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セントローレンス川の黎明 1

 カナダ東部、大西洋沿岸諸州を 経巡ると、ヨーロッパ人による 探検や入植・開拓、建国時代前後の戦争にまつわる史蹟が、いたるところに遺っている。

そこで、あらかじめこの国を理解しておくために、書物でかき集めた浅薄な知識に過ぎないけれども、しばらく、往古からこの地域で起こったことどもについて、いささか紙数を割いて 述べておこう。

 地球上で最も大きい二つの海、太平洋と大西洋の間に横たわる 北米大陸と南米大陸は、15世紀末、クリストファー・コロンブスによって発見されるまで、ヨーロッパには全く知られていなかったのだから、文明という観点からすれば、ユーラシアやアフリカなど他の大陸に比べて、記録された歴史は、ほとんど無に等しい。

 それどころか、その昔、北アフリカで生まれたとされる 人類の祖先、あるいは その縁類らしきものの 痕跡すら見当たらず、発掘されているのは、恐竜の化石ばかりで、おそらく数十万年か それ以上にわたって、間断なく続いた 氷河期の最終段階に、北東アジアから流浪してきた 少数のモンゴロイドのほかに、ホモ・サピエンスに類する高等生物が、この地域に棲息したことは なかったと思われる。

 かつて、北アメリカ大陸の北部、ことに 現在のカナダは、ほぼ全域が 分厚い氷河に覆い尽くされていた。最も新しい氷河期は、およそ 7万3千年前から1万2千年前まで続いた ウィスコンシン氷河期で、その最盛期には、ハドソン湾附近の氷厚が 4千メートルもあったといわれている。

 ようやく 地球の気候が温暖化して、氷河が後退していった約1万年ぐらい昔に、ユーラシア大陸の東部から モンゴロイドの部族が、そのころはまだ 地続きだったベーリング海盆や、アリューシャン列島を通って アラスカに辿りついたもののごとくである。そのうちの一部は、カリブーや セイウチを追って この大陸の北辺を東に進み、終には わずかながら、氷結した海を越えて グリーンランドに達したという。今日、カナダの北部準州や、ケベック州の北に住む、イヌイットと呼ばれる人たちの祖先が辿った軌跡である。

 アジア大陸から流入してきた 別の部族は、インディアンとなった。イヌイットと同根のモンゴロイドだが、彼らは北米大陸に到達したのち、西岸ユーコン地方を経て、バッファローを狩りつつ 南 および 東南に向けて移動し、分派した部族ごとに 独自の生活様式と 文化を創っていった。

 そのうち、セントローレンス川流域からアパラチア山脈のあたりに来て定着し、狩猟のほかにトウモロコシや煙草の栽培を行なったのは、イロクオイ族やヒューロン族だったという。

 モンゴロイドは西からやってきたが、北米大陸への次なる客は 東方より訪れた。

 かの、ヴァイキングである。

 9世紀末から 11世紀の間、ヨーロッパ各地をはじめ中東イスラム圏までの広範な地域を つむじ風のように荒らしまわったノルマンたちのうち、ノルウエーを出たヴァイキングは、西の海に舟を漕いだ。彼らは フランス沿岸、イングランド、スコットランドを襲ったのち、北海のシェトランド諸島を北上、アイスランドに上陸して植民地化した。アイスランドは、その名のとおり酷寒の地だ。入植者たちが、生きるにも 難渋をきわめたであろうことは想像に難くない。にもかかわらず、ノルウエー・ヴァイキングの頭目たちは、更に北進して、北極圏に位置するグリーンランドに 植民を目論む。

 西暦982年ごろ、赤毛のエリクという男が、厚い氷に閉ざされた島 (というよりも大陸) を発見し、「 グリーンランドだ 」 と 誇大に宣伝して入植希望者を募った。時代と 洋の東西を問わず、この種 悪徳不動産屋は存在するものだ。グリーンランドの植民地には、多いときには 数千人規模の聚落ができていたといわれるが、結局、口車に乗せられた 憐れな移民は、エリクとともに 苛酷な極北の氷雪に呑みこまれる運命を辿った。

 そして、ここに、アメリカ大陸発見のドラマが生まれる。

 消息をたった 赤毛のエリクを探すために、息子のレイブ・エリクソンが、仲間のビァニル・ヘルヨルフソンらを伴って大西洋に押しだし、航路を誤って、ヨーロッパ人としては初めて 北米大陸の東端ニュー・ファウンドランド島に漂着したのである。

 彼らは、そこを ヘルランド (板石の地) と命名し、南へ航海を続けてマルクランド (森林の地、現在のノヴァ・スコシア)、ヴィンランド (葡萄の地、マサチューセッツ)、と名づけた陸地に上がって、途中、豊富な魚群を見たと伝えている。むろん、彼らにはこの地が 自分たちの国の十数倍もあるような、巨大で、しかも無人の大陸だとわかろうはずはなく、その後 植民の気運は興っていない。だがこの事実は、コロンブスの新大陸発見に先立つこと 500年、西暦1000年のできごとであった。

 実際は、現在のバハマ諸島の一角に 辿り着いたに過ぎなかったが、自身は終生、アジア大陸の一隅に到達したと信じこんでいたコロンブスが、結果としてアメリカ大陸を発見したのは、1492年のことであった。

 すでに 大航海時代に入っていたから、いったん航路が開発されると、宗教的、あるいは経済的な動機によるにせよ、新天地を求める人々があとに続く。大航海の進展につれて、ヨーロッパ人の 地球に関する知識が飛躍的に向上し、この時期が 世界史上の一大転換期を画したことは間違いない。

 太平洋を真ん中にした世界地図を見馴れた 私たちにすると、ヨーロッパの西の端と、北米大陸の東端は、地図の左と右の隅にわかれていて、遠く隔たった場所と 錯覚しがちだが、地球儀を回してみれば 意外に接近しており、ほんの目と鼻の先 ? なのだ。

 コロンブスに遅れること5年、イギリスのヘンリー7世から西方航海を命じられたイタリア人、ジョバンニ・ガボットが ニュー・ファウンドランドに至り、その沖合いで、驚くほど豊かな 鱈の漁場を見つけて注目されたし、そもそも 「アメリカ」 という名称も、15世紀末から 16世紀の初頭にかけて、新大陸に四度も渡ったイタリアの航海者、アメリーゴ・ヴェスプッチの名前に 由来するものである。

 16世紀になると、フランスとイギリスが 競って 新大陸への植民を行なったが、 一歩 先んじたのはフランスであった。 その 先陣を切ったのが、フランソワ1世の命令を受けた ジャック・カルテイエの探検で、彼は 1534年 セントローレンス湾に突き出た ガスペー半島に上陸して、付近一帯を フランス国王の名のもとに占領したという。そして二度目の航海では、セントローレンス川を溯って、現在のケベック・シティ、モントリオールのあたりまで達し、内陸部への通路を拓くとともに、植民推進の基盤を作った。

 「カナダ」 の語源は、インディアンの言葉で “聚落” を意味したものだったそうであるが、探検の途中で、道案内のインディアンが、「向うにカナダがある…」と指さしたのを、カルテイエが、この地方全体の名称と勘違いしたもの といわれている。

 フランスの入植者は、ビーバーなどの毛皮を捕るために 勇敢に奥地へ入りこんでいったが、毛皮帝国としての “ヌーベル・フランス” は、サミュエル・ドゥ・シャンプランが興した。このころには、猟をする入植者のほかに、農耕を目的とするフランス人たちが、相次いで アカーディア (現在のノヴァ・スコシア) に定住しはじめていたが、シャンプランは 植民地の中心を セントローレンス川沿いのケベックに移し、そこに 毛皮交易のための恒久的基地を設けたのである。

 いっぽう イギリスは、というと、1607年に 最初の永続的な植民地をバージニアのジェームズタウンに作り、続々と入植者を送りこんだ。1620年には、ピューリタンを乗せたメイフラワー号が、マサチューセッツの海岸に 辿り着いている。 イギリス本国における 不徹底な宗教改革を不満とした 清教徒たちは、献身的な信仰と 禁欲的精神を生活の礎として、勤勉に 新天地の開拓に邁進した。

 こうなってくると、当然のごとく、新大陸における 英・仏の植民地政策推進に 激しい角逐が起こる。両国は すでに17世紀後半から、大西洋岸アカーディア地方の領有をめぐる 争奪戦をくり展げていたが、18世紀に入って、大陸内奥部への毛皮ルートを拡大しようとするフランスと、アパラチア山脈の東から 農耕定住地の拡張を企図するイギリスとが、真正面から衝突するようになった。

 しかも、これらの紛争は、当時 ヨーロッパ本土におけるイギリス・フランス両国の複雑な対立関係を反映し、「スペイン継承戦争(1701~14)」 「7年戦争(1756~63)」 が北米大陸植民地に波及して、カナダででも、「アン女王戦争(1702~12)」「フレンチ・インディアン戦争(1754~63)」 を誘発した。

 初期植民地時代の この二つの戦争は、本国の場合と同様、いすれもイギリス側の勝利に終わり、その結果、イギリスは北米大陸から フランスの勢力を駆逐してしまったのである。と同時に、忘れてはならないのは、長期にわたる戦火に 直接捲きこまれて、悲惨な滅亡に追いやられた 原住インディアンたちのことだ。

 アカーディアの支配権を奪ったイギリスは、この地のフランス系住民を、カナダ北部や アメリカ側の英国植民地へ強制的に移動させ、代わって、スコットランド、アイルランドからの植民を促進するとともに、このあたりを ノヴァ・スコシアと改称した。ノヴァ・スコシアとは、ラテン語でニュー・スコットランドという意味である。

 本国の7年戦争の講和によって、カナダ東部には、かつてのヌーベル・フランスの拠点であったケベックのほかに、大西洋岸のノヴァ・スコシア、ニュー・ファウンドランド、内陸部のルパーツランドの、四つのイギリス植民地が存在することになり、南部13植民地と併せて 第1次イギリス帝国を構成した。

 だが、これがのちに アメリカが独立戦争を惹き起こす因となる。

 イギリスは、新たに獲得した 北部植民地を経営するために、既存の南部植民地に対して増税しようとしたが、この理不尽な課税に 敢然と反抗した南部13植民地は、ジョージ・ワシントンを押し立てて 本国軍と真っ向から干戈を交えた上、1776年7月4日、独立宣言を発して、「アメリカ合衆国」 が誕生した。このとき、南部勢力のなかの 王党派、つまりイギリス本土に忠誠心を抱く人々 約4万人がカナダに逃れてき、そのうちの3万人はノヴァ・スコシアに、1万人は オンタリオ周辺に移り住んだという。

 元来 ノヴァ・スコシアは、緯度こそ高いものの、沿岸をメキシコ湾流が洗っているために比較的温暖で、背後の山々は 様々な樹種からなる落葉闊葉樹林帯、地味の肥沃なところであり、王党派の大量流入以前から、ドイツや北欧、東欧諸国など、ヨーロッパの各地からやってきた 農漁業移住者が増えていた。

 彼らの多くは、プロテスタント である。

 片や、イギリスに征服された ヌーベル・フランスの人々は、全て カトリック教徒であった。1627年以来、フランスがカナダへの入植者を カトリックの信者に限定していたためだ。 すでに、縷々述べてきたごとく、この大陸での英仏両国の摩擦と衝突は、単に 領土をめぐる権益争いというだけではなく、ヨーロッパ本土で燃え盛った 宗教改革が尾を引いた旧教と新教の 宗教的反目に根さす側面があったのである。 

 国敗れて 山河あり、というけれども、イギリスの支配に屈しながら、ケベックを牙城としたフランス系カナダ人は、その後も “フランス的事実” を牢固として守り、被征服民族に陥れられた屈辱を、 「私は、憶えている」 という合言葉として 伝え遺してきた。

 これが、今日もなお マグマのごとく、カナダ社会の 根深い確執となって続いている 「ケベック問題」 の原点である。

思わず 饒舌な歴史談義になってしまった。 キリがないので、次回は 話柄を本章の主題である 風景に戻す。

                                つ づ く

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