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2008年11月

総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 6

政権簒奪 (さんだつ) を巡る "角福戦争" の熾烈

 昭和47年7月5日 佐藤栄作退陣のあとを受ける 自由民主党総裁選挙が、東京・日比谷公会堂で行なわれた。第1回投票結果は 田中角栄 156票、福田赳夫 150票、大平正芳 101票、三木武夫 69票であった。立候補を見送っていた中曽根総務会長の手配で 直ちに 1位・2位による決選投票を実施、田中が282票 福田 190票で勝負がついた。その瞬間、角栄の喉 (のど) から 「うぉッ」 と うめきにも似た声が、ほとばしり出た。学歴も 門閥も持たぬ男が、とうとう 総理大臣の座を射止めたのである。宿敵福田に圧勝しただけでなく、積年 領袖と仰いで尽くしてきた佐藤栄作をも 組み伏せたのだ。

 田中角栄と福田赳夫。二人のあいだで共通するのは  「頭がよかった」 ということぐらいで、全く対照的な境遇を過ごしてきた。福田赳夫は群馬県金古町の産、江戸時代から名主 (庄屋) を努めた名門、福田善治の二男である。小学生の頃から神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し 第一高等学校から東京帝国大学法学部に進学、高等文官試験を一番の成績で突破 大蔵省に入省したと言う絵に描いたようなエリートだ。明治38年1月の生まれというから、角栄からすれば 13歳の年長に当る。大蔵省でも主計畑を歩いて トントン拍子の出世街道を突っ走り、局長にまで上り詰めた。いわゆる 閨閥に連なる人物ではないが、父や兄も金古町長を務めるなど 地方の名家で育った 順風満帆の人生だったといえる。

 その福田が 事務次官を目前にして蹉跌 (さてつ) を踏んだのは、昭和23年 かの昭電疑獄に連座し 収賄容疑で逮捕されたことだ。結果としては無罪になったものの、彼は これを機に大蔵省を退官、雌伏の時期をおいて 昭和27年の第25回総選挙に 群馬3区から無所属立候補、当選を果たした。このとき福田は47歳。田中角栄は 34歳の3年生議員として 議員立法の立案に勤 (いそ) しむと同時に、党の建設委員会地方総合開発小委員会委員長として のちに池田内閣における 「全国総合開発計画 = 一全総」 のベースとなる報告書をまとめ上げている。

 いっぽう 福田の党内での躍進も 目覚しいものがあった。かねて 野田卯一、池田勇人とともに “大蔵省の三田" と称された逸材である。昭和30年 岸 信介に目をかけられて その庇護の下に、自民党政調副会長に昇進している。同年2月 角栄は衆議院商工委員長に就任。片や 党の準三役、片や 国会の常任委員長、両雄は互角の立場になった。角栄が最年少郵政大臣に抜擢されれば、福田も農林大臣に起用され 周囲から “自民党のクラウン・プリンス” と囃される。だが 福田の場合は、政界の実力者 岸 信介の寵児 (ちょうじ) として、一高 → 東大法学部 → 高級官僚 という上流階級の出世ベルトに乗っかったというべきだろう。

 福田はもともと “均衡財政志向の安定経済成長論者" だったが、岸内閣の後を襲った池田勇人の “高度経済成長路線" を 党政調会長の立場から批判して池田の激怒を買い、以後池田政権下では 一切の要職から締め出され、干しあげられた。

 角栄と池田勇人は相性が良かったが、派閥としては 角栄は佐藤派に属した。それはかつて 長期政権を疎まれて進退窮した 吉田 茂の下野に殉じた 佐藤栄作らと行動を共にして以来の因縁があり、いわば角栄は 佐藤派の生え抜きだったのである。これに対し 福田は (昭和35年) 岸派が解散したとき、川島正二郎、藤山愛一郎らと袂 (ともと) を分かち 一分派を成していた。佐藤栄作は常に両者を 天秤にかけるかのように使いこなしつつ 長期政権を維持した。派閥の流れからいけば、福田を後継に擬するのは 如何かと思われるところだが、彼は 実兄 岸 信介派の跡目を継いだ 福田赳夫への禅譲を目論みこだわった。その辺の政局人事の動きは 昭和46年47年の 【この年】 で触れたので ここでは省略する。

 昭和47年1月 “沖縄施政権返還日程" を確定し、前年の2度にわたる “ニクソン・ショック” の ぎくしゃくを修復するための 日米首脳会談に臨むべく、佐藤は米西海岸サクラメンテへ 角栄・福田を帯同した。その途中で佐藤は 福田への政権禅譲を角栄に言い含めるつもりだった。現地での会談は順調に進んだが、ニクソンは角栄を極めて厚遇した。何しろ角栄は ニクソンにとって、長年 “のどに刺さった小骨 = 繊維交渉” を 苦もなく取り去ってくれた人物なのだ。ランチの折は角栄の背に腕を回して 隣席に座らせたが、その椅子は福田のために用意された席だった。また午後 ゴルフコースに出たときも、ニクソン大統領は 自らが運転するカート車に角栄を乗せ、福田は そのあとをトボトボ歩いてまわったそう。アメリカからの帰途に立ち寄ったハワイでも、角栄は終始 佐藤に付け入る隙を与えず、角栄 対 佐藤・福田の 対決構図が歴然とした。

 吉田学校以来 陰に陽に 佐藤のライバル池田勇人との仲を取り持ち、8年間という長期政権を後ろから支えてきた角栄だったが、官僚派のエースと目された福田と 正面きって "血みどろ" の金権抗争を展開 80億円の資金をつぎ込んで、遂に天下を勝ち取ったのである。 「創価学会を斬る」 出版問題について、幹事長時代の角栄に サシで詰め寄られた政治評論家 藤原弘達は、いみじくも こう述べている。

 「権力 (Might) を構成するには 4つの m が要る。多数 (majority)、カネ (money)、権謀術数 (machiavellism)、マスコミ (mass communication)。つまり この方程式を当てはめれば、田中はすべてにおいて福田に優っており、勝つべくして勝ったということだ」 (← 神 一行 "閨閥" より引用

権力の頂点を極めた角栄の 自信と驕り

 ひとつの m  角栄のマスコミ支配を象徴する こんなエピソードがある。

 首相就任翌月の47年8月 田中角栄は軽井沢の別荘に集まった 新聞各社の “田中番記者" 9人に対して、

 「俺はマスコミを知り尽くし 全部わかっている。郵政大臣のときから 俺は各社の内容を知っているんだ。その気になれば これ (
クビを刎ねる手つき) だって出来るし、弾圧だって出来る…」
 
 「いま 俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは 社長も、部長も、どうにでもなる」
 
 「つまらんことはヤメだ、ワカッタナ。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」
 
 酒でも入っていたのか、その場の雰囲気は不明だが、余人の言葉ではない。凄みのあるダミ声で、あからさまに 暴言というより むしろ恫喝されて、居合わせた記者連中は 反発の声もなかったようだ。本来ならば 全社挙って反撃し・弾劾するべきところだが、
日本の新聞は これを一切報じなかった。それどころか 以来、巨大新聞と放送局は 田中の真実を伝えるべき 木鐸 (ぼくたく) としての使命を 放棄してしまったのだ。ただ一社 「文芸春秋」 と 立花 隆・児玉隆也ら フリージャーナリストを除いては……。 角栄によってキバを抜かれた日本のジャーナリズムは 権力に対して萎縮してしまったまま今日に及んでいる。

 田中角栄は 権力の頂点を究めて 向かうところ敵なく、生来の自信が慢心に変わり 積極性が強引さを帯びるようになった。その延長線上に 「日本列島改造論」 があり、「日中国交正常化交渉」 の成功をもたらしたといえる。沖縄返還後 中国との国交回復は “世論" となりつつあり、前 (さき) の総裁選でも 三木武夫から強い要望を受けていたこともあり、満々たる自信をたぎらせていた角栄は 大平外相に (清水寺の舞台から) 「いっちょう 飛び降りるか…」 と 9月末 訪中した。昭和史エピソード 「角栄の日中国交回復その他の後半部分)」 でも述べたように、周恩来側には 既に 米・日に対する外交シナリオが出来上がっていた形跡も窺え 彼の掌 (たなごころ) のうえで踊ったに過ぎなかったのかも知れないが…。それはともかく 内閣成立後83日目 中国との談判は、角栄の度胸を以ってしたからこそ よく成し得たことで  振り返って "日中国交回復" は、田中角栄の治世に於ける 唯一の功績だった。

角 栄 の  「 日 本 列 島 改 造 論 」

 サクラメンテの日米首脳会談から帰国後、角栄は 47年5月9日 柳橋の料亭 “いな垣” に同志を糾合、満を持して 「田中派」 を旗揚げした。参集した議員は 衆議院から40人 参議院から41人、佐藤派のおよそ8割を手勢に収めたのである。佐藤栄作は6月9日 田中と福田を個別に呼んで、総裁選調停工作を行なったが、角栄はその翌日 自らの政策方針とも言うべき 「日本列島改造論」 を発表した。佐藤はブチ切れて17日 テレビ相手に醜悪な退陣表明劇を演じ、続いて 福田の支持工作を始めた。角栄は6月20日 日刊工業新聞社から 「日本列島改造論」 を出版、たちまち 80万部のベストセラーになった。

 論の内容は、今の言葉で言えば マニフェスト だろうか。218ページ B5版のPhoto_2 体裁であるが、いたるところに 具体的な地名と数字、それに時期までちりばめた精緻極まるモノである。左に その目次部分のみ掲げた (画像をクリックすれば拡大表示される)。

  角栄は もともと能筆達文家で 自ら文章を書く場合が多かったと聞くが、さすがにこれだけのボリュームともなれば独りでは無理、日本列島改造論のゴーストライターは 通産官僚の 小長啓一 (岡山大学法文学部) が務めた 。角栄がとくとくと喋る 半ば自慢噺の戦後インフラ整備の経緯と 将来に向けての政策構想 あるいは願望を、小長は克明に聴き取って作文、それに各省庁から掻き集めた数字を貼り付け裏付けた労作だ。生々しいほど具体的な表現が随所に盛り込まれ、全国土木建設業者や地域不動産屋 それに 地方自治体の関連部署にとっても、垂涎 (すいぜん) の必読 How to 本であったと思われる。

 角栄の主張はこうだ。従来の輸出入振興、折からのベトナム特需など 貿易外需依存型ではなく、恒久的な内需を創造するために 日本の産業構造と地域構造を積極的に改造すること、すなわち、

 ① 太平洋ベルト地帯に集中する既存の工業を 裏日本側に分散させること。
 ② 都市の立体化等 改造と 25万人規模の地方都市を整備すること。
 ③ これらを結ぶ高速自動車道路ネットワークの構築 とりわけ新幹線鉄道網を敷設すること。

かくして 全国を一日行動圏とし、人口の過密と過疎を同時に解消しようとする雄大なものであった。もちろん 社会生活の基盤となるべき電源 ダム・原発の開発や 巨大タンカーが接岸可能な港湾建設、自給率8割を維持するための農耕・畜産の奨励、河川・灌漑用水の整備 等々、遠大な構想が漏れなく網羅されている。しかも これが、角栄の独創から組み立てられたことに驚く。彼は 手懐(てなづ) けた官僚は数多く擁していたが、学者・専門家によるブレーンは持たなかった。

 池田内閣は (角栄が下図を描いた) 「全国総合開発計画(一全総)」 を打ち出し、地域分散をテーマとした 新産業都市と工業整備特別地域に重化学工業の集積 (コンビナート) を造成 所得倍増計画を達成したが、高度経済成長路線を引き継ぎながら アンチ池田的思考の佐藤内閣は、定見無く 情報化・技術革新を重視 (新全総) して 企業の本社機能の首都圏集中を助長、大都市への人口流入が加速した。列島改造論は、角栄がまたもや 政策の方向舵を地方分散に切り替えると宣言したものであった。

 2~3 例示する。昔は工場ひとつ無かった琵琶湖畔の寒村 滋賀県栗東町は、名神高速道路が開通後 200を超える大小工場が進出し 新興工業地帯に様相が一変した。 その名神と東名高速自動車道路の接続点となった 愛知県小牧市は、それまで 零細な食品・繊維の町工場が散在する田舎町に過ぎなかったものが、いまや大型工場と 物品の集積・流通基地としての機能を備え 脚光を浴びるようになった。

 また 全国中小市町の郊外に "工業団地" と称する 殺風景な 「ミニ・インダストリアル・パーク」 が 雨後のタケノコのごとく出現したが、工場を誘致するために地方自治体は 僅かな補助金に釣られた公債の発行で巨額の債務を負い、 その上 将来の税収と当座の雇用を求めるあまり 進出工場に免税措置を講じた為 今日 財政疲弊の原因となった。

 後年のことだが 野放図な役人の標本が巣くっていた厚生省社会保険庁が、列島改造論に便乗してか それとも阿(おもね) ってか、年金受給者に意義ある老後生活を提供すると称して 全国 13ヵ所に作った “グリーンピア” のお粗末がある。建設当初から利権の汚辱 (おじょく) に塗れていたばかりか、畑違いの保養所に天下った官僚に経営の才などある筈がなく、全ての施設で莫大な赤字を垂れ流したあげく 地域自治体に投げ渡してしまった。例えばグリーンピア三木 (兵庫県三木市) は、´80年代に 年金保険料から 1953億円もの巨費を投じた上 年々損失を積み上げ、地元兵庫県に48億円で払い下げているが、北海道から鹿児島まで全てのグリーンピアが同工異曲、二束三文で叩き売られたものの 誰一人責任を取ったものはいない。

 角栄は 川を挟んだ上流と下流の町が 架橋陳情に来れば、無駄を承知で 2本の橋を作ったという。自分のハラを傷めることなく票になるのなら 何でも来いというわけだ。彼は この流儀で日米繊維交渉を片付けたし 本州と四国を結ぶ橋を 3本架けた。

 東海道新幹線と山陽新幹線は 国鉄 (現JR) が独自に建設 営業を始めていたが、「全国新幹線鉄道整備 (昭和45年)」 に基づき 国が昭和48年に整備計画を決定した 5本の新幹線を 「整備新幹線 (北海道・東北・北陸・九州鹿児島ルート・同長崎ルート)」 という。整備新幹線の中には 既に運行している区間もあるが 一部または全線が未着工のものもある。このほかに 「整備計画を決定しょうとしていた路線」 もあって、毎年 予算編成時期になると 道路・運輸族の議員と 「オラガ国 ニモ 道路・新幹線ヲ…」 と 各県知事が財務省に押しかけるが、あたかも 角栄の亡霊がさ迷っているようだ。

 日本列島改造論の結びで 角栄は、「人口と産業の地方分散によって 過密と過疎の同時解消を図り、その処方箋を 実行に移すための行動計画」 と定義づけているが、そもそも この本が爆発的なミリオンセラーになってしまったことが誤算だった。金権のネタも仕込まれていたのかも知れないが あまりにも具象的な記述だっただけに 開発の実用書として重宝され 利権の Know ‐ how 本として膾炙 (かいしゃ) されてしまった。いかに政策表明とはいえ “過ぎたるは 猶 及ばざるが如し" で、クルマに譬えれば アクセルだけで制動装置がついていなかったから イケイケドンドン、凄まじい土地投機を招く引き金となった。改造論には そのような場合の対応策は何も書かれていない。角栄としては 想定外のデキゴトが起こったのである。

 事実 総理大臣になるまでの角栄は、為すこと全てが図に当っていたのだが、一気呵成 (いっきかせい に 「日中国交回復」 が実現したあと “いすかの嘴 (はし) の食い違い" というか 物事が噛み合わなくなった。選挙にはめっぽう強い角栄だったのだが 天下人 (てんかびと) になってから、47年12月の “日中解散" 第33回総選挙と 49年の第10回参議院選挙を戦い、総選挙にはまさかの敗北を喫し、参院選では 与野党伯仲するところまで追い詰められている。その経緯は各年 【この年】 で述べているので略すが、国民は結局 彼のインフレ政策に懸念を覚え オイルショックとも重なって現実のものとなった物価の騰貴に怯えたのだった。角栄は選挙結果に焦り 小選挙区制 (ゲリマンダー = カクマンダー) の導入を図ったが実現しなかった。もし阻止されなかったら 彼は独裁を狙っただろうか??? 東南アジアを歴訪してデモに遭ったり、石油以外のエネルギー資源を求めて オーストラリア、カナダ、ブラジルを行脚したが不調に終わるなど 政権運営は精彩を欠き、心労からか とうとう顔面神経痛に罹ってしまった。

                                   つ づ く

 

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 5

角 栄 の  撒 き っ ぷ り

 私はこの 「Yの昭和史」 において エピソード “角栄の日中国交回復 その他“  “ウソか マコトか”  “モータリゼーションと交通戦争 2”、昭和40年山一證券特融) 昭和46年 (日米繊維交渉) 昭和47年七日会・田中派旗揚げ) (田中内閣成立) 昭和48年自民 まさかの敗退・地価暴騰) 昭和49年オイルショック・金権選挙) など、各年の 【この年】 に 田中角栄の記事を書いてきた。

 率直に言って “日中国交回復” 以外は 総じて斜に構えたもので、好意的に表現したものではない。「バカの壁」 の著者 養老孟司教授の言葉に 「知る前と 知ったあとでは 自分が違う、モノを知るってことは、自分を (或いはモノの見方を) 変えることだ」 とあったが、今回わたしは 田中角栄について、Webから厖大な量の情報を取り出して読み込み 頭の中で整理していくうちに 何だか彼の生きざまに引き摺りこまれて、これまでとは異なる魅力を覚えるようになり、困っている。環境が似通ったからとか そういうことではなく、ある時期までの彼は 昭和ヒトケタ生まれから見れば、『男子 志を立てて郷関を出ずる、学もし成らずんば 死すとも還らじ』 的 強烈な “立志伝”中 の人物像として迫ってくるからだ。

 人間の脳には 約1千億個以上の神経細胞が存在して相互に電気信号を処理し 記憶し 考えるそうだが、脳細胞の潜在的能力 (ヒューマンポテンシャル) のうち その10%以上を開発した人間は、かつて いたことが無いと 心理学者ウィリアム・ジェームズは言い、オットーは せいぜい5%ぐらいだと主張したらしい。私は そんな高尚な学問には門外漢だが、ひょっとして角栄は、人間の持つポテンシャルを 10%近く発揮することが出来たのではないかと思う。そのことは 今回初めて 「日本列島改造論」 を通読して感じたことだが、後述する。

 前の章で 私は角栄が最初にカネを撒き始めたのは、霞ヶ関の官僚たちに対してではなかったか と書いた。当てずっぽうである。そんなことを記録した資料なんか出てくるわけがない。同じように 政治家仲間に向かって 積極的な金権工作を行なった跡も掴みようが無いのだが、対官僚のそれよりも規模が大きかったらしく、断片的ではあるが記事を見つけることが出来る。

 歴代総理大臣は ダーティなカネが絡む場合には、必ず中間に人を介せしめ 自らが表立つことを避けたが、角栄は いつも自身が直接動いた。そんな角栄を指して、彼が総裁選で福田に勝った時 岸 信介 は 「角栄は 湯気が出るようなカネにも手を突っ込む、そういうのが総理になると 危険な状況を作りかねない。カネは濾過して使うものだ」 といっている。

 “れんだいこ” さんの年表によれば、昭和33年 (角栄40歳) の暮れ、「佐藤派を超えて 角栄は 他派閥の議員にまで “指導料” の名目でモチ代を配った」 とあるが、勿論 佐藤栄作の指示ではあるまい。角栄は 32歳で 「建築士法」 を議員立法してこの方 40歳のこの時期までに、起案提出し 成立を見た法律が21件、立法に参画し可決されたものが6件にのぼっていた。前回 “ぽりてぃかニッポン” の記事にも窺えるように、角栄自身が 委員会及び本会議場で 趣旨説明・答弁に当り、与・野党双方から出る反対質問にも 独り敢然と答弁に立って、最終的には 衆・参両議院の可決を勝ち取ってきたのである。譬え 謂われるように、道路・河川・港湾や寒冷地対策 等 土木建築にかかる案件が多いとは雖も 私心より出た議員活動とはいえず、むしろ動機は 社会正義にあったと思う。然も これら成立した法律の中には 道路三法を始め、首都圏整備、電源開発、土地区画、宅地建物取引、公営住宅など 社会的インフラ整備を目的とした重要法案が多く含まれ、若輩の角栄からすれば 一人でも多くの好意的支持者が欲しかったということではなかっただろうか。

 日銀法第25条を発動して あわやの証券危機を救ったのち、47歳で 始めて自民党幹事長に就任した年の暮れ、慣例に従って角栄は 院内紙 (ブラックジャーナリズム) に対しては、お歳暮として 一律 5万円を配り 「こんな端たガネが受け取れるかっ」 と 憤激を買っているが、それまでの幹事長は 50万、100万円を包んでいたというから、角栄は意図して彼らミニコミに挑んで見せたわけである。

 角栄のカネの遣いっぷりに関する話はまだある。

 他派閥の陣笠議員が、あるとき大病に罹って入院した。その話を聞いた角栄は 早速見舞いに駆けつけ 「大丈夫か、少ないかも知れないが…」 といいつつ さりげなく封筒を枕の下に差し入れ、サッと その場を後にした。翌日 その議員の派閥領袖が おもむろに来院、重々しく渡した見舞金は 角栄が置いていった封筒の中身の10分の1ほどだったという。

 派閥が蝟集する自民党では、いったん政局となると 各派が合従連衡を繰り返す。“昨日の敵は今日の友” そんな世界で角栄は、常に 広く 厚くカネをばら蒔いた。相手が驚くほどに強烈なインパクトを与えなければ カネは活きない。ただ 誰にでも渡せばよいというわけのものでもない。選挙に際しても 十分に集金能力を持っている者には、激励だけでもいいのだ。選挙のとき 派閥のボスは軍資金を渡す。当時なら300万円か 500万円が相場だったらしいが、角栄は 500万円を受け取って出て行く議員に 「ちょっと待て、キミのところの選挙区は厳しかった」 といって300万円を追加する。幹部だろうが 陣笠だろうが、勝って戻ってくれなければ意味が無いのである。なかには アタッシュケースを持ってきたが札束が這入らなくて、ボストンに詰め替えたものもいたという。福田赳夫と総裁を争ったとき、三木武夫には “日中交渉” を約し、大平正芳には外務大臣を、中曽根陣営には 5億円が渡ったというハナシもある。

 田中の死後、公設秘書の山田泰司は こう述べている。

 「田中政治が金権政治だったという批判があるが、それは認めざるを得ない。確かに犯罪だったと思う。しかし、田中先生には学閥も門閥も無かった。裸一貫から総能力を傾注して のし上がり 総理となった。その間に他人と対抗していく為には、ある程度のカネが必要だった。カネが無ければ そう急に伸びられるものではない。金権政治といわれるものは、その時代として やむを得ないもののひとつだった…」

学 閥 ・ 門 閥 無 き 角 栄 の 戦 い

 一介の働きアリに過ぎなかった私は トンと意識したことがなかったが、戦争や革命騒ぎの無かった昭和後半、時代の流れに いつの間にか新しい支配秩序が形成され、端的にいえば 日本の社会がホンの一握りの特権階級 エスタブリッシュメントによって牛耳られてきたことを知った。( “閨閥” 新特権階級の系譜・神 一行 著・毎日新聞社刊)。本来 民主主義の大原則たるべき機会均等の能力主義 (憲法の思想) がないがしろにされ、戦前の華族や財閥にも繋 (つな) がる形で 政・財界に架け渡された閨閥グループが アメーバのように増殖していたのだ。

 例えば 戦後60年の治世のうち、11年余の期間を担った 岸 信介・佐藤栄作兄弟の閨閥について見てみよう。

 長州の名門 佐藤家から出た両首相の閨閥には、既に 戦前の外相 松岡洋右がおり、のちに叔母の嫁ぎ先 吉田祥朔から 元首相 吉田 茂 (在任 通算7年余) 家に繋がっていた。そしてこの係累は 信介・栄作の次の世代になると 三木武夫、鈴木善幸、大平正芳、鳩山一族までが 濃淡の差こそあれ “血の連鎖” で結ばれ (←神 一行・閨閥より) 孫の世代では 安倍晋三、麻生太郎を輩出し、麻生太郎の妻は鈴木善幸の娘、妹は三笠宮家に嫁している。ここに名を挙げた総理大臣だけで 驚く勿れ、戦後政治の4割を統べているわけだ (安倍・麻生は これに含まず)。

 そして この閨閥の中には、元宮内庁長官、大学教授、医師、海軍将官、外交官、セメント会社会長、東京ガス会長、 日産自動車社長、NEC副社長、森永製菓会長、ウシオ電機会長、複数の衆議院議員 等 多士済々が居並び、まことに華麗を極める。

 その他の宰相の家系・閨閥図も (ここでは省略するが)、吉田・佐藤家の係累に負けず劣らず 名家・富豪を擁しているのだ。

 昭和50年代までの首相で、かかる支配階級からはみ出るものといえば、社会党内閣を率いた片山 哲、ジャーナリスト出身 病を得て短命政権に終わった石橋湛山 が想い浮かぶが、貧農から身を起こした田中角栄もその一人に数えられる。のちに角栄が福田赳夫と 党総裁の椅子を巡っ展開した抗争を指して、財界総理といわれる経団連会長 石坂泰三が 「土建屋あがりに 総理の椅子が渡せるか!」 と言い放った(← 閨閥より) あたり、前述 岸 信介の言葉を重ね合わせると、“財界の言うことを聞かぬ首相” の出現に対し、既成の支配秩序を乱しかねない者として警戒の念を露 (あらわ) にした特権階級の、まがまがしい眼差しが窺い知れる。

 角栄は おそらくその空気を もっと早い段階から察知していただろうし、それが彼の闘争心を 激しく掻き立てたに違いない。彼が 『総理の座』 を意識し始めたのは、そも 何時ごろからだっただろうか。

 昭和36年 角栄は43歳の若さで自民党政調会長 初の三役入りを果たし、翌37年7月 池田内閣の第2次改造に際して大蔵大臣に就任しているが、田中蔵相時代は その後池田~佐藤内閣を通して昭和40年6月まで、異例の連続4年に亘って続き  もはや押しも押されもせぬ実力大臣として業績を挙げることとなった。この間に 日本は、GATT 11条国への移行、国際通貨基金(IMF)加盟と 8条国に移行、経済協力機構(OECD) に参加、東海道新幹線の開通、東京オリンピック開催 など ビッグなデキゴトが実現した。

 信長好きの田中角栄が 「あるいは 天下を取ることが出来るかも知れない…」 と考えたとしたら、大蔵大臣に起用されていた この時期ではなかったかと思われる。

 だが かかる環境のもとで 彼が野望を達成しようとするためには、前掲 公設秘書の言葉ではないが、“…カネがなければ そう急に伸びられるものではなかった…" ということになるのだろう。「政治は数であり、数は力、力はカネだ」 という角栄の政治哲学は、このようにして生まれたのではないか。

 日本開発銀行から巨億の融資を受け 突貫工事で完成した路線電化が奏効、長岡鉄道の業績が回復したのを機に 角栄は 田中土建を廃業している。そして この経験によってか、彼は議員立法で 昭和28年7月 「地方鉄道軌道整備法」 を成立させた。この前後 半ば自然発生的に 新潟3区各地で角栄支持者の後援会が誕生し始めている。ただ 事件内容は詳 (つまび) らかにしないが、長岡鉄道不正容疑で 本社が警察の捜索を受け、角栄が特別背任で書類送検された事実がある。

 これも定かな話ではないが、昭和32年7月 39歳で郵政大臣として初入閣した際、角栄は 岸 信介のところへ "手土産” 代わりに 300万円をリュックサックに詰め込み持参したという (勿論 手渡したわけではあるまいけれど…)。聖徳太子の一万円札が発行されたのは 昭和33年12月のことだから、リュックに詰めて…という表現が 妙にリアリティを覚える。その昭和33年 彼は小佐野と、東急グループの総帥 五島慶太と共に 長岡鉄道の競争相手、栃尾鉄道・中越自動車株の買占めに動き 35年には3社を合併 「越後交通」 に改組して、自ら会長 のち社長に就任しているが、この社名は "金脈" の話題にしばしば登場する。

 角栄が 佐藤派内の議員だけでなく、他派閥議員にまで 歳暮のモチ代を配り始めたのも この頃だ。角栄といえば、のちにいう “族議員" の先駆者的存在であり、予ねて 鉄道・道路・電源開発・ダム・河川・港湾 等 多方面にわたるインフラ整備諸法案を連発する 党内屈指の実力者であっただけに、さまざまな形で 建設業界その他からの “政治献金" には こと欠かなかったと思われるし、その額は 並みの陣笠議員などとはケタが違っただろう。地元新潟県の県議グループが 小出只見線 (50号線 シルバーライン) の全線開通を要請したとき、「県会議員が天下の代議士に頼むんだ。わかっているだろう」 といったとも伝えられている。

 昭和33年7月、新潟で毎年のように氾濫に見舞われてきた “信濃川河川敷の耕作者” たちから、当該地の買い上げ陳情を受けた。これが 「角栄金脈」 の代名詞となる 「信濃川河川敷問題」 の端緒である。そのときは いったん断っているが、農民からの陳情は 再三にわたってなされた模様で、あるとき角栄は傍らの者に 「彼らが陳情に来るたびに俺は <難しいがやってみる> と答えている。彼らは今は 俺の支持者じゃないが、目をかければ こちらに靡 (なび) く。ツツガムシが巣くっているあの畑じゃァ 連中もかわいそうだ」 と洩らしている。

 そして 最初の陳情を受けてから4年目、室町産業という 田中ファミリーの “ダミー会社” を作り、耕作者301人から 長岡市蓮潟地区の信濃川河川敷畑地 74ヘクタール (約25000坪) を 1坪当り500円、ざっと1億1千万円で買収した。角栄は農民の困窮を救った、と 話がここまでなら美談だった。 ところが間を措かずして、この地域は 川の堤防が嵩上げされ 国道のバイパス工事などで立派な橋が2本も架かり、市の中心部から数キロという立地であるため 700億円という土地におお化けした。売買が成立するまでの4年間に いったい何があったのか。造成された土地は 長岡市が買い取ったり、県立近代美術館や長岡日赤病院、大学校 有料老人ホームが建ち、その他には大型ショッピングセンターやシネマコンプレックスが進出してきているようだ。

 新潟市では、市のど真ん中にあって 生活雑排水が流れ込んでいた鳥屋潟 (約1.1ヘクタール) の湖底地買収問題が取沙汰された。

 大蔵大臣時代の角栄に 小佐野賢治と絡む "虎の門国有地払い下げ事件" があったが、別に NHKの放送センター用地を巡る疑惑もある。昔 NHKは千代田区内幸町の狭い敷地に建っていた。東京オリンピックの誘致条件に、従来のラジオ中心の報道ではなく 衛星による画像を欧米に送ることになっていたので、 新放送センター敷地としてNHKは、代々木の旧米軍宿舎跡 (国有地 森林公園造成の予定) に目をつけ 払い下げ工作を行なった。結果 第1期と第2期に分割して払い下げが実現するのだが、第1期部分は約1万8000坪が 17億円で 昭和38年3月に国から直接払い下げられている。問題は第2期である。大蔵省は 代々木の隣接地を払い渡すために、何故か わざわざ千葉県稲毛の埋め立て造成地を NHKに13億円で買い取らせ、これと 第2期分5900坪を “等価交換" したのだ。稲毛の売主は朝日土地興業という会社だったが 実際の地価はわずか6億円程度のもので 小佐野賢治が仲介斡旋している。従って 第1期払い下げの坪単価は約9万4千円、第2期のそれは22万円を要したわけで、第1期坪単価を正しいものとすれば 約7億4300万円のサヤが 小佐野と角栄の懐に入ったものと考えられる。あまりにも露骨な この払い下げは、さすがに国会でも問題となった。

 前さき に “テレビ放送局一括大量免許" の件で検索、利用させてもらった 「MAMO’s Site」 から NHKエピソードを綴ったが、田中錬金術の核心を ズバリ衝いた次の文章を下記引用する

 「まず 河川敷や埋め立て可能な土地 荒れ地など、単価の安い土地に目をつける。これを関係する土建屋に造成させる。その後 関係会社 (ペーパーカンパニー) 間で転売を繰り返し 価格を吊り上げていって 最後に 国、自治体、誘致した公的機関などに押し付ける。だから 田中や小佐野の関連会社に入る利ザヤは、税金からまかなわれたことになる。NHKのケースでは 利ザヤを負担したのは、受信料を支払う契約者だった」

 まだ この他に、柏崎・東京電力刈羽原発建設地の “土地転がし”。昭和57年に 時の建設大臣もその存在を認めた、建設省と水資源開発公団が 将来 全国に建設する予定の48件のダム工事の発注先を、各ゼネコンに割り振った 「官製談合表」 2枚に載っている 工事費8000億円の内、その3%240億円が 角栄の手に渡ることになっていたという話など、数多くの疑惑が浮かび上がってくる。 際限がないので 金権政治の源泉探しは この辺りで打ち切るが、権力を嵩に 田中角栄は 日本の政治を壟断 (ろうだん) した。広辞苑によれば、壟断とは 「(孟子 公孫丑下) ある男が 市が立つたびに高所を探して登り、市場を見渡して安いものを買占め、高い値で売りつけて 利を貪 (むさぼ) った」 という意である。

                                  つ づ く


 古川柳に 「 講釈師 見てきたような嘘をいい 」 というのがあるが、さしずめ 私の “昭和史エピソード” は それに類するものかも知れない。デキゴトの現場に居合わせたわけでもなく、ひたすら インターネットから事象を取り出しては、老耄し 貧弱になった“ 灰色の脳細胞" に微かに残る 記憶を呼び覚ましながら “真偽" をまさぐり、 縒り合わせる作業をしているに過ぎないからだ。それにしても Web空間には、厖大な情報が飛び交っていることに驚く。ひとつの事柄を確認しようとすれば 更にまた新しい事実が示され、何れが真実か、手繰れどたぐれど 止め処がない。

 この 「総理大臣の犯罪」 シリーズも、はじめは 5回で収めるつもりだったのだが、予定を大きく食み出してしまった。このぶんでは、もう 1~2回 お付き合い頂かなければ ならないようである。
                                   ヤ ク オ 

 

 

  

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