻家でもあった) その独特のキャラクターは、運動の最後の最後 自らの死を迎える日まで 闘争の先頭に立ち続けた。
農繁期、農閑期、また農繁期へと、農作業と併行しつつ 開拓民の闘争は続いた。中心は青年行動隊、それを追って 婦人行動隊、少年行動隊が結成され 老人決死隊が加わって 家族ぐるみ、村ぐるみで戦った。婦人行動隊の一人は
「戦災に遭い 夫はこの地で死んだ。私は子供たちと ここで やっと自分の土地を拓いたんだ」 と叫んだ。力は足りずとも、この時期までは純然とした 農民たちのレジスタンスであった。
つ づ く
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