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2008年10月

総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 4

議 員 立 法 を 連 発   角 栄 頭 角 を 顕 わ す

 第24回総選挙に “獄中立候補” し、厳しい選挙戦を 辛うじて勝利した角栄は、議員3期生として国会に戻った。戦前からの議席を有する先輩は別にして、敗戦の年 幣原内閣が公布した “選挙法” 以後に代議士となった大多数の国会議員の中では、32歳に過ぎぬといえども少壮気鋭の中堅に位置し、角栄は建設委員会理事 次いで建設委員会地方総合開発小委員長に擬せられている。またこの頃 彼は首都建設法や住宅金融金庫法の立案に参画し、猛然と法律の勉強に挑戦し始めた。「六法全書」 を読破し、理解できたページは 片っ端から破り捨ててしまった (食ってしまった?) という伝説が生まれたのも この時期からではなかったか。

 日本に限らず、民主主義を標榜(ひょうぼう)する憲法を持つ国は、「三権分立」 体制をとる。 三権とは、立法、行政、司法のことであり わが国の憲法に於いても国民主権の原則のもと、第41条後段に 国会は 「国の唯一の立法機関」 と定めている。則ち 国会議員たるもの すべからく 自ら法案を作って審議を受け、成立させるのが役割なのだが、わが国の場合 実際はそうなっておらず、ほとんどの法律は 行政サイドの官僚 (規則を作ることは出来るが…) によって立案され 内閣(総理大臣) が国会に提出、国会議員は ひたすら審議している風を装って “可決” するだけの役回りを演じているに過ぎないのである。

 かつて 明治憲法においては 立法権は天皇 (お上) にあり、議会は 実質 “賛同” する役割しか持たなかったのだが、戦前と 全く変わらぬ悪弊を 新憲法施行後も 慣行として惰性的に引き摺ったままで、国会議員は( 所属する党の 党議に拘束された) 単なる “首振り人形偽員” になってしまっているわけだ。

 田中角栄が そのことを意識していたか どうかは知らない。彼にしてみれば、問題がそこに存在していることが判っていながら、間怠(まだる)っこい官僚の作文を待つよりも 手っ取り早く自ら鉛筆をなめなめ、構想や政策を 「法案」 として端的に表現しようとしたのだと思う。 国会議員ならば 当然そうすべきであるにも拘わらず、国民の付託を受けているはずの 選良たる日本の代議士は、昔も 今も、誰一人として 議員立法を行なおうとしない。初出馬の際 立会演説会で、競争相手の社会党立候補者に 「…どうすれば 政治の勉強が出来るだろうか…」 と尋ねていた彼が、独学で ここまで成長していたのである。

 角栄は さる月刊誌に 「(戦後の政治家は) 行政に精通し、予算書が読めて、(官僚が作った)法律案文を修正することが政治だと 錯覚しているものが多い。それでもいいが、国民各層の個別的な利益を吸い上げ、それを十分に濾過した上で 国民全体の利益に統合し、自らの手で立法化することにより、政治や政策の方向を示すことこそ 政治家本来の仕事であることを明確にしておきたい」 と述べているが、掬(きく)すべき言葉である。

 現に田中角栄は 議員活動の若いころ、自から議員立法として提案・成立させた法律の数は 33件にのぼり、この記録は いまだに破られていないという。幾つかの実例を挙げてみよう。

 建築士法 (S26・5・24 角栄初の議員立法 自身が 1級建築士第1号となる
 
積雪寒冷単作地帯振興臨時措置法 (S26・3・23
 
公営住宅法 (S26・5・28 母子家庭・引揚者を対象に大規模団地を建設
 
道路法 (S27・6・2 道路行政の骨格となる基本法 再提案し成立
 
道路整備特別措置法 (S27・6・10  いわゆる有料道路法 道路の通行を
     有料化するという 角栄の奇想天外なアイデァ 有料道路は世界初 
 
道路整備費の財源等に関する臨時措置法 (S28・7・13 道路建設の
     財源確保のために ガソリンに課税するという破天荒なアイデァを盛込む
 
国土開発縦貫道路建設法 (S32・3・29 日本列島に高速道路網を巡らす

 等々である。このほか 彼の法律作成能力が評価されてか、多くの法律立案に際して 「参画」 を求められているが、建設省をはじめ 官僚が、角栄に知恵を借りようとしたものか  ある場合はお墨付きを得るためだったかも知れない。その数は 私がザッと数えただけでも50件以上にのぼり、彼が党の幹部 更には首相になってからも 立案に参画しているケースが見られた。寄与の程度は不明だが、主なものを若干列挙しておく。

金融金庫法 (S25)  国土総合開発法 (S25)  日本住宅公団法 (S30 愛知用水公団法 (S30) 日本道路公団法 (S31)  北海道・東北開発公庫法 (S32)  工業用水事業法 (S33)  特定港湾施設整備特別措置法(S34)   首都高速道路公団法 (S34)  治山・治水緊急措置法 (S35)  豪雪地帯対策特別措置法 (S37)  関越自動車道路建設法 (S38) 自動車新税法 (S46)  全国新幹線鉄道整備法 (S45)  本州・四国連絡架橋公団法 (S45)  自動車重量税法 (S46)  etc

 角栄の土建屋的問題意識が色濃く、 議員立法であれ、行政官庁から 立案に参加要請を受けた案件にせよ、上掲のリストは 総じて土木建築に関わるもの、臨時特別措置と名付けたもの、目的税化したもの、そして 矢鱈に 公社・公団を新設しようとしている点が 気になるところだが、角栄が 行政の隅々にまで 睨みを利かせていくプロセスが窺い知れる。彼の発想は 常に細かい気配りに裏付けられたもので、たとえば あまり知られていないが、議員在籍期間が10年あれば 一般庶民よりはるかに高額な “議員年金” を受けられるように仕組んでいるあたり、官公労・民間労組出身の議員が 参議院を2期勤めれば、引退後に優雅な老後生活を保証するもので 野党や労組対策としても 心憎いばかりである。

Photo   だが彼が 議員立法に手を染めるようになった当時の心情は、真摯に 国家の繁栄を願い 国民生活の向上を追及する姿勢から発したものと思われる。左にインサートした新聞記事画像は、昭和49年に改正成立していた いわゆる 「ガソリン税暫定引き上げ特別措置法」 が期限切れになって、ほんの1ヶ月ほど ガソリン価格がリッター当り25円安くなったころの 平成20年2月4日、朝日新聞・月曜コラムに掲載された 早野 透 さんの “ポリティカにっぽん” 「角栄と道路財源」 全文である。昭和27年 角栄が道路法を作り、翌28年ガソリン税を目的税化したことから 同49年 インフレ対策と総需要抑制のために、更に税率を上乗せするに至る経緯を、見事な筆致で 的確に活写されている。この文章は なまじっか私ごときが 下手に改竄してはならないと考え、先日 朝日新聞から正式に転載の承諾を得 敢えて写真画像とした。画像の上にマウスポインターを置き左クリックするとポップアップしてパソコンの画面いっぱいに拡大する。文字は若干小さめだが ルーペを利用すれば十分読み取れるので、若いころの角栄を知り、政治の現状を考えるうえでも、是非 読んでいただきたい記事である。

 猶 画像の文章を無断で使用 又は転載することは 固く禁じられている。

花 嫁 の 父 は  3 8 歳

 昭和33年12月末、第2次岸内閣の警職法改訂の目論見、衆議院の抜き打ち30日間延長 など、強引な国会運営に反対して、三木武夫経企庁長官・灘尾広吉文部大臣と連袂(れんけつ)辞職した池田勇人に対し、翌34年7月 岸首相は通産大臣としての再入閣を求めた。池田にしてみれば 前年末に いわば辞表を叩きつけてから半年しか経っていないところだったし、去就に迷った。無論 池田派宏池会側近らは挙って反対である。

 だが 嫌がる池田にひざ詰めで入閣を勧めたのは、田中角栄だったという。角栄はこのとき 池田に向かって 「官僚なんていうものは その地位から離れたら干乾しになる。全く無価値だ。大臣というものは なりたいと思ってもなれるものじゃない。チャンスは掴まなきゃ駄目だヨ」 そして “History of Modern Japan” によれば 「姻戚に当たる角栄は むりやり (池田) 満枝夫人に モーニングの用意をさせた」 とあった。池田勇人は 翌年 岸 信介 の後を襲って 第58~60代内閣総理大臣になる。

 しかし 私は、それはナイだろ と思った。池田勇人と田中角栄が 姻戚関係であるはずがない。池田家といえば広島の素封家。代々 造り酒屋を営んできた由緒ある家柄である。遠く離れた越後の 水呑み百姓の子倅と繋がるとは 到底考えられなかったからだ。それでもと思って Web上で池田家の家系図まで取り出し、4代前まで遡って調べてみたが 無論 徒労だった。昭和34年の 【この年】 を書いていた 昨年11月のことである。結局そのときは 前(さき) の資料が間違っていると判断して 採りあげなかった。

 ところが、今回 神 一行 の 「閨閥・新特権階級の系譜(毎日新聞社刊)」 を読んでいて、アッと 驚いた。池田と角栄とは まさに姻戚関係にあったのである。

  池田勇人が国会議員に初当選すると同時に、第3次吉田内閣の大蔵大臣に大抜擢されたが、その陰に 吉田 茂 の女婿 麻生太賀吉と組んだ角栄の強力な推挽があり、そのことを知った池田が 角栄に 「政界に出て いちばん最初に借りを受けたのはキミだ。この恩義は忘れない。ボクに出来ることがあれば 遠慮なく言ってくれたまえ」 と感謝した話は 既に述べた。当時角栄は31歳だった。

 それから7年が経ち、55年体制が確立して 自由民主党が誕生、鳩山一郎初代総裁のもとで 党政策審議会委員になったころ、妻のはなさんの連れ子 静子さんは、妙齢の娘盛りになっていた。義理の仲とはいえ 角栄も人の親、あるとき池田に 「実を言うと 俺には一人娘がいる。どこか良いところへ嫁がせたいんだが、世話をしてくれ」 と 頭を下げた。純粋な気持ちからだったろう。池田は黙っていたが、後日 自分の甥 (氏名 略) と 結婚させているのである。挙式は 昭和31年11月吉日、花嫁の父は 38歳であった。権謀術数渦巻く 政治の世界にあって、なんだか心温まる話ではある。

 いい話を もうひとつ。 第25回総選挙 (抜き打ち解散 投票日S27・10・21) では、池田の秘書官 大平正芳が出馬しているが、池田との交流深い角栄は、ナゼか大平とウマが合い 誼(よしみ)を通じていた。せっかち角栄と アーウー鈍牛の大平とは、何とも奇妙な取り合わせであったが 大平の逸材を見抜いた角栄は、自分の選挙区をほったらかして 香川2区に貼りついた。後援会が固まってきた新潟3区は 62788票でトップ当選を果たしたが、角栄が入れ込んだ大平も見事初当選し、以後 田中・大平のコンビが 政治を動かすことになる。

 “頼まれれば 越後からでも米搗きに来る” という古諺があるが、角栄には、頼まれなくても応援に入れ揚げる 義理堅さがあった。

角 栄 の  官 僚 操 縦 法

 「歴代総理の通信簿 (PHP新書)」 を書いた八幡和郎によれば、田中角栄ほど 霞ヶ関の官僚たちに好かれた政治家は いないのだそうだ。「なぜなら 彼は 省庁の壁や前例主義で 身動きがとれなくなっている官僚たちを、手品のようなアイデアで 救い出す術を心得ていたからである」 角栄は天才的な人心収攬術と、コロンブスの卵的な問題解決力を持っていたうえに、直感的に物事の本質を見抜く洞察力と、底知れぬ胆力を身につけていた。若年時代から 実社会の荒波に揉まれ 何回も修羅場を踏んできただけに、少々のことでたじろぐことはない。官僚にとっては 実に頼み甲斐のある人物だったのだ。自ら法律を書く能力を身につけていたから 生半 (なまなか) なことでは 騙 (だま) しは効かない。

 そもそも 霞ヶ関の住人といえば、全国の秀才が 東京大学法学部を上位で卒業した連中で固められているのだが、頭脳の明晰さと 人間としての品性・品格は まったく別物で、官界に永年伝わってきた 卑しい根性と無責任な風土は 矯め直しようがなく、毎年、毎月 全省庁に亘って事件や悪事が 露顕しているところである。役人のトップである事務次官に昇進した人物と同期入省者は、いっせいに職を離れるという奇妙な慣例が存在するから、 世の顰蹙を買う天下りの押し付けと 受け皿作りが横行する。公務員を対象とする共済年金制度とともに 唾棄すべき “官尊民卑” の残滓である。

 金権を以って伸し上がっていく角栄が 最初にカネを撒き始めたのは、腐臭漂う 官僚の世界からではなかっただろうか。さしづめ 建設・郵政・大蔵省の幹部辺りが 最も効果的だったと思う。“端た金” ではない。しょっちゅうではないものの、いわゆる 盆暮れ 冠婚葬祭の折、十万単位、百万単位の 桁外れなカネが配られた。役人どもは これを “別封” と呼んだ。百万円の借財に困っている者があると聞けば 三百万円渡した。「百万は借金返済に、百万は当座の生活費に、残る百万は不時の場合に備えて貯金しておけ…。返済は無用」 というわけである。官僚が 角栄に靡 (なび) かぬ筈がない。

 角栄が出したカネは、“受け取らなければ ならなかった”。もし受け取らなかったら、角栄は その人物を “敵” と見做したからだ。何しろ かつて民自党の 「全国選挙地図」 を作り上げた男である。官僚個々の情報は 細部にわたって掌を指すがごとく知悉しており、役人の処遇は 角栄の恣意に拠って定まった。OBの天下り先、時としては天上がり (政界への出馬と当選)。角栄は政治的立場が強まっていくとともに 官僚の生殺与奪の人事権を握った。

 建設省事務次官だったある人物が こう語っている。「矢張り田中さんには 道路財源を確保するガソリン税など、大変 恩義を蒙っていますからネ。先生ら) 頼まれたことは、断ることなく できる限り協力しています。省としても協力するにやぶさかではないでしょう」

 昭和32年 「テレビ放送局の一括大量免許」 40年 「山一證券に対する日銀特融」 46年 「日米繊維交渉の解決」 など、角栄が鮮やかな政治的手腕を発揮し、また 全国新幹線鉄道整備法 首都圏高速道路公団法 など 数々の法律を成立公布していった陰に、金縛りに会い、自在に使いこなされた、無数の官僚たちがいたのだ

                                つ づ く。  

 

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総理大臣の犯罪 (角栄という人物) 3

初 当 選 と 代 議 士 活 動  陣 笠 角 栄 奮 闘 記

 昭和20年12月17日 幣原喜重郎内閣は 「衆議院議員選挙法」 を公布、翌18日 衆議院を解散した。「終戦解散」 と呼ばれ、総選挙投票日は 21年4月10日とされた。今から見れば ずいぶん余裕をとった日程だが、敗戦によって日本の国家体制は大きく変わり、これからの政治に携わっていく 新しい政党もほぼ出揃ってきたので、国民に熟考の余地を取って その意思を問おうとしたのだろうか。主な政党を列挙すれば、日本社会党(書記長・片山 哲)、日本自由党(総裁・鳩山一郎)、日本進歩党(総裁町田忠治)、日本共産党(委員長・徳田球一)、など。新憲法はまだ発布されていなかった。新しい選挙法では、初めて婦人参政権を認め 被選挙権は25歳からとなっていた。

 「15万円出して 1ヶ月間、黙って御神輿(おみこし) に乗っていれば、当選は請合う…」 大麻唯男は こんどは角栄本人の出馬を勧めたものだ。田中角栄は、御神輿ならぬ 大麻の口車に乗ってその気になり、田中土建の新潟支店を柏崎に開設し 進歩党の候補として運動に取り掛かった。ところが 大麻が紹介してきた選挙参謀に 資金を手渡したトタンこの男、ころっと裏切って 同じ選挙区で しかも自由党から立候補してしまったのだ。政治の世界とはまことに奇っ怪千万、さしもの角栄もあっけに取られてしまった。大選挙区の定員8名のところ、角栄の参謀になる筈だった男も含め 立候補者37名という乱立の中で、さりとて引き下がるわけにも行かず、角栄は徒手空拳 見よう見真似で選挙戦に臨んだ。演説会で聴衆を前にすれば 治っていたはずの吃音がぶり返す。野次られて立ち往生をしたときには チョンガリでごまかし、立会演説会では 対立候補に 「オレにはちゃんとした教育がない。どうすれば政治の勉強が出来るだろうか」 と尋ねる始末。健闘及ばず、結局 得票数34124票 11位で落選する破目となった。

 選挙というものを一度体験すれば、悪性のヴィールスに取り憑かれたようになって、もう止めようと思っても止まられないものだそうで、角栄も落選はしたものの 多くの知己を得ることが出来 「全くいい経験だった。今回は不徳の致すところだったが、次の選挙で捲土重来を期す」 と述べている。

 その機会は 意外に早くやってきた。昭和21年11月3日 新しく公布された 「日本国憲法」 は、その内容を広く民意に問う必要があるとする GHQの意向を受ける形で、第1次吉田内閣が22年3月31日 衆議院を解散したのである。角栄は直ちに進歩党を改組した「民主党公認」 として新潟3区から立候補(定数 5議席 11人出馬) した。前回の失敗を教訓に “人任せではない” 自前の選挙戦に乗り出したのである。柏崎と長岡に田中土建の出張所を設け 100人もの社員を貼り付けて組織化、自ら先頭に立って機能的選挙運動を展開した。選挙区都市部の人口が多いところは 先輩政治家が抑えているから、角栄の行動範囲は 他候補も入り込まない山間僻陬 (へきすう)の地になる。彼は しばしば陸の孤島のような辺境の集落まで 一升瓶を片手に 一日に 9会場も回わり 村民と膝をくっつけて語り かつ聴いた。

 このときの選挙で 角栄は、およそ彼とは似っかわしからぬ 詰襟・角帽の学生たち10人ばかりの 思わぬ応援を受けている。早稲田大学雄弁部の面々である。演説はお手のものだ。これには訳があった。敗戦直後のハイパーインフレのころ、老朽化し 空襲で焼け落ちてしまった校舎の屋根などを補修する必要があった早稲田大学が 工事を大手建設会社に発注したとき、軒並みに断られるか 資材の値上がりを理由に工事費の増額を要求されるなか、独り田中土建のみが 当初契約どおり 誠実に完工してくれたお礼返しに、大学が弁論部のえり抜き学生を ボランティア的に新潟まで派遣してくれたのであった。

 田中角栄は 初当選するこの第23回総選挙の中で、次のような演説をぶっている。

 「皆さん この新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまう。そうすれば、日本海の季節風は太平洋に抜け 越後には雪が降らなくなる。みんなが 大雪に苦しむことはなくなるのであります。 ナニ 切り崩した土は日本海に持ってゆく。埋め立てて佐渡を陸続きにしてしまえばよいのであります…」

 角栄政治の原点である。

 新憲法下初の 第23回総選挙(22年4月) において 田中角栄は見事に当選した。得票 39043票 新潟3区第3位 (角栄29歳) であった。同期に 中曽根康弘、鈴木善幸の名前が見える。この選挙では社会党が第一党になり 片山 哲を首班とする連立内閣 (社会、民主、国民共同) が成立したが、民主党は連立を是とする 芦田 均派と 自由党に近い幣原喜重郎派に割れており、角栄は幣原派に属した。片山内閣は 「炭鉱国家管理法案」 を提出して大いにもめ、社会党内左右両派の内紛もあって 翌23年2月には政権を芦田民主党に “たらい回し” してしまった。これを機に民主党反芦田の幣原派は、斎藤(隆夫) ら無所属議員8人を加えた36人で 「民主クラブ」 を結成、角栄もその一員になった。

 因みに 斎藤隆夫とは、昭和15年衆議院壇上で 時の政府の戦争政策を痛烈に批判する 有名な “粛軍演説” を放ち、民政党を除名された気概の士、その人である。

 5月 民主クラブは自由党に合流、角栄は 民主自由党 (総裁・吉田 茂、幹事長・山崎 猛、議席152) に移り、いきなり 党選挙部長の要職に任じられている。彼はここで早くも異才を発揮し、ごく短期間のうちに 日本全国選挙区情報を網羅・集約した 「全国選挙地図」 なるものを作成している。むろん独創で、それまでにこのようなものは存在しなかった。議員の生年月日・学歴・家族構成・人脈・資金力・選挙区の人口構成・有権者数・支持率・地域産業構造・分布・所得水準・各選挙参謀の動きまでを悉く(ことごとく) 調べ上げたもので、自党のみならず 各政党議員も含めた精緻極まるデータベースといえた。まだコンピュータは存在せず、全て手作業であったと思われるが、これら全国選挙区の情報・情勢は角栄の頭脳にインプットされ、周囲から 「選挙の神様」 視されることになった。

 6月 「昭電疑獄」 がもちあがり、経済安定本部栗栖長官 西尾末広前国務相が検察に逮捕される事態となって、10月7日 芦田民主党内閣が総辞職してしまった。政権のお鉢が民主自由党に回ってくることになったのだが、自分たちの頭越しにマッカーサー元帥と通じ合える 吉田 茂の再登場を煙たがったGHQ民生局が、民自党山崎幹事長を擁立するよう画策し民自幹部に働きかける。そのことが議された総務会で、一年生議員の角栄が 「ちょっと待った」 と声をあげた。「いかに敗戦国といえども、首班人事にGHQが容喙してくるのは内政干渉ではないか。民主自由党が組閣するなら 総裁である吉田首相でいくのが憲政の常道だ」 というのである。この発言で議論の流れが一変し、第2次吉田内閣が成立した。この内閣で彼は法務省政務次官に就任している。吉田の論功行賞であった。(この挿話は 角栄伝説として夙に語り伝えられているが、今回調査では 必ずしも確認はできなかった)

 だが 次官就任2ヶ月足らずで 角栄は炭鉱国管疑獄の収賄容疑で逮捕されてしまった。片山内閣が炭鉱の国有化を狙って提出した 「臨時石炭管理法案」 に対し 彼が反対の急先鋒に立っていたとき、業者から賄賂を受け取ったとされたのである。

 吉田内閣は成立したものの 如何せん少数内閣、総選挙をして国民の認知を得たいところだが、憲法第7条による 天皇の国事行為としての衆議院解散に GHQが横槍を入れてきた。吉田に対する嫌がらせである。已む無く、吉田は野党と示し合わせて “内閣不信任案” を成立させ、憲法第69条を援用してGHQの鼻をあかし のちにいう 「馴れ合い解散」 を打った。23年12月23日、総選挙投票日は 翌24年1月23日、民主自由党は264議席を獲得、圧倒的多数を占めることになる。吉田 茂は 第1次内閣での学習経験から、旧来の党人よりも 政策遂行能力に長けた官僚の政界導入を企図し、事実この第24回総選挙で、池田勇人(大蔵)、佐藤栄作(運輸)、岡崎勝男(外務)、前尾繁三郎(大蔵)、大橋武夫(戦災復興院)、ら 官界の俊英たちが多数初当選してきている。

 しかし 田中角栄にとってこの選挙は 剣が峰に立たされたような状態に陥った。何しろ 身柄を検束されているのである。総選挙告示と同時に 小菅刑務所内から 「獄中立候補」 はしたものの動きようがない。投票日まであと10日と迫ったところで やっと保釈となり、角栄は雪の新潟3区へ転び帰ったが、そこには厳しい状況が待ち受けていた。田中土建の経営が悪化し、土木作業員への給金が滞るほど資金が逼迫、全てを叩いても現金は30万しかなく、金庫番から “選挙” か “経営” か 二者択一を迫られたのである。角栄は ためらうことなく “政治” を選んだ。

 地元の支持者たちは 身銭を出し合って選挙資金を作り、角栄を励ました。彼は涙を流さんばかりに喜び 吹雪の中を駆けずり回った。街頭で声をからし、時には 上越線が不通になって他候補が二の足踏む中を、雪の鉄橋伝いに対岸の小集落にまで出向いたという。絶体絶命の立場に立たされた中 奮迅の運動の甲斐あって、第24回総選挙における角栄の得票は、前回を3500票上回る 42536票、2位で当選を果たした。

 選挙に大捷した吉田首相は、政界に進出した官僚出身者を重用し 第3次内閣を組閣した。このときの閣僚人事で最も紛糾したのは、新議員となった池田勇人の大蔵大臣抜擢であった。党歴の古い党人たちは “反対決議” などして抵抗したものだが、こののち池田蔵相が アメリカが突きつけてきた 「経済安定9原則」 に基づく緊縮予算 いわゆる “ドッジ・ライン” や シャウプによる“税制勧告” にがっぷり取り組み、ハイパーインフレ下の難局において 厳しい財政政策を推進していき、吉田の命令で首をかしげながら党内の反発を抑えた 時の民自党幹事長大野伴睦をして 「ホームラン人事だった」 といわしめた。

 吉田によって引き立てられた官僚組の政治家は、自ずと吉田 茂の側近集団の形成していき 「吉田学校」 と呼ばれるようになるが、田中も吉田のメガネに適ってその一員となり もっぱら連絡役を担っていた。吉田とのつながりは角栄のほうが一足早いわけだが、池田勇人抜擢に際しては、吉田の女婿である麻生太賀吉らと組んで 強く池田の蔵相起用を推挽した。のちにこのことを知った池田は 角栄に対し 「政界に出て いちばん最初に借りを受けたのはキミだ。この恩義は忘れない。ボクに出来ることがあれば 遠慮なくいってくれたまえ」 と感謝の気持ちを伝えている。

 昭和25年 角栄は32歳になっていた。炭鉱国管疑獄の第一審で東京地裁は 角栄に懲役6ヶ月 (執行猶予2年) の刑を言い渡したが 角栄は直ちに控訴、翌26年 東京高裁は逆転無罪と判決、検察が控訴しなかったので田中角栄の無罪が確定した。

 田中土建は命脈を保っていたが、この年 経営不振に陥っていた新潟県長岡鉄道の再建依頼が持ち込まれている。角栄にとっては あまり乗り気になれない話だったようだが、調査・熟慮の上 労組委員長に 「沿線住民、株主、従業員が一丸となってくれれば引き受けてもよい」 と伝え、5月の長岡鉄道株主総会で 労組がワンマン社長を退任させ、角栄を社長に迎え入れている。彼は就任早々、役員全員無報酬の荒療治を施したほか、山間部にバス路線を拡充させた。その際 車両の提供を受けたのが国際興業の小佐野賢治からで、以後 “刎頚(ふんけい) の友” と呼び合う関係を築く。

 また 池田勇人の後押しもあって、日本開発銀行から1億2千万円(総工費の92%) の融資を引き出して、廃線寸前の危機に呻吟していた長岡鉄道の電化を完遂、見事 蘇生に成功させた。サンフランシスコ講和条約が締結をみた年のことである。

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