新東京国際空港 日本の悲劇 2
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全学連急進的学生組織の 農民 “反対同盟" 支援
農民たちの闘争に 社会党や共産党、労組などの千葉県共闘会議も、積極的に支援体制を敷き、県庁座り込みに参画したりしていたけれども、反対の声にはいっさい耳を貸さない 政府側の強権的姿勢と、農民たちの "力には力を…" とする ある種 頑なな意気込みに 既成革新党派は 次第に反対運動から引いていった。共産党もまた 極左学生運動家たちが現れたことで、農民たちの 「反対同盟」 と訣別した(代々木共産党は 反対同盟切り崩しのオルグ活動まで行ない、農民から排除されたのが実体)。 ここへきて 地元反対同盟は、遂に 昭和42年3月 「あらゆる民主勢力とも共闘する」 と声明することになる。彼らは 決して "魂” を売ったのでは無い。農民たちの魂は、血みどろになりつつも 純粋だった。それゆえに 三里塚の戦場にメフィストフェレスを招き容れてしまったのだ。昭和42年11月3日 やって来たのは、かねがね 「砂川基地闘争」 に関わっていた反日共系全学連・急進派の学生運動家たちだった。折から 「砂川基地拡張反対活動」 は 大勢(たいせい) が終息期に入り “土地収用認定取り消し” の勝利を勝ち取って 意気挙がっていたし、反代々木の武闘派は 抵抗運動のテクニックを心得ていた。
降りかかった火の粉を、必死になって払おうとする 一途な農民の反対運動に比べて、彼らは 既成革新政党に飽き足らず トロッキズムに突っ走って 「暴力革命」 を掲げ、実力を以って 国家権力に立ち向かおうとする新左翼勢力だ。「労農連帯」 「三里塚最前線で 機動部隊を壊滅する」 と豪語、抵抗戦をより凄惨なものにした。
空港公団が土地を収用し、建設工程に持ち込むには 手順があった。まず 収用すべき土地を確定するために 境界杭を打って測量し、それらの土地をボーリングして強度を測る。この作業を遂行するには、農牧地の立ち木を伐採しなければならないこともしばしばあった。地主と売買契約が成立すればよいが、そうでない場合は 当該土地を 土地収用法に基づいて認定を受ける必要がある。その段階で、地域収用委員会は現地調査の上 その可否を判定するが、続いて裁判所の裁定を受けて 法的に立ち退きを求め、応じなければ 執行官による強制代執行が為され、土地の所有権は空港公団の側に移る。
農民たち 「反対同盟」 の結束力は固かったとはいえ 動員力は最大時で1000世帯 3000人、季節ごとの農作業も併行しつつ 団結小屋を根城にして、恒常的な空港公団の挑発と闘った。そして 前述した公団側の土地収用手順の節目 節目で、過激派学生が動員する支援部隊が、大規模な闘争行動を展開したのである。のちに 学生たちは小屋に泊り込んだり、防塞を築いて 農民青年行動隊と起居を共にするまでになった。空港公団職員・ガードマンとの小競り合いや、警察隊が出動するような衝突が 連日のように起こった。大規模な集会やデモ 抗議行動で、 数千人もの学生・支援者が糾合される場合は、それに倍する機動隊が動員された。昭和42年、43年、44年・・・・53年と、長い闘争のプロセスは Wikipedia の 「成田空港問題」 に詳述されているが、ここでは その折々のシチュエーションにおける、凄まじい抵抗闘争の幾つかを 若干 事実が前後するかも知れないが、採り上げ纏めてみたい。
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展 開 さ れ た 闘 争 の 地 獄 図
42年10月10日 空港公団は2000人の機動隊に守られて 農地外郭線の杭打ちを強行、反対同盟側は1200人が座り込み抵抗したため、接点で衝突が起こり 同盟に2人の逮捕者と50人の負傷者(うち1人は重傷) が出た。機動隊の出動は これが初めてであった。この騒ぎの中で 共産党・民青同は “敵前逃亡” し 農民から絶縁状を叩きつけられている。翌月3日に行なわれた 「空港粉砕総決起集会」 に 初めて全学連過激派学生が 集団として参加した。
43年2月26日 3月10日 には、集結場所を成田市営球場に置いて 約1600人(反対同盟700、学生900) が 「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止 現地総決起集会」 という舌を噛みそうな長ったらしいタイトルの集会を行ない、市中をデモった。学生たちは 空港公団分室の実力封鎖を企図しており 機動隊と激突、両回合わせて 逮捕330人以上、双方及び報道陣を含む500人以上の怪我人を出している。機動隊の動員人数は不明だが、両日デモの参加者を延べ3000人と見ても 逮捕者・負傷者の数が異常に多く、闘争の熾烈さが窺える。
この間に 空港公団と用地買収の条件付賛成派が 「売買契約調印式」 を行ない、用地の86%が買収可能と見込まれるようになった。調印式には 当時の中曽根運輸大臣が立ち会っている(43年4月6日)。
44年になると、老人行動隊が 宮内庁に “御料牧場存続” を請願したが、8月には閉場式が行なわれ 同時に地ならしに用いるブルドーザー搬入が始まり、阻止行動した戸村反対同盟委員長らが逮捕された。
昭和45年2月 空港公団は、建設に反対し続ける 「三里塚・芝山連合反対同盟」 農民に “土地収用法" に基づく立ち入り調査通告書を送達した。何とか 48年4月には開港に漕ぎつけたい 強行手段の予告でもある。対象とした土地は 4000メートル滑走路予定地の北側 約1500平方メートル、この土地は 「一坪運動共有地」 で、既に前年末 千葉県土地収用委員会から権利取得・明け渡し裁決が出ていた。強制収用代執行は 22日午後零時55分に開始され、約200人のガードマンに守られた千葉県と空港公団職員を、さらに警視庁、千葉県警、神奈川、埼玉、関東管区各機動隊2900人がバックアップ体勢をとっていた。対する同盟は バリケードを築き、もんぺ姿の婦人行動隊が 「木を伐り倒すなら 人間も一緒に…」 と 2人一組で抱き合い 鎖で体を縛りつけ 死守しようとしたが、ガードマンたちは遠慮会釈なく 躍り懸かって立ち木とも根もとから伐り倒した。代執行は 3月25日終了。この間に 警官も含め1000人以上の重軽傷者、487人が逮捕されるという弾圧が加えられた。
6月12日の千葉県収用委員会 第2次採決を受けて、 46年7月26日から30日までの間 農民たちが掘った地下壕は残存したままで、空港公団・警察隊は またも強引な代執行処分を実施、仮処分を終了すると共に 反対同盟の拠点 団結小屋を掃討してしまった。この攻防で 反対派に184人の逮捕者と600人を超える負傷者が出ている。
引き続き46年9月16日 第2次強制執行では "日大” “BUND” などと書かれた旗、垂れ幕、看板で満艦飾(まんかんしょく) の駒井野鉄塔側壕にブルドーザーが押し込み、せめぎ合い、いつものごとく逮捕・負傷者が数百人も出たが、後方で過激派ゲリラ隊が東峰十字路付近で 神奈川県警機動隊を火炎瓶や鉄パイプで襲撃、火だるまになった警官3人が死亡した。警察にとって初めての死者である。反対同盟のほうでも 青年行動隊の一人が 「この地へ 空港を持ってきた者を憎む」 と書き置いて首吊り自殺している。
東峰十字路で警官に死者が出た事件に関して 一斉検挙が始まった。特別捜査本部を設けて、46年12月18日から翌47年9月6日まで 実に15次にわたり
執拗に家宅捜索・不審尋問を繰り返し、その都度 5~10数人を 「傷害致死罪」 で逮捕拘束した。Wikipedia の 「成田空港問題」 の筆者は、反対同盟にシンパシーを抱く人だったのか このあたりの叙述に当り、しきりに “拷問(ごうもん)” ”リンチ(私刑)” という表現を用いているが、事実 その通りではなかったかと思う。47年9月16日 反対同盟・学生・支援団体は、「第2次代執行阻止闘争一周年大会」 と称して6000人集会を催行 10月3日 警察側は長期拘留していた20人を保釈、11月12日の 「東峰十字路事件」 第1回公判に際して、逮捕していた残る139人を 1350万円の保釈金を取って釈放した。
昭和44年から47年にかけては、学生運動が過激化し 東大・日大闘争から 「全共闘」 が生まれ、44年10月に警察隊8500人の導入で東大・安田講堂の封鎖を解除、45年 よど号ハイジャック、47年 あさま山荘事件、海外赤軍派は 47年イスラエル・テルアビブのロッド空港で無差別殺人事件を起こしている。そして更に 連続企業爆破、クアラルンプール事件、ダッカ事件へと繋がっていくのだが 千里万博に沸いたとはいえ 社会は物情騒然、成田闘争に爆発物が持ち込まれなかったことが、不思議に思える。
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最 後 の 攻 防 ク ラ イ マ ッ ク ス
そうこうしているうちに 空港工事のほうは、遅ればせながら 少しづつ進捗していた。47年 空港管理ビルが竣工、4000メートル滑走路も姿を現わし 離着陸テストが開始されていた。だが 47年8月 空港公団今井総裁は、ジェット燃料を運ぶパイプライン工事の遅延で年内開港は困難 と 運輸大臣に報告している。滑走路では、反対派の次なる闘争手段を講じ始めた。頻度を増してきた飛行テストの妨害である。滑走路の延長線上に 高い鉄塔を築いたのだ。もちろん 堅牢なものではなく 鋼材や鉄板の切れ端・木材を繋ぎ合わせただけの無様なシロモノで、人間が登るのではなく 旗指物を高く掲げ、飛行機の離発着を邪魔さえすればよかった。それが 「岩山鉄塔(最高時100m)」 である。彼らは その異様な “バベルの塔” に拡声器を取り付け 見張り台を置いた。子供だましのようなもので あっても、かなり長い間 抵抗のシンボルにはなった。その攻防はテレビの画像となって 多くの目に触れたものだ。私は 現在成田空港の航空
地図を見ていて、メイン滑走路南端部分に 「航空科学博物館」 なるものの存在を知ったが、その位置から ピンと来るものがあって 調べてみたら、山武郡芝山町岩山111‐3 矢張り ここが 「岩山鉄塔」 の跡地だった。平成元年8月に開館しているが、設立発起人代表に 笹山良一 とあった。左の写真は 博物館屋上展望台から 屋外展示物の一部を撮ったものらしいが、遠望すれば、小高い丘や森らしいものも見え かつての 三里塚の面影を髣髴させるようだ。
52年1月 福田内閣は閣議で、難航している空港建設工事の促進と 年内開港を指示した。膠着状態に陥っていた空港前線は、俄然色めき 岩山鉄塔を回る攻防戦が活発になる。鉄条網を張り巡らせ 防御を固める反対同盟、撤去のために重機運搬の道路工事に着手する公団側、反対派は 3月に4500人の集会続き、4月17日には23000人もの大動員をかけ 「鉄塔防衛決起集会」 を開いた。警察はバス会社に 成田への人員輸送を禁じたり、野戦病院テントに機動隊を突っ込ませたり、団結小屋数ヶ所を破壊したりして、5月6日には 目的の岩山鉄塔の撤去に成功した。約半月ほどの間に 84人の逮捕、480人の負傷者(うち3人重傷) を出したが、支援者の一人 東山 薫 さんが 水平発射したガス弾の直撃で死亡し、 その翌日 芝山町長宅 警官詰め所に 火炎瓶が投げ込まれ、警官1人が殉職した。
5月 東京・代々木公園で 15000人による 「沖縄と三里塚を結ぶ集会」、成田で 18000人の反対派が 「東山君虐殺糾弾集会」 を開いたが、8月 空港滑走路にはジャンボ機が発着するようになっていた。
53年3月末に開港の目途がつき、反対同盟は 「開港阻止決戦突入」 を宣言、空港周辺は 一触即発の危機感が漲った。Xデー7日前の3月23日より 機動隊は14000人を配備 随所で待機した。3月26日になって、過激派が空港内外14ヶ所で いっせいに蜂起した。主力4000人が突入し、機動隊と壮絶な闘いを繰り広げた。彼らの多くは 掻き集められた烏合の衆ではなく、逮捕者の内訳を見ても 公務員・公共企業体職員が 25人、労働者 96人、高校生を含む学生30人余りとある。だが、これまで 反対活動の前面に出ていた過激派は、いったい 何処へ行ってしまったのか。
実は “第4インター” をはじめとする “戦旗・共産同” “ プロ青同” など 選り抜きのゲリラ20人は、威嚇射撃をかい潜って地下溝から 空港心臓部の中央管制塔に侵入・占拠に成功した。そして 彼らは 管制室内の無線その他 重要機器を、ことごとく叩き壊してしまったのだ。
このことによって、愈々 開港準備が整ったかに見えた新東京国際空港の機能は、麻痺してしまった。もちろん 4日後に迫った開港は “お流れ”。日本政府は 恥を内外に曝した。4月2日 千葉県川上知事は、反対派に “休戦と対話" を呼びかけ、反対同盟は ① 逮捕者の全員解放 ② 開港延期と二期工事の凍結 ③ 成田新法の撤廃と機動隊の撤収 を条件に 「話し合いを拒まない」 との態度をとった。だが この間にも過激派のゲリラ活動は熄まず、5月5日 酒々井町の京成電鉄操作場で深夜 空港特急スカイライナー 4輌に放火、全半焼。開港前日の19日には、中核派ゲリラが千代田市の米本中継所を襲っている。
巻頭 53年5月20日深更の 密やかな “開港式典" の情景に戻るが、午前零時、日付が変わる時刻をわざと選んだわけではない。この日の開港を阻止すべく 22000人の反対派が、空港周辺に集結する間隙を衝いたのだ。このあと 反対同盟は 「百日戦闘」 を宣言、第5ゲート前の機動隊と衝突 48人が逮捕、25人が負傷している。
ながながと 成田空港・開港までの経過を追ってきたが、これで全てが終わったわけではない。このあとも 「成田空港問題」 は、平成の今日まで 果てしなく続いているのだが、ひとまずここで筆を置こうと思う。
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「大型旅客機の発着が可能な 4000メートル級滑走路2本を含む、大小5本の滑走路を持つバブ空港を……」 という最初の構想を 半分の3滑走路計画に圧縮して、佐藤首相が 「三里塚案」 を千葉県知事に提示した 昭和41年6月から数えて、延々 12年間、昭和53年に出来上がった 「新東京国際空港」 の姿は、4000メートルのメイン滑走路だけで平行滑走路も 横風滑走路も無い、惨めな不完全空港だった。東京都心までの距離は60kmもあり、交通機関は未整備で 鉄道は京成電鉄か国鉄総武線、リムジン・バスの所要時間は80~120分もかかり 世界一不便な空港と酷評されたものだ。“アジアのハブ空港とは 烏滸(おこ) がましく、12年間も もたもたしているうちに シンガポール・チャンギー、香港・チェプ・ラップ・コック、韓国・仁川、と 各国で大規模な国際空港が誕生、成田は はるか後塵を拝することになってしまった。
(因みに ボーイング747型 ジャンボ機標準で、成田空港の着陸料金が95万円であるのに対し、香港は38万円、韓国・仁川は33万円、シンガポールも成田の1/3で、とても太刀打ちできない)
公式な数値を見出すことは出来なかったが、いったい この空港を建設するために “空費” してしまった総金額は、如何ほどにのぼったことか。地主を喜ばせたり 地元経済を潤すことも無く、徒 (いたずら) に 機動隊の人件費ばかりを膨らませ、破壊修復に無駄ガネを投ずるなど、厖大なロスを発生させてしまっただけではなく、過激派グループの暴力行為を誘発助長して 人心を荒廃させてしまった罪は、決して 見逃せるもにではない。“憎しみ” と “怨念" のみが渦巻く 負のエネルギーになって、随所で 何度も噴き上がった。そしてそれは、単に三里塚空港建設地周辺だけのことに止まらず、学生運動の暴走を助長、企業の連続爆破や 過激派の抗争分裂を惹起して、日本赤軍派が跳梁 (ちょうりょう) する 不安定な社会を現出してしまった。
“もし…” という言葉は許されないが、敢えて 「もし 北総・三里塚御料牧場の地に、空港建設を思い立ったとき 政治に携わっていた人たちが、自らその地を訪ね そこに住まう農民に “辞を低くし 条理を尽くして" 協力を求め、十分な補償と代替地を斡旋するなど」 誠意ある姿勢で接していたら… と思う。それを 佐藤栄作は、傲岸不遜 (ごうがんふそん) にも、問答無用の強権的態度で臨んだのだ。傲岸不遜とは 権勢を笠に着て 驕り高ぶり、 殊更に威張る態度をとることをいう。“一寸の虫にも 五分の魂” というが、三里塚や芝山で 国家権力に蹂躙された人々が、過激派メフィストの魔手に引き摺られたとはいえ 死を以って抵抗した心情は察するに余りある。比肩するところありとすれば それは、沖縄基地だろう。
私が この昭和エピソードに 「日本の悲劇」 と題したのは、国民の生命と財産を守り、平和と幸福を約束すべき 総理大臣に、佐藤栄作のような人物を頂かざるを得なかった 当時 三里塚の犠牲者、そして 今も猶 引き続いている日本の政治体制を指して、“悲劇" と称したのである。
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