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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 5

角 栄 の  撒 き っ ぷ り

 私はこの 「Yの昭和史」 において エピソード “角栄の日中国交回復 その他“  “ウソか マコトか”  “モータリゼーションと交通戦争 2”、昭和40年山一證券特融) 昭和46年 (日米繊維交渉) 昭和47年七日会・田中派旗揚げ) (田中内閣成立) 昭和48年自民 まさかの敗退・地価暴騰) 昭和49年オイルショック・金権選挙) など、各年の 【この年】 に 田中角栄の記事を書いてきた。

 率直に言って “日中国交回復” 以外は 総じて斜に構えたもので、好意的に表現したものではない。「バカの壁」 の著者 養老孟司教授の言葉に 「知る前と 知ったあとでは 自分が違う、モノを知るってことは、自分を (或いはモノの見方を) 変えることだ」 とあったが、今回わたしは 田中角栄について、Webから厖大な量の情報を取り出して読み込み 頭の中で整理していくうちに 何だか彼の生きざまに引き摺りこまれて、これまでとは異なる魅力を覚えるようになり、困っている。環境が似通ったからとか そういうことではなく、ある時期までの彼は 昭和ヒトケタ生まれから見れば、『男子 志を立てて郷関を出ずる、学もし成らずんば 死すとも還らじ』 的 強烈な “立志伝”中 の人物像として迫ってくるからだ。

 人間の脳には 約1千億個以上の神経細胞が存在して相互に電気信号を処理し 記憶し 考えるそうだが、脳細胞の潜在的能力 (ヒューマンポテンシャル) のうち その10%以上を開発した人間は、かつて いたことが無いと 心理学者ウィリアム・ジェームズは言い、オットーは せいぜい5%ぐらいだと主張したらしい。私は そんな高尚な学問には門外漢だが、ひょっとして角栄は、人間の持つポテンシャルを 10%近く発揮することが出来たのではないかと思う。そのことは 今回初めて 「日本列島改造論」 を通読して感じたことだが、後述する。

 前の章で 私は角栄が最初にカネを撒き始めたのは、霞ヶ関の官僚たちに対してではなかったか と書いた。当てずっぽうである。そんなことを記録した資料なんか出てくるわけがない。同じように 政治家仲間に向かって 積極的な金権工作を行なった跡も掴みようが無いのだが、対官僚のそれよりも規模が大きかったらしく、断片的ではあるが記事を見つけることが出来る。

 歴代総理大臣は ダーティなカネが絡む場合には、必ず中間に人を介せしめ 自らが表立つことを避けたが、角栄は いつも自身が直接動いた。そんな角栄を指して、彼が総裁選で福田に勝った時 岸 信介 は 「角栄は 湯気が出るようなカネにも手を突っ込む、そういうのが総理になると 危険な状況を作りかねない。カネは濾過して使うものだ」 といっている。

 “れんだいこ” さんの年表によれば、昭和33年 (角栄40歳) の暮れ、「佐藤派を超えて 角栄は 他派閥の議員にまで “指導料” の名目でモチ代を配った」 とあるが、勿論 佐藤栄作の指示ではあるまい。角栄は 32歳で 「建築士法」 を議員立法してこの方 40歳のこの時期までに、起案提出し 成立を見た法律が21件、立法に参画し可決されたものが6件にのぼっていた。前回 “ぽりてぃかニッポン” の記事にも窺えるように、角栄自身が 委員会及び本会議場で 趣旨説明・答弁に当り、与・野党双方から出る反対質問にも 独り敢然と答弁に立って、最終的には 衆・参両議院の可決を勝ち取ってきたのである。譬え 謂われるように、道路・河川・港湾や寒冷地対策 等 土木建築にかかる案件が多いとは雖も 私心より出た議員活動とはいえず、むしろ動機は 社会正義にあったと思う。然も これら成立した法律の中には 道路三法を始め、首都圏整備、電源開発、土地区画、宅地建物取引、公営住宅など 社会的インフラ整備を目的とした重要法案が多く含まれ、若輩の角栄からすれば 一人でも多くの好意的支持者が欲しかったということではなかっただろうか。

 日銀法第25条を発動して あわやの証券危機を救ったのち、47歳で 始めて自民党幹事長に就任した年の暮れ、慣例に従って角栄は 院内紙 (ブラックジャーナリズム) に対しては、お歳暮として 一律 5万円を配り 「こんな端たガネが受け取れるかっ」 と 憤激を買っているが、それまでの幹事長は 50万、100万円を包んでいたというから、角栄は意図して彼らミニコミに挑んで見せたわけである。

 角栄のカネの遣いっぷりに関する話はまだある。

 他派閥の陣笠議員が、あるとき大病に罹って入院した。その話を聞いた角栄は 早速見舞いに駆けつけ 「大丈夫か、少ないかも知れないが…」 といいつつ さりげなく封筒を枕の下に差し入れ、サッと その場を後にした。翌日 その議員の派閥領袖が おもむろに来院、重々しく渡した見舞金は 角栄が置いていった封筒の中身の10分の1ほどだったという。

 派閥が蝟集する自民党では、いったん政局となると 各派が合従連衡を繰り返す。“昨日の敵は今日の友” そんな世界で角栄は、常に 広く 厚くカネをばら蒔いた。相手が驚くほどに強烈なインパクトを与えなければ カネは活きない。ただ 誰にでも渡せばよいというわけのものでもない。選挙に際しても 十分に集金能力を持っている者には、激励だけでもいいのだ。選挙のとき 派閥のボスは軍資金を渡す。当時なら300万円か 500万円が相場だったらしいが、角栄は 500万円を受け取って出て行く議員に 「ちょっと待て、キミのところの選挙区は厳しかった」 といって300万円を追加する。幹部だろうが 陣笠だろうが、勝って戻ってくれなければ意味が無いのである。なかには アタッシュケースを持ってきたが札束が這入らなくて、ボストンに詰め替えたものもいたという。福田赳夫と総裁を争ったとき、三木武夫には “日中交渉” を約し、大平正芳には外務大臣を、中曽根陣営には 5億円が渡ったというハナシもある。

 田中の死後、公設秘書の山田泰司は こう述べている。

 「田中政治が金権政治だったという批判があるが、それは認めざるを得ない。確かに犯罪だったと思う。しかし、田中先生には学閥も門閥も無かった。裸一貫から総能力を傾注して のし上がり 総理となった。その間に他人と対抗していく為には、ある程度のカネが必要だった。カネが無ければ そう急に伸びられるものではない。金権政治といわれるものは、その時代として やむを得ないもののひとつだった…」

学 閥 ・ 門 閥 無 き 角 栄 の 戦 い

 一介の働きアリに過ぎなかった私は トンと意識したことがなかったが、戦争や革命騒ぎの無かった昭和後半、時代の流れに いつの間にか新しい支配秩序が形成され、端的にいえば 日本の社会がホンの一握りの特権階級 エスタブリッシュメントによって牛耳られてきたことを知った。( “閨閥” 新特権階級の系譜・神 一行 著・毎日新聞社刊)。本来 民主主義の大原則たるべき機会均等の能力主義 (憲法の思想) がないがしろにされ、戦前の華族や財閥にも繋 (つな) がる形で 政・財界に架け渡された閨閥グループが アメーバのように増殖していたのだ。

 例えば 戦後60年の治世のうち、11年余の期間を担った 岸 信介・佐藤栄作兄弟の閨閥について見てみよう。

 長州の名門 佐藤家から出た両首相の閨閥には、既に 戦前の外相 松岡洋右がおり、のちに叔母の嫁ぎ先 吉田祥朔から 元首相 吉田 茂 (在任 通算7年余) 家に繋がっていた。そしてこの係累は 信介・栄作の次の世代になると 三木武夫、鈴木善幸、大平正芳、鳩山一族までが 濃淡の差こそあれ “血の連鎖” で結ばれ (←神 一行・閨閥より) 孫の世代では 安倍晋三、麻生太郎を輩出し、麻生太郎の妻は鈴木善幸の娘、妹は三笠宮家に嫁している。ここに名を挙げた総理大臣だけで 驚く勿れ、戦後政治の4割を統べているわけだ (安倍・麻生は これに含まず)。

 そして この閨閥の中には、元宮内庁長官、大学教授、医師、海軍将官、外交官、セメント会社会長、東京ガス会長、 日産自動車社長、NEC副社長、森永製菓会長、ウシオ電機会長、複数の衆議院議員 等 多士済々が居並び、まことに華麗を極める。

 その他の宰相の家系・閨閥図も (ここでは省略するが)、吉田・佐藤家の係累に負けず劣らず 名家・富豪を擁しているのだ。

 昭和50年代までの首相で、かかる支配階級からはみ出るものといえば、社会党内閣を率いた片山 哲、ジャーナリスト出身 病を得て短命政権に終わった石橋湛山 が想い浮かぶが、貧農から身を起こした田中角栄もその一人に数えられる。のちに角栄が福田赳夫と 党総裁の椅子を巡っ展開した抗争を指して、財界総理といわれる経団連会長 石坂泰三が 「土建屋あがりに 総理の椅子が渡せるか!」 と言い放った(← 閨閥より) あたり、前述 岸 信介の言葉を重ね合わせると、“財界の言うことを聞かぬ首相” の出現に対し、既成の支配秩序を乱しかねない者として警戒の念を露 (あらわ) にした特権階級の、まがまがしい眼差しが窺い知れる。

 角栄は おそらくその空気を もっと早い段階から察知していただろうし、それが彼の闘争心を 激しく掻き立てたに違いない。彼が 『総理の座』 を意識し始めたのは、そも 何時ごろからだっただろうか。

 昭和36年 角栄は43歳の若さで自民党政調会長 初の三役入りを果たし、翌37年7月 池田内閣の第2次改造に際して大蔵大臣に就任しているが、田中蔵相時代は その後池田~佐藤内閣を通して昭和40年6月まで、異例の連続4年に亘って続き  もはや押しも押されもせぬ実力大臣として業績を挙げることとなった。この間に 日本は、GATT 11条国への移行、国際通貨基金(IMF)加盟と 8条国に移行、経済協力機構(OECD) に参加、東海道新幹線の開通、東京オリンピック開催 など ビッグなデキゴトが実現した。

 信長好きの田中角栄が 「あるいは 天下を取ることが出来るかも知れない…」 と考えたとしたら、大蔵大臣に起用されていた この時期ではなかったかと思われる。

 だが かかる環境のもとで 彼が野望を達成しようとするためには、前掲 公設秘書の言葉ではないが、“…カネがなければ そう急に伸びられるものではなかった…" ということになるのだろう。「政治は数であり、数は力、力はカネだ」 という角栄の政治哲学は、このようにして生まれたのではないか。

 日本開発銀行から巨億の融資を受け 突貫工事で完成した路線電化が奏効、長岡鉄道の業績が回復したのを機に 角栄は 田中土建を廃業している。そして この経験によってか、彼は議員立法で 昭和28年7月 「地方鉄道軌道整備法」 を成立させた。この前後 半ば自然発生的に 新潟3区各地で角栄支持者の後援会が誕生し始めている。ただ 事件内容は詳 (つまび) らかにしないが、長岡鉄道不正容疑で 本社が警察の捜索を受け、角栄が特別背任で書類送検された事実がある。

 これも定かな話ではないが、昭和32年7月 39歳で郵政大臣として初入閣した際、角栄は 岸 信介のところへ "手土産” 代わりに 300万円をリュックサックに詰め込み持参したという (勿論 手渡したわけではあるまいけれど…)。聖徳太子の一万円札が発行されたのは 昭和33年12月のことだから、リュックに詰めて…という表現が 妙にリアリティを覚える。その昭和33年 彼は小佐野と、東急グループの総帥 五島慶太と共に 長岡鉄道の競争相手、栃尾鉄道・中越自動車株の買占めに動き 35年には3社を合併 「越後交通」 に改組して、自ら会長 のち社長に就任しているが、この社名は "金脈" の話題にしばしば登場する。

 角栄が 佐藤派内の議員だけでなく、他派閥議員にまで 歳暮のモチ代を配り始めたのも この頃だ。角栄といえば、のちにいう “族議員" の先駆者的存在であり、予ねて 鉄道・道路・電源開発・ダム・河川・港湾 等 多方面にわたるインフラ整備諸法案を連発する 党内屈指の実力者であっただけに、さまざまな形で 建設業界その他からの “政治献金" には こと欠かなかったと思われるし、その額は 並みの陣笠議員などとはケタが違っただろう。地元新潟県の県議グループが 小出只見線 (50号線 シルバーライン) の全線開通を要請したとき、「県会議員が天下の代議士に頼むんだ。わかっているだろう」 といったとも伝えられている。

 昭和33年7月、新潟で毎年のように氾濫に見舞われてきた “信濃川河川敷の耕作者” たちから、当該地の買い上げ陳情を受けた。これが 「角栄金脈」 の代名詞となる 「信濃川河川敷問題」 の端緒である。そのときは いったん断っているが、農民からの陳情は 再三にわたってなされた模様で、あるとき角栄は傍らの者に 「彼らが陳情に来るたびに俺は <難しいがやってみる> と答えている。彼らは今は 俺の支持者じゃないが、目をかければ こちらに靡 (なび) く。ツツガムシが巣くっているあの畑じゃァ 連中もかわいそうだ」 と洩らしている。

 そして 最初の陳情を受けてから4年目、室町産業という 田中ファミリーの “ダミー会社” を作り、耕作者301人から 長岡市蓮潟地区の信濃川河川敷畑地 74ヘクタール (約25000坪) を 1坪当り500円、ざっと1億1千万円で買収した。角栄は農民の困窮を救った、と 話がここまでなら美談だった。 ところが間を措かずして、この地域は 川の堤防が嵩上げされ 国道のバイパス工事などで立派な橋が2本も架かり、市の中心部から数キロという立地であるため 700億円という土地におお化けした。売買が成立するまでの4年間に いったい何があったのか。造成された土地は 長岡市が買い取ったり、県立近代美術館や長岡日赤病院、大学校 有料老人ホームが建ち、その他には大型ショッピングセンターやシネマコンプレックスが進出してきているようだ。

 新潟市では、市のど真ん中にあって 生活雑排水が流れ込んでいた鳥屋潟 (約1.1ヘクタール) の湖底地買収問題が取沙汰された。

 大蔵大臣時代の角栄に 小佐野賢治と絡む "虎の門国有地払い下げ事件" があったが、別に NHKの放送センター用地を巡る疑惑もある。昔 NHKは千代田区内幸町の狭い敷地に建っていた。東京オリンピックの誘致条件に、従来のラジオ中心の報道ではなく 衛星による画像を欧米に送ることになっていたので、 新放送センター敷地としてNHKは、代々木の旧米軍宿舎跡 (国有地 森林公園造成の予定) に目をつけ 払い下げ工作を行なった。結果 第1期と第2期に分割して払い下げが実現するのだが、第1期部分は約1万8000坪が 17億円で 昭和38年3月に国から直接払い下げられている。問題は第2期である。大蔵省は 代々木の隣接地を払い渡すために、何故か わざわざ千葉県稲毛の埋め立て造成地を NHKに13億円で買い取らせ、これと 第2期分5900坪を “等価交換" したのだ。稲毛の売主は朝日土地興業という会社だったが 実際の地価はわずか6億円程度のもので 小佐野賢治が仲介斡旋している。従って 第1期払い下げの坪単価は約9万4千円、第2期のそれは22万円を要したわけで、第1期坪単価を正しいものとすれば 約7億4300万円のサヤが 小佐野と角栄の懐に入ったものと考えられる。あまりにも露骨な この払い下げは、さすがに国会でも問題となった。

 前さき に “テレビ放送局一括大量免許" の件で検索、利用させてもらった 「MAMO’s Site」 から NHKエピソードを綴ったが、田中錬金術の核心を ズバリ衝いた次の文章を下記引用する

 「まず 河川敷や埋め立て可能な土地 荒れ地など、単価の安い土地に目をつける。これを関係する土建屋に造成させる。その後 関係会社 (ペーパーカンパニー) 間で転売を繰り返し 価格を吊り上げていって 最後に 国、自治体、誘致した公的機関などに押し付ける。だから 田中や小佐野の関連会社に入る利ザヤは、税金からまかなわれたことになる。NHKのケースでは 利ザヤを負担したのは、受信料を支払う契約者だった」

 まだ この他に、柏崎・東京電力刈羽原発建設地の “土地転がし”。昭和57年に 時の建設大臣もその存在を認めた、建設省と水資源開発公団が 将来 全国に建設する予定の48件のダム工事の発注先を、各ゼネコンに割り振った 「官製談合表」 2枚に載っている 工事費8000億円の内、その3%240億円が 角栄の手に渡ることになっていたという話など、数多くの疑惑が浮かび上がってくる。 際限がないので 金権政治の源泉探しは この辺りで打ち切るが、権力を嵩に 田中角栄は 日本の政治を壟断 (ろうだん) した。広辞苑によれば、壟断とは 「(孟子 公孫丑下) ある男が 市が立つたびに高所を探して登り、市場を見渡して安いものを買占め、高い値で売りつけて 利を貪 (むさぼ) った」 という意である。

                                  つ づ く


 古川柳に 「 講釈師 見てきたような嘘をいい 」 というのがあるが、さしずめ 私の “昭和史エピソード” は それに類するものかも知れない。デキゴトの現場に居合わせたわけでもなく、ひたすら インターネットから事象を取り出しては、老耄し 貧弱になった“ 灰色の脳細胞" に微かに残る 記憶を呼び覚ましながら “真偽" をまさぐり、 縒り合わせる作業をしているに過ぎないからだ。それにしても Web空間には、厖大な情報が飛び交っていることに驚く。ひとつの事柄を確認しようとすれば 更にまた新しい事実が示され、何れが真実か、手繰れどたぐれど 止め処がない。

 この 「総理大臣の犯罪」 シリーズも、はじめは 5回で収めるつもりだったのだが、予定を大きく食み出してしまった。このぶんでは、もう 1~2回 お付き合い頂かなければ ならないようである。
                                 Okuyama.

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