総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 6
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政権簒奪 (さんだつ) を巡る "角福戦争" の熾烈
昭和47年7月5日 佐藤栄作退陣のあとを受ける 自由民主党総裁選挙が、東京・日比谷公会堂で行なわれた。第1回投票結果は 田中角栄 156票、福田赳夫 150票、大平正芳 101票、三木武夫 69票であった。立候補を見送っていた中曽根総務会長の手配で 直ちに 1位・2位による決選投票を実施、田中が282票 福田 190票で勝負がついた。その瞬間、角栄の喉 (のど) から 「うぉッ」 と うめきにも似た声が、ほとばしり出た。学歴も 門閥も持たぬ男が、とうとう 総理大臣の座を射止めたのである。宿敵福田に圧勝しただけでなく、積年 領袖と仰いで尽くしてきた佐藤栄作をも 組み伏せたのだ。
田中角栄と福田赳夫。二人のあいだで共通するのは 「頭がよかった」 ということぐらいで、全く対照的な境遇を過ごしてきた。福田赳夫は群馬県金古町の産、江戸時代から名主 (庄屋) を努めた名門、福田善治の二男である。小学生の頃から神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し 第一高等学校から東京帝国大学法学部に進学、高等文官試験を一番の成績で突破 大蔵省に入省したと言う絵に描いたようなエリートだ。明治38年1月の生まれというから、角栄からすれば 13歳の年長に当る。大蔵省でも主計畑を歩いて トントン拍子の出世街道を突っ走り、局長にまで上り詰めた。いわゆる 閨閥に連なる人物ではないが、父や兄も金古町長を務めるなど 地方の名家で育った 順風満帆の人生だったといえる。
その福田が 事務次官を目前にして蹉跌 (さてつ) を踏んだのは、昭和23年 かの昭電疑獄に連座し 収賄容疑で逮捕されたことだ。結果としては無罪になったものの、彼は これを機に大蔵省を退官、雌伏の時期をおいて 昭和27年の第25回総選挙に 群馬3区から無所属立候補、当選を果たした。このとき福田は47歳。田中角栄は 34歳の3年生議員として 議員立法の立案に勤 (いそ) しむと同時に、党の建設委員会地方総合開発小委員会委員長として のちに池田内閣における 「全国総合開発計画 = 一全総」 のベースとなる報告書をまとめ上げている。
いっぽう 福田の党内での躍進も 目覚しいものがあった。かねて 野田卯一、池田勇人とともに “大蔵省の三田" と称された逸材である。昭和30年 岸 信介に目をかけられて その庇護の下に、自民党政調副会長に昇進している。同年2月 角栄は衆議院商工委員長に就任。片や 党の準三役、片や 国会の常任委員長、両雄は互角の立場になった。角栄が最年少郵政大臣に抜擢されれば、福田も農林大臣に起用され 周囲から “自民党のクラウン・プリンス” と囃される。だが 福田の場合は、政界の実力者 岸 信介の寵児 (ちょうじ) として、一高 → 東大法学部 → 高級官僚 という上流階級の出世ベルトに乗っかったというべきだろう。
福田はもともと “均衡財政志向の安定経済成長論者" だったが、岸内閣の後を襲った池田勇人の “高度経済成長路線" を 党政調会長の立場から批判して池田の激怒を買い、以後池田政権下では 一切の要職から締め出され、干しあげられた。
角栄と池田勇人は相性が良かったが、派閥としては 角栄は佐藤派に属した。それはかつて 長期政権を疎まれて進退窮した 吉田 茂の下野に殉じた 佐藤栄作らと行動を共にして以来の因縁があり、いわば角栄は 佐藤派の生え抜きだったのである。これに対し 福田は (昭和35年) 岸派が解散したとき、川島正二郎、藤山愛一郎らと袂 (ともと) を分かち 一分派を成していた。佐藤栄作は常に両者を 天秤にかけるかのように使いこなしつつ 長期政権を維持した。派閥の流れからいけば、福田を後継に擬するのは 如何かと思われるところだが、彼は 実兄 岸 信介派の跡目を継いだ 福田赳夫への禅譲を目論みこだわった。その辺の政局人事の動きは 昭和46年・47年の 【この年】 で触れたので ここでは省略する。
昭和47年1月 “沖縄施政権返還日程" を確定し、前年の2度にわたる “ニクソン・ショック” の ぎくしゃくを修復するための 日米首脳会談に臨むべく、佐藤は米西海岸サクラメンテへ 角栄・福田を帯同した。その途中で佐藤は 福田への政権禅譲を角栄に言い含めるつもりだった。現地での会談は順調に進んだが、ニクソンは角栄を極めて厚遇した。何しろ角栄は ニクソンにとって、長年 “のどに刺さった小骨 = 繊維交渉” を 苦もなく取り去ってくれた人物なのだ。ランチの折は角栄の背に腕を回して 隣席に座らせたが、その椅子は福田のために用意された席だった。また午後 ゴルフコースに出たときも、ニクソン大統領は 自らが運転するカート車に角栄を乗せ、福田は そのあとをトボトボ歩いてまわったそうナ。アメリカからの帰途に立ち寄ったハワイでも、角栄は終始 佐藤に付け入る隙を与えず、角栄 対 佐藤・福田の 対決構図が歴然とした。
吉田学校以来 陰に陽に 佐藤のライバル池田勇人との仲を取り持ち、8年間という長期政権を後ろから支えてきた角栄だったが、官僚派のエースと目された福田と 正面きって "血みどろ" の金権抗争を展開 80億円の資金をつぎ込んで、遂に天下を勝ち取ったのである。 「創価学会を斬る」 出版問題について、幹事長時代の角栄に サシで詰め寄られた政治評論家 藤原弘達は、いみじくも こう述べている。
「権力 (Might) を構成するには 4つの m が要る。多数 (majority)、カネ (money)、権謀術数 (machiavellism)、マスコミ (mass communication)。つまり この方程式を当てはめれば、田中はすべてにおいて福田に優っており、勝つべくして勝ったということだ」 (← 神 一行 "閨閥" より引用)
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権力の頂点を極めた角栄の 自信と驕り
ひとつの m 角栄のマスコミ支配を象徴する こんなエピソードがある。
首相就任翌月の47年8月 田中角栄は軽井沢の別荘に集まった 新聞各社の “田中番記者" 9人に対して、
「俺はマスコミを知り尽くし 全部わかっている。郵政大臣のときから 俺は各社の内容を知っているんだ。その気になれば これ (クビを刎ねる手つき) だって出来るし、弾圧だって出来る…」
「いま 俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは 社長も、部長も、どうにでもなる」
「つまらんことはヤメだ、ワカッタナ。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」
酒でも入っていたのか、その場の雰囲気は不明だが、余人の言葉ではない。凄みのあるダミ声で、あからさまに 暴言というより むしろ恫喝されて、居合わせた記者連中は 反発の声もなかったようだ。本来ならば 全社挙って反撃し・弾劾するべきところだが、日本の新聞は これを一切報じなかった。それどころか 以来、巨大新聞と放送局は 田中の真実を伝えるべき 木鐸 (ぼくたく) としての使命を 放棄してしまったのだ。ただ一社 「文芸春秋」 と 立花 隆・児玉隆也ら フリージャーナリストを除いては……。 角栄によってキバを抜かれた日本のジャーナリズムは 権力に対して萎縮してしまったまま今日に及んでいる。
田中角栄は 権力の頂点を究めて 向かうところ敵なく、生来の自信が慢心に変わり 積極性が強引さを帯びるようになった。その延長線上に 「日本列島改造論」 があり、「日中国交正常化交渉」 の成功をもたらしたといえる。沖縄返還後 中国との国交回復は “世論" となりつつあり、前 (さき) の総裁選でも 三木武夫から強い要望を受けていたこともあり、満々たる自信をたぎらせていた角栄は 大平外相に (清水寺の舞台から) 「いっちょう 飛び降りるか…」 と 9月末 訪中した。昭和史エピソード 「角栄の日中国交回復その他 (の後半部分)」 でも述べたように、周恩来側には 既に 米・日に対する外交シナリオが出来上がっていた形跡も窺え 彼の掌 (たなごころ) のうえで踊ったに過ぎなかったのかも知れないが…。それはともかく 内閣成立後83日目 中国との談判は、角栄の度胸を以ってしたからこそ よく成し得たことで 振り返って "日中国交回復" は、田中角栄の治世に於ける 唯一の功績だった。
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角 栄 の 「 日 本 列 島 改 造 論 」
サクラメンテの日米首脳会談から帰国後、角栄は 47年5月9日 柳橋の料亭 “いな垣” に同志を糾合、満を持して 「田中派」 を旗揚げした。参集した議員は 衆議院から40人 参議院から41人、佐藤派のおよそ8割を手勢に収めたのである。佐藤栄作は6月9日 田中と福田を個別に呼んで、総裁選調停工作を行なったが、角栄はその翌日 自らの政策方針とも言うべき 「日本列島改造論」 を発表した。佐藤はブチ切れて17日 テレビ相手に醜悪な退陣表明劇を演じ、続いて 福田の支持工作を始めた。角栄は6月20日 日刊工業新聞社から 「日本列島改造論」 を出版、たちまち 80万部のベストセラーになった。
論の内容は、今の言葉で言えば マニフェスト だろうか。218ページ B5版の
体裁であるが、いたるところに 具体的な地名と数字、それに時期までちりばめた精緻極まるモノである。左に その目次部分のみ掲げた (画像をクリックすれば拡大表示される)。
角栄は もともと能筆達文家で 自ら文章を書く場合が多かったと聞くが、さすがにこれだけのボリュームともなれば独りでは無理、日本列島改造論のゴーストライターは 通産官僚の 小長啓一 (岡山大学法文学部) が務めた 。角栄がとくとくと喋る 半ば自慢噺の戦後インフラ整備の経緯と 将来に向けての政策構想 あるいは願望を、小長は克明に聴き取って作文、それに各省庁から掻き集めた数字を貼り付け裏付けた労作だ。生々しいほど具体的な表現が随所に盛り込まれ、全国土木建設業者や地域不動産屋 それに 地方自治体の関連部署にとっても、垂涎 (すいぜん) の必読 How to 本であったと思われる。
角栄の主張はこうだ。従来の輸出入振興、折からのベトナム特需など 貿易外需依存型ではなく、恒久的な内需を創造するために 日本の産業構造と地域構造を積極的に改造すること、すなわち、
① 太平洋ベルト地帯に集中する既存の工業を 裏日本側に分散させること。
② 都市の立体化等 改造と 25万人規模の地方都市を整備すること。
③ これらを結ぶ高速自動車道路ネットワークの構築 とりわけ新幹線鉄道網を敷設すること。
かくして 全国を一日行動圏とし、人口の過密と過疎を同時に解消しようとする雄大なものであった。もちろん 社会生活の基盤となるべき電源 ダム・原発の開発や 巨大タンカーが接岸可能な港湾建設、自給率8割を維持するための農耕・畜産の奨励、河川・灌漑用水の整備 等々、遠大な構想が漏れなく網羅されている。しかも これが、角栄の独創から組み立てられたことに驚く。彼は 手懐(てなづ) けた官僚は数多く擁していたが、学者・専門家によるブレーンは持たなかった。
池田内閣は (角栄が下図を描いた) 「全国総合開発計画(一全総)」 を打ち出し、地域分散をテーマとした 新産業都市と工業整備特別地域に重化学工業の集積 (コンビナート) を造成 所得倍増計画を達成したが、高度経済成長路線を引き継ぎながら アンチ池田的思考の佐藤内閣は、定見無く 情報化・技術革新を重視 (新全総) して 企業の本社機能の首都圏集中を助長、大都市への人口流入が加速した。列島改造論は、角栄がまたもや 政策の方向舵を地方分散に切り替えると宣言したものであった。
2~3 例示する。昔は工場ひとつ無かった琵琶湖畔の寒村 滋賀県栗東町は、名神高速道路が開通後 200を超える大小工場が進出し 新興工業地帯に様相が一変した。 その名神と東名高速自動車道路の接続点となった 愛知県小牧市は、それまで 零細な食品・繊維の町工場が散在する田舎町に過ぎなかったものが、いまや大型工場と 物品の集積・流通基地としての機能を備え 脚光を浴びるようになった。
また 全国中小市町の郊外に "工業団地" と称する 殺風景な 「ミニ・インダストリアル・パーク」 が 雨後のタケノコのごとく出現したが、工場を誘致するために地方自治体は 僅かな補助金に釣られた公債の発行で巨額の債務を負い、 その上 将来の税収と当座の雇用を求めるあまり 進出工場に免税措置を講じた為 今日 財政疲弊の原因となった。
後年のことだが 野放図な役人の標本が巣くっていた厚生省社会保険庁が、列島改造論に便乗してか それとも阿(おもね) ってか、年金受給者に意義ある老後生活を提供すると称して 全国 13ヵ所に作った “グリーンピア” のお粗末がある。建設当初から利権の汚辱 (おじょく) に塗れていたばかりか、畑違いの保養所に天下った官僚に経営の才などある筈がなく、全ての施設で莫大な赤字を垂れ流したあげく 地域自治体に投げ渡してしまった。例えばグリーンピア三木 (兵庫県三木市) は、´80年代に 年金保険料から 1953億円もの巨費を投じた上 年々損失を積み上げ、地元兵庫県に48億円で払い下げているが、北海道から鹿児島まで全てのグリーンピアが同工異曲、二束三文で叩き売られたものの 誰一人責任を取ったものはいない。
角栄は 川を挟んだ上流と下流の町が 架橋陳情に来れば、無駄を承知で 2本の橋を作ったという。自分のハラを傷めることなく票になるのなら 何でも来いというわけだ。彼は この流儀で日米繊維交渉を片付けたし 本州と四国を結ぶ橋を 3本架けた。
東海道新幹線と山陽新幹線は 国鉄 (現JR) が独自に建設 営業を始めていたが、「全国新幹線鉄道整備 (昭和45年)」 に基づき 国が昭和48年に整備計画を決定した 5本の新幹線を 「整備新幹線 (北海道・東北・北陸・九州鹿児島ルート・同長崎ルート)」 という。整備新幹線の中には 既に運行している区間もあるが 一部または全線が未着工のものもある。このほかに 「整備計画を決定しょうとしていた路線」 もあって、毎年 予算編成時期になると 道路・運輸族の議員と 「オラガ国サ ニモ 道路・新幹線ヲ…」 と 各県知事が財務省に押しかけるが、あたかも 角栄の亡霊がさ迷っているようだ。
日本列島改造論の結びで 角栄は、「人口と産業の地方分散によって 過密と過疎の同時解消を図り、その処方箋を 実行に移すための行動計画」 と定義づけているが、そもそも この本が爆発的なミリオンセラーになってしまったことが誤算だった。金権のネタも仕込まれていたのかも知れないが あまりにも具象的な記述だっただけに 開発の実用書として重宝され 利権の Know ‐ how 本として膾炙 (かいしゃ) されてしまった。いかに政策表明とはいえ “過ぎたるは 猶 及ばざるが如し" で、クルマに譬えれば アクセルだけで制動装置がついていなかったから イケイケドンドン、凄まじい土地投機を招く引き金となった。改造論には そのような場合の対応策は何も書かれていない。角栄としては 想定外のデキゴトが起こったのである。
事実 総理大臣になるまでの角栄は、為すこと全てが図に当っていたのだが、一気呵成 (いっきかせい) に 「日中国交回復」 が実現したあと “いすかの嘴 (はし) の食い違い" というか 物事が噛み合わなくなった。選挙にはめっぽう強い角栄だったのだが 天下人 (てんかびと) になってから、47年12月の “日中解散" 第33回総選挙と 49年の第10回参議院選挙を戦い、総選挙にはまさかの敗北を喫し、参院選では 与野党伯仲するところまで追い詰められている。その経緯は各年 【この年】 で述べているので略すが、国民は結局 彼のインフレ政策に懸念を覚え オイルショックとも重なって現実のものとなった物価の騰貴に怯えたのだった。角栄は選挙結果に焦り 小選挙区制 (ゲリマンダー = カクマンダー) の導入を図ったが実現しなかった。もし阻止されなかったら 彼は独裁を狙っただろうか??? 東南アジアを歴訪してデモに遭ったり、石油以外のエネルギー資源を求めて オーストラリア、カナダ、ブラジルを行脚したが不調に終わるなど 政権運営は精彩を欠き、心労からか とうとう顔面神経痛に罹ってしまった。
つ づ く


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