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2009年1月

新東京国際空港 日本の悲劇 2

   全学連急進的学生組織の 農民 “反対同盟" 支援

 農民たちの闘争に 社会党や共産党、労組などの千葉県共闘会議も、積極的に支援体制を敷き、県庁座り込みに参画したりしていたけれども、反対の声にはいっさい耳を貸さない  政府側の強権的姿勢と、農民たちの "力には力を…" とする ある種 頑なな意気込みに 既成革新党派は 次第に反対運動から引いていった。共産党もまた 極左学生運動家たちが現れたことで、農民たちの 「反対同盟」 と訣別した(代々木共産党は 反対同盟切り崩しのオルグ活動まで行ない、農民から排除されたのが実体)。 ここへきて 地元反対同盟は、遂に 昭和42年3月 「あらゆる民主勢力とも共闘する」 と声明することになる。彼らは 決して "魂” を売ったのでは無い。農民たちの魂は、血みどろになりつつも 純粋だった。それゆえに 三里塚の戦場にメフィストフェレスを招き容れてしまったのだ。昭和42年11月3日 やって来たのは、かねがね 「砂川基地闘争」 に関わっていた反日共系全学連・急進派の学生運動家たちだった。折から 「砂川基地拡張反対活動」 は 大勢(たいせい) が終息期に入り “土地収用認定取り消し” の勝利を勝ち取って 意気挙がっていたし、反代々木の武闘派は 抵抗運動のテクニックを心得ていた。

 降りかかった火の粉を、必死になって払おうとする 一途な農民の反対運動に比べて、彼らは 既成革新政党に飽き足らず トロッキズムに突っ走って 「暴力革命」 を掲げ、実力を以って 国家権力に立ち向かおうとする新左翼勢力だ。「労農連帯」 「三里塚最前線で 機動部隊を壊滅する」 と豪語、抵抗戦をより凄惨なものにした。

 空港公団が土地を収用し、建設工程に持ち込むには 手順があった。まず 収用すべき土地を確定するために 境界杭を打って測量し、それらの土地をボーリングして強度を測る。この作業を遂行するには、農牧地の立ち木を伐採しなければならないこともしばしばあった。地主と売買契約が成立すればよいが、そうでない場合は 当該土地を 土地収用法に基づいて認定を受ける必要がある。その段階で、地域収用委員会は現地調査の上 その可否を判定するが、続いて裁判所の裁定を受けて 法的に立ち退きを求め、応じなければ 執行官による強制代執行が為され、土地の所有権は空港公団の側に移る。

 農民たち 「反対同盟」 の結束力は固かったとはいえ 動員力は最大時で1000世帯 3000人、季節ごとの農作業も併行しつつ 団結小屋を根城にして、恒常的な空港公団の挑発と闘った。そして 前述した公団側の土地収用手順の節目 節目で、過激派学生が動員する支援部隊が、大規模な闘争行動を展開したのである。のちに 学生たちは小屋に泊り込んだり、防塞を築いて 農民青年行動隊と起居を共にするまでになった。空港公団職員・ガードマンとの小競り合いや、警察隊が出動するような衝突が 連日のように起こった。大規模な集会やデモ  抗議行動で、 数千人もの学生・支援者が糾合される場合は、それに倍する機動隊が動員された。昭和42年、43年、44年・・・・53年と、長い闘争のプロセスは Wikipedia の 「成田空港問題」 に詳述されているが、ここでは その折々のシチュエーションにおける、凄まじい抵抗闘争の幾つかを 若干 事実が前後するかも知れないが、採り上げ纏めてみたい。

   展 開 さ れ た  闘 争 の 地 獄 図

 42年10月10日 空港公団は2000人の機動隊に守られて 農地外郭線の杭打ちを強行、反対同盟側は1200人が座り込み抵抗したため、接点で衝突が起こり 同盟に2人の逮捕者と50人の負傷者(うち1人は重傷) が出た。機動隊の出動は これが初めてであった。この騒ぎの中で 共産党・民青同は “敵前逃亡” し 農民から絶縁状を叩きつけられている。翌月3日に行なわれた 「空港粉砕総決起集会」 に 初めて全学連過激派学生が 集団として参加した。

 43年2月26日 3月10日 には、集結場所を成田市営球場に置いて 約1600人(反対同盟700、学生900) が 「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止 現地総決起集会」 という舌を噛みそうな長ったらしいタイトルの集会を行ない、市中をデモった。学生たちは 空港公団分室の実力封鎖を企図しており 機動隊と激突、両回合わせて 逮捕330人以上、双方及び報道陣を含む500人以上の怪我人を出している。機動隊の動員人数は不明だが、両日デモの参加者を延べ3000人と見ても 逮捕者・負傷者の数が異常に多く、闘争の熾烈さが窺える。

 この間に 空港公団と用地買収の条件付賛成派が 「売買契約調印式」 を行ない、用地の86%が買収可能と見込まれるようになった。調印式には 当時の中曽根運輸大臣が立ち会っている(43年4月6日)。

 44年になると、老人行動隊が 宮内庁に “御料牧場存続” を請願したが、8月には閉場式が行なわれ 同時に地ならしに用いるブルドーザー搬入が始まり、阻止行動した戸村反対同盟委員長らが逮捕された。

 昭和45年2月 空港公団は、建設に反対し続ける 「三里塚・芝山連合反対同盟」 農民に “土地収用法" に基づく立ち入り調査通告書を送達した。何とか 48年4月には開港に漕ぎつけたい 強行手段の予告でもある。対象とした土地は 4000メートル滑走路予定地の北側 約1500平方メートル、この土地は 「一坪運動共有地」 で、既に前年末 千葉県土地収用委員会から権利取得・明け渡し裁決が出ていた。強制収用代執行は 22日午後零時55分に開始され、約200人のガードマンに守られた千葉県と空港公団職員を、さらに警視庁、千葉県警、神奈川、埼玉、関東管区各機動隊2900人がバックアップ体勢をとっていた。対する同盟は バリケードを築き、もんぺ姿の婦人行動隊が 「木を伐り倒すなら 人間も一緒に…」 と 2人一組で抱き合い 鎖で体を縛りつけ 死守しようとしたが、ガードマンたちは遠慮会釈なく 躍り懸かって立ち木とも根もとから伐り倒した。代執行は 3月25日終了。この間に 警官も含め1000人以上の重軽傷者、487人が逮捕されるという弾圧が加えられた。

 6月12日の千葉県収用委員会 第2次採決を受けて、 46年7月26日から30日までの間 農民たちが掘った地下壕は残存したままで、空港公団・警察隊は またも強引な代執行処分を実施、仮処分を終了すると共に 反対同盟の拠点 団結小屋を掃討してしまった。この攻防で 反対派に184人の逮捕者と600人を超える負傷者が出ている。

 引き続き46年9月16日 第2次強制執行では "日大” “BUND” などと書かれた旗、垂れ幕、看板で満艦飾(まんかんしょく) の駒井野鉄塔側壕にブルドーザーが押し込み、せめぎ合い、いつものごとく逮捕・負傷者が数百人も出たが、後方で過激派ゲリラ隊が東峰十字路付近で 神奈川県警機動隊を火炎瓶や鉄パイプで襲撃、火だるまになった警官3人が死亡した。警察にとって初めての死者である。反対同盟のほうでも 青年行動隊の一人が 「この地へ 空港を持ってきた者を憎む」 と書き置いて首吊り自殺している。

 東峰十字路で警官に死者が出た事件に関して 一斉検挙が始まった。特別捜査本部を設けて、46年12月18日から翌47年9月6日まで 実に15次にわたり
執拗に家宅捜索・不審尋問を繰り返し、その都度 5~10数人を 「傷害致死罪」 で逮捕拘束した。Wikipedia の 「成田空港問題」 の筆者は、反対同盟にシンパシーを抱く人だったのか このあたりの叙述に当り、しきりに “拷問(
ごうもん)” ”リンチ(私刑)” という表現を用いているが、事実 その通りではなかったかと思う。47年9月16日 反対同盟・学生・支援団体は、「第2次代執行阻止闘争一周年大会」 と称して6000人集会を催行 10月3日 警察側は長期拘留していた20人を保釈、11月12日の 「東峰十字路事件」 第1回公判に際して、逮捕していた残る139人を 1350万円の保釈金を取って釈放した。

 昭和44年から47年にかけては、学生運動が過激化し 東大・日大闘争から 「全共闘」 が生まれ、44年10月に警察隊8500人の導入で東大・安田講堂の封鎖を解除、45年 よど号ハイジャック、47年 あさま山荘事件、海外赤軍派は 47年イスラエル・テルアビブのロッド空港で無差別殺人事件を起こしている。そして更に 連続企業爆破、クアラルンプール事件、ダッカ事件へと繋がっていくのだが 千里万博に沸いたとはいえ 社会は物情騒然、成田闘争に爆発物が持ち込まれなかったことが、不思議に思える。

   最 後 の  攻 防  ク ラ イ マ ッ ク ス

 そうこうしているうちに 空港工事のほうは、遅ればせながら 少しづつ進捗していた。47年 空港管理ビルが竣工、4000メートル滑走路も姿を現わし 離着陸テストが開始されていた。だが 47年8月 空港公団今井総裁は、ジェット燃料を運ぶパイプライン工事の遅延で年内開港は困難 と 運輸大臣に報告している。滑走路では、反対派の次なる闘争手段を講じ始めた。頻度を増してきた飛行テストの妨害である。滑走路の延長線上に 高い鉄塔を築いたのだ。もちろん 堅牢なものではなく 鋼材や鉄板の切れ端・木材を繋ぎ合わせただけの無様なシロモノで、人間が登るのではなく 旗指物を高く掲げ、飛行機の離発着を邪魔さえすればよかった。それが 「岩山鉄塔(最高時100m)」 である。彼らは その異様な “バベルの塔” に拡声器を取り付け 見張り台を置いた。子供だましのようなもので あっても、かなり長い間 抵抗のシンボルにはなった。その攻防はテレビの画像となって 多くの目に触れたものだ。私は 現在成田空港の航空Photo_2 地図を見ていて、メイン滑走路南端部分に 「航空科学博物館」 なるものの存在を知ったが、その位置から ピンと来るものがあって 調べてみたら、山武郡芝山町岩山111‐3  矢張り ここが 「岩山鉄塔」 の跡地だった。平成元年8月に開館しているが、設立発起人代表に 笹山良一 とあった。左の写真は 博物館屋上展望台から 屋外展示物の一部を撮ったものらしいが、遠望すれば、小高い丘や森らしいものも見え かつての 三里塚の面影を髣髴させるようだ。

 52年1月 福田内閣は閣議で、難航している空港建設工事の促進と 年内開港を指示した。膠着状態に陥っていた空港前線は、俄然色めき 岩山鉄塔を回る攻防戦が活発になる。鉄条網を張り巡らせ 防御を固める反対同盟、撤去のために重機運搬の道路工事に着手する公団側、反対派は 3月に4500人の集会続き、4月17日には23000人もの大動員をかけ 「鉄塔防衛決起集会」 を開いた。警察はバス会社に 成田への人員輸送を禁じたり、野戦病院テントに機動隊を突っ込ませたり、団結小屋数ヶ所を破壊したりして、5月6日には 目的の岩山鉄塔の撤去に成功した。約半月ほどの間に 84人の逮捕、480人の負傷者(うち3人重傷) を出したが、支援者の一人 東山 薫 さんが 水平発射したガス弾の直撃で死亡し、 その翌日 芝山町長宅 警官詰め所に 火炎瓶が投げ込まれ、警官1人が殉職した。

 5月 東京・代々木公園で 15000人による 「沖縄と三里塚を結ぶ集会」、成田で 18000人の反対派が 「東山君虐殺糾弾集会」 を開いたが、8月 空港滑走路にはジャンボ機が発着するようになっていた。

 53年3月末に開港の目途がつき、反対同盟は 「開港阻止決戦突入」 を宣言、空港周辺は 一触即発の危機感が漲った。Xデー7日前の3月23日より 機動隊は14000人を配備 随所で待機した。3月26日になって、過激派が空港内外14ヶ所で いっせいに蜂起した。主力4000人が突入し、機動隊と壮絶な闘いを繰り広げた。彼らの多くは 掻き集められた烏合の衆ではなく、逮捕者の内訳を見ても 公務員・公共企業体職員が 25人、労働者 96人、高校生を含む学生30人余りとある。だが、これまで 反対活動の前面に出ていた過激派は、いったい 何処へ行ってしまったのか。 

 実は “第4インター” をはじめとする “戦旗・共産同” “ プロ青同” など 選り抜きのゲリラ20人は、威嚇射撃をかい潜って地下溝から  空港心臓部の中央管制塔に侵入・占拠に成功した。そして 彼らは 管制室内の無線その他 重要機器を、ことごとく叩き壊してしまったのだ。

 このことによって、愈々 開港準備が整ったかに見えた新東京国際空港の機能は、麻痺してしまった。もちろん 4日後に迫った開港は “お流れ”。日本政府は 恥を内外に曝した。4月2日 千葉県川上知事は、反対派に “休戦と対話" を呼びかけ、反対同盟は  ① 逮捕者の全員解放 ② 開港延期と二期工事の凍結 ③ 成田新法の撤廃と機動隊の撤収 を条件に 「話し合いを拒まない」 との態度をとった。だが この間にも過激派のゲリラ活動は熄まず、5月5日 酒々井町の京成電鉄操作場で深夜 空港特急スカイライナー 4輌に放火、全半焼。開港前日の19日には、中核派ゲリラが千代田市の米本中継所を襲っている。

 巻頭 53年5月20日深更の 密やかな “開港式典" の情景に戻るが、午前零時、日付が変わる時刻をわざと選んだわけではない。この日の開港を阻止すべく 22000人の反対派が、空港周辺に集結する間隙を衝いたのだ。このあと 反対同盟は 「百日戦闘」 を宣言、第5ゲート前の機動隊と衝突 48人が逮捕、25人が負傷している。

 ながながと 成田空港・開港までの経過を追ってきたが、これで全てが終わったわけではない。このあとも 「成田空港問題」 は、平成の今日まで 果てしなく続いているのだが、ひとまずここで筆を置こうと思う。


    

                                
                                             
Photo 「大型旅客機の発着が可能な 4000メートル級滑走路2本を含む、大小5本の滑走路を持つバブ空港を……」 という最初の構想を 半分の3滑走路計画に圧縮して、佐藤首相が 「三里塚案」 を千葉県知事に提示した 昭和41年6月から数えて、延々 12年間、昭和53年に出来上がった 「新東京国際空港」 の姿は、4000メートルのメイン滑走路だけで平行滑走路も 横風滑走路も無い、惨めな不完全空港だった。東京都心までの距離は60kmもあり、交通機関は未整備で 鉄道は京成電鉄か国鉄総武線、リムジン・バスの所要時間は80~120分もかかり 世界一不便な空港と酷評されたものだ。“アジアのハブ空港とは 烏滸(おこ) がましく、12年間も もたもたしているうちに シンガポール・チャンギー、香港・チェプ・ラップ・コック、韓国・仁川、と 各国で大規模な国際空港が誕生、成田は はるか後塵を拝することになってしまった。

 (因みに ボーイング747型 ジャンボ機標準で、成田空港の着陸料金が95万円であるのに対し、香港は38万円、韓国・仁川は33万円、シンガポールも成田の1/3で、とても太刀打ちできない

 公式な数値を見出すことは出来なかったが、いったい この空港を建設するために “空費” してしまった総金額は、如何ほどにのぼったことか。地主を喜ばせたり 地元経済を潤すことも無く、徒 (いたずら) に 機動隊の人件費ばかりを膨らませ、破壊修復に無駄ガネを投ずるなど、厖大なロスを発生させてしまっただけではなく、過激派グループの暴力行為を誘発助長して 人心を荒廃させてしまった罪は、決して 見逃せるもにではない。“憎しみ” と “怨念" のみが渦巻く 負のエネルギーになって、随所で 何度も噴き上がった。そしてそれは、単に三里塚空港建設地周辺だけのことに止まらず、学生運動の暴走を助長、企業の連続爆破や 過激派の抗争分裂を惹起して、日本赤軍派が跳梁 (ちょうりょう) する 不安定な社会を現出してしまった。

 “もし…” という言葉は許されないが、敢えて 「もし 北総・三里塚御料牧場の地に、空港建設を思い立ったとき 政治に携わっていた人たちが、自らその地を訪ね そこに住まう農民に “辞を低くし 条理を尽くして" 協力を求め、十分な補償と代替地を斡旋するなど」 誠意ある姿勢で接していたら… と思う。それを 佐藤栄作は、傲岸不遜 (ごうがんふそん) にも、問答無用の強権的態度で臨んだのだ。傲岸不遜とは 権勢を笠に着て 驕り高ぶり、 殊更に威張る態度をとることをいう。“一寸の虫にも 五分の魂” というが、三里塚や芝山で 国家権力に蹂躙された人々が、過激派メフィストの魔手に引き摺られたとはいえ 死を以って抵抗した心情は察するに余りある。比肩するところありとすれば それは、沖縄基地だろう。

 私が この昭和エピソードに 「日本の悲劇」 と題したのは、国民の生命と財産を守り、平和と幸福を約束すべき 総理大臣に、佐藤栄作のような人物を頂かざるを得なかった 当時 三里塚の犠牲者、そして 今も猶 引き続いている日本の政治体制を指して、“悲劇" と称したのである。 

 

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新東京国際空港 日本の悲劇 1

嵐 の 中 の 開 港 式

 漆黒の闇の中で エプロンを照らす投光器の光芒を、よこなぐりの 激しい雨が降りつのっていた。天井の高い 新築ロビーの巨大なガラス壁面を通して 外の嵐はうかがい知れるのだが、雨あらしの音は まったく聞こえない。昭和53年5月20日の関東地方には、強い嵐が襲っていた。台風4号が南方洋上にあり 神奈川県海老名市の1時間雨量は 51ミリに達して、首都圏の通勤時間帯には 交通機関の乱れが発生しそうだった。

 日付が変わる午前零時、新東京(成田)国際空港の広大なロビーの一画で 空港公団関係者 52人だけの簡素な 「開港式」 が執り行なわれた。神事のあと 総裁の宣言、若干の祝電が、深夜 皓々と照明が灯された空間に 空しくこだました。もちろん 売店などは閉ざされ 人影はなかった。いや 空港内の至るところの物陰に、 膨大な数の警察機動隊が潜み 厳重な警戒網が張り巡らされていた。さらに空港の周囲には 数千にのぼる 「開港反対勢力」 が雨のなかで 隙あらば…と屯していた。 ロビーに政府要人は 誰ひとり姿を見せず 式典は形ばかり、ごく短時間で終了したが 緊張感こそあれ、晴れ晴れしい笑顔を見ることはなかった。

 翌21日から 空港は運航を開始、午前8時34分 到着第1便は ロサンゼルス発日本航空貨物便、旅客機の到着第1便は フランクフルト発日本航空 午後零時04分着陸。出発旅客便は 22日 サイパン・グアム行だった。航空機運行開始と同時に 京成電鉄空港線 (京成成田駅~成田空港駅) が開業。京成上野駅からの特急 “スカイライナー” が運行し始めている。

 振り返れば 昭和41年7月 新国際空港建設予定地を 成田市三里塚付近と閣議決定してから、当初目標の昭和46年6月開港予定を大幅に超え、主滑走路4000メートル(アプローチエリア750mを含む) 一本だけの片肺とはいえ 延々12年間もの歳月を費やし、ともかくも開港に漕ぎつけた 日本のハブ空港なのだから、本来は国を挙げての慶事として 盛大に祝典を挙行すべきところなのに、賑々しいセレモニー、フェスティバルは いっさい取り止めになったのは何故か。その経緯を辿ってみようと思う。

 占領下の航空事情 と 米対日政策の180度転換

 昭和20年 敗戦の日本は、GHQ (日本占領連合軍総司令部  場合によってはアメリカと呼び替える) によって 「官民を問わず 全ての日本国籍航空機の運行は停止」 され、航空管制権は米軍の手に渡った。トルーマン大統領は 「降伏後の初期対日方針」 を承認、その実施をマッカーサー連合軍総司令官に命じた。GHQは日本に進駐した直後、将来日本が 再び戦争を惹き起こす能力を持つことの無いよう、間接統治ながら 自由・民主主義的国家体制を確立させる諸施策を講じたものだ。いわく 「人権指令」 いわく 「憲法の改正」 をはじめ  ① 婦人解放 ② 労組結成 ③ 学校教育民主化 ④ 秘密審問司法制度の撤廃 ⑤ 経済機構の民主化、などである。拘禁されていた 政治・思想犯を釈放させ、代わって 戦時中指導的立場にあった者20万人以上を 公職追放に処した上、戦争犯罪人と目された者たちを逮捕 「東京裁判」 に付して断罪した。農地を地主層から解放、旧財閥は全て解体、工業力を削ぐために大型軍需工場の幾つかを取り壊し接収した。残っていた軍艦などは 太平洋上で水爆実験の餌食になっている。

 日・独・伊 軍事帝国主義的枢軸国を 協力して屠り去った 自由経済・民主主義西欧諸国と ソ連を中心とする共産主義東側陣営は、第2次世界大戦終了後 蜜月期間を置くいとまも無く、たちまち 対立状態に落ちいった。ただ、それぞれが核を持ったことで 抑制力がはたらき、いわゆる 「冷戦状態」 になる。その緊張が昂じた接点で 国境紛争・民族対立・内戦など 局地的代理戦争が起こり始めたのである。「ベルリン封鎖」 「中国内戦」 などだが、昭和25年に勃発した 「朝鮮戦争」 も そのひとつであった。

 ここにきて アメリカの対日政策は大きく転換する。昭和23年1月6日 米ロイヤル陸軍長官は 「日本をして 反共の防壁にする」 と言明、3月20日 ドレーパー調査団を日本に送り込んでき 「ジョンストン報告書 (経済安定9原則)」 を作成させた。ジョンストン報告書は、当時 ハイパー・インフレに喘ぎ 竹馬に乗ったような日本経済をテコ入れしようとするものだったが、ロイヤル長官は 元デトロイト銀行頭取ドッジ公使や 経済学者シャゥプらを使って、日本経済に荒療治を施した。マッカーサーは “戦争放棄” の憲法を作らせておきながら、日本に軍備を持つ警察予備隊 → 自衛隊を組織させ 朝鮮戦争では核爆弾の使用まで仄めかすようになった。日本は “逆コース” を辿らざるを得なくなる。

日本の復興 高度経済成長と航空需要の増大

 講和条約が取沙汰されるようになり、アメリカは 日本が独立国としての体裁を整えるよう 配慮し始めた。米軍の引き揚げを果たすためにも、管理下に置いていた旧軍需工場 例えば八幡製鉄所など850件、羽田をはじめ主要な空港、軍事基地周辺を除く航空管制権などを 返還するようになった。日本側は 昭和24年には、YS‐11(短距離・中型) のプロペラ機開発を進め テスト飛行に成功している。このような流れのなかで GHQは、昭和25年6月 「日本の航空機運行停止を解除」 した。むろん 日本国籍でない海外の航空機は、既に多数 日本の空を飛び回っており、復興著しい日本経済と 外国企業ビジネスを結び付けていた。但し外貨制限もあり いわゆる観光客が 彼我往来することは、ほとんど無かった。

 日本国籍の航空機運行解除を契機に、26年6月 日本航空(会長・藤山愛一郎) が創立され 米ノースウェスト航空他5社で構成するJADCに運行を委託する形で営業を開始している。そのうちのマーティン2‐0‐2型機 “もく星号” が伊豆大島で墜落事故を起こしたこともあって、日本航空は 新たにダグラスDC-4B型機を購入 自社運航機と自社運航要員による 「自主運航」 を開始、のちに日本のフラッグ・キャリアーとして発展していった。

 昭和26年9月 サンフランシスコ講和条約が締結され、返還を受けた羽田空港が 「東京国際空港」 として業務を開始 日本航空は ホノルル、サンフランシスコへの国際線を運航するようになって Aクラス空港と認められるようになった。33年に米軍が撤退して 羽田の全施設管理業務が日本に移り、35年 大蔵省は、日本人の海外渡航・外貨制限を緩和 為替自由化措置を講じた。政権は池田内閣の時代に入っており、所得倍増、経済高度成長の緒についている。テレビの受信契約が500万件に達し カラー放送が始まったこの年、国内の航空機利用者が120万人を突破 海外旅行者の数も10万人台に近づいていた。伊丹や名古屋の空港も機能し 東京~札幌線にジェット機が投入されるようになると、品川沖の羽田空港が手狭になることは必定である。当時の技術では これ以上東京湾での 陸地埋立て造成は不可能とされた。ここに至り どうしても首都東京に近い場所に  海外にも通ずる 新しいハブ空港の建設は焦眉 (しょうび) の急務と認識され、37年11月 候補地未定のまま閣議決定された。因みに 39年には 貿易外為替(上限500ドル) の携行が許可され、海外旅行が自由になっている。

 新国際空港の建設候補地  選定の混乱

 昭和38年中には 少なくとも6回 会議が持たれ、浦安、木更津、霞ヶ浦、富里などの地名が浮かび上がっていた。またこの年 何故か日本の空に航空機事故が続発している。昔 海軍の航空学校があった茨城県霞ヶ浦は、ボーリングの結果 大型機の離発着に不向きと判定され、河野一郎らが推した木更津など東京湾岸沿いも 立地としては 友納千葉県知事も賛意を示していたものの、あまり表立たなかったが、東京都福生市・横田基地、東京都・厚木 立川基地、神奈川県・横須賀基地と 関東平野を縦に連なる米軍基地航空管制空域の 見えない壁が立ちふさがって事実上困難。いきおい 北総 富里周辺に 候補地は絞られていった。この間 地元千葉県 友納知事は、農業主体の北総台地の発展を考えたか 佐藤首相と協議、富里案に傾き 40年11月18日 関係閣僚懇で審議発表した。富里市は勿論 近接する酒々井、芝山町議会も反対を表明した。特に富里市住民は トラクター50台のデモ行進を行ない、“反対派” 3000人が 41年2月7日 千葉県庁に押しかけ 警備警官隊と大乱闘になった。この事件で 富里案は暗礁に乗り上げた形となったが、運輸省航空局の試算で 「都心から100粁以内、羽田空港の7倍の面積に 4000メートル級の滑走路2本を含む 5本の滑走路を持てる平坦な土地」 は、そう簡単に 見出せるわけが無い。

 富里は古えよりの農耕地帯で 候補とした地域には、昔からの住民が数多く居住している。空港を建設するには 1500戸以上の立退きを必要とするだろう。前年来の反対の気勢を見るならば、これを抑え 実行することは容易ではない。政府・与党は甲論乙駁するばかりで、地元への説明や 協力を求めようとする姿勢は、最初からまったく無かった。佐藤栄作は 旧鉄道省の出身、或いは かつて 昭和15~6年ごろに行なわれた 「東海道広軌別線敷設工事(現 東海道・山陽新幹線)」 において、強権を以って土地を収奪した記憶が残り、民意を窺う気持ちなどは さらに無かったのではあるまいか。航空写真を覗き込むことはあったかも知れないが、一度たりと 現地視察をしていないのである。

 三里塚 皇室御陵牧場利用案と 住民の反対

 候補地の選定が行き詰まっているとき 密かな知恵者が蠢動した。千葉県出身の川島正次郎自民党副総裁と 若狭得治運輸事務次官が 佐藤首相に対し、富里より10粁ばかり東に位置した 「三里塚御料牧場」 を当てる提案を行なったのである。三里塚は宮内庁の管轄区域が大部分を占め 住民は戦後の満蒙引揚げ開拓農家が多く、富里地区で予想される立退き1500戸に比べ せいぜい500世帯未満で済む。不足する面積は 千葉県の公有山林を併せれば 十全とは言えないまでも、比較的円滑に計画が進むのではないか、というのだ。千葉県知事も合意、佐藤首相も 安易にこの案に飛びついた。三里塚の住民には 事前の根回しなどいっさい無く、頭越しの決定であった。佐藤首相が 友納知事に示した案は、当初計画が 1/2 に圧縮されていた。

 成田市には、江戸時代に興された軍馬や農耕馬の牧場が、幾つか散在していた。今でも地名にその面影が残る。明治政府は、これらを牧羊場、牛馬の種蓄場として サラブレッドやアングロ・アラブ種の競走馬の飼育を行い、所管を宮内庁に移して下総御料牧場とした。明治の開設を前にしては、時の内務卿 大久保利通が駕を進め 親しく検分している。戦後 牧場としては維持できなくなったものの、かつての満蒙開拓団や外地からの引揚げ家族を迎え入れて、畑地としては荒蕪の土地ながら 再び開墾に当たらせていた。もちろん 彼らの労苦は並々のものではなかったと想像できるが、やっと 一息つき、将来が見通せるようになったところで、寝耳に水の 空港建設話が降りかかってきたのである。

 もし 当時の為政者に、今で言う “国民の目線??” で政策を考える心があれば、かかる大事業については ひたすら 地元住民の協力を得るべき配慮が、そこにあって然るべきだったと思うが、佐藤栄作らには 大久保利通の姿勢の欠片すらなく、容貌が示すとおり “傲慢・横着" そのものであった。のちに政府は、このことを “ボタンの掛け違い" と称した。

 41年7月7日 「新東京国際空港 建設公団 (NAA)」 が発足、反射的に10日 「三里塚・芝山連合空港建設反対同盟」 が結成された。NAAの総裁は 成田 努(なりた つとむ)…。これは、ブラック・ジョークか。

澎湃として  地元に反対の声あがる

 佐藤首相が、友納千葉県知事に “三里塚" を候補地として挙げ 協議した際、「三里塚の御料地(皇室の領地) と 周辺の県有地を中心にして、民有地にかかる面積を 極力圧縮したい」 と申し入れたのだが、これに従って知事は 成田市長に協力を要請している。だが 41年7月4日 政府の建設予定地公式発表に対して、早速 千葉県議会、成田市議会は 「反対決議」 を可決した。周辺自治体とて同じこと、既に 富里市をはじめ 酒々井町・芝山町議会も 反対を決議していたし、航空機の騒音を心配する町村もあった。それ以前の5月頃から 富里・八街の反対者は 「農地不売運動(一坪 マンモス登記) を開始している。

 新東京国際空港公団 (以下 空港公団という) は、 地元住民に説明会を開催し 土地の買収予定価格 (畑地10アール〈300坪>当り 110~60万円) などの条件を示した。どんな場合でも 反対するものがいれば 必ずそれに反対し、賛成 または条件付賛意を現わすものが出る。それに伴って自治体内にも対立が表面化する。8月には、早くも さきに反対決議していた成田市議会が 決議を白紙撤回、41年末には 町民の傍聴もなく 芝山町も白紙に戻し、翌42年3月 富里市議会もこれに倣い、行政単位の反対は皆無になった。国などの利権工作が奏効したのか、成田市議会が反対決議を白紙撤回したことを受けて 住民の中に条件派組織 「成田空港対策部落協議会」 が発足した。空港公団の買収条件発表が呼び水になったのは間違いない。

 地域の条件付反対論者が離れていった分、反作用の法則で 自らの生命の存在を懸けた人々の団結は 固さを倍加した。8月2日 反対同盟が 「一坪共有化運動」 を開始、最初の抗議行動として運輸省にデモを行なった。年末ごろには、天神峰に最初の団結小屋 (闘争本部) を作り、以後 駒井野、天浪、東峰、木の根 などに次々と増設していった。

 反対同盟のリーダーは 地元で農機具店を営んでいた戸村一作、敬虔なクリスチャンで (画家・彫刻家でもあった) その独特のキャラクターは、運動の最後の最後 自らの死を迎える日まで 闘争の先頭に立ち続けた。

 農繁期、農閑期、また農繁期へと、農作業と併行しつつ 開拓民の闘争は続いた。中心は青年行動隊、それを追って 婦人行動隊、少年行動隊が結成され 老人決死隊が加わって 家族ぐるみ、村ぐるみで戦った。婦人行動隊の一人は
「戦災に遭い 夫はこの地で死んだ。私は子供たちと ここで やっと自分の土地を拓いたんだ」 と叫んだ。力は足りずとも、この時期までは純然とした 農民たちのレジスタンスであった。

                                     つ づ く

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昭和53年 (1978)

【デキゴト】
01・04 円の対ドル相場 1$=237.9円の安値を記録 年末は195.1円に…
01・10 総理府 初の 「婦人白書」 を発表 (女性労働人口 全体の37.4%)
01・10 園田外相訪ソ コスイギン首相と会談 領土問題対立で共同声明断念
01・14 伊豆大島近海で M7.0の地震発生 死者・行方不明25人
01・21 自民党旧田中派 「政治局友会」 結成 又候 派閥の復活始まる
01・24 原子炉を搭載した ソ連の宇宙衛星がカナダに墜落
02・05 別府大分マラソン 宋 茂 が 2時間9分5.6秒 の世界記録で優勝
02・06 警察機動隊 成田空港反対派の鉄塔要塞を撤去作業 (~8日)
02・14 円相場高騰関連 中小企業対策臨時措置法を施行
02・18 市民グループが 「嫌煙権確立を目指す人々の会」 結成
02・20 米経済学者 J・K・ガルブレイス著 「不確実性の時代」 刊行される
02・23 長崎県壱岐で 漁業被害対策として イルカ約1000頭を撲殺
02・25 S・スピルバーグ監督の映画 「未知との遭遇」 封切
02・28 関東地方に“春一番” 江戸川鉄橋で地下鉄東西線が脱線 21人重軽傷
03・01 北陸スモン訴訟 患者側勝訴 以後 東京・福岡も 相次ぎ勝訴
03・05 中国 新憲法を採択 (4つの近代化・台湾解放を明記)
03・06 大蔵省 全国銀行協会連合会代表に サラ金への融資自粛を要請
03・14 イスラエル軍 レバノン南部のパレスチナ・ゲリラ基地攻撃 一帯を占領
03・15 106年の歴史ある東京教育大が閉校 のち 「筑波大学」 に…
03・16 イタリアで <赤い旅団> モロ前首相を誘拐   5/9 射殺体で発見
03・20 初の国産発電用原子炉 「ふげん」 臨界に… 7/29~送電開始
03・26 成田空港で 反対派ゲリラが管制塔襲撃 機器類を破壊し開港延期に…
03・30 前橋高校の松本 稔投手 春夏全国高校野球史上 初の完全試合 達成
04・06 第1回 日本アカデミー作品賞に山田洋次監督 「幸福の黄色いハンカチ」
04・09 保守系候補 林田悠紀夫 京都府知事 当選 (保守 29年ぶりで府政奪還)
04・18 石油税法 公布 (エネルギー対策の税源)
04・21 大韓航空機 北極圏でソ連戦闘機に攻撃され不時着 日本人含2人死亡
04・27 アフガニスタンで軍事クーデター 大統領射殺 革命評議会 政権掌握
04・30  冒険家 植村直己 世界初 犬ぞりで 単独北極点到達
05・20 新東京国際空港 4000mのA滑走路のみで開港 反対派闘争継続宣言
05・23 ニューヨークで 初の国連軍縮特別総会 開幕
06・02 外務省公電漏洩事件の上告を 最高裁棄却 西山元
記者の有罪確定
06・12 宮城県沖地震発生 M7.5 死者28人 仙台中心にライフラインが破壊
06・14 元号法制化促進 国会議員連盟 設立 (10/17 閣議元号法制化を決定)
06・24 ジョージ・ルーカスの SF映画 「スター・ウォーズ」 封切
07・01 厚生省 日本人の平均寿命 男性72.69歳 女性77.95歳で世界1と…
07・11 京都で 山口組田岡組長 松田組系組員に狙撃されて負傷
07・11 環境庁 二酸化窒素など大気汚染環境基準を大幅に緩和
07・13 全国の郵便局で 「進学積立貯金」 の受付開始
07・19 防衛庁 栗栖統幕会議議長 記者会見で 「緊急時には自衛隊の
        超法規的行動もありうる」 と発言 (7/29 更迭)

07・16 第4回 サミット 西ドイツ・ボンで開催  インフレなき成長 「ボン宣言」
07・25 イギリスで世界初の体外受精児(試験管ベビー) 誕生 倫理的懸念
07・27 福田首相 防衛庁に 「有事立法」 の研究促進を指示
07・29 東京・両国の花火大会が 17年ぶりに 「隅田川花火大会」 として復活
07・30 沖縄県が交通ルールを改正して 車両運転 “左側通行” に変更
08・01 郵便貯金の オンライン化 開始
08・05 松本零志原作 アニメ映画 「さらば宇宙戦艦ヤマト」 封切
08・12 園田外相 日中の 「平和友好条約」 調印 47年の角栄訪中より 6年目
08・15 福田首相 靖国神社参拝 (内閣総理大臣と 肩書き記帳) 違憲と問題に…
08・21 岐阜県で サラ金苦の男性がダイナマイト自殺
08・22 植村直己 グリーンランド単独横断に成功
08・30 巨人 王 貞治選手 後楽園球場で前人未到の 通算800号本塁打
08・31 阪急・今井雄太郎投手 対ロッテ戦でプロ野球14人目の完全試合達成
09・03 サラ金の8割が 法定金利の倍以上で営業と 法務省が発表
09・05 福田首相 日本首相として初めて 中東産油4ヶ国訪問
09・05 米・エジプト・イスラエル 中東和平3ヵ国会談開催 (~9/17)
09・08 自衛隊のジェット機 埼玉・狭山市住宅街に墜落・炎上 乗員2人死亡
09・08 イランで王制打倒デモが過激に… 戒厳令布告 軍部発砲
       12/10 全国的にパーレビー国王の退位要求デモ 起こる
       12/26 首都テヘランで反国王デモ隊と市街戦  12/30 国王退位

09・18 埼玉県教委 稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文 解読結果を発表
09・21 統一神霊教会 埼玉県上川村で合同見合い 1610組が婚約式 ??
09・22 郵政省 NHKと民放6社に 音声多重放送予備免許を交付
10・04 プロ野球ヤクルトスワローズ 苦節29年目で初優勝
10・12 警察庁 初のサラ金実態調査結果 発表 (自殺130人 家出1502人)
10・16 青木 功 ゴルフ世界マッチプレーで 日本男子初の海外世界戦 制覇
10・17 靖国神社 東条英機らA級戦犯17人を 密かに合祀
10・22 鄧小平 中国副首相来日 (ざっくばらんな人柄が 好感される)
      10/23 「日米安保・自衛隊増強は当然」 と発言 天皇と会見
      天皇は 過去日中関係につき 「一時 不幸な出来事もあった」 と発言
10・23 日中平和友好条約が 発効
10・24 北海道有珠山で 泥流が洞爺湖温泉を襲い 3人死亡
10・26 新日鉄 4製鉄所の 9設備休止の合理化案を 労組に提示
11・03 国鉄 「いい日 旅立ち」 キャンペーンを開始
11・11 無限連鎖講 (ねずみ講)防止法 公布
11・21 江川 卓 と巨人が 野球協約の盲点 「空白の一日」 を突いて契約
11・22 三菱重工 2年間で1万人削減の合理化案を 労組に提示
11・25 全国サラ金問題対策協議会 設置
11・26 自民党総裁予備選挙で 大平正芳幹事長が 第1位
      11/27 福田首相 本選挙の立候補辞退を表明
「天の声にも変なのが…」
      12/1  自民党新総裁 大平正芳に決定 (三角大福 一回り)

11・27 第17回 日米安保協議委員会 「防衛協力のための方針」 を決定
12・05 日米農産物交渉妥結 (牛肉・オレンジの輸入枠拡大 ほか…)
12・06 福 田 内 閣  総 辞 職 
12・07 大平正芳内閣 成立 外務・園田 直 大蔵・金子一平
12・10 自民党推薦の 西銘順治 沖縄県知事に当選 (革新県政10年で幕)
12・25 ベトナムvsカンボジア(ポル・ポト)カンボジア東部で激戦 (~12/28)
12・26 イランのテヘランで 反国王デモ激化 暴動に発展 石油輸出停止
      12/28 テヘラン市内で市街戦 石油生産も全面停止
12・27 政府税制調査会 一般消費税の試案を 答申
12・28 俳優の田宮二郎が 自宅で散弾銃自殺 多額の負債

ファミリーレストランが盛況に   (都会では)ディスコがブーム
北朝鮮工作員による拉致事件多発   家庭内暴力 話題に…
窓際族が随所で発生    イギリスで世界初の試験管ベビー誕生

【物 価】
国鉄普通乗車券 上野~青森 6300円 新橋~大阪 5100円 入場券 80円
白米 10kg  3012円  銭湯 155円  瓶ビール 215円  かけそば 250円
朝日新聞セット 月決め 2000円   週刊朝日 180円

国家公務員 初任給 94,600円   大卒男子 初任給 105,500円
都市サラリーマン 平均月収 306,082円

【流行語】
フィーバー   不確実性の時代  男はタフでなければ 生きていけない
バカにしないでよ   窓際族   嫌煙族   サラ金地獄   ダサイ
田中軍団   SF映画   な~ちゃって…   アーウー   

【新製品】
カラーテレビ  アンビエンス音声多重   松下電器     218,000円
テープレコーダ   カセット デンスケ    ソ ニ ー        99,800円
流 し 台     ク オ リ テ        サンウエーブ       ――
ウ ォ ッ チ    エクシー・ゴールド     シチズン      270,000円
ワードプロセッサー 日本語ワープロ JW‐10  東  芝    6,300,000円

紙おむつ   風船ガム   うーろん茶   使い捨てカイロ

【ベストセラー】
不確実性の時代       J・ガルブレイス       講 談 社
不 毛 地 帯         山 崎 豊 子       新 潮 社
和 宮 様 御 留         有 吉 佐 和 子       講 談 社
黄 金 の 日 々         城 山 三 郎        新 潮 社
家 庭 教 育 論         広 中 平 祐       講 談 社

【流行歌】
夢 追 い 酒    作詞・星野栄一   作曲・遠藤 実    歌手・渥美二郎
与    作       作詞・作曲 原譲二 (北島三郎)     歌手・北島三郎
青 葉 城 恋 歌    作詞・星間船一   作曲・さとう宗幸   歌手・さとう宗幸
い い 日 旅 立 ち    作詞・作曲 谷村新司          歌手・山口百恵

【野 球】
プ ロ 野 球  優 勝   セ ・ リーグ = ヤクルト  パ ・ リーグ = 阪 急
           日本シリーズ   ヤクルト  4勝 3敗

「江川問題」 11月21日 ドラフト会議を翌日に控え、直前日は規定に拘束されない “空白の一日” とする巨人の解釈で 作新学園 江川 卓 選手と選手契約を結んだ。虚をついたようなこの契約は無効、とコミッショナーは断じ、阪神が江川を指名し 一旦阪神に入団したのち、巨人にトレードに出した。 …エガワる。

第50回 選抜高等学校野球大会  静岡・浜松商 2-0 福井商・福井
第60回 全国高等学校野球選手権  大阪・
PL学園 3-2 高知商・高知
 大阪代表PL学園は 9回ウラに 0-2 から逆転 劇的に優勝した。

【邦 画】
サ  ー  ド     東 陽一 監督(寺山修司・脚本) 永島敏行 峰岸 徹 島倉千代子
鬼   畜      野村芳太郎 監督   緒形 拳  岩下志麻 ほか  
冬 の 華      降旗康男 監督   高倉 健 池上季美子 ほか
ダイナマイトどんどん  岡本喜八 監督  菅原文太 北大路欣也 ほか

【洋 画】
家  族 の 肖  像    ルキノ・ヴィスコンティ監督  バート・ランカスター  シルヴァーナ・マンガーノ
未 知 と の 遭 遇   スティーヴン・スピルバーグ監督  リチャード・ドレイフアス ら
愛 と 喝 采 の 日 々 ハーバート・ロス監督 シャリー・マクレーン アン・バンクロフト ら 
ジ ュ リ ア        フレッド・ジンネマン監督 ジェーン・フォンダ ヴァネッサ・レッドクレイグ ら
ミスターグッドバーヲ探して  リチャード・ブルックス監督 ダイアン・キートン アンサン・トム ら
ナ イ ル 殺 人 事 件  ジョン・ギラーミン監督 ピーター・ユスティノフ ミア・ファーロー ら
ア ニ ー ・ ホ ー ル  ウッディ・アレン監督  ウッディ・アレン ダイアン・キートン ら
ス タ ー ・ ウ ォ ー ズ ジョージ・ルーカス監督 ハリソン・フォード マーク・ハミル ら

【この年】
 前年の 【この年】 に書き漏らした事項を 1~2取り上げる。福田は首相に就任するや、“派閥解消" を呼びかけ 自派を先行解散してしまった。已むなく各派もこれに倣ったが 政策集団などを作って 実態は温存された(
のちに 旧福田派も 「清和会」 として復活している)。また 前任三木武夫から申し送られたテーマだといって “開かれた党総裁選挙" を提唱、第34回 党大会で 制度改訂が為された。内容は かねて三木が主張していた通り、広く党員・党友による予備選を経て絞り込んだ候補を 国会議員と自民党県連代表が最終投票で決定するというものだった。福田にしてみれば深慮遠謀のつもりだったのかも知れないが、この公選規定が 2年後 大平との対決に思わぬ障害となる。

 もうひとつは “全方位(平和)外交" を志向し、8月にフィリピンで いわゆる 「福田ドクトリン」 を発表したことだ。第11回参議院選挙に勝利したのち 8月6日から 「東南アジア諸国連合 (ASEAN、豪首相やニュージーランド首相も参加) に出席 引き続き東南アジア6カ国を歴訪した最後の 8月18日に、マニラで演説した。
 
 ① 日本は 軍事大国とならないとの決意のもとに、東南アジア ひいては世界の平和と繁栄に貢献していく。

 ② 日本は 東南アジア地域とのあいだで、政治・経済のみならず 社会・文化など広範な分野において 心と心の触れ合う相互信頼関係の構築を目指す。

 ③ 日本は 対等な協力者として、連帯と強靭性の強化に向けたASEANの自主努力に 他の域外国とともに協力する。

 言ってみれば当然の発言だったのだが、昭和49年にバンコクやジャカルタで 前代未聞の反日デモ・反日暴動に遭った田中角栄を反面教師とし 心配りのきいた姿勢を示した。たとえば ② の “心と心の触れ合う… といったフレーズは、事務方の原稿になかったものを 福田が書き加えたものだったという。

 また 昭和40年代後半、南ベトナム、ラオス、カンボジァ など非共産主義国が雪崩を打って崩壊し ASEAN諸国に緊張が高まっていた環境を背景にして、これら地域の安定と繁栄のために 国際政治の有力なアクターとして積極的、能動的に貢献する姿勢を鮮明にしたという点で 「福田ドクトリン」 は高い評価を以って迎えられた。福田のスピーチを目の前で聴いたマルコス大統領は、「われわれは久しく 日本がこういう姿勢で登場してくることを待っていた」 と コメントしている。

 福田首相はこののち サミットへの出席、アメリカとの経済摩擦の抑制、中国との平和友好条約調印、対ソ関係の調整、中東産油国への訪問など、多彩な外交活動を展開した。

 国内政治では安定経済成長をベースに 定住圏環境の整備を盛り込んだ 「第3次 全国総合開発計画 (三全総)」 を発表、内閣改造を行なって 駒を並べ替えた。官房長官に安倍晋太郎、園田 直を外務大臣に横滑りさせ、経済企画庁長官に宮沢喜一、対外経済担当として元駐米大使 牛場信彦を当て、政調会長だった河本敏夫を閣内に入れて通産大臣に、総務会長には中曽根康弘を配した。いまだに横這いの状態にある経済の活性化、対中国 平和友好条約調印のための布陣である。

 田中内閣時代 地価の高騰と物価の上昇、かてて加えて襲来した外患 “オイルショック” によって昂進したインフレの対処を乞われ 「全治3年」 と請け負ったにも拘らず、4年が経っても 沈み込んだ景気は一向に浮揚しなかった。勢い財政に手段を委ねざるを得なくなる。総需要抑制は棚上げ、予算の中に公共工事の比重が高まっていき 挙句 赤字国債が増加し始めた。いったん広げた国家予算の枠は なかなか圧縮困難である。後年 累増していった赤字国債の軌跡を振り返ると、昭和40年 佐藤内閣の初発以来、わが国の赤字財政の元凶は 皮肉にも 安定成長論者だった福田赳夫に帰するといわざるを得ない。

 或いは 既に一大勢力になっていた田中派 「建設族」 を抑えきれず、彼らそれぞれの地元への利益誘導工作が 予算編成を壟断していたからかも知れない。

 10年以上も昔、彼も閣議に連なった佐藤内閣の初期に 建設候補地が千葉県北部と決まり、以来 反対農民たちとの軋轢 (あつれき) を繰り返してきた 「新東京(成田)国際空港が やっと開港した。5月20日のことである。農民たちの反対運動に加担した 学生運動や極左活動家の、長い 「成田闘争の経緯」 については 次回 「昭和エピソード」 で採り上げる。

 53年の年明け早々 1月14日に伊豆大島で M7.0の地震が起こり、死者・行方不明25人の被害が出たが、6月12日には 宮城県沖でマグニチュード7.4の地震が発生、仙台市を震度5の激震が襲った。当時人口50万人以上の仙台市域では、死者 16人、重軽傷者 10119人、家屋の全半壊 4385戸、部分壊が86010戸という損害を受けた。この都市地震は ブロック塀の倒壊で多数の死者を出し、また 驚いて屋外に飛び出し ガラス片や落下物での負傷者が多かった。 いっぽう 季節が初夏で 地震にはまず火の始末という意識が定着していたせいか、火災は僅か8件と 極めて少なかった。だが 電気・ガス・水道といったライフラインに大きな損害が出た。

 「サラ金地獄」 という言葉が流行った。“プレイ  ナゥ ペィ レイター” などといわれて 手軽に借金できる反面、年利フタケタは ザラという高金利、その上 業者の取立ては常識を超えたものだった。大蔵省は 全国銀行協会連合会の代表に サラ金への融資自粛を求め、警察庁も実態調査に乗り出したところ 1年間の自殺者は180人、蒸発・家出者は 2203人を数えた。この実態に基づいて 「サラ金規制法」 が提案されたものの廃案となり、その後も 2回の廃案と4回の継続審議を経て 成立したのは、5年後の昭和58年4月のこと。業者から献金を受けていた国会議員の抵抗によって、法規制が実現するまでに犠牲者の数は ヒトケタ撥ね上ってしまった。

 10月17日には 靖国神社が、密かに 東条英機ら A級戦犯17人を合祀している。

 昭和47年に起こった 「外務省機密公電漏洩事件 (毎日新聞 西山記者が、外務省女性事務官を篭絡 (ろうらく) して 沖縄返還に係る機密をスッパ抜いた)」 につき、最高裁は上告を棄却 西山記者は有罪が確定した。

 プロ野球のドラフト会議を翌日に控え 巨人は、作新学園 江川 卓投手と ドラフト外の選手契約を交わした。会議の前日は 拘束されない “空白の一日" という解釈だった。虚をついた巨人のやり口に憤りの声が挙がった。セ・リーグ会長は契約を無効と断じたが、22日のドラフト会議に巨人側は欠席、阪神が江川を指名した。結局 コミッショナーの強い要望に沿う形で、江川はいったん阪神に入団したのち 小林 繁投手とトレードによって 巨人に移籍した。このことから “強引に 無理を押し通すことを 「エガワる」 という動詞形の流行語になった。

 覇権論争など 停滞していた中国との関係は、外相に就任した園田 直が訪中して 復活を果たした 鄧小平副首相や黄華外相などと話を詰め、角栄の日中国交回復後6年目にして 8月12日 「日中平和友好条約」 に正式調印した。そして 10月、最高実力者となった鄧小平が 「条約批准書」 を携えて初来日した。文化大革命の嵐の中で 失脚と復活を繰り返し “不死鳥”と呼ばれた 異色で小柄な政治家は、まことに ざっくばらんな人柄で 日本人に好感を与え 天皇とも会見、「日米安保・自衛隊の増強は当然」 と 発言したりした。同時に 日産自動車、新日本製鉄、松下電器 などを精力的に見学、中国の遅れを率直に認め 先進国日本から積極的に学ぼうとする姿勢を明確にした。彼は こののち、中国の近代化を強力に推進する。

 福田首相は9月5日から 日本の総理大臣として初めて、中東産油4カ国を訪問したが、そのうちイランでは王制打倒のクーデターに遭遇している。パフレヴィ国王との会談中 窓外に銃声を聞いたという。イランの王朝は独裁圧制を敷いていたが、石油の価値が上がるにつれて シャー・パフレヴィに対する批判が高まり、紛争が頻発した。そして パリに追放されていた イスラム・シーア派のホメイニ師が帰国するに及び、革命派が勢いを増して イラン・イスラーム共和国が成立した。ホメイニ師は 急進的な最高指導者に就任した。

 奇妙なデキゴトが記録されている。9月21日 統一神霊教会なるものが、埼玉県上川村というところで合同見合いを行ない なと そこで1610組の婚約が成立したというのだ。主催者は 世界基督教統一神霊教会という宗教法人らしいのだが、開祖は金鮮明(ムン・ソンミョン) といい キリスト教とは関わりもなく 勝共連合とか、原理研とか さまざまな貌を持ち、洗脳儀式、ニセ募金活動、高麗人参販売、霊感商法 を行なったりして 得体が知れない。

 もっと奇妙なことは、この宗教団体に 岸信介、安倍晋太郎・晋三親子、福田赳夫、保岡興治 など 政治家が深い関わりを以っているらしいことである。中曽根康弘など この団体の儀式・大会に祝電を打つ代議士も数多く、鳩山由紀夫の名前が出てきて戸惑う。陣笠議員なら 献金目当てと思うが、一国の首相を勤めるほどの政治家の名前が羅列されると、一体ナゼなのだと疑念を持つ。教団の活動初期の 本部的建物を 渋谷区松涛の岸 信介邸の隣りに構えていたというから、その関わりはただ事ではなさそうである。彼らを庇護していた者には 右翼の笹川良一や児玉誉志夫らもいたという。韓国における庇護者は 朴正煕大統領だったというから、或いは 岸 信介の満州人脈に繋がるのかも知れない。

 福田に就いて更にいえば、"日本の宝石王" といわれる大谷貴義という人物との関係も気に懸かる。政財官界や 闇の世界に隠然とした影響力を持つとされ、児玉誉志夫と並ぶフィクサー といわれている男だ。大谷の息女は、茶道 裏千家14世 千宗室の三男に 嫁いでいるが、福田は 作家吉川英治と共に媒酌人を務め、更に大谷本人の死去に際しても葬儀委員長になっている。

 さて昭和51年 大福連携で総理の座についた福田だったが、組閣当初の低人気から見れば 政権運営にさしたる疎漏もなく、それなりに評判が上がってきたこともあって欲が出た。かつて岸 信介が 大野伴睦にやったと同じように、大平との約束を棚に上げ 党総裁再選に意欲を見せ始めたのだ。当然 大平側は2年で政権を譲るとした密約の履行を求めたが 話し合いは決裂、総理・総裁の座は 予備選から始まる 「総裁選挙」 で決着をつけることになった。普通 形勢は現職に有利に働く。政治評論家の細川隆元は 「福田に決っとる!」 と断言し、福田もまた 「世界が福田を必要としている…」 と 自信満々で 「予備選に負けたら 本選には出ない」 と豪語した。

 総裁選に立候補したのは、福田、大平のほかに中曽根康弘と河本敏夫。大平にとっての難点は、予備選大票田の東京に 支持層を殆ど持たないところにあった。持ち点102の東京では中曽根が強く、福田、河本と続いて、大平はゼロに近かった。大平、田中派の代議士に 関東地方出身者がいなかったのだ。

 そんな劣勢を 角栄の号令一発、バックアップしたのが田中派である。まず 門外不出と言われていた党員名簿を 竹下 登が持ち出し、大平選挙対策本部長に就いた 後藤田正晴が、所属 国会議員秘書260人を動員 ヘリコプターを使って撮影した写真を元に 市街地図上に党員宅をチェック、最短距離をとって行動することで 2人1組 3日間で約2万軒の党員を訪問するという “ローラー作戦" と 電話作戦を敢行した。そして 豊臣秀吉が墨俣の一夜城を築城したごとく、大平陣営は東京に橋頭堡を築いた。

 その結果 総裁予備選挙は、大平正芳が784 (約55万票) 福田赳夫 638 (約45万票) と 150ポイント(10万票) 近く 大平が福田を引き離し圧勝、福田は本選挙の出馬を断念して 「天の声にも ときには変な声もある…。敗軍の将 兵を語らず」 と捨て台詞を残して 政権を退き、12月7日 大平内閣が成立した。

 この一連の政変を “第2次 角福戦争" と呼び、角栄が 「キングメーカー」  後藤田が 「日本のアンドロポフ」 と 言われるようになった。

「総理大臣の犯罪」 の付録として “ヤクオ ギャラリー” に
2050年の世界地図に “日本” は 存在するか
を搭載しました。是非ご覧ください。           奥 山  和

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