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昭和47年(1972)

【デキゴト】
01・03 日米繊維協定調印 以後 繊維製品の対米輸出は制限された
01・06 米西海岸サクラメントで 日米首脳会談 (沖縄の返還日程決定)
01・09 元豪華客船クィーン・エリザベス号 (8.3万トン) 香港港外で炎上沈没
01・11 英 炭鉱スト長期化 影響深刻 英全土が電力不足で真っ暗闇に…
01・15 兵庫県の地元で 原健三郎労相 老人侮辱発言 (1/28 辞職)
01・24 元軍曹 横井正一 敗戦27年目にして グアム島の密林で救出される
       2/2 日本に帰国第1声 「恥ずかしながら 生き永らえて帰りました」
01・28 総理府統計局 46年度消費者物価指数前年比 6.1%上昇と発表
02・01 静岡県裾野市 東名高速道路で 31台玉突き衝突 25人死傷
02・01 公共料金値上げラッシュ 医療費平均13.7% 郵便料金も…
02・02 ロンドン金市場 1オンス=48ドル60セント(前日比47.5㌣)の高値に…
02・03 東京警視庁 日活ロマン・ポルノ映画を 猥褻容疑で摘発
02・03 札幌で第11回冬季オリンピック開催 アジアで初 35ヵ国1655人参加
02・12 群馬県警 妙義山中で 連合赤軍幹部 森 恒夫らを逮捕
02・19 政府 モンゴル人民共和国と国交樹立 アジア共産主義国で初
02・19 軽井沢で連合赤軍派5人 人質をとって「あさま山荘」 に立て籠もり
02・21 米ニクソン大統領 中国を訪問(~ 2/27) 米中共同声明 発表
    毛沢東・周恩来と会見 台湾を中国領土と認める等 平和五原則合意

02・28 連合赤軍 「あさま山荘」で 210時間の銃撃戦を展開
                        警察機動隊が突入し人質を保護 犯人全員逮捕

03・02 米発の木星探査船パイオニア10号打ち上げ ´48/2最接近・電波発信
03・07 赤軍派の自供で 妙義山リンチ現場捜査 凄惨な13凍死体発見
03・13 スモン病調査研究会 整腸剤キノホルムが原因と結論
03・15 国鉄山陽新幹線 新大阪~岡山間開通 ひかりは西へ…
03・18 高校入試不合格の麹町中学生ら 東京都を告訴
          (内申書に 「中学全共闘」 と書かれたことが原因と主張)

03・21 自衛隊航空隊 抜き打ちに 宇都宮から立川基地に移駐
03・21 通産省  PCBを有害として 関係業界の生産・販売を禁止
03・21 奈良県 明日香村の高松古墳で 極彩色の壁画を発見
03・27 社会党 沖縄返還密約 (外務省) の存在を 暴露 政府を追及
         米軍用地保障費を 日本政府が肩代わりする旨の内容

03・28 国鉄 総武線・船橋駅で電車追突事故 重軽傷者758人
03・30 南ベトナム全土で 解放戦線が テト以来の大攻勢
03・30 宮内庁長官 天皇陵の発掘は拒否すると表明
04・04 検察 極秘公電漏洩容疑で外務事務官と毎日新聞記者を逮捕
04・06 米軍 北爆再開  5/9 北ベトナム全港湾を機雷で封鎖
04・16 ノーベル賞作家 川端康成 逗子のマンションで ガス自殺
04・20 大蔵省 タバコのケースに 「健康注意」 の表示を指示
        専売公社 “健康のため 吸いすぎに注意しましょう” と印刷

04・24 過激派対策 火炎瓶使用等処罰法 公布
04・30 通産省 電力長期計画 原子力中心の 「原主水従」 に…
05・13 大阪南の千日前雑居ビル上層階で火災 118人が死亡の大惨事
05・15 米国から 沖縄施設権返還 但し 実質的には米軍基地存続のまま
      地で政府主催の記念式典が挙行されたが 反対集会も多く催された
05・17 西ドイツ ポーランドと 「武力不行使条約」 を批准
05・22 ニクソン大統領 ソ連を公式訪問
              米ソ 戦略兵器制限条約 SALT・Ⅰ) に調印

05・26 東京練馬の中学校で光化学スモッグ 13人が入院
05・26 閣議 初の 「環境白書」 を了承 47年度公害防止施策を決定
05・30 日本赤軍 テルアビブ空港で乱射 無辜の死者25人 重軽傷者73人
06・01 道路交通法改正 公布 (初心者に若葉マーク貼付など)
06・11 田中角栄通産相 政策構想として 「日本列島改造論」 を発表
06・12 英仏共同開発の超音速旅客機 “コンコルド” が初来日
06・14 日航のDC-8型機 インドで墜落 乗員乗客80人が死亡
06・16 避妊中絶禁止法に反対 ピル解禁要求の 「中ピ連」 結成
06・17 米共和党の策謀 「ウォーター・ゲイト事件」 発覚
06・17 佐藤首相引退声明  官邸でテレビだけを前に独り異様な会見
      「偏向的な新聞は嫌いだ…」 と発言 記者全員一斉に会場を退席
06・17 自民党総裁選 田中角栄・大平正芳・福田赳夫・三木武夫が出馬
06・20 総理府 貯蓄動向調査 1世帯当り183万円 (14.1%増加)
06・22 自 然 環 境 保 全 法  公 布
     大気汚染防止法・水質汚濁防止法 等 含む 企業の無過失損害賠償責任条項
06・23 老人福祉法改正 公布 70歳以上の医療費無料化 ´73年施行
06・24 英 変動相場制に移行 外為市場閉鎖 (6/29 再開)
        東京証券取引所 株価大暴落 いわゆる 「ポンド・ショック」
06・25 沖縄県知事に革新系 屋良朝苗 当選 (県議・反自民が過半数)
07・02 埼玉県知事に 畑 和 が初当選 (5番目の革新知事)
07・05 自民党大会 決選投票で 田中角栄 が新総裁に当選
07・06 佐藤栄作内閣総辞職 (在籍7年8ヶ月 戦後最長不倒)
07・07 第1次田中角栄内閣成立 外務・大平正芳 通産・中曽根康弘
07・10 大学生7人が タウン雑誌 “ぴあ” を創刊
07・18 大相撲 名古屋場所 ハワイ出身の高見山 (前4) 初優勝
07・21 英 北アイルランド紛争激化 IRA過激派による爆弾テロ頻発
07・24 津地裁 四日市ぜんそく訴訟で 6社の共同不法行為認定
             賠償金8800万円支払を命令 6社は控訴断念
07・24 英 労使関係険悪化 拡大ゼネスト 政府は非常事態宣言
07・27 札幌地裁に 住民 北電・伊達火力発電所の建設中止請求 提訴
07・30 中国湖南省で2千年前古墳から 完全保存状態の女性ミイラ発掘 
08・02 カシオ計算機 「カシオ・ミニ」 発売 (電卓普及の先鞭)
08・05 社会党・労組員 相模補給廠のベトナム向け戦車輸送反対 座り込み阻止
08・07 田中首相の私的諮問機関 「日本列島改造問題懇談会」 初会合
08・16 森永砒素ミルク公害 会社側 患者・家族に恒久的救済を約束
08・24 瀬戸内海汚染 播磨灘に広範囲な 「赤潮」 が発生
08・26 西ドイツ 第20回ミュンヘン・オリンピック開催  121ヶ国が参加
08・31 ハワイで田中首相とニクソン大統領 会談
      ニクソン大統領 次期主力戦闘機にトライスター車載用を希望したが
      田中首相は難色 のちの 「ロッキード事件」 の伏線になったという

09・05 オリンピック選手村で パレスチナ・ゲリラがイスラエル選手を襲撃
09・09 名古屋地裁 イタイイタイ病訴訟で三井金属の控訴を棄却
09・10 IMF(国際通貨基金) 日本の貿易黒字が通貨危機の一因と…
09・14 内閣 青森県むつ小川原開発計画を了承
09・25 田中首相 大平外相 はじめて中国を訪問
09・26 プロ野球 阪急・福本豊選手 シーズン最多盗塁105個の新記録
09・29 日中両国首相 共同声明に調印 「日中国交回復」 なる
        大平外相 記者会見で ´52年に締結の “日台条約” 失効と表明

10・02 スーパー・ダイエー 8月決算で三越を抜き小売業売り上げトップ
10・03 中央公害対策審議会 米マスキー法に準じた自動車排ガス規制答申
10・05 中央公害対策審議会答申の 自動車排ガス規制 告示
10・09 政府 第4次防衛力整備計画決定 (総額4兆6300万円)
10・11 本田技研工業 排ガス規制値クリアのCVCCエンジン搭載車発売
10・19 フィリピン・フバング島で 元日本兵 小野田寛郎少尉 を発見
10・- 韓国に 「10月維新」 朴正煕軍事政権・独裁体制を強化
11・05   上野動物園 中国寄贈のパンダ “カンカン・ランラン” を初公開
11・13 ソ連へ亡命の元女優岡田嘉子 34年ぶりに一時帰国
11・16 内閣 空母ミッドウエーの 横須賀母港化を承認
11・17 アルゼンチン元大統領 ペロン 亡命先から17年ぶりに帰国
11・19 西ドイツ総選挙 社会民主党が大勝
11・21 文部省 大学進学率 東京都・50% 青森県・14%と発表 地域に格差
11・21 米ソ 「SALTⅡ(核兵器制限条約)」 第1期の交渉を開始
11・24 大蔵省  海外旅行の外貨 持ち出し制限を撤廃
11・28 日航 DC-8型機 モスクワ空港で離陸に失敗・墜落 62人死亡
11・28 厚生省 昭和47年度の人口動態概況を発表
          出生 : 205万7000人 第2次ベビーブーム本格化

12・10 総選挙 自民271 社会118 共産38 公明29 民社19 無14
        自・公・民 議席減少 社会 復調 共産 躍進第3党に…

12・21 東西ドイツ 「関係正常化基本条約」 に調印
12・22 第2次 田中角栄内閣成立 蔵相・愛知揆一 建設・金丸 信


日本列島改造→土地投機誘発   老人問題 「恍惚の人」 話題に…

【物 価】
郵便切手:封書 20円 はがき 10円    銭湯入浴料金 48円
白米 10kg (こしひかり) 2500円 (標準米) 1480円  食パン 1斤 60円
新卒初任給全国平均 
          大卒 48,600円 高卒 37,900円 中卒 31,700円
国立大学授業料(年額)  3万6000円

【流行語】
お客様は神様です   小異を捨てて大同につく(周恩来)    総括  
ウサギ小屋のワーカホリック  あっしには 関わりのねェことでござんす
パンダ人気  マンションブーム  三角大福中  恥ずかしながら…

【新製品】
デジタル電子体温計        (立 石 電 機)      5万4000円
卓上電子計算機 “カシオミニ”   ( カ シ オ )      1万2800円
ポケット・インスタマティック・カメラ ( コ ダ ッ ク )  1万5千円~4万2千円

【ベストセラー】
恍 惚 の 人          有吉佐和子         新 潮 社
日本列島改造論          田 中 角 栄         日刊 工業新聞
坂の上の雲 5・6         司馬遼太郎         文 芸 春 秋
世直しの倫理と論理       小  田   実         岩 波 新 書
花     神            司馬遼太郎         新 潮 社

【流行歌】
喝     采        作詞・吉田  旺   作曲・中村泰士   歌手・ちあき なおみ
瀬 戸 の 花 嫁       作詞・山上路夫   作曲・平尾昌章   歌手・小柳ルミ子
せ ん せ い        作詞・阿久 悠    作曲・遠藤 実    歌手・森 昌子
女 の み ち        作詞・宮 史郎    作曲・並木ひろし  歌手・ピンカラ トリオ
学生街の喫茶店      作詞・山上路夫   作曲・すぎやまこういち  歌手・ガ ロ

【野 球】
プロ野球 : 優勝    セ・リーグ  巨人    パ・リーグ  阪急
              日本シリーズ   巨 人    4勝 1敗

第44回 選抜高等学校野球大会       東京・
日大桜丘 3-0 日大三・東京
第54回 全国高等学校野球選手権      中九州・
津久見 3-1 柳井・山口

【邦 画】 
忍  ぶ  川        熊井 啓 監督  栗原小巻 加藤 剛  信 欣三
軍旗はためく下に      深作欣二監督  左 幸子  丹波哲郎 ら
故    郷          山田洋二監督  井川比佐志 倍賞千恵子 ら
旅 の 重 さ         斉藤耕一監督  高橋洋子  高橋悦史  ら
男はつらいよ 柴又慕情  山田洋二監督  渥美 清  吉永小百合 ら

【洋 画】
ゴッドファーザー      フランシス・F・コッポラ監督  マーロン・ブランド アル・パチーノ
キ ャ バ レ ー        ボブ・フォッシー監督  ライザ・ミネリ  マイケル・ヨーク ら
時計じかけのオレンジ   スタンリー・キューブリック監督  マルコム・マクダウェル ほか
ダーティハリー       ドン・シーゲル監督  クリント・イーストウッド A・ロビンソン らああ
わ ら の 犬       サム・ペキンパー監督  ダスティン・ホフマン スーザン・ジョージ
フレンチ・コネクション   ウィリアム・フリードキン監督 ジーン・ハックマン フェルナンド・レイ

【この年】                           Photo_3
 この辺りで 在職日数2800日(
約7年8ヶ月) 最長不倒といわれた、佐藤内閣の 「棚卸し」 を してみよう。

 昭和39年11月 病に倒れた池田勇人から指名されて 政権の座に着いた佐藤栄作は、公約として  ① 対中・韓との外交重視 ② 高度経済成長の歪み是正と社会開発 ③ 安保体制・対米協調路線の維持、を掲げたが、これらはスローガンであって 必ずしも 具体的な政策 (今日的にいえばマニフェスト) ではなかった。慎重居士の彼のことだから 心中 “満を持す” ものがあったとしても なかなかホンネを出さなかったが、就任1~2年のデキゴトをなぞってみると、自ずから佐藤にとっての主要なテーマ、政権の肌触り と言ったものが、浮き彫りになっているように思える。大別すると、ひとつは 佐藤が課題として主体的に取り組もうとしたもの。もうひとつは 治世のプロセスで発生し、解決を迫られることとなった事案の数々と、その対処の姿勢である。

 前者は いうまでもなく、 激しい戦火に塗れたのち、米軍の基地として支配されてきた沖縄の施政権を取り戻すこと。韓国との国交を正常化すること。自動車・コンピュータ等 戦略産業を育成し 日本の産業構造を変革すること。過密になった羽田に代わる新しい国際空港を建設すること。そして 池田内閣以降の高度経済成長によって生じつつあった 公害などの歪みを是正すること等である。

 後者としては、内閣発足時に直面することとなった 思わぬ不況とインフレの同時進行。学費値上げ反対を発端として 全国に広がった大学紛争と、60年安保闘争以来 燻り続けていた左翼学生運動の過激化。ニクソン大統領が放った2大ショック “米中頭越し外交” と “米ドルと金兌換停止措置” への対応などが挙げられる。

 ベトナム戦争という泥沼に足を突っ込んで、苦境の最中にあるアメリカとの 「沖縄施政権返還交渉」 は、基地の存在を前提としつつも “核抜き・本土並み”に収める至難は 理解できなくもないものの、余りにも “おっかなびっくり” 終始 米側の意向を忖度しながらの交渉姿勢が 卑屈とすら見え、アメリカの駆け引きを許し その後 わが国の 「対米追随外交の原型」 を作ってしまった。外交は相撲の張り手と同じ、初めに 友邦国として 「アジアでの戦争の不得策・停止」 を ジョンソン大統領に強く求めるところから スタートする強腰交渉もあったと思う。かつて占領下でありながら 吉田 茂 はマッカーサーと丁々発止 遣り合ったし、岸 信介 は アイクと対等に “不平等条約” の改訂を成し遂げ、池田勇人は ケネディとイコール・パートナーシップを取り結んだではないか。だが 佐藤栄作は 「沖縄の祖国復帰が実現せぬ限り、日本の戦後は終わらない」 と大見得を切ったのはいいが、その “返還調印式” に 琉球政府 屋良主席は出席を断った。

 返還協定での特別支出金3億2千万ドル 航空保安施設等 引継ぎ名目の1億7千万ドル、後の 「外務省機密漏洩事件」 でも明らかになったように 交渉の陰に 密約と巨額の金が動き “返還を受けたのではなく 金で買った” と言う声も出た。そして 結果はどうなったか、37年後の今もなお 依然として 米軍基地は存在し続け 問題は続出、観光地として 些かは発展したかも知れないが、有力な地場産業が育つこともなく 沖縄の人々は 未だに貧しさに苦しんでいる。2千円札を発行した小渕首相の銅像は建っているそうだが、佐藤栄作のそれは無い。

 過去数次にわたって難航していた 韓国との国交正常化交渉は、朴正煕政権との間で 一瀉千里に決着したが、問題は “韓国のみを 朝鮮半島唯一の合法政権” と認め、その後 北朝鮮との軋轢の素地を作ってしまった。佐藤は 実兄 岸 信介 と同様 大の反共主義者、中国といえば むしろ台湾政府との親交を志向し、中共に対しては “政経分離” で臨んだ上 池田内閣当時に拓けた “LT貿易” など 「ぶっ潰しても構わぬ」 と言い放ち、事実 輸出入銀行融資の門を閉ざして対中敵視政策を採った。折から文化大革命が進行する中 周恩来は、日本に警戒感を強めた。

 佐藤内閣発足時の経済環境は、オリンピック景気が一段落し ケネディ大統領暗殺に伴う株式暴落の余波で、日本特殊鋼や山陽特殊製鋼の倒産 中小繊維業界の不況が問題化し、山一證券の資金ショートなど景気が頭を打っていたが、このエァポケットのような低迷に狼狽したか、刺激策を講じるべく 「補正予算」 を組むに際し 「財政処理特別措置法」 を公布・施行して “禁じ手” とされてきた 「赤字国債(2590億円)」 を発行するの愚を犯した。この軽挙が 今日1000兆円にも達する 累積赤字国債の最初の一滴となった。当時の大蔵大臣は福田赳夫、誰が進言したかは知らないが、易々としてこれを認めた佐藤栄作は、この一事をとっても 到底 識見・洞察力ある政治家とは言えず、宰相失格、その罪 万死に値する。

 山一證券危機の際 田中角栄が執った果断な処置は、その後 景気循環の好機と重なり ベトナム特需の恩恵にも与って、“いざなぎ景気” と称される高度経済成長の呼び水となった。名神・東名有料高速道、首都圏道路網等のインフラ整備、既に10年以上続いた世界一の造船量、高品質の自動車やコンピュータ製造など 輸出の増大をもたらし、わが国のGNPを世界第2位にまで押し上げた。国民生活も潤って “中流意識” が浸透、70年 「大阪万博」 の成功は 日本経済の絶頂期到来を実感させた。これらは 確かに佐藤内閣の治世下で現出したことだったが、何れも 前代からの流れと、国民の勤勉性 不断の努力と汗が結実したものであり、ひとり 佐藤栄作の施政よろしきを得たものとは 思えない。

 別項で詳述するつもりだが、むしろ 佐藤内閣の時代  頻発した大学紛争と学生運動の過激化、成田国際空港建設に見る 問答無用的 強引なやり口が、繰り返されるデモや 続発した爆破事件などの緊張恐怖・社会不安を惹起し、助長したのではなかったか。7年8ヶ月に及んだ長丁場 国の内外で滔々と進んだ潮流は、拱手傍観し得ないものがあったが、佐藤がこれらに 積極的にコミットしようとした気配は窺えなかった。驚くことに 佐藤栄作は在任中 五度の訪米、一度の東南アジア(南ベトナムを含む)訪問、二度の 韓国朴大統領就任式出席があるだけで、ヨーロッパ方面には 終に一度も 足を向けていないのである。

 また彼は 根っからの右寄り保守だった。首相官邸と九段は至近の距離だが 殆んど毎週のように “靖国神社参拝” を繰り返し、総理就任直後には 戦前の “紀元節” を 「建国の日」 とすると言い出し、翌41年に 毎年2月11日を 「建国記念日」 とする政令を公布した。更に 43年10月には 日本武道館で 「明治百年祭」 なるものを主催し、その1週間後には 恩赦と称して選挙違反者14万3752人を復権させるという 阿漕なことを遣って退けている。

 私は 「Yの昭和史」 で 佐藤政権の間、逐年のコメントでは 「沖縄返還交渉」 を縦軸に置いて 政治や世相を綴り、数年に亘って変動した 時代の大きな流れを それぞれの 「エピソード」 として挿入した。

 なぜ 佐藤内閣は かくも長く続いたのか。端的に言えば 野党に力が無く、与党内にも対抗馬がいなかったからだ。大野伴睦死し 池田勇人の後継を競ったライバル河野一郎も鬼籍に入っていた。その上 経済が引き続き好況を持する幸運にも 支えられたともいえる。奇妙な符合だが、歴代長命の政権は、中曽根といい、小泉といい、景気が悪いときに就任し、運良く 上り坂に遭遇しているのだ。決して 舵取りが良かったからとも 思えないのだが、佐藤などはその典型だろう。

 それにしても、佐藤栄作ほど 新聞記者連中に嫌われた総理大臣も 少ない。ジャーナリズムだけではなく、自民党内の 党人派の受けも良くなかった。マスコミ受けしなければ 国民大衆の人気にも欠しく、当時 週刊誌の調査では  「嫌悪型」 反応が多く、陰険だ、やり方が汚い、イヤな奴、と言う声が多かったそうナ。国会で 共産党の質問に対する答弁などを聞いても、“木で鼻を括った”ような横柄な物言いが 腹立たしいほどだった。“政界の団十郎” といわれた眉目秀麗な容貌が、かえって その官僚的・高圧的な態度と増幅し、鼻持ちならぬと評されたものだ。

 およそ8年近くも権勢を振るった 彼にも、前年のニクソン・ショックを機に 翳りが見え始めた。そのニクソン・ショックで ぎこちなくなった日米関係を修復し、沖縄返還日程を最終的に詰めるために、47年1月 アメリカ西海岸サクラメンテで行なわれた首脳会談に、佐藤は 福田赳夫と田中角栄を同行させた。この間に 佐藤は 福田への政権禅譲について 田中に因果を含めようとしたのだ。だが 田中は訪米中 巧妙に立ち回って機会を逸らした。田中は 既に、佐藤派のなかで 着実に田中系を増やしていたが、三者帯同訪米は、佐藤・福田 対 田中という構図を決定付けた。身内意識の強い 自民党・党人派にとって、岸→池田→佐藤 と続いた官僚出身者首班を、更に 福田に繋ぐのは 我慢のならぬことでもあった。

 5月15日 アメリカから 「沖縄施政権」 は返還され、各地で政府主催の記念式典が挙行されたが、「反対集会」 も 数多く催された。

 “時 至れり” と 田中角栄は、同志を糾合して 密かに 「田中派」 を旗揚げた。佐藤派総計101人のうち 81人が馳せ参じたという。5月9日のことだった。秘密裏に運んだとはいえ 事は洩れる。田中の “七日会” に対抗して 佐藤派の残党を束ねた福田の “周山会”、旧池田派の流れを汲む 大平正芳の “宏池会” などの輪郭が明確になった。福田への禅譲の芽を摘まれた佐藤は、沖縄返還が成って 「この辺が 潮時」 と考えたのだろうか、6月17日 引退を発表したのだが ひと騒動持ち上がった。彼は 記者会見という手段をとらず、テレビで 直接国民に辞任を表明するつもりだったところ、官邸の手違いで記者団を入室させてしまった。「テレビカメラは何処だ。僕は偏向的な新聞が大嫌いなんだ…」 と佐藤、記者側が抗議するや 平手でテーブルをドンと叩き 「そなら 出て行ってもらいましょう」 記者たちが憤然と退場したあと、佐藤はテレビカメラの前で 独り咄々と語った。「…前もって タイミングよく話せればよいが… それは出来ない。一国の宰相が孤独と言われるゆえんも ここにある…」 私は今でも あのときの寒ざむとした光景を、ありありと憶えている。

 佐藤栄作が退陣したあと いわゆる “三角大福” によって 自民党総裁選が争われ、中(中曽根) が降りたことで 田中が福田を決戦で破り、いよいよ 田中内閣が誕生することになった。

 田中角栄については 既に多くが語られ 周知のことであるから簡略に止めるが、高等教育を受けることなく 裸一貫からたたき上げて 総理大臣の座にまで上り詰めた人物。彼が内閣を組閣したときは、 “今太閤” と呼ばれて喝采を浴びた。本人は 織田信長を理想としたと伝えられるが、「鳴かぬなら 殺してしまえ…」 ではなく 「鳴かしてみしょう ほととぎす」 のほうが似合い、その決断力、実行力は 歴代宰相の中でも群を抜く。“六法全書” を 端から丸暗記して、憶えたページを破り捨てたという挿話があるほど 頭脳明晰だったそうで、議員時代から 道路法の全面改正や、港湾・空路の整備 その他、日本の社会基盤構築に関わる多数の法律を、自ら立法、成立させた。人情に通じるとともに、「政治は数であり、数は力、力はカネだ」 と豪語するだけに、万事 札束で面を張るような強引な政治手法は、岸 信介をして 「田中は 湯気の出ている金でも掴む男」 と 評せしめた。結局 これが、後に彼の蹉跌を招くこととなる。

 この年6月、田中は 政策構想として 「日本列島改造論」 を打ち出した。佐藤内閣が執った 東京一極集中の政治・経済を見直し、東京と地方を結ぶ 高速道路網・新幹線網を張り巡らそうとするもので、日本経済の繁栄を 裏日本を始め全国津々浦々にまで及ばせる、という発想だったかも知れないが、有り体に言えば “土地 転がし” のノウハウ本であり、不動産屋などに受けてベストセラーになった。 そして実際は 彼の構想とはウラハラに、日本中に地価高騰のバブルが膨れ上がり 併せて 諸物価のインフレを助長した。既に当時の日銀総裁は、市中金融機関の貸出しが 土地の価格を不当に吊り上げていると警告を発し、国税庁の発表によれば、早くも 全国に数千人の “億万長者” が 陸続と出現し始めていたのである。

 6月に船出した田中内閣は 「決断と実行」 と掲げたスローガンに偽わりなく、猛然とエンジンをフル稼働させている。8月末にはハワイへ飛んで ニクソン大統領と会談を行なっているが、ニクソンから見て 田中は 前任の佐藤ほど従順ではなかった。後述することになると思うが、田中は “虎の尾を踏んだ” ようだ。ただ この時期 ニクソンには “ウォーター・ゲイト疑惑” が発覚しており苦しい立場に立っていた。

 キッシンジャーのドラマティックな事前交渉が奏功して、47年2月には ニクソン大統領の訪中が実現していた。日本では “文化大革命” に関する情報に乏しく その帰趨も掴めていなかったのだが、国内には 澎湃として 中国との 「国交回復」 を求める声が上がっていた。田中は 党内外 各方面に根回しの上、大平外相を伴なって 9月下旬 初めて中国を訪問し、電撃的に 周恩来首相と 「日中国交回復」 を謳った共同声明に調印した。この間の経緯については、次回の 「Yの昭和史エピソード」 で詳述する。

 政界の争いを他所に、この年 社会の随所でさまざまなデキゴトが起こっていた。強弱大小の差は付けられないが、世間を最も驚かせたのは 連合赤軍と自称する過激派が惹き起こした 一連の暴走行為だった。2月12日 群馬県警は 妙義山中で連合赤軍の幹部 森恒夫と永田洋子を逮捕したが、この時期 彼ら過激派は 周辺で “軍事訓練” を行なっていたのである。榛名山で警察の包囲網から脱した5人は 軽井沢にあった 「あさま山荘」 に逃れ、管理人の女性を人質にとって 10日間も完全武装篭城、警察機動隊と銃撃戦を展開した。210時間の攻防の挙句 人質は解放されたが、警察側に多数の死傷者が出た。その後犯人たちの自供によると 榛名山アジトの訓練場において “総括” を称するリンチが行なわれ、検証現場には 惨殺され 性別も判然とせぬ12体の死骸が掘り出されたと言う。

 連合赤軍の犯罪は更に続く。前年の 「よど号ハイジャック事件」 も 彼らの仕業だったが、海外に出た過激派は、5月30日 イスラエル・テルアビブ空港のロビーで 自動小銃と手榴弾を乱射・投擲、無辜の市民 98人を殺傷した。後の時代に発生する おうむ真理教信者の 「サリン事件」 のように、時代の落とし子とはいえ 連合赤軍のメンバーも最高学府に学んだ者たち、親御の心中を惟うと堪えられない。彼らが辿った軌跡は、千葉成田での新東京国際空港建設反対運動のことと併せ 別項に纏めたい。

 この年 好もしいデキゴトといえば、3月 奈良県明日香村の高松塚古墳から 1300年前 藤原京時代のものと思われる “飛鳥美人群像” など 極彩色の壁画が発見され、7月には 中国湖南省の2000年前古墳より 完全保存状態の女性ミイラ発掘が報じられた。

 いっぽう グアム島の密林で、敗戦から27年も経って 日本軍・横井正一軍曹が救出され 「恥ずかしながら…」 と帰国、10月には フィリピン・ルバング島で 小野田寛郎少尉が、現地軍と戦闘ののち投降・保護された。

 11月には 「日中国交回復」 を記念して 中国政府から、珍獣 “パンダ” が寄贈されて 上野動物園に到着している。“カンカン・ランラン” と名づけられた 縫いぐるみ のように可愛い姿は、たちまち 日本中にブームを巻き起こした。

 同じ11月  昭和13年1月3日 樺太国境を杉本良吉と駆け落ち越境、ソ連に亡命していた 恋多き 新劇女優、岡田嘉子が 34年ぶりに一時帰国した。容姿衰えず 太り肉には貫禄さえ漂わせて、帰国中 宇野重吉と共演した 山田洋次監督の 「男はつらいよ・寅次郎 夕焼け小焼け」 では、宇野を食ってしまっていた。

 話はポンと飛ぶが、先日 何年かぶりで 映画館にいき 山田洋次監督 吉永小百合の 「母(かあ)べえ」 を観た。原作は 黒澤明監督のスクリプターとして、「羅生門」 「生きる」 など 黒澤作品の殆んどを記録してきた 野上照代さんの ほぼドキュメンタリーな物語である。“父(とう)べえ” は日大教授だったそうで、治安維持法のもとで苦労され 終には獄死なさったというが、私は 「昭和20年後半」 で書いた 「ある哲学者の死(三木 清)」 の面影と重ね合わせて、大きな 感銘を受けた。「観たら 泣くぞ」 と聞かされていたが、考証の行き届いた舞台設定と 山田監督の巧みな編集に感情移入されて、滂沱と涙した。前に採り上げた 「家族」 の乾いた運びとは異なり、この作品は これでもか これでもか… と 言わんばかりに 私の涙腺を刺激したが、私はハンカチを取り出さず 心地よく 頬を濡れるに任せながら、脳軟化症の兆候が出てきたのか、それとも まだストーリーに涙する青春が残っているのだろうか…と 思った。
 

       


      

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コメント

偶然読んだここの記事で、山一證券の第一次危機を田中角栄蔵相が救った事情を知りました。やはり実行力のある人だったんですね。

投稿: 志村建世 | 2009年4月 1日 (水) 18時35分

各年代毎の詳細な記録に、関心すると同時にその根気に敬服いたしております。

その年代ごとの、私自身の人生と照らし合わせ、この年はこんな事があったのだと非常に参考になります。

投稿: ライカが好き | 2008年4月 3日 (木) 07時45分

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