ヤクオ ギャラリー 目 次

 「ヤクオ ギャラリー」 の各タイトルを 最初の記事から昇順に、つまり 右サイド・バーとは逆の並びで一覧にし、全タイトルにリンクを貼りました。それぞれの記事には サブタイトル あるいは短い梗概を付して、内容が判るように工夫しましたから、全体像を俯瞰しながら  お好みの記事をご選択いただけると思います。 

 私の別ブログ 「Yの昭和史目次」 と併せて ご愛読賜わりますようお願い申し上げます。

                            奥  山     和

【ひとり旅も また愉し】  

     タ イ ト ル          サブタイトル  または 梗 概

序  の  こ  と  ば
    ブログ開設のご挨拶。ハッピーリタイアメントしたものの 眼の前の “自由に
    なった” 膨大な時間に びっくり仰天。カメラを片手に 世界の国々を旅して、
    モノした紀行文や 訪ねた国の歴史探究。たくさんの写真も載せました。

ローカル空港 セキュリティの珍事
    金属探知機を置いていないローカル空港で身体検査、猟犬のように 鋭い嗅
    覚を持った探知棒が、全身を嗅ぎ回って ピッピッ ピィーッ と 吠え立てたら、
    あなたなら どうする?

美し国 ニュージーランドで見たもの 1
美し国 ニュージーランドで見たもの 2
    2月中旬 南半球のニュージーランドは夏真っ盛り。カラッと乾いた空気が爽
    やか。南島の見どころをレンタカーで一巡り、マゥント・クックや ミルフォード
         サウンドなどの絶景が待ち受ける。平原に転がる巨大なロストストーン。
         小雨の峠越えで 路上に小動物の死骸が転々と散ばる凄惨な光景…etc.

雨に煙る プリンス・エドワード島
    黒々とうねる海の彼方から 幾筋もの怒涛が打ち寄せて、ときどき ごうっと吹
    く風に 白い飛沫をあげる。「波間に浮かぶ揺り籠」 と呼ばれる 安息の島も、
    冬が近づけば こんな荒ぶる貌をみせるのか と、ふと見上げると まだ日暮れ
    には間があるのに、海鳥の列が高く低く 塒をさして急いでいた…

旅 へ の 憧 憬 (A)  あ あ 停 年  お お 定 年
    馬車ウマの如く 遮二無二働きづめに生きてきたこの世代が、定年を迎えて
    「さぁ これからが オレの第二の人生だ」 と 今後の生き方に惟いを馳せ、
         ふと 気付くのが 眼前に積みあがった “自由に過ごせる” 膨大な時間の恐ろ
          しさだ。
旅 へ の 憧 憬 (B)  毎 日 が 日 曜 日
    人生80年、65歳からの15年を時間に換算すると 131,400時間。  3分
    の1 は寝るとして ほかに拘束されることもなく、趣味に明け暮れなければな
    らない時間は 年間76,000時間 生活必需時間を除き 1日当たりで12時間
    44分にもなる。
旅 へ の 憧 憬 (C)  さ て 私 の 場 合
    未知の世界を放浪することで 絶えず好奇心を刺激すること。目的・目標を
    前にして尻込みしたり 躊躇っていては、何事も実現しない。トラベルはトラ
    ブル、旅の途中に ちょっと緊張するような局面を経験をすれば、より充実
    した想い出が残る。ただ 日本人として 決して恥を掻かない心構えが大切だ。

セントローレンス川の黎明 1
セントローレンス川の黎明 2
    ケベックの太陽は セントローレンス川に沈み、セントローレンス川から昇る。
    日没は 何がなし哀しみを覚えるが、白み行く東の空を望めば 大いなる希
    望が湧いてくる。遥か東の稜線が 仄かに白んで、光の矢が幾筋か指し そ
    の光芒を受けたちぎれ雲が、紫紺の宙空に輝き 荘重に シンフォニー “黎
    明” の序章を 奏ではじめた。

朝霧に浮かぶパーラメント
    
……この間20分足らず、オタワの街全体が すっぽりミルクの底に沈んだ。
    私は呆然と霧の中に立ちつくし、思いがけなく現れた この夢幻の光景に
    見とれていた…。

砦に谺する ゴッド セイブ ザ クィーン
    夕陽に染まる古い砦で 近くの陸軍士官学校の生徒たちによる “戦争ゴッコ”
     が行なわれると聞き、わざわざ曜日を合わせて見物に行った。…老人は懐
    旧の想いに泪ぐみ、少年たちは頬を紅潮させ 目を輝かせる。…この国の健
    全さを しみじみと思い知り、深い感動に包まれた。

マッターホルン 静 か な り
    旅人にとってスイスの魅力は、なんと言ってもその美しい景観にある。千古の
    雪をいただく “ユングフラウ ヨッホ” を主峰とするヴェルナー・オーバーラント
    の山々。マッターホルンが聳える 秘境ツェルマットの町。通りすがりの車窓を
    次々と過ぎ去る 名も知れぬ山々や田園の佇まいが、えも言えぬ絵になる…

http://yakuo.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_825f_1.html 
    とっていいのは写真だけ残していいのは足跡だけ… 
                 南太平洋 フィジーの自然

    電気がない テレビもない、道路がなければ 車もない。ないないづくしの 吉 幾
    三の歌のようなナナヌイラ島だが、その代わり とびっきり美しい 無垢の大自
    然と、島びとたちの温かい人情がいっぱいあった。ひょっとしたら彼らは 世界
    中でいちばん 陽気で 楽天的で ひと懐っこい人種ではないかと思う。

新渡戸記念庭園の 老日系二世
    「あの時分は豆ェ煎るみたいに働いて 仕事はキツかったけんど 楽しゅうもあ
    ったでェ」  田中さんは目を細めて回想した。だが 好事魔多し、降って湧いた
    ように起こったのが、1941年 日本海軍による真珠湾爆撃だった。日米間は
    戦争状態に入り、カナダもまた参戦したので 田中さんたち在加日系人は否応
    なく敵性人種になってしまった。

人間讃歌 ヴィーゲランの 「生命の樹」
    このフログネル公園には、北欧のロダンと言われたグスタフ・ヴィーゲランの
    塑像が 195基も置かれている。彼が かねて抱いていた構想を知ったオスロ
    市は、1921年 その実現のために 敷地と材料のすべてを提供することを約
    即し、無期限で自由な制作を依頼した。

ペンティクトンの フレッド・ディスジョーダン夫妻 1
ペンティクトンの フレッド・ディスジョーダン夫妻 2


     頭髪はちょっと薄くなっているが、頬から顎にかけてゴマ塩の立派な髭をたく
    わえてい、「誰がために鐘はなる」 や 「武器よさらば」 そして あの 「老人と
    海」 で ノーベル文学賞を受けたアーネスト・ヘミングウエーを髣髴させる。
    出てきてすぐ カウンターの内側に入ったから、どうやら このハウスのオーナ
    -のようで、丸っこい目が 「客人 よく来たな、いい旅してるかィ?」 と言った
    ふうに笑っている。

スイスのまほろば 四森州湖の畔で
    かつてフランス革命に際して、民衆に追われたルイ16世を最後まで守り抜き
    死んでいったスイス傭兵達。あるいは ナポレオンが冬将軍の猛襲によって
    モスクワから敗退するとき、殿軍として酷寒の中に踏みとどまり全滅した傭兵
    団のように、律儀で融通の利かないスイス人の 形を変えた奉仕精神が、現代
    の個人銀行に 脈々として伝わっているのかも知れない。

旅先で出会った そっくりさんたち 1
旅先で出会った そっくりさんたち 2
    そのヘネラリーフェ庭園に、数人の日本人ツァーを案内している “同志” ゴル
    バチョフの姿があった。紺のソフトに同色のカシミアのコート、紺色のネクタイ
    にはワンポイントをあしらっているといったダンディなスタイル。ちょっと巻き舌
    の流暢な江戸弁を操りながら ときどき駄洒落を飛ばしては 一行をどっと笑わ
    せる。セックス・アピールがあると言われた あの独特の、音吐朗々としたバリ
    トンも変わらない。私は 何か不思議なものに出会ったような思いで眺めて…。

                                                                          時  差  と  季  差
    厳冬の朝早く 関西空港をテイク・オフして7時間ばかり南下し、シンガポール・
    チャンギー空港乗り継ぎの間に 街なかに出ると、頭の上から灼熱の太陽が
    ギラギラ照り付けて汗が吹き出す。更に南へ飛んでゴールドコーストに着いた
    ら、そこは夏真っ盛り、まさにサーファーズ・パラダイスダ。

中 国 漫 遊  Ⅰ  史蹟と景勝を訪ねて 北京 (天壇・万里の長城
    地大物博人多の中国を 私は一度だけ訪ねた。さまざまな感慨を覚えた旅だ
    ったが、Ⅰ・Ⅱでは 歴訪した都市や史蹟の印象録に当てる。“北京秋天” と
    いう言葉があるように 深まりゆく華北の秋景は素晴らしいのだろうが、柳絮
    の飛ぶ春先もまた……と

中 国 漫 遊  Ⅱ  西安 (兵馬傭坑) 桂林 (漓江くだり) 上海 (豫園
    中国旅行における圧巻は、古都・西安の東30キロ 驪山の麓の地下深くに
    二千年もの間潜んでいた 秦の始皇帝守備軍団 「兵馬傭坑」 の発掘現場
    見学であった。兵馬傭は1973年 畑で井戸を掘っていた一人の農民が、偶
    然 掘り出した。それは まさしく奇跡であった。

中 国 漫 遊   Ⅲ  次世代に禍根を遺すか 「一人っ子政策」
    老いたる親を子が養う。中国古来の美徳 “孝” の本義だが、一人っ子同士
    の夫婦は これからどうやって四人の親を敬い孝養を尽くすのだろうか。21
    世紀 中国の人々の “家および家族” に対する価値観は、根底から覆る…。
    

ア ー  ユ ー  ダ ィ ハ ー ド ?
    世の中一寸先は闇、災難や事故は予期せぬときに起こる。年に何回か、地
    球上のどこかでハイジャックや航空機の墜落事故が報じられて、私のおふく
    ろなど そのたび毎に 「ヒコーキはこわいねエ あんたもそのうちに落ちるでェ」

わ が  食 べ あ る 紀 行
    初めての都市へ足を踏み入れた場合、私は必ず日本料理のレストランを探
    す。いや 和食が恋しいというわけではない。そこにはたいがい スシ・バーが
    あるから カウンターの止まり木に腰をかけ、刺身などをつつきながら 板前さ
    んからところの旅情報を仕入れる。忙しくなければ 気軽に応じて貰え、案内
    書には載っていない観光のアナ場や 知られざるシャッターポイント、道路事
    情、治安上の注意を教わることが出来るのだ。

手 作 り 旅 行   プランニング エトセトラ 1
    私のひとり旅は 手配旅行だが、前述のとおり 最も楽しめる部分を旅行会社
    に委ねるテはないから、旅程の設計は必ず私自身で組む。参考になるかど
    うか分からないが、先年 「カナダ大西洋岸と メイプル街道撮影 16日の旅」
    の計画プロセスを 以下に述べてみよう。

手 作 り 旅 行 プランニング エトセトラ 2
    旅行者のための会話読本は いくつも市販されている。現に私の手元にも 何
    冊かの会話本や 前回作った自家製ノートが溜っているけれども、印刷された
    本頼みや 既に記憶が薄らいでしまった古いノートでは、いざ というとき 殆ど
    役に立たない。だから 私はいつも、これから始める新しい旅行のために、さま
    ざまなシチュエーションを想定した 日本語と英語の対話を書き連ねる…。

魔 法 の 王 国 を ゆ く  (A)
    …もういちど、あの目くるめくフロリダの陽光のもと、オーランド周辺に集中す
    るテーマパークの非日常性の空間に身をゆだね、その全てを見尽くしてやろ
    う、と考えた。無邪気な童心に還る旅というか、物数奇な年寄りの 冷や水旅
    行というべきか、還暦を過ぎてから こんなところへノコノコと “ひとり旅” する
    酔狂な者も珍しかろう。

魔 法 の 王 国 を ゆ く  (B)
    ショーがフィナーレにさしかかると、大合唱は再び英語に戻り 場面は白一色
    に変わる。人形たちが着ている衣装も 背景も、全ての色彩が消え去って 透
    き通るようなな無垢の世界に包まれるのだ。ステージの子供たちは 胎児だ
    った頃に帰ったかのごとく、私は一瞬、この場面をスタンリー・キューブリック
    の映画 「2001年宇宙の旅」 のラストシーンと “二重焼き” に 重ねあわせ、
    このアトラクションに ディズニーの哲学を垣間見た…。

AARP (全米退職者協会) を訪ねて  前編
    退職者仲間で 健康保険組合を作ろうと思ったカリフォルニアの エセル・パー
    ツ・アンドリュース女史が、“To serve.Not to serve.(老人は奉仕せよ、
    奉仕されるべきではない)” というスローガンを掲げて興した リタイアー相互
    の援け合い運動が、今日 全米で3500万人を擁する巨大な組織に発展した。
    政治にはニュートラルとしながらも、無視できぬ勢力である。

AARP (全米退職者協会) を訪ねて 後編
    一貫して 非営利の姿勢を崩さず、数十万以上のボランティアによって運営さ
    れている。その活動は、多様な保険商品の廉価斡旋、健康器具や薬剤、自
    動車、家具から ペット・フードまで、多岐に亘るディスカウント・サービス、数々
    のシルバー特典を組み込んだツァープランの提供など、アメリカの高齢者に
    とって 無くてはならぬ存在になっている。

“ひとり旅” 紀行文の 登載を終えて
    …以前に書き溜めていた紀行文をワードテキストにリライトし、ルビや画像な
    ど 装飾に当たるもとを全て削除してから、メモ帳を介してブログに貼り付け、
    そののち画像を再挿入する と言うやり方で、それはもう難行苦行。現に手元
    の 「記事一覧」 の約3分の1が、操作途中でリッチテキストからブレーンテキ
    スト(html)に変わってしまった残骸 (私には そうとしか見えません) で占められてい
    ます。でも PCには日本語で表示されましたから、何とかなったという次第…

【スライド シァター ・ シナリオ】

清 流  四 万 十 川  前 編
    四国山地のいちばん奥まったところ 西土佐の山峡を流れる四万十川の流
    域には、いまはもう 失われてしまった “日本の農村” の いわば 原風景が
    残っていると聞いて 旅心が兆し、夜の瀬戸内海を渡った。

清 流  四 万 十 川  後 編
    窪川町の “ひろは ちしゃの木”。樹齢700年を超えると言われ、国の天然
    記念物に指定されているそうだ。人は 悠久の時の移ろいを表現するとき、
    川の流れに譬えるが、このように星霜を経た瘤だらけの老木や その幹に
    刻み付けられた年輪に、歴史の跡を まざまざと見る場合もある。

カナダ大西洋岸とメイプル街道 1
    トロントから入って プリンス・エドワード島、ノヴァスコシアのハリファックス、
    更に東へ飛んで ケープ・ブレトン島のキャボット・トレイルを一周したのちケ
    ベックに引き返し、そこから かつて16世紀にジャック・カルティエが遡った
    という セントローレンス川沿いに歴史の道筋を辿ってモンテ・ベロと 晩秋
    のローレンシャン高原に遊び、首都オタワに立ち寄って 再びトロントへ戻る
    という 16日間の行程であったが、この間レンタカーの走行距離は 1800
    キロにのぼった。

カナダ大西洋岸とメイプル街道 2
    ここでは あわよくば、“ホエール・ウォッチング” か 北極圏の珍鳥 “パフィ
    ン” の群棲地を見てみたい と思っていたが、尋ねてみると どちらも OK と
    いう返事。ところが よくよく確かめると 両方とも 「漁船を雇って 往復に10
    時間はかかるという。無理をすれば……

カナダ大西洋岸とメイプル街道 3
    ホテルのフロントで、昨年まで西宮に住んでいたというアレィン君から教わ
    って 郊外の渡り鳥の飛来地へ行った。コハクチョウかハクガンの群れの
    ようだが、ここは地元の観光案内にも出ていない 秘密のスポットである。

カナダ大西洋岸とメイプル街道 4
    雨に煙るプリンス・エドワード島のセピァにくすんだ海の色。インゴニッシュ
    から眺めた大西洋の日の出。キャボット・トレイルに 突然懸かった “天恵
    の虹”。ケベックの黎明に耀くちぎれ雲。朝霧に浮かんだパーラメント。半
    月の間 私は行く先々で朝夕 様々なシチュエーションの光と影をフィルム
    に焼き付けてきたが、旅の終わりの ここオンタリオ湖畔でも、ファインダー
    いっぱいに広がる茜の空を、時間を忘れて見入った。

【訪問国のなりたち & 雑文】

スカンディナビア物語 1
    ノルマンはどこから来たか、原始スカンディナビアの形成。

スカンディナビア物語 2
    北欧古代の “Voyager”  バイキングの遠征と跳梁。

スカンディナビア物語 3
    北欧3国 諸王朝の盛衰 キリスト教とハンザ同盟。 

スカンディナビア物語 4
    カルマル同盟以降 兄弟同士 せめぎ合いの時代。

スカンディナビア物語 5
    ナポレオン戦争の影響 近代への序曲。

スカンディナビア物語 6
    北欧に花開いた文化と学術 その偉大な知性と個性たち。

スカンディナビア物語 7
    二度の世界大戦と大恐慌の嵐の中で 四者四様 中立国が蒙った試練。

スカンディナビア物語 8
    モデル福祉国家 北欧諸国復興の軌跡。

スカンディナビア物語    むすび と トロルの世界
    これら北欧の歴史伝承を わが国のそれに当て嵌めるならば、さしずめ
    「古事記」 「日本書紀」 といったところ。そしてここに紹介する “トロル(
    Trolls)” の物語は、日本古来の 「お伽噺」 に当たるものだ。闇に包まれた
    炉辺で 家長を囲む大人に混じって、子供たちもまた 遠い祖先の伝説に
    聞き入るのだが、そこには子供向けの おどろおどろしい妖怪話もあった。

北 欧 に 学 ぶ (朝 日 新 聞) 1

北 欧 に 学 ぶ (朝 日 新 聞) 2
    生新の気に満ち充ちていたかの国々の 21世紀の姿はどうか、いま一度
    この眼で確かめたいもの… 北欧の地への想いは募る。そんなとき、平成
    20年5月、朝日新聞が 見開き全紙を通して 「北欧に学ぶ」 という特集を
    組んだ…。

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26. 登載を終えて

                                        ・

 平成19年の2月22日に この文章の 「序のことば」 をロードアップして、皆様にご挨拶申し上げてから6ヶ月、やっと 最終章を読んでいただけるところまで漕ぎ付けました。

 何しろ パソコンに初めて触ったのが5年前のこと。ひとまず 文章が書け、撮り溜めていた写真を 電子アルバムにできるようになったばかりで、どこまでブログなるモノを続けられるか、“おっかな‐びっくり” 始めたものでした。

 登載方法は、10年以上も前の 「ひとり旅紀行文」 を ワードにリライトし、そのままメモ帳を介してココログに貼り付け、それに画像を挿入するというやり方で それはもう 難行苦行の連続でした。現に 手元の記事一覧の約3分の1が、操作途中で リッチテキストエディタから  ブレーンテキストエディタ (HTML)に変わってしまった残骸 (私には、そうとしか見えません)で占められています。でも PC画面のほうは、日本語で表示されていますから、何とかなったと言う次第。

 はじめは、アクセス数が1000に達すれば上々と思っていましたが、1500に届いたあたりで、ときどき適切なアドバイスをくださる “エムズの片割れ” さんに教わって、アクセス・カウンターを設けましたら、今朝の時点で2980を数えていました。 あと一息で3000です、バンザイ。

 もともと私は、毎日コツコツと 短文を書き連ねる日記が苦手でしたから、ホントは ブログには不向きな人間だったのかも知れません。 それにしても よくもまァ毎回 ながながとした文章を、ドカッ ドカッ と ロードアップしたものです。お読みになるのも 迷惑なことでしたでしょう。お見苦しいブログになってしまったことを お詫びします。

Photo_7  にもかかわらず、思いがけなく多くの方々に ご愛読いただきました。左にココログのアクセス解析結果を挿入いたしましたが、アクセス数に対して 訪問者数が、実際にブログを読んでくださった方々だとすれば、その割合は、過去4ヶ月で50.26%、直近1ヶ月のそれは62.2%と 謂わば愛読率が高まったと自分では理解しています。

 その愛読者の方々が、全国34都道府県に亘ったことも 私にとって望外の喜びでありました。そして、折々 優しいコメントをお寄せくださった方々に この機会を利用して、改めて 厚く御礼申し上げます。

ありがとうございました。

 右サイドに、序文でお約束した この紀行文作成の参考図書Photo_9 の一覧を表示させていただきました。

 あくせくした日常から いっとき離れて、旅は心を癒してくれます。今 長かったお勤めを終えて 定年をお迎えになる人たちが急増しているそうですが、(一説には 年金受給者数が、1年に200万人ずつ増えていると言います) ですが、皆さんの人生はこれから始まるのです。ちょっと一息、旅は、一人より 二人がいいに決まっています。長年 内助の功で、貴方を支えた奥様とご一緒に、楽しい旅のプランを組んでみませんか。

 「ひとり旅も また愉し」 は、これをもって終了いたしますが、ヤクオ ギャラリーは存続させ、時々 旅の写真を中心にして小編を登載していくつもりです。例えば  スライド・シアターのシナリオなど……。

 それから、このたび別企画のライフワークとして、「Yの昭和史」 という文章を連載し始めました。自らについて語るのではなく、昭和元年このかたのデキゴトロジーを綴っていくつもりです。昭和19年までは 5日ごとに、20年以降は、1年分を7日ごとに登載する予定ですので、このほうも ぜひ覗いて見てください。

 URLは http://yakuo.cocolog-nifty.com/syouwasi/ ですが、Google で、「Yの昭和史」 と 打ち込み検索してくださっても ご覧いただけます。

                                ヤ ク オ

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25. AARP(全米退職者協会)を訪ねて・後

前回より続く

【後 編】

 ここまでくれば、もう一押ししたくなる。そこで私は上阪して アメリカ領事館のラィブラリーを訪ねてみた。親切な女性司書に教えられて、「エンサイクロペディア・オブ・アソシェィションズ(95年29版)」 という、厚さ10センチもありそうな大判の辞典の中に AARPに関する記述を見つけてコピーし、同時に、インターネットのホームページ・アドレスも把握することができた。 http://www.aarp.org だ。

045_aarphp  一刻も早く AARPの窓が覗きたくて、私はその足で昔の仲間が店長をしている古巣・大型店の 家電売場へ駆け込み、たまたま デモンストレーションをしていたパソコンの新機種を使って アクセスしてもらった。まだ入社1年次と思われる初々しい販売員が、軽く ポンポン、ポンと、キー・ボードを叩くと、あーら 不思議、ほとんど瞬時に鮮明な画像が現われた。まぎれもなく、AARPホームページの表紙だ。あっという間に 1万数千キロの時空を飛び越えて、アメリカ合衆国の首府ワシントンDCに繋がったのである。

 大袈裟かも知れないが、時代の潮流から離れて久しい 白髪頭の元老兵は、思わずジーンと痺れるような感動を覚えた。傍らで店長もいっしょになって喜んでくれている。前に、「募集要項」 をもたらしてくれた友人といい、快くパソコンを使わせてくれた店長といい、持つべきものは “善き仲間” だと、つくづく思った。

 AARPは 膨大な量の情報を提示していた。捲ってもめくって もページは尽きず、もちろん英文だから、私にその意味は 俄かには読みとれない。売場のデモ機を独占しているわけにいかないから、そのうちの十数ページをプリント・アウトしてもらって、こんどは 市内の英会話教室に持ちこみ、渋る相手を拝みたおして翻訳を頼んだ。

 プリント・アウトした部分は、「ゲッティング・アンサー」 のページだった。会員から寄せられた質問に回答しているようだが、一般向けに要約したものらしく、プライベートに関わることや 具体的な記述はない。おそらく個別には 専門家や地域のボランティアが対応しているのだろう。

 質疑応答は、健康管理や家族問題、仕事、住宅、財産管理、防犯、法律相談など、内容が多岐にわたっているが、その幾つかを紹介してみよう。

( 介護活動に参加を希望する 女性に対して )
 中年または 初老の婦人であれば、自分の生活と 他の老人の生活を改善するために、多くのことができます。重要なのは、問題をしっかり把握してから 行動を起こすことです。介護提供者になるということは、なにを意味するのか ご存知でしょうか。他者に生命維持看護を施すために 必要な知識と技術をお持ちですか。
 息をのむような 技術進歩、将来の不確実さ、寿命が延びたことなどによって、長い歳月が、これまでより いっそう大変なものになっています……。

( 健康管理について 訊ねてきた高齢者に対して )
  年齢を重ねるにつれて 変化は避けられません。けれども病気と身体障害はそうではないのです。特に大切なことは、私たちの後半生を通じて 健康を維持するすべを心得ることです。最近の科学研究の結果によれば、年齢に関係なく 運動が体のためになることがわかりました。運動は、あなたの健康を管理する上で有益であるとともに、活発かつ独立的な生き方を維持するために必須のことといえます。
 ところで、あなたは 「アドヴァンス・ディレクティヴ (医療の為の持続的事前指示(
注1)) )についてご存知でしょうか。お知りになりたければ、それがあなたご自身と ご家族にとって 大変有用であることを、ディレクターがご説明申しあげます。

( 財産、あるいは住宅に関する 質問に対して )
  資産管理についてはシステム化されています。あなたの負債処理、自身を守る方法、逆抵当貸主 (財産信託のことか?) など、必要に応じて支援いたします。自宅をお持ちですか。逆抵当または 住宅持分変換を利用することで、収入をあげることが できるかも知れません。全米の貸主・借主についての情報を用意しています。年齢をとるにつれて、環境や住宅の種類を変える必要があります。住宅選択のお手伝いをして、金銭上の担保が確実になるようにします。

 ( 犯罪予防について )
  高齢者に対してなされる犯罪の大部分は 財産に関わるものです。犯罪予防を正しく行なえば、被害を大幅に減らすか、あるいは全く無くすることさえ可能です。法律的な回答をすることは、なかなか困難ですが、失望しないでください。手助けのできる官庁や 団体へご案内いたします。

 ホームページの文言は、あくまで抽象的とはいえ、一読、いわゆる “身の上相談” とは異なり、その場かぎりではない 親身で踏み込んだものになっていることが窺がえる。

 この他、ホームページの文章のなかには、

  「AARPは、連邦、州、地方の各段階における 会員の利益を擁護します。あらゆる年齢のアメリカ人が、人間らしい生活水準を享受する権利を持っていると確信しています」  とか、

  「今日、AARPは、年配のアメリカ人の主導的な “声” として認知されていす。私たちは、その責任を真剣に担うため、会員の問題意識や意見を 定期的にモニターするとともに、これらを反映する立法措置を 強力に推進します」

といった、表現も見出した。

 私がAARPについて知り得たことは 以上のとおりである。かなり執念的に 喰らいついたつもりだったが、個人としてはこのあたりまでが限界で、読み返してみると、巨象のほんの一部分を掻い撫でたにすぎず、その輪郭はおろか、鼻先が いずかたを指しているのかすらも わからぬままだ。ひとくちに 会員数3500万というが、アメリカ合衆国総人口の14パーセントちかい 途方もない人数である。そして、それがいろいろな意味で 巨大なシルバー・パワーを形成していることに、もっと 注目する必要があると思うのだ。

 急速に高齢社会に突入したわが国で、いま老人をめぐる さまざまな問題が噴出している折から、誰かが もっと掘り下げて この非営利を標榜するマンモス組織の実態を 調査・研究し、閉塞感にひしがれている社会全般に 何がしかの刺激を与えてくれぬものか、と、ひそかかに希っている。(注2)

 日本人の平均寿命は、男性で76.5歳、女性が82.9歳で、まさに世界一の長寿国になっている。 国連の指針によれば、高齢化社会とは、65歳以上の老齢者数の 総人口に占める比率が 7パーセントを超える国をいい、それが14パーセントを上回ると高齢社会ということになる。わが国は1994年に 「高齢社会」 に突入した。そして西暦2000年には、65歳以上の人口割合は16.9パーセントに、2020年には25.2パーセントに達すると予測されている。

 近年は、医学が飛躍的に進歩して 国民の健康度が向上し、また生活環境の水準も高まっているから、60歳代の人たちは 総じて元気で、何らかの仕事に携わるなり、悠悠自適するなり、まだまだ活力を残している。むろん個人差があり、定年を迎えたとたんに ガクッと老け込み、思わぬ大病に取り付かれる人も少なくはないが、そうでなくても、やがて古希を過ぎ、75歳以上の いわゆる後期高齢時代に入ると、もう体のほうがいうことを聞いてくれない。このごろは、どこへ行っても そんな衰えの目立つお年寄りを見かける。

 生まれた子供の半分が 10歳になるまでに夭折し,残ったうちの四分の三も 50歳に手が届かぬうちに死んでしまっていた時代では、60歳を越した老人は 村の知恵者、後見役として 周囲から一目おかれ、子や孫や村人たちから 畏敬される存在であった。黒沢 明 監督の名作 「七人の侍」 で、高堂国典さんが扮していた “爺さま” である。 しかし、毎年百万人づつ年金受給者が増え続けている当節では、高齢者たちは “長老” どころか、社会や家庭のなかで、とかく疎んじられ、独居をよんどころなくされてしまった。看とってくれるものすらない 何十、何百万もの “孤老” でしかない。

 核家族化が進み、個人生活中心志向が 根付いてしまった社会で、いま じわじわとエイジズム (老人を疎外・差別する社会風潮) が進行している。高齢人口の急増と、年金や医療保険の財源逼迫 あるいは破綻、景気不況のもとで、高齢者を家庭や地域から締め出そうとする動きが 公然と唱えられ始めた。阪神・淡路地震の被災地では、そのことが象徴的に顕われた。

 中高年に集中する退職強要、就職差別、老人の独り住まい家屋やアパートメントで起こっている 安全・火災予防を理由とした 露骨な追い出し、障害老人に対する虐待、養護施設の辺地隔離、等々々……。高齢者たちは、職場、家庭、病院、福祉施設、公共交通機関 などにおいて、陰に陽に疎外され、冷遇されているが、彼らはと見れば、若いころから 軍隊や年功序列組織のタテ社会に組み込まれ、または忍従の家庭生活しか 経験してこなかった所為か、いっこうに、自ら連帯して目前の不条理に抵抗する気概を示したり、互いに援け合おうとする姿勢をみせない。

 組織の一員だった時代、私たちは、ひたすら誠実に働いている限り、国や企業が健康保険や年金、その他の福祉制度を充実して、老後の生活を保障してくれるものと信じ、少なからぬ税金や 保険料の負担に 応じてきたものだが、ここに来て、その 「社会契約」 的信頼が大きく揺らぎはじめた。

 私のような昭和一ケタ世代は、辛うじて 満60歳から厚生年金の受給者になれたけれど、昭和16年生まれから だんだんと支給開始年齢が先延ばされて、昭和24年 (女子は29年) 4月2日以降に 生まれた人たちは、満65歳にならないと受給権を得ることができない。

 さらに追い討ちをかけて 政府・与党は、財政構造の改革と称して、年金や医療など社会保障における国民負担の いっそうの引きあげと、給付水準の 大幅な切り下げを策している。手はじめとして医療保険、肝腎の 診療のありかたや薬価の問題、制度の抜本的改革を棚上げにしたまま 保険料率を引きあげ、薬剤費や 通・入院時の個人負担をアップしたし、このあと年金支給開始年齢を 65歳から67歳へ 再延長しようとしていること、すでに受給権を持っているものも含めた 給付圧縮のための 恫喝的な 5選択肢の提起、などがそれだ。予想される医療保険制度の抜本的改革なるものの中味は、慢性的疾患の治療費定額払い、高齢患者負担の定率制導入、一定以上の薬剤費の 全額患者負担とか、増え続ける医療費の3割強を占めている 高齢者医療部分を現行制度から分離し、高齢者自身に課する保険料で 賄おうとする新制度が盛り込まれる虞がある。

 当の高齢者を 蚊帳の外に置き去りにして、全く あれよあれよといううちに、国民の健康と生活を守るべき社会保障制度の枠組みが、いっぽう的かつ強引に、為政者たちによって歪められ、打ち壊されつつあるのだ。西暦2000年 (平成12年) から新たに施行される 「介護保険制度」 とやらの仕組みも曖昧なもので、その内容を理解して、将来それが必要になったときに、自分の権利を正しく主張できるお年寄が 果たしてどれほどいるだろうか。老境に至って 自らの挙措に自由を欠くようになったとき、エイジズムが蔓延している社会で、普段 ただでさえ もの言えぬ孤独な老人が、こと勿れで血の通わない行政の恣意的な “お情け” に縋って、ほそぼそと 生きながらえている姿が、いまから目に浮かぶ。

 深沢七郎さんの 「楢山節考」 は、乾いた筆致で描いた 凄惨な “棄老伝説” であった。村の掟にしたがって、楢山まいりが近づいたおりん婆さんは、気丈に いっさいの準備をととのえ、「わしがお山へ行くときゃア、きっと雪が降るぞ」 と力みながら、従容と旅立っていった。かつて、京都・西陣病院の医師であられた早川一光氏が、

 「痴呆が進む老人は、着ているきものを、一枚 一枚と 脱ぎ捨てるように 記憶や自制心を失っていき、終には 最愛の配偶者や肉親の顔すら忘れて、恍惚と死に至る…」

と言ったが、願わくば、おりん婆さんほどの境地にはなれなくとも、老残を曝すことなく、「人間の尊厳」 という下着だけは、最後まで残しておきたいものである。

 その意味で、個人的な考えだが、懸念されているごとく、年金や医療保険そのほか 諸々の財政赤字が 後世代の人たちを苦しめ、未来に希望を持つことができないような、苛酷な負担や 不公平を強いるのであれば、現在受けている私自身の年金が 多少減額されることも、場合によっては 已むなしと観念するつもりだし、安易な医者だのみ、いたづらな延命願望も あえて控えなければならないと思っている。現行の社会保障制度が 順送りに現世代の拠出で成り立っている以上、(将来、奇蹟でも起こり、飛躍的な生産性向上でも実現せぬ限り) 少子化と低金利によって いずれ給付原資が 枯渇するのは当然だからだ。

 しかし、今日、国と地方自治体の財政に 重くのしかかっている気の遠くなるような 厖大な借金、累積債務は、いくら考えても われわれ庶民が作り出したものとは思えないのである。それらはすべて、野放図で無責任な 政治家と、自堕落で貪欲な 役人ども、我利我利亡者の金融機関をはじめとする 経済界のいかがわしい 魑魅魍魎が、寄ってたかって現出させた 砂上の楼閣が あえなく崩壊してしまった結果なのだ。

 その昔、笠信太郎さんが “花見酒の経済” という 揶揄的名句を用いたことがあるが、あのころから半世紀以上も経って、猶、儚い花の下に 浮かれ呆けて、盃だけを遣りとりする 虚構構造は少しも改まっていず、泡がはじけて散ったあと、帳尻に残るつもりに積もった莫大な債務だけが、もの言えぬ国民の肩に 押し付けられようとしている。それにしても、国の上下を 骨の髄まで蝕んでしまった頽廃、倫理観念の喪失は目を覆うばかり、ときとして深い絶望に陥ることがあるが、絶望とは 死に至る病なのである。

 若くて気概にみち、鬱勃とした野心を抱いていた頃とは違って、老人は安寧を欲する。

 わが国で、1986年から90年まで続いた いわゆる “バブル景気” は、85年9月のプラザ合意によって招来した、奔馬のごとき急激な円高と その結果生じた 金余りを、あろうことか 超金融緩和で対応し、市中に溢れ出た資金を “民間活力の喚起” と煽りたてて、株式や債権、土地、建物、書画・骨董の類にまで及ぶ 投機に誘導したことによって惹き起こされた “資産インフレ” という蜃気楼だった。かつて、「調整インフレ」 の目論見を口走ったことのある人物が 総理大臣だったころのことである。宴のあとに残ったのは、メルトダウン寸前に陥っている 経済の信用収縮であった。“信用の失墜” は、経済の上だけのことではない。人間社会の根幹をなす、多くの人たちの道徳心まで麻痺させてしまった。

 年金だけに縋って生きる 退職高齢者にとっては、低金利も辛いが、何よりも インフレーションほど恐ろしいものはない。そのことは、体制崩壊後の ロシアで起こっている弱肉強食の社会混乱が、如実に教えてくれている。わが国ではいま、デフレ・スパイラルが危惧されているが、破綻してしまった財政の帳尻を合わせるために、背後の巨大な黒い影に 嚇され操られて、為政者が次に打ってくる手は インフレではないか、私はときどき、そんな悪夢にうなされることがある。

 高齢者をとり巻く環境について考えはじめたら止め処がなくなり、柄にもなく肩を怒らせて過激な言辞を書き連ねてしまった。“ゴマメの歯軋り” のようなものだが、それにしても、このような事態を前にして、その影響をもろに被ることになる日本のお年寄りたちの如何に大人しいことか、歯がゆくてならない。もともと、長いものに巻かれろ社会、終身雇用の閉鎖的ヒエラルヒーに どっぷり漬かってきたために、組織の頚木から解き放たれて 自由な身になっても、権威に対しては卑屈で、そのくせ 妙に排他的な縄張り根性の残滓を引きずった世代ではある。日頃、世間の多くの人々とフランクに交わることが不得手な老人は、とかく孤高を装っているもののごとく、狷介の殻に閉じこもる。

 たとい、隠居してしまったとはいえ、第一線から離れているからこそ岡目八目、嘆かわしい局面の先行きを より冷静に読みとれる筈で、それこそ 地域社会の知恵者・指南番としてもうすこし、もの申してもいいのではあるまいか。

 その場合、ともすれば個々の発言はか弱く、正論を述べたとしても、因習に凝り固まった周囲から 忽ちスポイルされてしまって、事態を動かす “力” にはならない。普段からもっと広く横のつながりを作り、町工場で 旋盤を回し続けてきた人も、サラリーマン人生を過ごしてきた人も、学校の先生だった人も、誠実にお役所を勤め上げた恩給生活者、農業一途に明け暮れてきた方、商家のご隠居さん、多くの年寄が連帯して、無視されることのないシルバーパワーとして、結束する必要がありそうだ。他人さまに頼って暮らすのではなく、自らが行動しなけれはならないのである。

 ならばどうするのか、残念ながら私にその具体策はない。ただ、ここにそのほんの一端をレポートした アメリカの非営利ボランティア組織、AARPの活動が、政治的な側面は別にしても、高齢者の自立と 生甲斐づくりに、何らかの示唆を与えてくれているように思う。

注 1  アメリカの幾つかの州においては、成人が知的・精神的に判断力があるうちに、将来、自身が “末期状態” になる場合を想定して、医師に対し、前もって生命維持装置などを使っての “延命措置” を求めない旨を、文書で指示する権利が認められてい、同時に、その指示が医師によって確実に履行されるよう、親族 その他の第3者に 「医療の為の持続的委任(アドヴァンス・ディレクティヴ)」 をしておくことができる。
〔´98現代用語の基礎知識〕より要約〕

注 2  最近、新聞のコラムで、東京に本部を置く「日本労働者協同組合連合会」という団体が、AARPの実態を調査し、レポートを刊行したことを知った。この団体は、いわゆる日本労働組合総連合会(連合) とは異なる。
 この組織が発行した 〔AARPの挑戦〕 というレポートを購入して読んでみたが、私が、本稿で書いた内容を 超えるものではなかった。

【追  記】
 「ひとり旅も また愉し」 の最終章をロードアップするに当たり、今月11日 私はフト思い立ってAARPのホームページを開いてみる気になった。果たして あの巨大組織は生きているか? URLは前述のとおりである。20年昔とは違って、私も 数年前からパソコンを操れるようになっているから、人さまに頼る必要はない。

 キーボードに向かって http://www.aarp.org と 軽やかに打ち込んでみた。古巣 大型店家電売り場の若い社員がやってくれたようにである。

 AARPは アメリカに健在であった。PCの画面いっぱいに AARPのHPが開いたのである。上方と両サイドバーにも、ぎっちり情報が並んでいるが、勿論 英語表示である。次いで私は Googleの検索枠に “AARP” と書き込みサーチすると、ナント 0.1秒で850万1千のヒットがあり(英語)、Googleのサービスか AARPがソフトを仕組んでいるのか、「このページを訳す 釦」 をクリックすると 瞬時 マがあって英語のホームページが そっくりそのまま 日本語で表示されたのである。なんとも珍妙な日本語ではあるが、意味が読み取れないわけではない。
                                   

Aarp  試みに、その画面をプリントアウト してみ たが、サイドバーなどは省略されて、メインの記事だけが印刷できた。左が英文、その下が日本語翻訳文である。

 検索した厖大な Web page の中に含まれていた 「日経Waga Maga」 の記事 本郷公認会計士事務所理事長 本郷孔洋さんの談話を引用させていただくと、

  「前回、シニアによる世界最大のNPOとして AARPの名前を挙げました。これは、American Association of Retired Persons (全米退職者協会)の略称が正式名称
となった全米の高齢者擁護団体で、私にはシニアビジネス
Photo_6 の究極の事例と思えます。

 2003年のデータによると、会員数は全米の50歳以上の45%に当たる3600万人で、年間500億円の粗利益を出していると聞きます。会員向けの定期刊行物は、雑誌として世界最大の流通数である2200万部を誇り、広告収入も69億円。非営業会社としての控えめな活動ながら、この実績です。

米国は移民が多く、高額な健康保険料が問題となっています。そこで、年金のない高齢者救済を目的に設立されたAARPが、ボランティア活動を核に、いわゆる 低額の共済制度を展開し、なんと3兆円もの売り上げを得ているのです。

 なぜ こんなに成功したかと言えば、膨大な会員数を背景に大量購入、集中購買によって 低廉な仕入れコストと 効率よい会員利用サービスが出来るからです。そのため さまざまな事業が可能となり、傘下には新たなNPOや株式会社がどんどん生まれていきました」 とある。
     (
http://waga.nikkei.co.jp/work/business.aspx?i=20070307j3002j3

 さらに若干 調べてみると、今日では 日本の社会においても AARPに関心を抱いているNPOや個人が存在するらしいことを知った。もし 私のこのブログが その人たちの目に触れて、何がしかの参考となるならば、望外の喜びである。

                                         完

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24.AARP(全米退職者協会)を訪ねて・前


 漸く  最後の章にたどり着きました。この章は画像も殆どなく  やや長い文章なので、今回と次回、前編・後編に分けて登載し、後編の末尾には ホットなニュースを提供したいと 考えています。最終章は 全体を通して 生意気にも、私なりのメッセージを籠めたつもりですから、是非 ご一読いただきたいと思います。

【前 編】

 銀色のボディに、獲物を追って疾走する猟犬を描いた お馴染みグレイハウンドの長距離バスは、バンクーバー・ダウンタウンのバス・デポで 20人ばかりの客を乗せて、インターステイト・ハィウエー5号線を南下した。5号線は、カナダ・アメリカの国境を越えて太平洋岸沿いに約2500キロ、サンフランシスコ・ロサンゼルスを経て、メキシコのティファナにいたる幹線道路である。 バンクーバー発のこの大型バスは、サンフランシスコ手前のサクラメントから 向きを東に転じて、ネバダ州のリノまで行く “急行” だったが、私は、途中のシアトルで降りるつもりだった。

 シアトルでは 1泊だけで引き返す予定だったので、重いスーツケースは バンクーバーのホテルに預け、ショルダーバッグひとつの軽装でバスの最後部座席に座った。1987年ごろは 公共の交通機関でも、長距離路線を走るバスの場合は、後ろのほうに10席程度の喫煙シートがあったのである。喫煙席には他にもうひとり赤銅色に日焼けしたお爺さんが座ってい、私を見てニャッと笑いかけてきた。仲間ができて嬉しかったのだろう。座席の背もたれ越しに 何かと話しかけてくるのだが、おっそろしく巻き舌の発音で、さっぱり意味がわからず往生した。

 乗客はすべて白人、20歳代の女性二人連れを除いては、みんな普段着のお年寄ばかりだった。唯一、ドライバーだけがゴマ塩頭の黒人で、バックミラーに映るルィ・アームストロングばりのギョロ目を左右に配りながら、慎重にハンドルを捌いていた。珍しいことにこのバスは、車体はもちろん、車内の床も支柱も窓枠も、肘掛に取り付けられた灰皿も、下ろしたてのピッカピカ。新車の運転を委されたサッチモ氏は、グレイハウンド社のなかでも きっと信頼篤いベテランなのだろう。そう思ってみると、運転席の大きな背中に貫録がにじむ。

 バンクーバーを発って30分もしないうちに 米加国境に着いた。バスの乗客は荷物を持っていったん下車、サッチモ氏の先導で星条旗と赤いカエデの国旗がはためくイミグレーション・オフィスに入り、出入国と通関手続きをする。

 カナダ人とアメリカ人は査証なしで国境を往来できるから、係官にちらっとパスポートを見せるだけだが、私の場合はそうはいかない。バッグを開けて ひととおりチェックを受けなけばならなかった。

 国境を抜けて、5号線はしばらく山間部に入る。北米大陸西海岸特有の 背の高い針葉樹林が左右をさえぎり、日も射さぬ緩い山道を “灰色の猟犬” が エンジンを噴かして力強く ぐんぐん駈け登ると、山端を曲がったところで 急に視界がパァーッと開けて、正面に中腹まで雪をかぶった雄大な山が、どっかり裾を引いていた。好天のジョージァ海峡を渡るフェリーからでも望めるベーカー山だろうか。

 カナダのブリティッシュ・コロンビァ州から、合衆国カリフォルニア州の北部にかけて、太平洋岸に連なるカスケード山脈は、環太平洋火山帯の中でも 最も激烈な地震や火山活動が起こることで知られているが、シアトル市のすぐ北にあるベーカー山(3285メートル)は、近接するグレーシャー山(3213メートル)、レーニア山(4392メートル)と並んで、いま ワシントン州でいちばん噴火の危険性が高いといわれている。

 下り道の樹林は 次第に疎らになり、木の間がくれに 逆光に煌めく多島海が見えはじめる。手もとの地図から判断して、遥か遠くに霞んでいるのは、たぶんバンクーバー島南部の山影と思われたが、手前のほうにかけて 順に色が濃くなって浮かぶ なだらかな形の島々は、アメリカ合衆国領のサンファン諸島のはずだ。無数の小島や岩が密集しているから、その重なりの切れめ切れめに海面を覗くかっこうで、大型の観光フェリーが澪を曳いていなければ 山に囲まれた細長い湖と見まごう美しい光景だった。このあたりから南へ、複雑に屈曲する海岸線と 海峡に挟まれた 大小さまざまの島からなる地形は、そそり立つ絶壁こそないものの さらがらフィヨルドに似て、地もとの人々は “ピュージェット・サウンド” と呼ぶ。

 後背するカスケード山脈に 太平洋から吹きつける湿気を含んだ風が、四季を通して 多量の雨を降らせるので、山地はもちろん島々にも、ジャイアント・ツリーとして有名なダグラス樅の巨木をはじめ、ツガ、トウヒ、カシ、マツなどの常緑針葉樹林が鬱蒼と生い茂り、アメリカ合衆国の国鳥とされるハクトウワシが 数多く棲息していると聞いた。

 シスコやロスなどの 大都市圏に入れば、5号線も 州際幹線道路の名に背かぬ 多車線の本格的ハィウエーになるのだろうが、北辺ワシントン州の農村地帯では 鄙びた田舎道でしかない。山間部を離れて平地に出ると片側2車線になり、交通量も多少増えてきていた。左手の幅広い分離帯を隔てた対向車線を、車ごと引越し中のような キャンピング・カーや、レジャー・ボートを牽引したRV車、全長が20メートルを超えていようかという 大きなトレーラーが、屋根のうえに突き出たマフラーから排気を噴き上げながら北上する。そこそこのスピードを出しているはずだが、どの車も走行車線を 一定の間隔をおいて坦々と走り、むやみに前の車を追い越そうとしたりしない。ハリウッド制の映画で 派手なカー・チェイスを見馴れた目には、意外なほどマナーが行き届いた車の流れに、いささか 認識を改めさせられたものだ。

 もっと感心したのは、うねり広がる田園に いわゆる野立て看板の類が 全く 目につかないことだ。農村地帯だから、道路沿いに木製の電柱が一列 真っ直ぐに並んでいたけれども、あたりの大きな風景に溶け込んでしまって 邪魔にならず、並行する山際の 波打つ緑の絨毯のところどころに 散在する農家の佇まいが、いかにものどかで、心が洗われるようだった。

 快調な震動に眠気がさして ついウトウトしているうちに、猟犬は いつしかシアトル市内に入り、午後5時30分、目抜き通りの ウェスティン・ホテル前バス・ストップに着いた。近いようでも バンクーバーからの所要3時間半、バスは、さらに南に向けて発車する時間まで小休止するらしく、サッチモ運転手も車外に出て ステップを降りる私に、「疲れなかったかい?」 と声をかけてくれた。「ありがとう、新車の乗りごごちはいいネ」 と、手を出して握手していると、背後から、

  「ヅカマさんですネ。 お待ちしていました」 と、女性の声がした。

  「通訳の クミコ と申します。お約束は明日ですが、近くまで来る用事があったものですから お迎えしました。お泊りのホテルまでお送りしましょう」

 年齢のころは 30代半ばだろうか、美人だし、ていねいな言葉遣いに好感して、彼女の厚意に甘えることにした。名刺には “ Kumi Capoen ” とあった。

  「 カポネさんと読むのですか?」 と 訊ねたら、

  「 あら いやだ。 カポンです。夫はデンマーク出身ですのヨ 」

 彼女は 嫣然と笑った。いやはや、30年代禁酒法時代の ギャングと間違えるなんて、初対面から とんだ失敗だった。

 十年余りも昔の カナダ旅行の途中で、私が わざわざシアトルまで足を伸ばしたのは、実は、この地の “AARP” を訪ねてみようと思ったからだった。当時、私は東京本社に勤務していて、仲良く付き合っていたある商社マンから、「アメリカには、ボランティア主体で運営している AARPという凄い組織がある」 と聞いたことがあった。そこで、遊びが目的の旅行ではあったが、“ひとり旅” の気安さ、無鉄砲にも、〈 この機会に取材してみるのも一興…〉 と、思いたったわけであった。

 AARPの本部が ロサンゼルス郊外にあることは 聞き知っていたものの、そんな遠くまでいくのは大変だ。ひょっとしてシアトルに支部でもあれば と考えて、バンクーバーに着くなりすぐに、空港のポスト・オフィスにとびこんでシアトルの電話帳をめくり、それらしきものの存在を確認した。

 早速、このときの旅行をアレンジしてくれた カナダ側のエイジェントに出向き、

  「日本人が、AARPの活動を取材したいといっている。責任者に会いたいと申し入れて くれませんか。アポイントがとれれば、シアトルのホテルの予約と 往復便の手配をお願いし ます。   あ、 それからシアトルで通訳も……」

と依頼した。カウンターの、ケイト・ミヤシタさんという若い日系のお嬢さんは、突然の厚かましい注文にとまどっていたが、まだこのときは半ば現役だった 私の名刺がモノをいったらしく、快く先方と交渉して、3日後の面談約束を取り付けてくれたものだ。

 シアトル到着の翌朝早く、クミ・カポンさんが電話をかけてきて、

  「せっかくシアトルにいらしったのですから、よろしければ午前中に 少し珍しいところをご案内いたしましょうか。 いエ、フィーは午後のぶんだけで結構です」

という。むろん格別な予定もなし、根が好奇心旺盛なほうだったから、私は 一も二もなく誘いに応じることにした。

 午前9時 きっかりに ホテルにやってきたクミさんの、気恥ずかしくなるような 真っ赤なスポーツカーに乗せられた私は、そのあと、普通の旅では とても体験できないような ところを見てまわることができた。ひとつは、クミさんのご主人が 航空局監督官として詰めているという、ボーイング本社と そのエァフィールド。もうひとつは、噂には聞いていたアメリカの新興流通業態、メンバー・シップ制のホールセール・クラブ 「コストコ社」 だった。だが、それらについて語るのは 本稿の主題から外れるので、ここでは敢えて触れない。

 ところで、お目当のAARPのシアトル支部は、ナント その巨大な 「コストコ店舗」 とつい目と鼻の前。小さいけれど、クリーム色の 瀟洒なオフィスの前に着いたときは、約束 午後1時の 5分前だった。朝のうちの 思いがけぬボーイング社訪問といい、コストコの売場見学といい、そしてまたAARPへの到着時刻といい、クミさんの 心憎いばかりのアデンディングに、私は内心舌を巻いたものだ。

 応接室に通されて、私の不躾な質問に答えてくださったのは、AARP第5エリアの代表者ジーン・H・ナリボウさんという 矍鑠とした老婦人だった。小柄でふくよかな体躯、笑みを絶やさない柔和な面差しは、どこかの幼稚園の園長さんといった感じだが、初対面の挨拶のあと、のっけに第5エリアの範囲を訊ねると、

  「シアトルのあるワシントン州のほかに、オレゴン、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナ、アラスカ、ハワイ、の各州を統轄しています。 きのうまでは、アリゾナ州のメサへ行っていました」 と、こともなげな返事に ど胆を抜かれてしまった。

 ナリボウ女史が 気さくに応答してくださったおかげで、私はそれから3時間あまり AARPの 設立趣旨をはじめ、組織概要、活動の内容などについて 根掘り葉掘り伺ったのだが、クミさんの通訳を介してのやりとりだったから、実質は 1時間半のインタビューということになる。

 そのあらましは、以下のとおりであった。
 
 AARPは、American  Association  of  retired  Persons.の略で、「全米退職者協会」 と訳せる。(
私が、シアトル支部を訪ねた10年前も、そして現在でも) AARPのことは、日本ではほとんど知られていないが、創設は1958年、カリフォルニアの高校教師をリタイアした エセル・パーツ・アンドリュース女史の呼びかけで誕生したという “退職高齢者の相互扶助を目的とするボランティア活動” である。

 いまもアメリカには、全国民をカバーする 公的な医療保険の制度がない。
アンドリュース女史は、老後の健康維持に不安を覚え、退職教師仲間で健康保険組合を作ろうと思いたったのが きっかけだったそうだ。彼女は自らの体験を通じて、当時のアメリカ社会にわだかまっていた 退職高齢者に対する偏見や差別、さらには お年寄り自身の無気力さに憤りを抱き、

  「 To  serve,  Not  to  served.  (老人は奉仕せよ、奉仕されるべきではない) 」

というスローガンを掲げて、退職者相互の援けあい運動を展開した。むろん、はじめは大変な苦労があったようだが、彼女の熱意は次第に多くの共感を集めて、87年時点では、AARPは、アメリカ全土で2600万人もの会員を擁する 巨大な組織に成長していた。

 あくまで 非営利の団体なのだが、その活動は、非常に積極的 かつ多彩であった。

 列挙すれば、高齢者のヘルス・ケアと啓蒙、医薬品の定期的メール・サービス、各種保険への加入斡旋、税務相談や投資あるいは 財産管理に関するアドバイス、住宅環境改善、未亡人に対する職業紹介、老人向けの安全運転再教育、ヒスパニック支援、旅行プランニング、などを 会員の求めに応じて 無償で行なっているのだ。

 また創設者の名前を冠した 「アンドリュース基金」 は、老人医学や治療・介護、福祉施設、そのほか社会の他領域における 研究・開発、および法制活動に対して、毎年、高額の資金援助を続けていた。会員に頒布される会報 「モダーン・マチュリティ」 は、リーダーズ・ダイジェスト、テレビ・ガイドに次いで、全米で第3位の発行部数を誇っていたのである。

 会員資格が得られるのは、満50歳以上、年会費5ドルとなっていたが、会員数はなお刻々と増加中で、私が訪問した87年ごろでも、全国で毎日 6千枚の入会申込書を受けているということだった。夫婦で申し込んでも5ドルでいいそうだから、大雑把に計算しても 年間約1億ドルの会費が集まるわけだし、それ以上に、会報その他に対する企業の広告料、あるいは篤志家からの寄付、金利など、活動資金は莫大な額にのぼると思われた。サラリーを受けるごく少数の専門職・スタッフを除き、活動の大部分は多くのボランティアによって支えられてい、現にナリボウさんたち幹部も、旅費は実費を受けるものの、全くの無報酬で行動していると聞いた。

 何よりも2600万という人数は、とてっつもなく大きなパワーであり、有力なマーケットを形成する。必然的にAARPの社会的発言力は強まり、政治や宗教に対してはニュートラルとしながらも、医療や年金、その他諸問題について、各州や連邦の行政、とりわけ議会に、無視することができない 影響力を行使しているという。

 当然のことながら、この巨大な市場を企業が手を拱いて傍観するはずがなく、例えば、多様な保険商品の大幅な料金割引、健康器具や薬剤、自動車、家具類のディスカウント、ペットの斡旋、低廉かつサービスの行き届いた ツアー・プランの提供など、数々のシルバー特典を用意して 接近を図っており、それがまた相乗的にAARPの会員サービスの水準を高めていった。会員管理のためのコンピュータ・システムが どうなっているかについて質問してみたが、担当者が出張中ということで、ナリボウさんの答えからは要領を得なかった。入・退会はともかく、会員個々の消息情報は、必ずしもコントロールされているわけではなさそうだ。“タレント・バンク” なるものがあり、会員との連携を保っているという話だったけれど、よくわからない。 創設当初は “草の根運動” であったにせよ、組織が肥大化して、マス媒体で会員を募るようになっては、案外、血の通ったヒューマン・コミュニケーションは 稀薄になっているのではないか、と思われた。

 創立以来、AARPは 一貫して非営利の姿勢を崩していない のだそうだ。これまでにも  ヨーロッパの生活協同組合などから 提携の申し入れがあったというが、国情や法制の違いもあり、実現しなかったらしい。

  「私たちの活動に 特別なノウハウはありません。強いていえば、多くの人間の誠意が支えてくれているのです」

 ナリボウさんが 静かに微笑みながら、さりげなくおっしゃった言葉に打たれた。

 これからの高齢社会において、わが国でも、老人にまつわって生じる さまざまな問題を避けて通るわけにはいかない。それは、健康と時間と経済と、そして “生きる” ことについての 価値観の問題である。国情が異なり、文化も社会構造も宗教観も相違する日本で、果たしてAARPのような組織活動が できるかどうか、ナリボウさんの話を聞いていて、私には 答えも 予測も見出せなかった。

 いささか不謹慎ながら、率直にいって 単なる好奇心から 軽い気持ちで取材を思いたち、何の準備もなくこのオフィスを訪ねてしまったことを、内心 恥じ入るとともに、長い時間、不躾に連発した 私の質問に対して、終始、懐深くにこやかに応え、諄々とその成り立ちから 活動の万般について 話し聞かせてくださったナリボウさんから、逆に重い課題を突きつけられたような気がした。

046_aarp_2   いつのまにか、窓から差し込む西日が、少しづつ 反対側の壁を這い上がる時間になっていた。 クミさんと目配せして、私は、ナリボウさんに感謝をこめた辞意を伝えた。

 ナリボウさんは、

  「あなたとお話が出来て楽しかった。AARPに関心を持って、わざわざ日本から訪ねて来てくれたのですから、あなたを特別会員にしてあげましょう」

といって、私の背広の襟に 小さなバッジをつけてくださり、お年齢に似合わない強い力で 私の手を握りしめられた。

 帰路は飛行機だった。シアトルとタコマ市の中間にある シャタック空港まで送ってくれた  クミ・カポンさんにも 心からのお礼を述べたが、彼女は、

  「私の方こそ 本当にいい勉強ができました。ズカマさんもタフです。 まるで新聞記者みたい」 と、華やかな笑顔で見送ってくれた。

 旅は一期一会というが、彼女もまた 忘れられない想い出のひとりだ。1987年秋のことであった。

 何でも 先進的に さまざまな流れを作り出すアメリカで、近年急激に増加しているものに、非政府組織、いわゆるNGOと、非営利組織・NPOがあるといわれる。前者は政策研究センターや シンク・タンク、ロビーイング、国家の安全保障問題を議する 権威ある機関、各種調査研究や 探検等に対して資金援助を専らとするもの、なかには ある種狂信団体などがひしめいていて、捉えどころがない。いっぽう、今日 欧米諸国のNPO民間活動は、福祉、人権、環境問題、さらには 災害発生地域への緊急援助、医療活動、発展途上国への継続的民生支援などに取り組み、地球規模で 高く評価されている。

 ジュネーヴに本部を置く 「赤十字社」 を、NPOの範疇に含めるかどうかは 論が分かれようが、よく識られ、活発に行動している 民間の国際協力機関としては、ロンドンが本部の 「人権を守る国際救援機構(アムネスティ・インターナショナル)」 アメリカの核実験に反対してバンクーバーに興り、現在はオランダのアムステルダムを本拠にするという 戦闘的な 「国際的環境保護団体(グリーン・ピース)」 がある。日本でも最近、地震や噴火、洪水などの天災が突発した地域へ、国境を越えて 果敢な緊急医療活動を行なっている民間のボランティア団体、「アジア医師連絡協議会(アムダ・岡山市)」 の名前を、しばしば耳にする。

 1987年に 私が無鉄砲なとびこみ取材をしたAARPも、今日的に表現すれば、NPO組織ということになるのだろう。しかし 前述した活動が、アメリカ国内だけに限定されているためか、とかく アメリカで起こっている事象を取り込むことが好きな日本で、なぜか いっこうにこの組織のことが話題にならず、ずっと気にかかっていた。日進月歩、変化が激しい時代だし、この十年 繁栄の裏側でアメリカ社会の荒廃が伝えられていたから、もしかしたら、あの 多くの市井の人々の善意に支えられつつ 発展していた非営利組織も、すでに、あえなく廃れてしまっているのではないだろうか。そんな懸念が、ときどき脳裏をかすめたものだ。

 そんなある日、日本経済新聞(1996年12月10日朝刊)の 「世界の潮流」 という囲みの中に、米州総局編集委員・野村裕介氏の記名で、次のような記事を見つけた。

 少し長くなるが、当該部分を転載させてもらう。

  「(前略) 消費者の購買力を結集した企業が台頭する下地が米国にはある。ワシントンD.C.に本部を置く全米退職者協会(AARP)、3千5百万人の会員を抱え、米最大の圧力団体と称されるが、「政治力ばかりが誇張されている。多くの会員はディスカウントが目当て」 と、同協会のトーマス・オトゥエル氏は明かす。

  会員誌 「モダン・マチュリティ」 の発行部数は2千2百万部、実はTVガイドを上回り全米で最大の雑誌だ。自動車、健康器具などの安売り情報を満載し、廉価での医薬品配送サービスの利用を訴える。

  米保険医療費の伸びに急ブレーキがかかり始めた。AARPのような個人の会員組識に加え、大企業を会員に引き込んだ健康医療団体(HMO)が勢力を拡大、買い手のパワーが価格上昇の抑止力になった。 (後略)」

 “圧力団体” とか、“ディスカウントが目当て” といった表現があって、私がシアトルで見聞きしたこととは、ちょっと異なるイメージを抱かせるが、とにかく AARPが 依然として健在であることがわかった。しかも、本部を首都のワシントンD.C.に移し、会員数も 3500万に膨れ上がっているというのだ。

 またしても、私の好奇心が むくむくっと鎌首をもたげた。あのAARPが、現在どのような活動をしているのか、関係しそうな文献や情報を求めて 地域の図書館や書店めぐりをはじめた。しかし、数ケ所の図書館で、これとおぼしい書棚に並ぶ資料を 片っぱしに漁ってみても、本屋でいくら検索してもらっても、それらしい手がかりは 全く掴めない。わずかに 「イミダス(96年版)」 の略語解説に、「AARP=1958年に設立された高齢者を支援する アメリカ最大の特殊利益団体」 と出ていただけだ。

 万策尽き、もうこれ以上は調べようがないと 半ば諦めかけていたのだが、ふとインターネットの利用を思いついた。早速、コンピュータに練達した昔馴染みに電話をかけて 事情を話し、AARPのホームページ探しを頼んだ。アドレスは不明、まるで雲を掴むような話で 苦労したことと思うが、彼からの返事は、「ホームページは見つからなかったが、こんなものが出てきた」 と、一葉のプリントを送ってくれた。どうやらそれは、AARPの “臨時スタッフ募集要項” のようなものらしく、辞書を引き引き訳してみると、

① オフィスは、ワシントンDCのほかに、ボストン、ニューヨーク、アトランタ、シカゴ、ロング・ビーチ、シアトルなど、全米の15都市に置いているこ と。

② 協会は、合衆国の50歳以上の人々が抱く 関心事や要望に応えるべく、積極的に取り組んでいる 非営利的会員組織であり、会員の独立自尊の意志に基づき教育・訓練と、奉仕・支援を通じて、それぞれの自己実現と、充実した生活を追究することを 目的とするものであること。

③ (既述の多岐にわたる活動のほかに) 退職高齢者の生涯学習、女性問題、労働者の公正な処遇、マイノリティに対する支援などを展開し、その活動資金は年間 36億6千万ドルにのぼること。

④ 月間2200万部の会報 「モダン・マチュリティ」 のほか、各月刊2240万部の「ワ-キング・エィジ」 また、議会議事録や 立法に関する最新情報、事例研を掲載した 「ニューズ・レター」 などを、全て無料で会員に提供していること。

⑤  組織を運営しているスタッフは 1800人、ボランティアは、20万人を擁していること。

⑥ 健康保険、生命保険、妊娠休暇、年金制度、信用組合?、返済を要する奨学金、有給休暇があること。

⑦  週当たりの労働時間は 37.5時間。今回の募集は10週間の有期、賃金は時給10ドルであること。

などとあった。1枚の 「募集要項」 とはいえ、その充実した内容が窺い知れた。

                                       続 く
                                     
                                     

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19. わが 食べある紀行


                                      ・

わ が  食 べ あ る 紀 行

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001_2  わざわざ、中国の古い宮廷料理を食べにいく旅行や、ミシュランの五つ星レストランを巡るツアーが催行されるぐらいだから、海外各地で、そのところどころの名物料理や、珍しい食べものを賞味できるのは、旅するものにとって 楽しさのひとつである。

 私もこれまで、あちらこちら 旅してまわるうちに、行く先ざきで 結構 いろいろと、いわゆる 本場の料理というやつを口にしてきたし、二度、三度と訪れる機会があったところでは、前回の味が忘れられなくて、その都度、予約を入れてでも 足を運んだレストランも少なくない。

 マレーシアのクアラルンプールで、果物の女王といわれるマンゴスチンの、淡白で 高貴な味とかおりに魅せられて、お歳暮代わりに 現地から親戚や知人に直送して 喜ばれたり、カナダからは、訪れるたびに スモーク・サーモンや数の子昆布、メープル・シロップ、それに、季節によっては、傘の色がちょっと淡い マツタケなどを土産にする。(マツタケは現地で食べただけ)

 先般、フィジーに旅行したときは、農園まで出かけていって、高い樹の上に たわわに実ったラグビーボールほどもあるパパイヤを、ダンボール詰めにして (勿論、ちゃんと燻蒸処理されるが) 別送して貰ったら、自宅に届いたときには目にも鮮やかな橙色に完熟してい、その馥郁としたかおりと甘味を満喫した。

 しかし、ありていにいうと、この年齢になるまで、私は 食べることに関しては無頓着なほうで、美食とは とんと縁なく過ごしてきた。そりゃ、旨い、不味いの区別ぐらいは人並みにつくけれども、喉に小骨をたてて七転八倒した 幼児体験のせいで、刺身とブリの照り焼き以外、骨が出てくる魚料理はまるでダメ、野菜類にも好き嫌いがあって、食べ得るものの範囲が狭かったのも 一因だったと思う。そのくせ、食べるとなれば 洋食・和食の区別なく、どこへいっても、苦手な食材を使ってさえなければ、なんでも口に放り込んで 咀嚼してしまうという無神経なところがある。

 したがって、レストランの席につき、メニューをさし出されたって チンプンカンプン、料理の名前にカタカナのルビがふってあっても、材料の見当はおろか、煮る、焼く、揚げるといった 調理の基本知識すら持ち合わせていないので、いつも注文にとまどう。

むろん テーブル・マナーなんか知らないから、結婚披露宴に招かれて、フルコースの ナイフやフォーク、スプーンの類がずらりと並ぶ 指定の席に座ったりしたら、もう どうしようかと、前菜が出る前から ソワソワ落ちつかない。

 呑ンべぇなのだが、ワインやリキュールの種類・銘柄のことなど 皆目知らない。だから、旅先で 高級? と思われるレストランに入った時は、なまじ格好をつけて “ワイン・リスト” を覗き、目の玉が飛び出るようなボトルを薦められたら大変、と ウエイターに尋ねられる前に先手を打って、もっぱらローカル・ビァか ハウス・ワインをオーダーすることにしている。

 いまにして、〈 これは 不幸なことだった…… 〉 と、つくづく思う。

 私の先輩の知人で、神戸の山手で 小ぢんまりした仏蘭西料理店を経営している人がいる。なんでも 若いころには、著名なホテル・レストランのシェフだったとか。現在は半ば趣味的に 料理作りを楽しんでおられるふうで、毎年 トレンド調べと称して、ご夫婦で 食べるためだけのフランス旅行に 出かけているのだそうだ。たまに知人のお伴をして そのお店に行くと、ありふれた、しかし 旬の材料を使った簡単なものながら、得もいえぬ味の、洒落た料理を口のすることができる。

 傍らで、先輩とオーナー・シェフとの間に弾む “グルメ談義” を聞いていて、

   〈 ああ、私も、もっとゆとりのある 人生を過ごしてくるべきだった 〉

と、内心 悔やんでも、あとの祭りだ。

009_1  以前、半月ほどかけて ヨーロッパ周遊のツアーに加わったときのこと。旅の半ば頃、気心が通ずるようになった年配のご夫婦と、一夕、リューデスハイムの “ドロッセル・ガッセ(つぐみ横丁)” で食事を共にした。団体旅行の場合、参加者は あまり 自らのみもとを明かさないものだが、その人も かつてデュッセルフドルフに駐在していたことがあるとしか 洩らされなかった。写真についてなかなか造詣が深く、当時、まだ写歴が浅かった私は、食事をしながらの会話で ずいぶん啓発されたことを憶えている。テーブルに出ていたのは“酢漬のキャベツを添えたソーセージの煮込み” だったが、それが美味だったところから、ご夫婦のあいだでひとしきり ドイツ料理の話題が交わされた。奥さんのほうも料理にお詳しかったが、物静かに、ライン川流域の家庭料理について語るご主人の薀蓄は、半端なものではなかった。

 こんな人に出会うと、私など、もうそれだけで 尊敬してしまう。

 亡くなった池波正太郎さんの、「鬼平犯科帳」 「剣客商売」シリーズや、“藤枝梅安”ものには、作中しばしば、さりげない旬料理の描写があり、江戸の風情や季節感を漂わせ、長谷川平蔵、秋山小兵衛、針師梅安の人間味をふくらませて、物語に奥行きを与えている。

 その池波さんのエッセー 「味と映画の歳時記(新潮文庫)」 の中に、“鯛” についての こんなくだりを見つけた。

( 前略)
 「まさに鯛は魚類の王様といってよい。」
 風姿、貫録、味、ともに王者の名にそむかぬ。
 食べごろの鯛は、さまざまの調理に応じ、千変万化する。その味わいの複雑さには驚嘆するほかない。
 鯛の味が落ちるのは産卵後の初夏のころで、秋冬の 成熟した味もよい
が、何といっても鯛には春の季節感がある。
 四国の今治の、近見山あたりの料亭で出す桜鯛の塩蒸しを、芽しょうがをあしらった大皿に横たえ、おもうさまに食べるうまさ、たのしさは格別だがあまりにも立派で美しい。その姿を見ては、白魚に詫びながら箸をつけた吉
野さんではないが、おもわず鯛に向かって、
    「ごめんなさいよ」

と いいたくなる。
 人間なんて、実に、むごいものだ。
 私が家で鯛の刺身をやるときは、生醤油へよい酒を少し落とし、濃くいれた煎茶へ塩をつまみ入れたのを吸い物がわりにして御飯を食べる。
 私にとって、鯛の刺身は酒よりも飯のものだ。
 むろん、酒の肴にして悪かろうはずはないが、何といっても温飯と共に
食べる 鯛の刺身ほど、うまいものはない。(後略)

 少々、借用が長くなったが、春先の鯛をとりあげて、その筆致はまことに自由闊達、洒脱な文章は池波さんならではのもので、読んでいると、ぷりっとした半透明の活き鯛の刺身に目を細めながら、箸を伸ばしておられる池波さんの温顔が、髣髴するようだ。

 旅先で いろんな料理を食べたからといって、それぞれの食材の珍しさとか 新鮮さ、独特の料理法といったもの、調味料、香辛料の善し悪し、賞味の仕方、等々、哀しいかな 私には食通ぶって語る能力はない。だいいち、この方面の語彙が 甚だ貧弱なのである。だが、折角 ここまで書いてきたことだし、食べものにまつわる 若干の思い出がないわけでもないので、勇を鼓して、いうなれば “私の食べある紀行” といった形で、いますこし 脈絡のない文章を書き進めてみることにする。

006  各国を旅していて、どんな辺鄙な土地にでも 中国料理の看板があるのには驚く。

クライストチャーチの中華大酒楼

東南アジアでは、進出華僑が、ひとつの国家まで打ち立ててしまったぐらい (シンガポール) だから、いたるところ、有名無名、北や南の地方色ゆたかな 大008_2 小さまざまの中華酒楼が繁盛していることに不思議はないが、たとえば、紫禁城を模した? と自称するクライストチャーチの 「中華大酒楼」 という大厦や、アムステルダムの運河に浮かんで異彩を放つ 「シー・パレス」 の前に立つと、異郷におけるチャイニーズ・パワーに感嘆する。
←アムステルダムの運河に浮かぶシーパレス

 アメリカやカナダの 都市部での昼時には、たいてい私は、大きなショッピング・モールのファースト・フード・フロアで、中華料理を食べることにしている。そこには、メキシコのタコス、インドのナンやカリー、イタリアのピッツァ、スパゲッティ、日本食のコーナーもあって、すし、牛どんも食べられるが、中華の炒飯や焼売が、どこでも 一番当たり外れのない安定的な味だということを 経験的に知ったからだ。

 チャイニーズ・レストランに入って困るのは、“一人前” のセット・メニューがないことである。 中華料理は、たいがい円卓を囲み、数人あるいはそれ以上の家族単位で、わいわいと 賑やかに食べるものらしく、一人ぼっちでテーブルにつき、あれやこれやと何種類かを注文すると、暫らくして それぞれが、どかっどかっと 大皿に盛って運ばれ、目を白黒させなければならない。已むなく 酢ブタ一品だけをとって その半分か三分の二を食べ残し、美味かっただけに 悔しさを募らせながらカネを払ったことも 一再ならずあった。しかし、場末の 膏臭いような小さい店では、はじめに、春巻二分の一、炒麺三分の一などと頼めば 聞いてくれることもある。

 カナダ・海岸山脈の奥深く、かつて映画 「ランボー(第1作)」 で、壮絶なクライマックス・シーン撮影の ロケ地になったというホープの町を通りかかったとき、庇だけを瑠璃瓦で葺いた 可愛らしい中華レストランを目にしたので、〈おや、こんなところにも…〉 と車を駐めた。満席になっても30人ぐらいという広さだったが、意外と清潔ないい店で、メニューが貼ってある壁に、額縁に入れた 神戸・南京街の写真がかかっているではないか。店主の周さんは40歳代、8年前まで神戸に住んでいたとかで、もちろん兵庫訛りの日本語はペラペラ、互いに懐かしさもあって話がはずみ、すっかり意気投合したものだ。

 その周さんに教わって、バンクーバーの 「北京」 というレストランを知った。それほど大きな店ではないが、“青島ビァ” も ちゃんと置いている。ここで味わった “北京ダッグ” は、本場北京の 「全聚徳」 のそれと遜色なく、三人前はたっぷりとあった飴色の烤鴨を、一切れ残さず ぺろっと平らげた。

 各地にしっかり根付いたチャイニーズ・レストランに比べて、まだまだ 存在感は希薄だが、世界の主な都市で日本料理の店もずいぶん増えた。ヘルシー志向もあって、いまや スシが国際的に評価を高めている。だが、いまだにジャパニーズ・レストランの主たるターゲットは、日本人観光客や 現地駐在のビジネス・マンたちであるようだ。

 特に規模の大きいところもない代わりに、一膳めしや的零細店もなく、みんな横並びの中型で 小奇麗な点が特徴、「欅」 とか 「ふじ」 「将軍」 「さむらい」 といったネーミングを 毛筆書きのサインで示し、玄関先に、柴垣を結いめぐらしたり、石燈篭を置いたり、せせらぎを作って水車を配したり、精いっぱい 異国における日本情緒を演出している。難をいえば、概して値段の高いこと、カネ遣いの荒い日本からの旅行者か、ホームシックを癒したい地元住まいの 商社員ででもなければ、そう簡単には暖簾をくぐれない。

 日本語の屋号につられて、〈 久しぶりに、和食でも食べようか 〉と テーブルについても、日本料理とは 似て非なるものがでてきて、文句もいえず、往生することがあるから要注意だ。

 オークランドの ディズニー・ワールドへ行ったとき、フエナ・ビスタの ディズ・インなる安宿に泊まったもので、ホテル・レストランの不味い料理に飽き、近くで見つけた 「神戸ステーキ・ハウス」 というサインに誘い込まれて 店内に足を踏み入れたとたん、〈 あ いかん 〉 と、思った。薄汚い店内には、盂蘭盆に使う岐阜提灯がさがり、隅奥にガンダーラ様の いかつい仏像が睨んでいるという、ひと目で日本人が経営する店ではない と知れた。引き返しもならず、ちびた革靴の踵みたいに 黒くて硬い肉の欠片を、無理やり胃の腑へ押し込んだが、あとでホテルに帰って、フロントのトムに訊ねると、オーナーは、ヴェトナム人だといった。

 「すきやき」 と いう カルガリーのスシ屋もひどいものだった。腹をすかせて飛び込み、とりあえず “盛り合わせ” を注文したのだが、形だけ和服を着た色の黒い娘が 運んできた にぎり をひとくち頬張ってウッとなった。なんと、うどん粉を練ったような シャリの上に、得体の知れない白味魚の破片がのっかっているというシロモノで、さすがの私も、その侭 ほうほうの態で逃出した。

 誤解のないように 断っておくが、いま挙げた二つの失敗例は、たまたま 私が遭遇した不運なエピソードであって、カナダの寿司屋が、どこでも うどん粉を食べさせるわけでは 決してない。それどころか、特にバンクーバーのスシは、北米大陸で一番美味しいといわれており、私なんか、それこそお世辞でなく、東京や大阪の有名店のスシより はるかに旨いと思っている。

005_5  バンクーバーには、「亀井鮨」 や 「栄寿司」 など、名実ともに 第1級の寿司屋があるが、私のお薦めは、ギャスタウン近くの 中華街のなかにある 「星寿司」 だ。現地で知り合った人に教えられ、はじめは、〈 チャイナタウンなんかで、和食が商売になるのだろうか? 〉 と、いささか 疑念を抱きつつ覗いてみたのだが、どうして どうして、ディナーにはまだ間があるのに 店内はほぼ満員の盛況。地元在住と見える日本人家族や 白人の若者も混じって、賑やかに小座敷の卓を囲んでいた。店の奥までストーンと通った分厚い 板台にそって並ぶガラスケースのなかには、ウニ、シャコ、とり貝、鮑、鯛、穴子……。ネタは 何でも揃っていたし、鮪のおおトロの値段が 大阪の3分の1、安心して注文できる。とりわけ 顎が落ちそうになったのは キングサーモンのトロだった。山葵をたっぷり利かせた刺身を 舌にのせると、トロリ蕩けて さびがツゥ~と鼻に来、陳腐な表現ながら 嬉し涙が滲んだ。

 シャリがまた旨い。もちろんカリフォルニア米なのだろうが、角刈りの キップのいい親父さんに聞くと、“国宝1号” とか 幻の “幸田米” とか、スーパーの棚に並ぼうものなら 忽ち奪い合いになるような極上銘柄を使っているのだそうだ。(米の銘柄については、あるいは聞き誤っているかも知れない)

 ところで、初めての都市へ 足を踏み入れた場合、私は 必ず日本料理のレストランを探す。いや、和食が恋しいというわけではない。そこには たいがいスシ・バーがあるから、カウンターの止まり木に腰をかけ、刺身などを突きながら、板前さんから ところの旅情報を仕入れるためだ。忙しくなければ 気軽に応じてもらえ、案内書には載っていない観光のアナ場や、知られざるシャッター・ポイント、道路事情、治安上の注意を教わることが出来る。

 オタワの 「ジャパニーズ・ビレッジ」 という店で出会った若い板前さんと、例によって雑談を交わしながら 旅ネタを探っていた時のことだ。その板さんは まだ20歳代半ばの好青年で、ことば遣いも折り目正しく 私の話し相手になってくれていたが、そのうちに、

  「間違っていたらお詫びしますが、お客さんは、……にお勤めではなかったですか?」 

と いいだした。私はびっくりして、

  「ええ、そうですが……。どうして、そんなことを知っているの??」

と、問い返すと、彼は照れくさそうに、 「野村と申します」 と 名乗ったうえで、

  「実は3年前 大学を卒業する時、先輩にリクルートされて、御社を受けたんです。あなたの面接を受けました」

  「へぇー、そうだったんですか。で、不採用に……?」

  「いぇ、おかげで内定をいただいたのですけれど。 ちょうどその頃、カナダへこないかと誘われましてネ。それで……」

 早稲田の政経出身ということだったが、若いうちにと考えてワーキング・ホリディで来加。トロントを振り出しに、日本料理レストランを転々としながら オタワにやってきたという。

  「少し落ちついて、できればイヌイットの文化を調べてみたいと思っています」

  「それはいいですネ。今のうちに やれることに挑戦すべきです。羨ましいくらいだ」

 私は、キラキラと光る彼の目を見返して激励し、固く握手をかわして別れたが、いまごろは どうしているだろうか。

 ホープの町の 周さんといい、オタワで会った野村君といい、世間は、いや 世界は、広いようで狭いものだ。

003_2  海外の日本料理店で、ムリをしても、ときには日本を出発する前から予約を入れて 訪れるようにしているのが、レストラン 「燦鳥」 だ。名前で気付くように洋酒のサントリーが直営していて、経営に佐治敬三会長が ことのほか力を注いでおられると聞いた。鳳凰を象ったCIマークで知られ、パリ、シドニー、シンガポール、ホノルル、バンクーバー、そして、ロンドン、メルボルン、アトランタ、マドリッド などの各都市に店を持ち、それぞれの街で 高い名声と 確固とした信用を築いている 高級レストランである。

 私はこのうち、はじめのほうに挙げた 5つの都市の 「燦鳥」 で 食事をする機会があったのだが、どの店でも きちんとした服装の紳士淑女が、和風の伝統的な調度で内装されたフロアや 幾つかの個室のなかで、静かに日本の味を愉しんでいた。来客を接遇している従業員は、当然現地採用だろうが、教育がよく行き届いていて、常に笑みを絶やさず、その控えめな挙措は典雅ですらあった。

 このような形で、日本古来の床しい “食文化” を 広く世界の人びとに紹介することは、とても 意義のある事業だと思う。 

 バンクーバーの 「燦鳥」 は、バラード入江に突き出た カナダ・プレイスに建っている東急系のパン・パシフィック・ホテル4階 (ホテルとすれば実質2階) にある。

 もちろん 寿司や懐石料理、天麩羅を出す部屋もあるが、ここでは、私はいつも 鉄板焼きの “エンペラー・コース” をオーダーすることにしている。予約の時間に訪なうと、ウエイティングに通されて好みの食前酒が供される。ワインか梅酒タイプの 口当りのよい酒をゆっくり含んで、胃のなかが少し温まった頃、コの字型の鉄板脇卓の前に案内され、だんだん 運ばれてくる前菜を肴に 杯を重ねるのだが、このときは 佐治会長に敬意を表して、もっぱら サントリー・ビールに決めている。

 前菜は、例えば 厚さがゆうに2センチはある 子持ち昆布や 色美しいサーモン・マリーネ、魚の煮凝りなど。蛤の吸い物や、秋には焼き松茸、土瓶蒸しが出る。ほろっと酔いがまわることを見計らったように、霜降りのロースかフィレ、伊勢海老、鯛の切り身、マッシュルームと数種類の野菜を盛ったパレットが 鉄板の脇に置かれ、いよいよシェフの登場だ。

  「 いらっしゃいませ… 」

と 現われたシェフは、白い割烹着に 高い料理帽、首に巻いて打合わせた紅絹の布が なんとも小粋に見える。口数少なく “肉の焼加減” をたずねたあとは、パレットの材料を手際よく料っていく。しゃんと背筋を伸ばして、小型の庖丁と 金梃を捌く姿には 凛とした風格があり、他の海外和風レストランで見せるような、胡椒壷や肉きりナイフを 曲芸ばりに手玉に取り、ショーアップする阿りなんか、微塵も示さない。寡黙といっても 不愛想というのではなく、客の問いかけに対しては いちいち簡潔に答えて、話題も豊富である。鉄板上の調理が ひとわたり終わると、

  「 失礼しました。どうぞごゆっくり…… 」

と 会釈をして、静かに引き下がる。そのうしろ姿に 従業員のひとりが、ある種 畏敬の眼差しを注いでいるのが 印象的であった。

 あるとき、親しくなった支配人のNさんが、

  「北米大陸で初めての 貴腐ワインが手に入ったのですが、一杯いかがですか」

という。

 何年か、あるいは 何十年かに一度、その年の天候によって畑の葡萄の房に “貴腐れ菌” なる微生物がつき、それから 極上のワインができる という話は聞いたことがあったが、実物にはまだお目にかかったことがない。

  「それはもう 是非……」 と 所望した。

 小ぶりのグラスに満たされた 琥珀色の液体を、そっと口に含むと、少しねっとりした甘酸っぱい舌ざわりと、芳醇な香りが 口腔いっぱいに拡がって、この上ない味わいに 感嘆を久しゅうしたものである。

 今でも私は、バンクーバー 「燦鳥」での、あの至福の一夜を忘れることができない。

 どこの町に行っても、最もポピュラーな西洋料理は イタリア料理だろう。昼食をとるにしても、ピッツァやスパゲッティは安直で、日本でいえば うどんか、そばか、お好み焼きを食べる感覚でいけるから 構える必要はない。

Photo_163  いままで私は、イタリア料理経験が あまりなかったので、詳しくは分からないが、ツアーで出された “ミラノ風仔牛のカツレツ” とやらいうのを除けば、どの料理も大変美味しかった。身なりを整えなければ ならないような高級レストランよりも、自由行動のとき、気さくな雰囲気の トラットリアに入って、あれこれ 目の前の材料を指差しながら注文すると、なにせ 家族経営の店がほとんどだけに、土地のアットホームな名物料理にありつける。

 そのようにして 私は、有名な生ハムのメロン添えや、サラミ・ソーセージも入ったミックス、あさり入りのスパゲッティ・アッレ・ボンゴレ、真っ黒なイカ墨入りも、おっかなびっくり食べてみた。

 食通の友人の話によると、材料に とことん手を加えた上に 芸術的に盛り付けて、味だけではなく 目でも食べさせる フランス料理とは異なり、イタリア料理は、あまり凝った調理をせずに、家庭料理の延長で、魚でも肉でも 食材の持つ生の美味しさを引き出すような 味付けをするのだそうだ。普段 田舎暮らしをしていて、ほとんどイタリア料理などと 接する機会のなかった私は、このときの旅行で、イタリアの味にちょっぴり開眼した。

 苦くて ドロッとしたようなカプチーノも 本場なればこそだったし、エスプレッソといったか、駅構内のスタンドで、出勤途中の人たちが デミタス・カップに砂糖をどかっと入れて、ぐいっと呷っているのを 真似て飲んだ 濃厚な苦味も乙なものだった。

 撮り残した風景もあることだから、物騒だといわれる南部は避けて、もう一度 フィレンツェあたりから北の 古い町や農村を、リュックを背負って歩き、その ところどころの味を試してみたいと思っている。

 ニュージーランドの クィーンズタウンで食べた、地もとの人が “ベニソン” と呼んでいる 鹿肉の煮込み料理、北欧ヘルシンキでの トナカイ肉の塩漬け、同じく スカンディナヴィアで味わった ヴァイキング料理の一部、スイスの田舎レストランで出た チーズ・フォンデュなど、それぞれ 記憶に残る料理だが、なぜか スペイン旅行での食事は、鰻の稚魚のナマにぶっつかって 辟易した覚えばかりが強く印象に残り、名物のバエリヤの味が どうしても思い出せない。

 イギリスやアメリカでの食事が不味いことは 定説になっている。乏しい体験で断定的にはいえないが、矢張り そのとおりだと思う。宿泊したロンドンのホテルで、正餐として出された ロースト・ビーフのしわかったこと、酸っぱいだけのソースには参ったが、ロサンゼルスのレストランの、芯まで火が通ってしまった 草鞋のごとき肉の塊の横に、真っ黒に焦げた、大人の握り拳ほどもあるベイクド・ポテトが転がっている ニューヨーカン・ステーキなどを思い出すと、あんなものを料理と称しているアメリカ人が 可哀相になる。

 19世紀、大英帝国は七つの海を制覇して、ユニオン・ジャックを地球の隅々にまで翻し、植民地の至るところに 王室ゆかりの地名や、華麗なビクトリア王朝風の建築様式を遺すなど 数多くの影響を及ぼしながら、歴史的に 欧州大陸から孤立しがちだったイギリス人の 食にたいする感性の貧しさは、終に 征服した各地のどこにも、彼ら自身の食文化を植え付けることが なかった。

 パックス・オブ・ブリタニカ終焉のあと、20世紀に 強大なパワーを握って繁栄しているアメリカ合衆国は、世界中からありとあらゆる人種を 移民として受け容れ、その煮えたぎる坩堝の中から 純度の高い自由主義国家を創り、自動車や飛行機、コンピュータのような文明材を送り出し、社会に 広く深く 普及させたが、食べものの分野で 独創したのは、ハンバーガーとフライド・チキンだけだ。

 故司馬遼太郎さんの言葉を借りて、文明が、「誰でも参加できる普遍的なもの、合理的なもの、機能的なものである」 のに対し、文化は、「むしろ不合理なものであり、特定の集団 (例えば民族) においてのみ 通用する特殊なもので、他に及ぼしがたいものだ」 とするならば、それぞれの地域で、そこに住まう人々が、先祖代々の習俗やタブーを継承しつつ 創りあげてきた食生活こそ、畢竟、固有の民族文化の範疇に属し、もともと 普遍的な広がりを持ち得ぬ ものなのであろう。

 歴史の浅いアメリカが、いかに エネルギーに満ち充ちた社会を形成し、ハリウッド映画や、モータリゼィション、ジャズ、ジーンズを世界に広め、他の社会に新文明を享受させているとしても、食べものばかりは、文明はおろか 文化とすらいえる段階にも 達していないわけである。

 1994年の秋、カナダ ノヴァ・スコシア州のケープ・ブレトン島に渡り、最果てのインゴニッシュまで 辿り着きはしたものの、お目当てにしていた ホエール・ウォッチングも、珍鳥パフィンの群棲地撮影も 果たせなかったいきさつについては、既に述べた。

010_3  総延長300キロ、野趣に富んだキャボット・トレイルのなかほどの、大きな波がうねる大西洋にむかって、盲腸のごとく突き出た岬の先端に建つ 「ケルティック・ロッジ」 は、意外にも 瀟洒な造りの 立派なリゾート・ホテルであった。旅行のプランニング段階で、カナダ大使館か    ケルティック・ロッジ       ら取り寄せた アトランティックコースト・ホテルリストによると、インゴニッシュ付近では、ここしか 泊まれるところがなさそうだったのだ。エィジェントを通じて予約を入れると、シングル・2食つきで140カナダ・ドル、当時の為替レートは、1C$=72円だったから約1万円というところだ。ロッジ(山小屋) なら 食事つきでそんなものだろうと思っていたのだが、どうして どうして、私の予想とは大違い。かつて主要7ケ国首脳会議 “サミット” の会場となった オタワ郊外の 「シャトー・モンテベロ」 ほどではないにしても、目を見張るばかりの 堂々たる丸太小屋だったのである。

 日本を出発する直前になって、旅行代理店が、「現地からの連絡ですが、ケルティック・ロッジでのディナーには、ちょっとお洒落な服装を……」 と電話をかけてきたので、「たかがロッジで大袈裟な…。どうせ山小屋の親父が、客と一緒に 飯を食おうというのだろう」 と笑ったものだが、こうして玄関先に着いてみると、頗るつきのゴージャスなホテルだったから、〈 なァるほど…、ここなら 揃いのスーツを着る必要があるわイ 〉 と納得した。

 シーズン・オフで、宿泊客はそれほど多くはない。庭園や周囲の林のなかを散策したり、ロビーで 寛いでいるゲストたちは、いずれも白人の老夫婦ばかり、どうやらここは、カナダや アメリカ東海岸各地、あるいはヨーロッパの人たちにとっての、夏のリゾート地になっているようだ。それにしても、ここまでの交通手段はどうしているのだろうか。船に依るしかないと思うが、やはり ホテルに大型船が着岸できる桟橋があるらしい。岬全体を占めるという広大な敷地には、18ホールの 本格的ゴルフコースが造成されていると聞いた。

 車寄せで荷物を託してから、チェック・インしていると、フロントの奥にいた係員が私を見て 失礼にも なにやらヒソヒソと囁きあっていたが、そのうちのひとりが、つ、と寄ってき、「失礼ですが、日本からお越しになったのですか?」 と問いかけてきた。「そうだ」 と 答えると、「日本人のお客様は3年ぶりだ、と話していたのです。ウエルカム・サー」 といった。

 さて、そのディナーである。

 高い天井から、シャンデリアが幾つもさがる 豪華なダィニング・ルームの指定された席につき、いい気分で、〈 今夜は、ひとつ 贅沢してやろう 〉 と、ここでは ワインリストを睨んで カナディアン・ワインの銘柄を頼んだ。

 前菜は 蝸牛のバター炒めにはじまって、小海老のサラダ、あっさりと海藻を浮かべたコンソメ、などがつづき、こんがり焼きにガーリック・バターを刷いた 香ばしいパン、箸休め?的に アボカドの薄片に 濃紫の野いちごのシロップ煮をあしらった小皿が出て、メイン・ディッシュは、体長25センチはあろうかという 巨大なボイルド・ロブスターだった。なにしろ、岬の足もとを洗う 北大西洋からの獲れとれだから、新鮮なこと この上ない。日本で食べるオマール・ロブスターは、輸送中に痩せてしまって 殻ばかりだが、ここのは 鋏を使ってカリッと爪を割ると、なかから白い身が弾け出た。

   〈 こんなのを、東京のレストランで注文したら、一体どれほど とられるだろ
     うか 〉

と 考えながら、ワインと ピアノの生演奏で陶然となった目で、ちらりと見た勘定書のトータル欄が、なんと 1375 となっているではないか。瞬間的に暗算して…、

   〈 ………、ゲッ  10万円! 〉

酔いもふっ飛んだ。

   〈 食事はコミのはず。ならば、これはワインの値段か……? 〉

 酔眼を見開いて よくよく確かめると、飲み物の勘定書きは別にあった。ワイン、ワン・ボトル 15ドル50セントで、リーズナブルといえる。

   〈 それにしても、料理が高すぎるではないか 〉

さっと引いた血が、再び カァッと頭に逆流する思いだったが、然し、そこは私も然る者、慌てることなく 平然とウェイターを指しまねき、

  「コンマは、ここか?」

と、7 と 5の間に指先を置いた。すると 金髪の蝶ネクタイ君は、にこやかに、

  「いえ、ここでございます」

とボールペンで、3 と 7の中間に 「・」 を打ったものだ。

 13トル75セント、日本円に換算して ナント 990円――。 私は、

  「や、ありがとう、大変 美味しかったヨ」

と 勘定書きにサインし、1$札を5枚 テーブルに置いて、おもむろに席を立った。

 蛇足ながら、翌日チェック・アウトの際には、飲みもの代を除いて、朝・夕食料金とも、請求されることはなかった。

 北米大陸、東北端の辺境で体験した、嘘のような ホントウの話である。

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18. アー ユー ダイ・ハード?

 

ア ー  ユ ー  ダ イ ・ ハ ー ド  ?

                                           

 世のなか 一寸さきは闇、災難や事故は予期せぬときに起こる。

 年に何回かは、地球上のどこかでハイ・ジャックが発生したり、航空機の墜落事故が起きて、私のおふくろなど、そんなニュースを聞くたびに、

  「ヒコーキはこわいねエ、あんたも そのうちに落ちるでエ」 という。

 だが、空の事故は稀有のできごとだからこそニュースになるわけで、毎日毎日、それこそ 浜の真砂ほども起こっている自動車事故なんか、日常的でありすぎて、いまさらニュース・ネタにも ならないだけのことだ。海外旅行やドライブにかぎらず、現代社会で暮らしていれば、誰でも、いつかは どこかで 不測の災厄に遭う可能性があり、たぶん、その確率は、宝クジで百万円が当るよりもはるかに高いだろう。

 もし、私たちが野生の動物や鳥たちのように、ある種の危険予知能力を持っているなら、朝、起きたときに 〈 きょうは 何だかヤバいぞ… 〉 と感じ取って、未然に危難から身を避けようとするだろうが、進化の過程で 五感も 六感も萎えてしまった哀しさ、せいぜい保険に加入するか、外出するとき、戸締りや火のもとに気を配るくらいが関の山だ。その動物たちだって、よく道端に転がっている犬や猫の無惨な轢死体を目にすると、彼らにしても、一瞬に襲ってくる危機に対しては、殆ど不可避なのかと思う。

 思いがけない事故に出っくわしても、それが些細なものだったら、擦り傷をつくるか、あ痛っと たんこぶを撫でる程度で済むが、ときとしては 大怪我を負って、何ヶ月も入院を余儀なくされたり、重い後遺症に苦しみ、精神的にも大きな打撃を蒙ったりする。 事故の瞬間を境に、自らの人生と家族の生活を 根こそぎ覆されることだって少なくない。 悪くすれば、そのままあの世行きだ。

 だからといって 当節は、畳の上に寝ていても、往来から大型ダンプが壁を突き破って飛び込んでくる時代だから、いちいち 事故を心配していたって詮無いこと、誰しもが、〈 なアに、俺だけは大丈夫、そのときはそのときで 何とかなるサ 〉 と、強いて楽天を装っているだけなのである。

 実際、墜落した旅客機に乗り合わせていて、ある人は無傷で助かったのに、隣りに座っていた人は生命を失った、などというはなしを聞くと、それはもう それぞれが持って生まれた “運命” としかいいようがない。

 死の危険を冒しても、強い信念と 使命感を支えに、敢然と 前人未踏の地や 艱難の限界に挑む人々のことを、探検家とか 冒険家と呼ぶのだろうが、私なんかの旅は、そんな大それたものではなく、自分が勝手にアドベンチュアーと思っているだけの、たあいのない観光旅行にすぎない。
                                   Photo_151

 だが、トラベルはトラブル。ささやかなものであれ 独り 見知らぬ国へ出て行くとなれば、言葉も通じず、ガイドブックを片手の地理不案内だから、添乗員に引率されるパック・ツアーに比べれば、ある程度、危険と向き合うことが多くなるのは否めない。

 むろん、あらかじめ 目的地の治安状態や道路事情、交通ルールと標識の図柄、最低必要な会話集など、できるだけ予備知識を探り準備を整えて 出かけるようにしているけれども、その風俗、生活習慣や べからず調べにまでは手がまわらず、思ってもみなかった失敗をすることがある。

Photo_152  まだ現役だったころ、クアラルンプールで突発した 現地労働組合のストライキ騒ぎを、ひとまず鎮めて帰国する途中、バンコックの店に立ち寄ったときのことだ。

 夜遅く、空港まで出迎えてくれた日本人社員に、「タイ語で、『お早うございます』
とは、どう言えばいいんだ?」 と尋ねると、その社員は、「相手の目を見ながら合掌して、『サワディ カップ』 と、言うんです」 と、教えてくれた。

 翌朝、私は早めに店へ行き、従業員通用口に立って、出勤してくるタイ人従業員に向かって手を合わせ、片っぱしから
  「サワディ カップ  サワディ カップ……」
と、笑顔で出迎えた。

 店長が出てきて、「日本から来られた幹部で、こんなことをした人は初めてですヨ」 と、いっていたが、タイの人たちは好感を持ってくれたようで、開店後、売場を見てまわっていると、あちらこちらから私の傍へ寄ってきて、「陳列を見てくれ」 とか、「いい商品だろ」 とか 〈たぶん、そういっているのだろうと、察しただけだが〉、 さかんに話しかけて来たものだ。

 そのうちに、子供服売場で、愛らしい赤ん坊を抱いた女性客を見かけたので、私はなにげなく手を伸ばして、「可愛いですネ」 と、その子の頭を 撫でようとした。 と、
その瞬間、血相を変えた売場の女子従業員が、いきなり 私の手をバシッと 払いのけたではないか。 びっくりしたが、その様子に気付いて とんで来た主任によると、タイでは、子供の頭には 幸福を守る精霊が宿っているとする土俗信仰があって、決して子供の頭を撫でてはいけないのだそうだ。

  「触らなかったからよかったものの、あの子の父親でも横にいたら、大変なことになるところでした」

と聞かされて、ぞォーっとすると同時に、とっさに機転をきかせて、急場を救ってくれた若い女子従業員に、改めて篤くお礼をいった。

Photo_153  業務で、韓国ソウルの ロッテ・ワールドを視察に行ったとき、同行していた部下が 300ミリの長い望遠レンズをつけたカメラで、ソウル市内や漢河対岸の風景をパチパチ撮りまくっていた。もとより 彼にすれば、単なるもの珍しさからのスナップで、ことさらに青瓦台方面を狙ったのでも、街の重要施設を盗み撮ろうとしたわけでもない。

 しかし、ふと振りかえると、先ほどからずーッと 私たちのあとを付けているらしい黒服の2人連れに気づいた。はじめのうちは意識していなかったのだが、その風体といい、鋭く射てくる視線といい、明らかに監視されているとわかった。私は、部下に身を摺り寄せて肱でつつき、「カメラを隠せ」 と注意した。私のやや緊張した声音に、部下は、「えっ?」 と キョロ キョロしながら、慌てて上着の内側にカメラを隠そうとしたのがまずかったようだ。件の2人組が、わらわらっ と足を早めて接近してきた。彼我の距離は50メートルほど。私の頭の中で、かの大物政治家の拉致事件や、KCIAがらみの噂がフラッシュした。 〈無謀かナ〉 と思ったが、とっさに部下の腕をとって目の前にあった有名ホテルのロビーに駆け込み、折から混雑していたチェック・イン・カウンターの人込みに紛れて再び玄関まで逃れ、タクシーに飛び乗って危うくその場を脱した。

 果たして、彼らがその筋の人物だったかどうかは、知るよしもないが、民主化宣言をしていたとはいえ、当時は盧泰愚大統領の時代、軍事政権の国は不気味と思った。 

 もうひとつ、変な武勇伝を披露しよう。          Photo_154

 1992年のオリンピックで賑わった、バルセロナの陸上競技場近くでの出来ごとだ。

 中山竹識選手が健闘した マラソン・コースの走路標識のあとが、まだうっすら残っているゲートの前を通って、私は競技場の背後に広がる モンジュイックの丘をひとり散策していた。

 バルセロナは、南欧・地中海沿岸に位置する温暖な街だが、1月半ばの どんより曇った冬空から吹きおろす風は、さすがに冷たい。競技場から丘の上へと続く 斜面の芝生は、すっかり枯れ色になってしまって、疎らな松木立だけが黒ずんだ緑を止めている。眼下に大きな円蓋と 四基の塔を備えたカタルーニャ美術館が 陰鬱にうずくまっていた。あたりに人影はない。ただ、かなり離れた競技場の裏手に1台の白いバンが停まってい、傍らに3人ばかりの男がなにやら駄弁っているふうだった。

093  私は、丘の中腹に三脚を据えて、美術館の大屋根ごしに、寒々とくすんで見えるバルセロナ市街の俯瞰をカメラに収めていた。

 カサッ と気配がしたのでうしろを向くと、先ほどは遠くにいた男3人が近寄ってきて、ぐるっと私を囲む形になった。まだ、髭も生え揃わないような若造どもだ。薄ら笑いを浮かべながら喋りかけてき、三脚を指さしたり、断りもせずファインダーを覗き込んだりする。そのうちに図に乗ったか、背の高い1人が、私が肩にかけていたサブ・カメラを引っ張ろうとするものだから、もう我慢ならない。私は男の手を払いのけて、思いっきり大きな声で怒鳴りつけた。そのときの 年甲斐もない大阪弁のタンカは、とてもここでは気恥ずかしくて再現できない。 私の剣幕とバカでかい声にたじろぎ、ビクッとすくんだ彼らは、慌てて ばらばらっと逃げ散ったが、もうすこし骨のある奴らだったら多勢に無勢、逆にこっちの方が こてんぱんにやられていたかも知れない。

 血液型ABの私は、どちらかといえば 物事に対して冷静・慎重派、概して計算高いところがあるせいか、幸いこれまで 2度を除き、とりたてて事故らしいものに 出遭わずにすんできた。体験した事故の一つは、かなりの大事故で、他人さまに迷惑をかけ私自身の人生を変える結果ともなったが、これから述べるほうは、あわやっ という局面はあったものの、ごくありふれた 自動車の “単独転覆事故” にすぎないといえる。ただそれは、私が生涯で唯一 惹き起した運転事故で、しかも海外での出来事だった。

 カナダ東部の キングストン・ロードと呼ばれている 高速道路を走っているときのこと、レンタカーのハンドル操作を誤って、道路の外へすっ飛びだし でんぐり返ってしまった 失敗事例である。

 私にとって三度目のカナダ旅行の時だった。

 前2回の際の行程は、もっぱら太平洋岸から ロッキー山脈の景勝地をまわるものだったので、こんどはひとつ セントローレンス川の流域にまで 足を伸ばしてやろうと考え、オンタリオ州のトロントを起点とするプランを樹てたものだ。

だが、出発直前になって 思わぬハプニングが起こった。

 旅の準備は万端整い、愈々出発の前日になって、突然 正午のNHKニュースが、

   「ソ連でクーデター発生、ゴルバチョフ大統領軟禁…」

と、報じはじめたのである。 (このときのことは、第14章で 既に述べた。)

  〈 ウーン、これは厄介なことになるかも知れない 〉 と感じた私は、渡航を見合すべきかどうか、暫時思案したが、スーツケースは成田空港に向けて先送済みだ。テレビは、ロシア共和国大統領に就任したばかりのボリス・エリツィンが、戦車の上に仁王立ちになって、出動してきた軍隊と対峙するモスクワ市民をアジっている姿や、情勢に懸念を表明する 欧米各国首脳の映像を写しだしていた。

 緊迫度は 刻々と高まるかに見えたが、私は、とりあえず翌朝 東京まで出て、
   〈 どうやら、第3次世界大戦にまでは至るまい 〉
と見定めたうえで、なお、念のために秋葉原で短波ラジオを買い求め、
   〈 ええイ、 ままヨッ 〉  と、成田を飛びたった。

095_2  トロントに着いてみると、市内は平静を保ってい、ゴルバチョフは 依然として拘禁中だったが、事態が鎮静化しつつあるらしいことは、アナウンサーの語調からも読みとれた。やれやれとひと安心、何とか予定通り旅を続けることが出来そうだ。

 私は、予約を入れておいたハーツ社に赴き、レンタカーを借り出した。ひょっとしたら、と案じてはいたのだが、やはりカナダのレンタカーは、全て オートマティック・トランスミッションであった。普段はマニュアル車を乗りまわしているので、自動変速は初めて、〈 困ったナ 〉 と思ったが顔には出せない。ハンドルに遊びが足りないのも ちょっと気になった。係員がひととおり注意事項を説明してくれたが 半分も意味は分からず、イエス、イエスと聞いているだけだ。車はシボレーの中型だったと覚えている。

 日本の場合と違うのは、レンタカーだけのことかもPhoto_155 知れないが、シート・ベルトを締めないとエンジンがかからず、エンジンを起動すると 自動的に前照灯が点ることだ。そういえば、この国では、どの車も昼間っからライトを点けて走っている。ハイウエーを高速運転することがあり、また 山間部などでは、急に霧がかかったりするからかと思っていた。ともかく私は、モントリオール乗り捨ての1週間契約を済ませて、そろり町へ出た。

 最初の目的地は、トロントからオンタリオ湖西岸を迂回して百キロ南の ナイアガラ瀑布である。

 ハーツを出てすぐ、高く聳えるCNタワーの横から インナー・ハーバー沿いのガーディナー・エキスプレスウエーにのり、西へ向かった。左ハンドル、右側通行なのだが、中央分離帯に遮られているために対向車は目に入らず、あまり違和感はない。右側の緩速車線をスピードを抑えながら走った。オートマティックにはすぐ慣れた。なんのことはない、昔よく乗りまわしたスクーターの要領だ。 ただ、いつも踏みつけているクラッチがないので、左脚が反射的に動かぬよう、しばらくの間、左手で膝頭を押さえつけていた。

 ガーディナーExpwyは、やがて クィーン・エリザベス・ウエーという名前に変わり、工場の煙突が林立するハミルトン市に入る。大きな橋を渡ってから55号線に降りて、ナイアガラ・オン・ザ・レイクの町に立ち寄った。“絵のような” という形容がぴったりの、まるで 19世紀の忘れ物のような町を抜けて、蛇行するナイアガラ河のほとりを遡行したのは、パークウエーというこの美しい道路のどこかに、日本の若者カップルが憧れてやまぬ 世界一小さな教会、ウエイサイド・チャペルがあると聞いていたからだ。

 だが、結局、見つからなかった。それほど小さかったのだろう。

2_1  そのかわり、急流にかかるスパニッシュ・エアロカーという 古風なゴンドラの乗り場近くに、観光ヘリ・ポートを見つけたので車を駐め、ヘリコプターに乗ることにした。咄嗟にこんなことが出来るのが、気まま旅の面白さだといえる。ヘリの乗客定員は3人、私は操縦士の横に座ってベルトを締め、2台のカメラを高速にセットして身構えた。

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 ふわっ、と離陸すると、ヘリはいきなりぐんぐん上昇し、緑の大地が斜めに迫ってくるような横滑りで、睨みあげた視界の右隅に立ちのぼる 二筋の水煙を目指して急接近していった。

6  右の方が、馬蹄形の滝壷を持つカナダ滝。

 もういっぽうが、落差においてカナダ滝を凌ぐアメリカ滝だ。

 ぐーんと高度を下げると、ヘリの爆音を超える轟音が、イヤホーンを圧して劈く。

7  カナダ滝の真上に達した。

 エリー湖からの急流が 白く瀬をつくり、一気に滝壷へ雪崩れ落ちるド迫力は、空撮ならでは味わえぬものである。 急旋回し、急降下を繰り返すヘリの座席で、私は、横倒しになったままシャッターを切りつづけ、今しも 渦巻く滝壷に向かって健気に肉迫していく豆粒のような遊覧船を狙った。

Photo_156  それにしても、なんという凄まじい音なのだろうか。大自然の途方もなく巨大なエネルギーが、轟々と途絶えることなく落下する光景に、ただただ圧倒された。遠くロッキー山脈に端を発し、流れ流れて、途中に 中部大平原に遺る いくつもの氷河湖を結びつつ、海のような五大湖を充たしてここにいたった水量は 無尽蔵だ。    1_2

 約1万年前まで続いた氷河期の末には、10キロほど下流にあった滝壷が、水勢に侵食されて 次第に現在位置に至り、あと2万5千年もすればエリー湖に達するという。遥か数千年の昔に ユーラシア大陸からやってきて、初めてこの地に辿りついたモンゴロイドの先住民たちは、天地も裂けんばかりの光景に驚倒し、きっと、神を見たに違いない。

 もし、まわりの観瀑施設や、ケバケバしい色彩の歓楽街、バカ高いタワー、ホテル群がなく、この滝が千古無垢のままの自然に囲まれて存在していたなら、どんなに感動的だろうかと、空撮のあと 私は、瀑音に鳴動するテーブル・ロックに 目を瞑り 立ち尽くした。

 話は逸れたが、惹き起こした自動車事故に戻そう。

 夏時間なのでカナダの夜明けは遅く、午前6時ごろになって 漸く空が白み始める。

 朝食のとき、ホテル・レストランのウエイトレスが、「きょうは どこに行くのですか」 と聞くので、「キングストンまで行くつもり…」 と答えると、

  「だったら、ガナノクエからセントローレンス川の “サウザンド・アイランズ・クルーズ”をエンジョィするといいですヨ。 キングストンのすこし東です」

と、親切に地図まで描いて教えてくれた。

 その薦めに急かされて、私は予定より早めに ナイアガラを発つことにした。

 復路は寄り道をすることもなく、クィーン・エリザベス・ウエーを北上、トロント市街を通過して 運命のキングストン・ロードに入り東進した。国道1号線 いわゆる トランス・カナダ・ハイウエーは、トロントのずっと北郊を通っているので、このキングストン・ロードが トロント~モントリオール間、つまり セントローレンス川に沿ったカナダの心臓部2大都市を結ぶ幹線で、交通量の多さでは この国随一といわれている。とはいっても、日本の高速道路のように 輻輳・渋滞するようなことはなく、片側3車線のだだっ広い直線道路を、どの車も びゅんびゅん 飛ばしていた。

 だいぶ 運転に慣れたとはいえ、借り出して2日目、私はまだまだ慎重で、引き続き最右端の車線をキープして走った。そうしている限り、後方から接近してくる車は、みんなサーッと追い越していってくれる。 メトロ・トロント動物園があるスカラボウの台地を左に見、右手のオンタリオ湖面の煌めきを透して 無数の島影を見た。

Photo_157  トロント市街を抜けて1時間あまりも経ったろうか。スピード控えめを心掛けていても、次々と追い越していく車に誘われて、速度計の針が ついつい120粁あたりを指し、その都度アクセルを緩めた。行く手には、小高い丘が波打って連なり、小麦やトウモロコシ畑の縞目が矢のように飛び過ぎていく。広大な農地のところどころに 背の高い木立が散在し、白壁に赤や緑の屋根が映える住家や、銀色に鋭く光るサイロが建っていて、まさにカナダの大地の 真っ只中に在ることを実感しながらの快適なドライブであった。路側に 「ベレ・ビル」 と 「キングストンまで 92キロ」 と書かれた標識が2つ、 並んで立っていた。ビルはビレッジ、つまり 「ベレ村」 という所だ。

Photo_158  窓外を流れ去る 美しい農村風景に魅せられて、つい一枚、写真を撮りたくなり、若干 車の速度を落としつつ右手でカメラを取りあげた。

 それがいけなかったのか、急に ハンドルがグラグラッとブレはじめた。あそびがきつかったのが一因だったかも知れない。ちらっとバックミラーを覗くと、後続する数台の車が目に入った。

   〈 いかん、急制動をかけたら スピンして追突される! 〉

 咄嗟の判断で、私はフート・ブレーキを3回に踏み分け、路側に難を避けようとした。スピードは、ともかく 6~70キロぐらいまで落ちていたと思う。

Photo_159  と、ガガ、ガガーッと衝撃を受けて、両手で押さえていたハンドルが、いきなり右にとられた。

 なんと、緩速車線の外側には一面に砂利が敷いてあり、それに右のフロント・タイヤが乗っかったものだから堪らない。私の車は、そのまま道路の法面を飛び越えて、2メートルばかり下の畑に向かってつンのめりに突っ込んでいった。

 一瞬浮き上がったかと思うと、ガシャッと前部フェンダーが接地し、車体はスローモーション映画を見るようにゆっくり1回転、天地が逆さまになって、それから、ごろんと右を下に横転した。

 文章にして読むと、4~50秒もかかるが、実際には、あっという間の出来事だった。

 このときほど、シート・ベルト着用の大切さを思い知ったことはない。私の体はガクンとベルトに緊縛され、〈 うわッ、とうとうやった…… 〉 と思ううちに、横倒しになった車のなかで宙吊りになっていた。飛び込んだ畑は、耕した直後だったらしく、軟らかくなった土壌が 衝撃を吸収してくれたようだ。フロント・ガラスに頭を突っ込むこともなく、悪運強いというか、かすり傷ひとつ負っていなかった。

 右脚を踏ん張って爪先立ちになり、やっとのことベルトの金具を外して ドアを押し上げ、車の外へ逃れ出た。

 車の外観は、大破とまではいかないが、前部も天井まわりも かなりダメージを受けて変形していた。と、見ると ガソリンがジョビジョビと流れ出ている。引火したら大変と、横になった車体を起こしにかかったけれど、私ひとりではどうしようもない。

 そこへ、事故を目撃していた男性が2人駆けつけてくれ、何とか四輪を地面に戻すことが出来た。2人はたまたま、私が転覆した場所から ちょっと離れた道路上でエンコしていた 別の車を牽引するために作業していたレッカー車の 運転手と助手だったようだ。

  「ケガはないか。警察にはオレの自動車電話で知らせておいたからナ」

  「いやア、ありがとう。体のほうはこのとおり 大丈夫です。本当に助かりまし
 た」                              Photo_160

 私は厚くお礼をいい、それぞれの名前と住所・電話番号をメモに書いてもらってから、カメラを取り出して、壊れたレンタカーの前後左右、スリップの跡などを写した。あとで保険処理をするための 証拠写真を残そうとしたのである。その私を見て レッカー車の運転手 ミッチャムさんは、

  「ヘイ  アー  ユー  ダイ・ハアード?」

といって、目を丸くしていた。

 待つことしばし、けたたましくサイレンを鳴らして パト・カーがやってきた。サングラスをかけた、雲をつくような 大男の警官が降りてきて、「誰が運転していたんだ」 と訊ねているらしい。ミッチャムさんが私を指さしながら、手短かに状況を説明してくれた。警官はむずかしい顔つきで聞いている。私が持参の国際免許証とパスポートを差し出すと、

  「ふむ、日本人か」 と呟き、名前を読みづらそうにしている。私は 「ヤクオ・ズカマです」 と名乗り、ついでに、「ところで、あなたの名前はナンてぇの?」 と、聞いてやった。

  「オレか、俺は、フランクリン・ケネディと いうんだ」

 私は思わず、[オウ グレイト!] と 叫んだ。

 この 「オー グレイト」 が利いた。アメリカの偉大な大統領二人の名前を併せ持つ この警官は、ニヤッと笑って、とたんに親切になり、私の事故説明を ウンウンと頷きながら丁寧に聞き取って、記録してくれたものだ。

 こんな時、「私が悪かった」 という言葉は禁物である。

  「道路の緩速車線を 100キロ未満で走行中、急にハンドルがブレだしたんです。原因は分かりませんが、もともと ハンドルのあそびがタイトだったように思います。
こんな見通しのよい直線道路で操作を誤ったりするものですか。私はライセンスを取得してから32年、これまで 無事故・無違反です。  日本の道路は、大変にビジィなんですヨ」

 私は懸命だ。汗を拭きふき、しかし微笑みは絶やさぬように、手真似まじりのカタコトでゆっくりと陳述した。ケネディ氏はほとんど反論せず、「ジャパニーズ ロード イズ ベリー・ビジィ」という私の殺し文句にも、「シュアー」 と納得してくれて、だいたい私の言い分どおりの事故証明書を作ってくれた。

  「お巡りさん、その自動車電話を使わせてくれませんか。“ハーツ”へ連絡したいのです」

  「ノォ、電話は貸せないが、無線で本署から連絡してあげよう。しばらく、待っていなさい」

 ミスター・ケネディは、ますます親切だ。てきぱきと無線通話したのち、小さな紙切れを私に示して、

  「あとから、ここへ電話をかけなさい。トロントのハーツ本社だ。この名前の人を呼ぶといい。車はハーツが引き上げにくるから、キーは私が預かろう」

 いっちゃなんだが、日本のお役人も すべからくこの調子で、ものごとを捌いてくれればいいのに、と思った。

 ケネディ氏は、おまけに、

  「キングストンまでは送れないが、ベレ・ビルにもファイアサイド・ホテルがある。そこからトロントへ電話をかけたらどうだ」

と、私を パト・カーの助手席に乗っけてくれた。車内ではうちとけて話が弾み、私が、[あなたはタバコをすうか?] と聞くと、「イヤ、俺はやらないが、ワイフはスモーカーだ」 というものだから、ショルダー・バッグから ハイライトを1カートン取り出して進呈したが、これ、ひょっとして贈賄になるだろうか。

 ベレ・ビルのホテルから ハーツに電話をかけたが、ものすごく早口の応答が返ってきて、私の貧弱な英語力では テンで歯がたたない。私が、「代わりの車を借りたい」 というのに対し、「それは、出来ない」 と、いっているらしいことだけは わかった。

 さァて困った。旅程は、まだ始まったばかりというのに、早くも足を失ってしまっては、どうにもならぬ。何とか打開策を講じなければ……。

 思いついて、私は所持するクレジット・カードの緊急番号をダイアルしてみた。

 「モシモシ」 という、優しい日本語の応答を耳にしたときは、まさに “地獄でホトケに出会った” 心地とは、このことだった。

 電話に出てくれた この “観音さま” を介して “ハーツ” と交渉した結果、先方はこのトラブルを 単なる自損行為であって 交通事故とはみなしていないこと、従って、自動車保険の対象とはならないこと。土曜、日曜は休業なので代替車の手配が出来ないこと、乗り捨て予定のモントリオールで話し合ってくれ、と言っていること、などが判明した。

 「冗談じゃない」 と、いいたいところだが、私自身が交渉しているわけではないので反論のしようがない。で、ひとまずカード会社に、モントリオールで “通訳” を手配してくれるよう依頼してから、キングストンまで地元のタクシーを走らせた。もちろん、ガナノクエ行きはお流れである。

 モントリオールでの交渉は、ハードだった。通訳に当ってくれたのは、和歌山県出身だというノブコさん、言葉も達者なら、頭の回転もすこぶる早い才媛で、よく私の意を汲みとり、先方に対して厳しく代弁・主張してくれたのだが、ハーツ側もさるもの。
約1時間をかけたやりとりのあげく、

① 破損車は、目下トロントへ回送中につき、到着点検後、保険処理の可否
を判断する。
② モントリオールでは、車を受け取っていないので、契約終了の手続きは出 来ない。
③ 警察の事故証明により、車を実質 1日半しか運転できなかった事実を認
める。
④   必要があれば、帰国後、本件の解決について 日本ハーツと協議する。

という4項目を 「覚書」 にして交換しただけに終った。先方に押し切られた感は否めないが、まア ものは考えよう、命に別条がなかっただけでもよしとし、もって瞑すべきか。

 後日譚になるが、心配だったのは、車を借り出す際に、カード処理上 “金額を未記入のまま署名した” 伝票を、すでに トロント・ハーツに差し入れてしまっていることである。契約が終了していないのだから、あれ以来ずーっと タクシーに乗り続けているように、日数が重なっていくだけチャージが嵩み、そのうえに修理代や、悪くすれば新車相当額を まるまる上乗せして請求され、銀行口座から引き落とされることはないか、懸念が募る。 あり得ぬことではない。 なにせ、白紙の伝票を握られている限り、生殺与奪の権はハーツ側にあるわけだ。

 最悪の場合、裁判沙汰を覚悟した私は、帰国するとすぐ、銀行に話をして 「カード支払い用」 に設けていた口座から 預金を全額引きおろして、防御態勢を整えた。

 2ヶ月ほどたって、カナダ・ハーツから1通の航空便が届いた。辞書を引きひき四苦八苦で翻訳してみると、案の定、ハーツの顧問弁護士からの照会状で、

  「事故の詳細を文書にし、目撃者があれば その証言を併記、署名を添えて提出あるべし。回答がないときは、貴殿に重大な責任が生ずるおそれがあることに留意されたい。 云々」

とあった。〈 いよいよ、お出でなすったナ… 〉 と思ったが、いまさら 海の向うのミッチャムさんや、ケネディ氏に、援けを求めるわけにもいかない。とつこうつ思案の挙句、私は敢えてこの手紙を無視することにした。

 ところが、そのあとを追うようにして 数日後、クレジット・カード会社から ハーツ・レンタル料 4万円弱の請求書が送られてき、私は、ホッと 安堵の胸をなでおろした。ハーツが、あの伝票の空白金額欄に 契約1週間分のレンタル料金のみを書き入れたのだから、まずは一安心だ。損害賠償を申し入れてくるとしても、それはまた 別の問題になる。

 結局 その後、弁護士からは何の音沙汰もなく、5年が経過した。

 年甲斐もなく、カナダで惹き起こした 恥かしい自動車事故の顛末は、以上のとおりである。書き遅れたが、帰国してから早速、ミッチャムさんにお礼状を出しておいたことは、申すまでもない。

 事故を起こした日の夜、私は、キングストンの宿で旅日記を認めていて、あのとき、ミッチャムさんがいった、「ダイ・ハード」 とは、〈 どういう意味だったのだろう? 〉 と、考えた。ブルース・ウィリス主演の映画 「ダイ・ハード」 は観ていたから、ミッチャムさんが目を丸くしたときは、単純に、「おい、お前さんは不死身か?」 と 私を冷やかしたのかと思っていたが、念のために辞書を引いてみると すこし違った。英語で “不死身の男” とは、Invulnerabie Man というらしい。 Die‐hard は、“最期まで頑張りとおす人” “なかなか死なない男” とあったのだ。

 事故の直後、転覆、横倒しになった車の中からゴソゴソと這いだして来て、ポパイみたいに 1人でその車を起こそうとしたり、パチパチ現場写真を撮っている姿を見て、ミッチャムさんは、〈 この日本人、年寄りのくせに、まア よくやるワイ 〉と、呆れたのかも知れない。

 私は、自分がダイ・ハードだ などとは、ゆめ思わないが、これからも 万一の事態に直面したとき、徒に周章狼狽して、卑怯未練な 醜態を曝すことのないよう、心していなければならないと、常に自戒している。

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13. スイスのまほろば 四森州湖の畔で

                                                               

ス イ ス の ま ほ ろ ば   四 森 州 湖 の 畔 で

                                                   

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 いささか堅い話になるが、スイスという国の成り立ちと 国民性について、すこし考えてみたいと思う。

 湾岸戦争の終熄後しばらくして、私は、15日間にわたる ヨーロッパ周遊のツアーに加わり、その途中、わずか2日間だけだったが、スイスにも立ち寄った。
            Photo_89             Photo_90
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私にとっては 初めてのヨーロッパ旅行で、かねがね 訪ねてみたいと思っていたどころだけに、旅程のいたるところ、早春の山野の美しい風光と、それぞれ歴史の重みを秘めた 街や村々の佇まいに、すなおに感動したものだが、ロンドンやアムステルダム、ミュンヘンなど、公園の緑は別にして、Photo_93 どちらかといえば 人Photo_91 だかりの多い 石造りの、若干、治安に危惧 ありと聞く大都会の喧騒のなかを 駆け足で経巡ってきて、緊張がつづいた長い旅が、春先の 爽やかな空気に包まれたスイスに入ると、私だけでなく同行のツアー・メイトたちも、みな一様に ホッと安堵の吐息をもらし、新緑が萠え、さまざまな美しい花々が咲き乱れる牧歌的な景観や、白銀の高峰が連なるアルプス山脈の威容に嘆声をあげた。

 風光麗しいスイスは、もともと 屈指の観光国である。登山目的であれ、保養のためであれ、この国を訪なう人々を受け入れるために、早くから 嶮しい山岳地帯の隅々にまで、各種の交通網や 宿泊施設などを整備し、サービス態勢も温かく行き届いているから、いちどスイスを旅すれば、人びとの心のなかに 長くその思いでが残る。
            Photo_95             Photo_96
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                               とりわけ、私たち日本人は、むかしからスイスという国に 特別の親近感、あるいは“思い入れ” のようなものを抱いてきたのではなかろうか。

 先の 太平洋戦争に敗れたあと、占領軍総司令官だった ダグラス・マッカーサー元帥が、 
  
   「日本よ、東洋のスイスたれ」

といった言葉が、とかく当時 疲弊のどん底に呻吟していた私たちに、何がしかの勇気と希望を与えてくれたのは 確かだった。永世中立を唱え、直接民主政を敷いている国、時計に代表される精密工業が発達した国、万年雪をいただく峻嶮なアルプス山脈が天に摩し、その麓の牧場に カリヨンの音を響かせる牛や、まるまると太った 羊の群れが、のどかに草を食む平和郷。そんな 甘ったるいイメージで、遥かなスイスに憧れていたようだ。

 だが、多くの新鮮な刺激を受けた ヨーロッパの旅を終え、撮り溜めた写真を並べてアルバムに纏めているとき、スイスの部分に来て、ふと 奇異な感を覚えた。

   〈 世界的に、これほど知名度が高い国なのに、日頃のニュースにスイスの動静や 政治家の名前が取沙汰されることが、ほとんどないのは 何故だろうか? 〉

という疑念だ。

 政治家だけではない。文学、音楽、絵画、彫刻など、ありとあらゆる分野において、古今、この国に著名な人物は、まったくといっていいほど出現していないのだ。あのウイリアム・テルは、単なる伝説上の英雄に過ぎないし、ジュネーヴのレマン湖畔に銅像として残る啓蒙思想家、ジャン・ジャック・ルソーは、生まれも活躍の場もフランスだった。強いていえば、そのころ、ガット・ウルガイ・ラウンド交渉の舞台で各国間の調整に奔走していたドンケル事務局長が、スイスの政治家としてただひとり、国際的な脚光を浴びていた程度である。

018  こんな国も珍しいと思った。スイスと同様、国際的には小国の範疇に入るスカンディナヴィアの諸国で、前述したように、中・近世このかた、科学、芸術、探検、国際政治などの幅広い領域で、世界的に名声を馳せた第1級の人材が、綺羅 星のごとく輩出しているのに比べて、この国の場合、見劣りすること甚だしいといわざるを得ない。

   〈 何故、そうなのか ………? 〉

 長年、心の隅にわだかまっていた 疑問を払拭しようと、95年冬、再びこの国を旅したのを機に、多少 時間をかけて勉強してみる気になった。

 俄か学問で、忸怩たるものがあるが、以下は その要約である。

Photo_97  スイスという国の成り立ちと、スイス人の気質を考えるうえで、その根底をなすものとして、この国が置かれている、他にあまり類をみないほどの 嶮阻な地形と、外辺を列強に囲まれてきた 立地条件を看過ごすわけにはいかない。

 紀元前、アルプス山脈の北側には ケルト人という勇猛な民族が独特の文化を築いていた。その最盛期には 鉄製の武器を駆使して、しばしば 地中海世界のギリシャ・ローマをも侵していたという。 しかし、やがて強大になったローマ帝国によって 北方に押し戻され、さらに 4世紀後半に始まった ゲルマン民族の移動に圧倒されて西方に追いやられ、姿を消してしまった。

 ゲルマンの西進もまた、津波のように背後から迫るフン族からの逃避行動であった。東北方の黒い森から、先を競うように移ってきた 原始ゲルマン民族のうち、アレマンという部族と ブルゴンドと呼ばれた部族が、アルプス山地に入り込んできて 腰を据えたもののごとくである。 嶮しい アルプスの峡谷に閉じこもった彼らは、厳しい自然環境のなかに逼塞して 自給自足的村落を形成し、その後の数世紀を過ごす。

 早くに キリスト教化していたブルゴンド族は、スイス西方に進み、ラテン語から発達した ガリアの言葉に同化したが、東部まで来て進行を止めたアレマン族は ゲルマンの言葉に執着し、それぞれが定住してところで、フランス語と ドイツ語の境界ができ、今日に至っている。

 民族移動の大波が収まって、ヨーロッパの各地に 幾つかの王国が興りはじめると、アルプス越えの重要性が認識されるようになった。互いに 角逐を繰り展げつつ 諸王国は 次第に勢力を強めるが、中世キリスト教世界では、王の即位にはローマ教皇の戴冠が必要とされ、とりわけ、神聖ローマ帝国皇帝にとっては アルプスの通行路の確保は、何にも増して 最優先の課題だったのだ。

020  ローマ教会のほうも、北方の未開地域を教化すべく、広い範囲に司祭を派遣して 布教に努めていたので、峠道を 修道僧や巡礼が絶えず往来した。10世紀ごろ、このあたりまで侵入していた イスラムの勢力が後退してからは、勃興する中欧の諸都市と地中海沿岸を結ぶ 交易路としての役割が増す。

 峨々たるアルプスそのものは、石ころだらけの不毛の地に過ぎない。ここに住む人々にとっては、引きつづき苛酷な境遇に喘ぐばかりだったが、峠が南北交通の要衝として注目されるにつれて、その戦略的意義と、通行税の徴収など 経済的価値が高まって来、周辺諸侯による経略の対象となった。

 西暦1200年ごろには、中央アルプスの サン・ゴッタルト峠が開削され、南欧、地中海商圏と、北欧の北海・バルト海商圏とが 最短距離で繋がったことで、この峠を扼する位置にあったウーリの関所は おおいに潤った。ウーリ地方が、のちにスイス発祥の地として歴史に登場する素地は、かくして 13世紀の初頭に兆していたのである。

 峠を制することの重要性は、権力者ばかりではなく、やがて この地域に暮らす人々にも認識されるところとなる。

 山国スイスの生活環境は 依然として厳しいもので、互いに協力しながら 荒地を耕し、管理し、わずかな収穫を分かち合う 山岳共同体を作っていた。そして、その過程で培われた 自治・自律の精神は、「自分たちのことは、自分たちで 力を合わせてやるかわりに、他からの 如何なる支配・容喙も 決して受けない」とする 原則に立つものである。彼らの村落からは、権力をほしいままにする王国のごときものは、遂に形成されなかった。しかしながら、たえまなく迫ってくる 近隣からの強大なパワーに対抗して 自立自存の姿勢を貫くには、一村一集落の結束だけでは足りず、ときとして、共同体相互の連携、さらには同盟が必要であった。

Photo_98  13世紀ごろ、サン・ゴッタルト峠のあたりに勢力を張っていたのは、神聖ローマ帝国の一員だったハプスブルク家で、代官を置いてウーリを支配し 専横をきわめていた。“息子の頭にのせた林檎を射落とした” という、かのウイリアム・テルの伝説が生まれたのは、この時代のことであるが、テルの活躍に象徴されるように、暴虐なハプスブルク家に反抗した スイス中央山岳地帯の3州 (ウーリ、シュヴィーツ、ニートヴァルデン) の代表は、1291年8月1日、四森州湖の畔、リュットリの野に集まって、独立と相互援助の盟約を交わした。

 現在も、8月1日は スイスの建国記念日とされ、リュットリの野において 毎年盛大な式典が行なわれるそうだが、原初3州による盟約の地は、美し国スイスの “まほろば” といえる。

 独立宣言は、当然のことながら 支配者側の反撥を受け、再三にわたって 圧迫や武力奪回が仕掛けられたが、同盟者団は、その都度 よく戦い、よく凌ぎ、相次ぎ盟約に賛同する周辺の都市部や山岳協同体を糾合していった。 その後、16世紀から 17世紀にかけて、ヨーロッパに 宗教改革の激しい嵐が吹きすさび、スイス各州も大なり小なり、新旧の教義を回る争いに 関わることになる。

019_4  スイスにおける改革運動は、ドイツ語圏ではツウィングリ、フランス語圏ではカルヴァンによって進められた。現在この国には プロテスタントとカソリックが 相半ばしているけれども、「神以外の権威を認めず、克己禁欲し、新約聖書を拠りどころに ひたすら信仰と勤労に励む」 プロティスタンティズムが、スイス人の精神構造に共振し、多大の影響を及ぼしたことは疑いない。宗教改革は、ヨーロッパ全域に 百年以上も続く激動を齎したが、村落共同体時代から培った 「則を越えない」 スイス人の良識が、新旧両派の 自制のきいた対応に生かされ、他国の争いに捲き込まれるの愚を 避けた。

 この点、早くから新教を受け容れていて、中欧諸国に燃えさかった 宗教戦争に加わることのなかった 北欧の国々の、冷静な姿勢に通じるものがある。

 麻のごとく乱れ、長い戦争が続いた中世ヨーロッパでは、王侯による傭兵が横行していたが、スイスの各州は その有力な供給源であった。

Photo_99  スイスは国土が貧しく、それゆえ 常に人口過剰に苦しんできたものだ。海を持たないこの国は、必要とする穀物をはじめ諸資源を、陸路による輸入に頼るしか 調達の手段がなく、交易路の安全保障のためにも、隣国の傭兵徴募に応じて 償金を得、
あるいは、傭兵達からの送金でもって 物資購入の財源に当てざるを得なかったのである。スイス傭兵は、赴いた戦場で勇敢に戦い 武功を挙げたが、ときとしては、同じ村からの出身者や肉親同士が、敵味方にわかれて 殺しあう悲劇すら起こったという。この国における傭兵は、まさに わが血を売ることで 同胞の食糧を購わざるを得ぬ態の、悲惨極まりないシステムだったのだ。

 生きんがために、外国に向けて壮丁を送り出しはするものの、しかし、弱小な山岳共同体としては、近隣と事を構えて 直接に干戈を交えるだけの力を持たず、周辺諸国間の紛争に際しても ひたすら中立の立場をとり続けた。そして、ナポレオン没落後の欧州秩序を議した1815年のウィーン会議で、ようやく 連邦としての中立が認められることになったのであった。

 元来、18世紀までの 古スイス同盟者団は、参加する各州が相互に交わした さまざまな盟約が繋がって形成された、きわめて緩やかな 「小国家連合」 とでもいうべきものであった。唯一、眼目の 中立政策を維持するために、17世紀中ごろから進められていた 軍事面の連邦的組織化を除き、難産のあげく1848年に 憲法が制定されたときも、教育や税制など、生活に関わる主権部分は州が握りつづけ、中央政府には、国防、外交、郵便制度など、ごく限られた権限しか委ねていない。スイス連邦の主体は あくまでカントン(州) にあり、その州政府にしても、重要なことは、最終的には住民による “ランズゲマインデ(伝統的直接議決)” に左右されるのだ。

 大昔の 村落共同体以来、牢固として受け継がれた スイス人社会の精神構造には、如何なる権力者も、また英雄ですらも 出現する余地がなかった。

 連邦内閣は、大統領に相当する主席を互選するが、概ね輪番で 任期は1年限り、アメリカやフランスの大統領、日本やドイツ、イギリスの首相のような 絶大な権力を持っているわけではなく、閣僚も行政を司りはするものの、国の重要課題は、常に独特の直接民主政が発動されて、国民自身が 投票を通じて議決する。このような仕組みが 往々にして “究極の民主主義” と思われがちだが、今日、実態としての 「スイス国民投票」 は、もはや頑迷としかいいようのない保守的国民性、ことに婦人が参政権を得てから後の、急激に低落している投票率など、多くの衆愚的矛盾を 露呈しているといわれる。

 すこし話しを戻すが、憲法の制定、連邦のスタートと前後して 観光事業が興り、また産業革命が波及してきて、やっとこの国は 恒久的につづいた宿命的貧困から脱したのである。連邦憲章は、他国との軍事協定の締結と 国民が外国の軍隊に雇われ勤務することを禁じて、スイス傭兵慣行にピリオドをうった。

 が、好事 魔多しとか、20世紀前半に相次ぎ勃発した 2度の世界大戦に直面して、スイスは、その都度 存亡の危機に立たされることになる。従来の局地的紛争とは こと違い、総力を挙げて 食うか食われるか、激突する枢軸と連合の狭間で 如何に中立を守るのか、むしろ国家そのものの維持すら 風前の灯の如き状態に陥った。ドイツ語圏、フランス語圏、それぞれの内部動揺のみならず、戦局の拡大にともなう食料の欠乏や、医薬その他 産業資源の輸入途絶など、軍事上の直接的脅威とともに、抜きさしならぬ 経済的困難に逢着したのだ。そのうえ、往古からのスイスアルプスの交通路としての重要性は、20世紀の大戦で 戦略的な価値を加えて、ますます高まった。

 ことに、第2次大戦において イタリアが枢軸に立って参戦し、フランスがナチス・ドイツに屈服したときの形勢は、まさに 四面楚歌の状況に追い詰められ、スイスの命運もここに窮まったか、と見られた。

 このとき、非常時任官してスイス国防軍を統率したのが、アンリ・ギザン将軍だった。

034_5  将軍は、スイス発祥の地とされる リュットリの野に軍を集結、峻嶮なアルプスの山岳によって、サン・ゴッタルト峠の爆砕も辞せずとする、外敵に対する徹底抗戦を打ち出して 中立死守の姿勢を内外に示した。この 「レドゥイット・プラン」 が、当時、絶望の底にあった スイス国民の士気を鼓舞すると同時に、強大なナチス・ドイツをして侵攻を断念させることになり,辛くも、絶体絶命の淵にあったこの国を 戦火から護ったのであった。

フランス人ながらスイス国防軍を率いて、国家を破滅の瀬戸際から救った ギザン将軍こそ、長いこの国の歴史における、ただひとりの 国民的英雄だったといえるかも知れない。

 かかる 国家としての危機に際して、脆弱な基盤しか持たない連邦政府は、果たして如何なる対応をしたのだろうか。

 スイスは、ヨーロッパ大陸で東西南北の交通路が 交差する位置にある。この立地条件は、平和な時代では 交易の要衝として有利に作用するけれども、両大戦においては、ドイツ、イタリア、オーストラリアという 枢軸側強国と国境を接していたため、バランス・オブ・パワーとしての フランスが敗退してしまった結果、戦争の一方の勢力によって 完全に包囲される形となり、生殺与奪の権を握られた。そのなかで、中立を崩すことなく舵をとり、最低必要とする食糧を確保して 国民の生命を守るためには、実際問題として、常に綱渡りをするような外交を 強いられざるを得なかったといえる。時としてその駆け引きは、戦時中の国際社会から見れば、詐術的利敵行為とすら映ったといわれる。

 第1次大戦のときも、第2次大戦のときも、ヨーロッパの国々は、戦勝国と敗戦国の別なく 熾烈な戦場と化し、民衆は 地獄のどん底に突き落とされたが、比較して ひとりスイスだけは、多少の犠牲を払いはしたものの、吹き募った戦争の嵐の外側にあって 死傷者を出すこともなく、ドイツ・イタリアとの貿易に依存することで 生き延びてきたのは事実だ。戦火を免れたおかげで、戦後、逸早く復興の緒につくこともできた。だが、戦時中にとった 背徳的行動を指弾する国際世論は冷淡で、しばしば、「旨く立ち回りやがった蝙蝠野郎」 という悪罵を 浴びせかけたのであった。

 たとえば、1949年に封切られたイギリス映画、キャロル・リード監督の名作 「第3の男」 で、悪徳ブローカーに扮した オーソン・ウエルズが吐いた名台詞を思い出す。

 アメリカからやってきた 旧友の三文小説家に対し、ウエルズのハリー・ライムは、

014_3_20c    「ボルジア家の圧政のもとで、陰謀やテロが横  行したが、多くの芸術家も生  まれた。スイスは愛の国だが、500年の民主主義と平和は 何を生んだ? 鳩時計ぐらいなものだ」

と せせら笑うが、あれは 原作者グレアム・グリーンが放った、スイスに対する痛烈な皮肉だったとは いえないだろうか。(一説には、あの台詞は ウエルズのアドリブだったともいうが……)

016  第1次世界大戦後の 国際連盟設立のときと異なり、国際連合憲章の仕上げをした1945年のサンフランシスコ会議では、引きつづき 中立を希求していたスイスには一片の顧慮もなく、加盟国に明確な軍事的義務を規定した。それゆえ スイスは国連への参加を諦めて今日に至っている。とはいえ、この国が、国際社会において 孤立しているわけでもない。それどころか、かつて国際連盟本部としての 由緒ある “パレ・デ・ナシオン” は、現在もなお 国際連合の欧州本部でありつづけ、そのほか、国際赤十字委員会 (ICRC) 世界保健機構 (WHO) 国際労働機構 (ILO) など、数多くの国際機関が置かれているジュネーヴは、まさに世界政治の檜舞台なのだ。

 にも拘らず、第2次世界大戦が終ってから既に半世紀余がたち、東西の冷戦構造が崩壊して、いまやEC統合のタイム・テーブルが 着実に進行しているなかで、この国の人々は、いつまで頑なに “唯我独尊” 的態度を とり続けるのだろうか。長い歴史のプロセスで、否応なく培われた 非中央集権的直接民主政と 永世中立体制を、変転する国際経済と ボーダーレス化が進む世界的潮流に、どのように整合させようとするのか、ヨーロッパ主要各国の通貨統合が現実となったいま、スイスは、またしても重大な岐路に立っている。

 ルツェルンの街を案内してくれた ガイド氏から聞いた話だが、この町の子供たちは、小学校に入学するとすぐ、1フランの残高が記載された 銀行の預金通帳が配られるのだそうだ。その後、子供たちは、月々の小遣いを貰ったり、家事の手伝い賃を手にするたびに貯蓄に励み、互いに 預金の多寡を競うという。 栴檀は 双葉より香んばし、ということだろうか。

 スイスの銀行といえば、とかく ニュースに乏しいこの国において、ときどき 奇妙な話題が洩れたり、フィクションのなかに 虚実とり混ぜて、そのミステリアスな存在として描かれる。スイスの銀行のユニークさは、私たちが知るところの、不特定多数の預金者を相手とする 巨大な商業銀行ではなく、小粒ながら、数世紀の昔から老舗を誇る 独特の “個人銀行” にある。これら個人銀行は、私の如き素寒貧の一見客が、いくら扉を叩いたとて、決して相手にはしてくれない。個人銀行の経営者と顧客とは、父祖代々の絶対的な信頼関係で結ばれてい、それは 血の繋がりにも似ているそうな。個人銀行は、いったん信託を受ければ 文字どおり無限責任を負い、信用を堅持するために、徹底して “秘密” を守り、受託資産を運用することで 顧客の期待に応えつづけるのだ。

 そこには、かつて フランス革命に際して、民衆に追われたルイ16世を 最後まで守り通して死んでいった スイス傭兵たち。 あるいは、ナポレオンが冬将軍の猛襲によって モスクワから退却しようとしたとき、殿軍として酷寒のロシア戦線に踏みとどまり 全滅した傭兵団のように、律儀で融通のきかないスイス人の、形を変えた奉仕精神が、現代の個人銀行に 脈々と伝わっているのかも知れない。

 なお、スイスの個人銀行については、作家の城山三郎さんが 「スイス銀行」 という題の、かなり長い随筆を書いておられるので、興味をお持ちの向きには、是非 一読をお薦めする。(城山三郎全集・Ⅰ 新潮社刊)

Photo_100  さて、“割り勘” という俗語は、英語では 「ゴー・ダッチ」  または 「ダッチ・アカウント」 というが、聞くところでは、スイス人の吝嗇ぶりには オランダ人も裸足で逃げだすほどだそうだ。ケチといって悪ければ、倹約家、経済観念が徹底しているというべきか。縷々、述べてきたように、かつて、骨肉を傭兵として送りだし、彼らが外国の山野で流した血をもって 日々の食べ物を購わなければならなかった この国の貧窮の歴史を想起すれば、何となくわからぬでもないが、すでに 1人当りの所得が実質で世界一になったといわれる現在でも、国民の中に連綿として受け継がれてきた 勤勉と節約の気風は、変えようがないのだろう。

 体験談として、いささか尾籠ながら、こんな話はどうだろうか。

 旅の途中で 急に用を足したくなったときは困る。あたりに人気のない山のなかなら、ちょっと失礼して、それこそ 自然に戻すこともできるが、街なかの、ことに旧市街といわれる一画を歩いているときに 尿意をもよおすと往生する。だからホテルを出るときとか、レストランで食事をした場合には、仮令 何がしかのチップを払ってでも、忘れずにトイレを借りて 自衛措置を講じておかなければならない。

 ヨーロッパ諸都市部のレストランの便所は、たいがい 地下にある。勘定を支払うときに教えてもらった扉を押すと、暗い階段があって 小さい電灯が点っているのが普通だ。ところが スイスの場合は真っ暗で、仕方なく壁をさぐってスイッチを探すことになる。やっと明かりをつけて階段を降り、狭い通路を進んで 目指す場所を見つけても、またまた なかは暗闇、臭いだけが到達を確認させてくれる。ここでも再度スイッチをまさぐって、どうにか目的を果たし、手を洗って廊下に出たら、先ほど点した通路の電灯は とっくに消えてしまってい、またしても階段まで そろり そろり と手探り歩きをする破目になる。

 少々 オーバーに書いたが、一流のホテルや レストランは別として、スイスの一般家庭や公共施設の 廊下・階段など、薄暗いところの電灯には、自動スイッチが付いていて点灯後 30秒か1分もすれば切れてしまう。電灯だけでなく、水道の蛇口も一定量が出ると 止まる方式になっているのだ。日本でも オイル・ショックのころ、節電節水のために同様の装置が普及したが、喉もと過ぎれば ナンとやら、石油の需給が緩むと、忽ち もとの木阿弥に戻ってしまったものだ。

 何の資源もない国だが、水だけは (従って電気も) 無尽蔵なのに、なお 昔からの習慣として省エネに徹している スイス人の倹約精神は、まさに 筋金入りというほかはない。いや、決して揶揄しているのではなく、むしろ 畏敬すべき質素で勤勉篤実な気風の根源は、そも 奈辺にあるのだろうか、と、つくづく考えさせられた。

 ひとつには、この国生成の 基盤となった峡谷共同体、つまり 村社会 相互連帯の生活において 培われたものと思われる。嶮阻なアルプス山塊に棲みつき、荒蕪の急傾斜地に張りつくようにして、森を拓き岩を砕く 苛酷な営みは、なまじ 個人の力のみで 容易に為し得るものではない。割拠することになった 拠どころで、スイス人の祖先は、生きるために、好むと好まざるとに関わらず 近隣互いに力を合わせて、懸命に働かなければならなかった。

 協働するには 個人の 得手勝手は許されず、仕事の割り振り、作業の手順、収穫の分配まで、何事によらず すべて相談づくで取り決め、援け合いが重んじられたはずだ。決め事は 守られなければならない。それは 共同体維持の最低条件である。文書化された約束事も あっただろうが、多くは 不文律、 若しくは タブーとして村社会に伝承され 狭い コミュニティのなかで 世代を重ねるうちに、この国の人々の「則を越えない」 生活信条が、抜きがたく 遺伝子に組み込まれたかのごとくである。そして、そのことが同時に、スイス人の、ときに慎重 ときに頑迷固陋といわれる 保守性を形成したのではないだろうか。

 スイス人の精神構造を知る上で、もうひとつ、宗教改革の影響を 無視するわけにはいかないと思うが、それについては 簡単ながら 既に触れた。

 ところで、中世ヨーロッパの各地に興隆した 詩歌や戯曲、音楽、絵画、彫刻、工芸品の数々は、その殆どが、武力をもって財宝を掠め、権力を弄して 人民の膏血を搾取した王侯貴族や、 特権化した教会、大地主、豪商たちによって、 その宮殿や聖堂・居館を権威づけんがために、あるいは 絢爛豪華な宮廷文化、奢侈と享楽の生活を彩るものとして囃され、爛熟していった。 今日、すぐれた芸術、文化遺産と目されている 荘厳華麗な建築物や彫像、文藝の多くは、かかる驕慢な階層がパトロンとなって、それぞれのジャンルで 卓越した才能を発掘して庇護し、自らのために制作奉仕させた結果であるともいえよう。

 しかし、スイスに限っていえば、その歴史を溯るとき、述べてきたように 貧しく閉鎖的な村社会では、個によって芸術の類が創造される土壌は まったく存在しなかったのではないかと思われる。山峡にひっそりと建つ 小さな教会の内陣装飾に、その昔、外の世界から招いた匠たちの技が わずかに遺ってはいるものの、その多くは質朴・実用的であり、武骨だ。

 この国の人々は、遠い昔から置かれてきた 厳しい環境のなかにあって、せめてもの慰めに、四季 折おりのお祭りや、素朴な娯楽を楽しむ。それは、アルプホーンの吹き比べであったり、ヨーデルの合唱、石なげ、旗回し、村人総出で演じる 歴史野外劇など、あくまで村単位の鄙びたイベントに過ぎない。また絵画といえるかどうか、民家の壁面を埋める絵物語や 教会の天井に描かれた宗教画は、みな煤けたり 錆がついて、なるほど 古風な趣はあるけれど、稚拙の域を出るものではなかった。

028_6  この章は、「旅の思い出に残る人びと」 について纏めているわけだが、駆け足スイスの旅は、土地の人たちと接触する遑もなく、そのかわり 付け焼き刃的に、スイスという国の歴史と、そこに住み暮らす人々の 気質といったものにかかわる独断的な文章を書き連ねた。このほか、この国が中立政策を貫くためにとっている、国民皆兵制による「国防軍」 や、それを下支えしている 他に類をみない独特の 「民間防衛体制」 について述べたいところだが 割愛する。

 

                  さて、冬のスイス。

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 モン・ブランでも、ユングフラウでも、秘境ツェルマットに聳えるマッターホルンを仰いだときも、この上ない 無風快晴に恵まれて、降りつもったアルプスの雪景色を、心 ゆくまで堪能した旅の終わり近く、ルツェルン郊外の景勝ピラトゥス山頂で、思いがけず 素晴らしい光景に出会った。

 見晴るかす、四森州湖盆地を覆いつくした 雄大な雲海である。

 前夜は 雨もよいで、盆地に澱んでいた暖気が、湖から立ちのぼる霧とともに 朝の冷気にさらされて、いっきに 分厚い雲の絨毯を敷きつめたのだろう。

 東の空からの逆光が、中央アルプス連峰を、蒼穹にくっきりと際立たせて 眩いばかり、強烈な コントラストを呈していた。

Photo_101  山をおりると、雲海の下は 濃い霧が立ちこめていた。スイスのまほろば、四森州湖畔の古都ルツェルンは、霧の底で おぼろな輪郭を浮かばせている、湖から流れ出るロイス川の辺りは 殊に霧が深く、カペル橋も 川端のイエズス教会も 灰色のヴェールがかかっていた。

 州庁舎の前から旧市街に通じる ルツェルン橋のなかほどで足をとめ、下流のほうを眺めやると、シュプロールは 朦朧として絶えだえに、川霧の向うにその屋根つきのシルエットを垣間見せている。モノトーンの風景のなか、堰を切って落ちる 水の音だけが 川面の空気を震わせていた。

032  と、見ると、堰堤の端に 釣り糸を垂れる孤影が 凝っとたたずんでいた。

   〈 何も、こんな天気に、もの好きな…… 〉

と思ったが、ときどきそっと竿を上げ下げするさまが絵になってい、まるで古い銅版画を見るようだった。

 全欧を捲き込んだ 2度の大戦にも、戦火を蒙ることなく凌ぐことができたので、この国の他の町や村と同様、ルツェルンも中世の面影を 色濃く遺している。都市の形をなして800年の歴史を有し、スイス建国の地を後背にした この町の旧市街は、とりわけ 古めかしい雰囲気を漂わせていた。街中の石造りの建物には、故事を伝える おどろおどろしい壁画や紋様が、くすんだ色調で描かれ、深い霧のなかで街全体が、薄暗い修道院の おぞましさを覚えさせる。

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            目抜きのカペル通りに 人だかりがあって、ひとりのピエロが、ゼンマイの切れかかった操り人形のように 緩慢な動作を繰りかえしていた。通りすがりの買い030 物客が小銭を投げても、まわりから 子供たちが囃したてても、ぴくりとも動かさない表情が 年期を窺がわせる。

 くたびれたシルクハットに燕尾服、赤地に水玉模様の 特大の蝶ネクタイを結んで、小道具の、これも大きなブーケを抱き、左から右へ、右から左へとのろのろ体を回す。

 じっと前方を見据えた瞳に 哀しみをたたえたまま、瞬きもしない。



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  真っ白いドーランで粧い、誇張した隈どりと 真っ赤に塗りたくった唇。

 格別な芸をしているわけでもないのに、エンドレスに続ける単調なしぐさが、妙に道行く人を惹きつけるのだ。横を向いたときに、日焼けか、それとも酒焼けか、ズズ黒いうなじが疲れを感じさせた。

 落魄のカヴァレロ、映画 「ライムライト」 で、チャップリンが演じたあの道化師のように、素顔に戻ったとき、この男もまた、生きることの 憂さ辛さを 酒に紛らせているのだろうか……。

 地図を片手に、週末でにぎわう旧市街の散策を続けた。

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 中世の説話をモチーフにした さまざまな絵柄の壁画や、鋳鉄製で、繊細な唐草?意匠の飾り看板を軒に吊り連ねた、石畳の露地をたどりながら、鹿広場とか、穀物市場、ワイン市広場など、昔日の名残をとどめる 猫の額ほどの溜まりをとおり抜けて、カペル橋ちかくの船着き場に出た。
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031_1   お天気なら、湖上遊覧船が発着する桟橋の上を、たくさんのカモメが翔びかい、けたたましく 啼きさわいでいる。

 湖畔の並木道で、赤い服を着た 可愛い女の子が、寄ってくるハトの群れに餌を撒いていたが、その餌をわれさきにと競う 数羽が羽ばたいて、彼女の肩や頭に止まろうとすると、童女は嬌声をあげ、傍らの父親にしがみついた。

 その微笑ましい光景の横を、寒そうに両の手をポケットに突っ込んで歩く 老爺のあとから一羽の白鳥が お尻を振りふり、ヨタヨタとつき従う。

044  街中の随所に見かける そのようなシーンは日々 繰り返されている平凡な、何の変哲もないものなのだろう。

 想いおこせば、バンクーバーのクイーン・エリザベス公園でも、ミラノのスカラ座前でも、都会の片隅に独り 所在もなく、ぽつねんと蹲るお年寄りの姿を眼にした。

 そして、ここ霧に煙る ルツェルン湖畔でも……。

036  散りしきる、落ち葉の数ほども繁く 行き交う自動車の列を、赤い信号が、ほんの暫らく通せんぼうをしたとき、杖をついたひとりの老婆が 歩道を渡って船着き場のほうへやってきた。左手に白いビニール袋を提げ、覚束ぬ足を運んで、湖畔からちょっと離れた ベンチに腰をおろしたのだが、まるで見知った人を迎えるかのように カモメやハトたちが、彼女のまわりに群がり集まってきたではないか。

 彼女は、おもむろに袋の口を開き、何やら小声で呟きながら、鳥たちにパン屑らしいものを投げ与えはじめた。今にもくずおれてしまいそうな、痩せた、小さな小さな体を、黒っぽいコートでくるみ、同じ黒のチロルハットをかぶって、右手を精いっぱい振り上げ、ゆっくりと餌を投げる。

 見ていると、不思議なことに、先ほどまであれだけ騒々しく餌を奪い合っていた鳥たちが、彼女に対してだけは飛びかかりもせず、やや遠巻きに行儀良く、撒かれたパンの屑を啄ばんでいるのだ。

 老女は、なぜかベンチの端っこに座ってい、そのことが、私をいいようもなくもの悲しい気持ちにさせた。

  〈 カモメよ、ハトよ、いつまでも、このお年寄の遊び相手になっていておくれ 〉

 私は、祈るような思いで、そーっと、その場所から離れた。

                         
                 
「第3の男」の写真は、週刊20世紀シネマ館(講談社)から採った。

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11. 人間讃歌 ヴィーゲランの「生命の樹」

                           

                          
 人 間 讃 歌   ヴ ィ ー ゲ ラ ン の 「 生 命 の 樹 」
                          

 93年夏至のころ、スカンディナヴィアの国々をめぐった。

J084_3  これまで私は、新聞広告のツアーには あまり関心を持たなかったのだが、あるとき、ふと 目にとまった 「北欧四カ国周遊」 の内容に 惹かれるものがあって、応募したのである。


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 フィンランドのヘルシンキを振りだしに 湖沼地帯のアウランコを訪ね、古都トゥルクからバルト海をクルージングで スエーデンの ストックホルムに渡り、さらに ノルウエーのオスロに飛んだ。オスロからはバスの旅。半年後に 冬季オリンピックの開催を控えて 着々と準備を進めている リレハンメルに立ち寄り、山岳越えに ダールスニッバの大雪渓を横断して フィヨルド地帯に入る。複雑な峡湾の地形を 九十九折れながら、ブリクスダール氷河、ゲイランゲルとゾグネの 両フィヨルドを観光したのち、古い港町 ベルゲンから デンマークの首都コペンハーゲンに至るという、11日間の行程であった。

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  訪れた各都市や その周辺では、歴史に古錆びた教会や、怪奇な伝説がまつわる城郭、壮麗な宮殿、それに、いかにも北の国らしい 澄明な風光に接することができた。いずれも 高緯度の国々であるから、夏の季節は ほとんど白夜に近く、観光してまわるには 時間がたっぷりのベストシーズンである。

 最近は、北欧を旅する人が多くなり、このコースもすっかり定番のようになってしまっているけれども、当時の私にとっては 大変新鮮な体験で、ゆく先々の風物に 目が洗われるような思いがしたものだ。

 スカンディナヴィアといえば 地球の裏側、出発前の私の予備知識は まことに乏しく、せいぜい、ヴァイキング料理とか、高福祉社会であるとか、それでいて老人の自殺率が高いこととか、そのほか、オンブズマン制度発祥の地、シベリゥスや イプセン、アンデルセンを生んだ国、ノーベル賞、あるいは フリーセックスを謳歌する若者達、といった類の、正しかったり間違ったりの 貧弱で断片的、かつ曖昧なものでしかなかった。

 何しろ、国の名前と首都名とが、すぐには結びつかぬくらい 無知だったのである。

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               でも、知らない国は、旅をしてみるものだ。

 思いたって、夏の盛りの北欧諸国を 経巡ってきてからのちは、これらの国々に対する陳腐だった私のイメージは 大いに改まり、現在では、何がしかの見聞と知識を得たぶん、親近感とともに 尊敬の念すら抱くようになった。

 帰国後、例によって 旅のアルバム作りに取りかかったのだが、その前段階として、訪れた国々の歴史を 読み進んでいくうちに  だんだん面白味が増し、比較年表を作ったり、主要な史実と その相関を調べたりしていて、気がつくと 机のうえにうず高くメモ類が溜まっていた。それを整理するのが また一苦労で、結局、この旅のアルバムが完成したのは、11ヶ月も のちのことであった。

 この間、ずーッと 目的のある読書をしていたわけで、退屈することもなく、おかげでいい勉強ができたと思う。

 スエーデン人やノルウエー人は、長身で 肌が抜けるように白く、金髪、碧眼がJ071_7_1 特徴。原始ゲルマン民族から枝分かれしたといわれるが、何時ごろ、何故に北方に移り棲み、ノルマンと呼ばれるようになったのか。また、モンゴロイドの血を引くとされるフィン人が、如何なる経緯で 今のフィンランドの地まで やってきたのか。

 その後、数千年もの間、鬱蒼とした針葉樹の森の奥深くや、無数に散らばる湖沼、氷雪に閉ざされたフィヨルドの襞に、杳として隠れ潜んでしまっていた  彼らノルマンが、突如、おどろおどろしいヴァイキングとなって、中世初頭のヨーロッパ・キリスト教社会や、中東イスラムの世界に出現し、083 暴威をふるったのは何故か。

 北欧諸国の王朝が、何時ごろ、どのようにして生まれ、互いに 如何に鬩ぎあい、盛衰を重ねてきたか。これら王国がキリスト教を受容し、早い時期の、しかもほとんど同時期に新教に改宗、さらに国教化するに至ったいきさつは?

 北部ドイツの都市に興り、長きにわたってバルト海の交易を牛耳った “ハンザ同盟” との関わりはどうだったか。

 14世紀の中葉、全欧に蔓延したといわれる黒死病が、スカンディナヴィアに齎した惨状は、そも 如何なるのもであったか。

  ナポレオン戦争が 北欧にどんな影響を及ぼし、産業革命がどのように各国の近代化を促したか。

  中立を標榜しながら、今世紀の 再度にわたる世界大戦と、その狭間に発生した大恐慌の嵐を、人々はどのように耐え凌ぎ、克服したか。

  20世紀後半、隣国より蒙った戦禍から、スカンディナヴィアの国々は、如何にして復興し、モデルといわれる 福祉国家を建設することができたか。
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 とにかく、四カ国の歴史を 混乱しないように読みとるのは大変だった。地理・地勢が類似しているためなのか、ヨーロッパの他国に比べて 遅れはとったものの、北欧諸国は ほぼ同時期に、うち揃って世界史のなかに登場し、その後、民族としての消長まで、恰も 軌を一にしているもののごとくだ。実際、前記各項目ごとの 学習を纏めてみても、まるで 申し合わせたかのように似通っている。そのうえ ( フィンランドの場合は、多少事情が異なるが )、スエーデン、ノルウエー、デンマークの各王家が ボーダーレスに繋がってい、同君連合、王権の兼摂はおろか、世子に恵まれないときは、他国から 王様を輸入したりすることも  決して稀ではなく、キングナンバーが違うだけで 同姓同名の王が、繰りかえし現われて、頭のなかが こんがらがってしまう。

017_1  しかし、私が最も強烈に印象づけられたのは、四国四様 これら北欧の歴史が、周りを海に囲まれて、平穏にうち過ぎてきた 私たち日本二千年のそれと比較して、如何に苛酷で、筆舌に尽くせぬ辛酸にみち、かつ 血塗られたものであったか ということだ。ことに、第2次世界大戦の前後にかけて、隣国のヒットラー・ドイツや、東方のスターリン・ソヴィエトから強いられた 暴虐非道の数々は、想像を絶するものがあった。

J073_3  そして、彼ら スカンディナヴィアの人々が、過去 幾度となく、国家の存亡にかかわる艱難に遭遇しつつも、その都度、不屈不撓の精神を奮い起こして 危機を克服し、また平時にあっては、勤勉努力を重ねて国力を蓄え、細心の配慮と 誠実さで国際社会に中立を維持するなど、成熟した格調の高い国家を築きあげてきた 経緯を知るにおよんで、頭の下がる思いがしたのである。

 辞書を引き、「歴史」 の語意を調べてみると、「現在残されているものから知り得る、人間社会の移り変わりの過程」 とあるが、国を単位としたそれは、とかく 政治や 軍事の跡を辿ることになりがちで、時代時代における民衆の生活や、勝れた個性が創りあげた事蹟にまでは 筆が及ばぬきらいがある。けれども、どちらかといえば ヨーロッパの表通りから外れ、小国でもあり、やや遅ればせに世界史に登場してきた スカンディナヴィアの民族の中から、19世紀に至って、数多くの知性や 個性が相次ぎ輩出した事実は、かい摘んででも、触れないわけにはいかない。

 この旅行で 私は、行くところどころで、数百年の星霜を経、苔むした城壁に囲まれた古城や、荘厳・精緻な構造と、重厚・華麗な調度に飾られた宮殿、教会の結構など、数多の遺跡に接して、北欧諸国 往時の文化水準の高さを知った。それらのうちには、伝説・神話の時代の 怪異さを遺したものもあったが、多くはキリスト教との往来を通じて齎された建築様式や、美術工芸の技が 北僻の地に花開いたものであり、各国歴代の王や僧正が 自らの権威を誇示せんがために、財に委せて、先達ヨーロッパ社会の文化を移植し、模倣したものだ。

 だが、19世紀に勃興した北欧の新しい文芸は、決してそのような宮廷文化や、僧院の因習を土壌としたものではない。 むしろそれは、ナポレオン戦争の激動によって触発された周辺強国の侵冦や 理不尽な圧迫に抗って、民衆の中から 澎湃として興ったナショナリズムの所産だったといえる。

 たとえば、1809年 ロシア・ロマノフ王朝の膝下に屈したフィンランドにおいて、民族意識、愛国心を鼓吹するために、この国古来の口承詩歌を採集復刻した 偉大な叙事詩 「カレワラ」 が生まれ、これをもとにして、ジャン・シベリウスが 「交響曲・フィンランディア」 ヤ、「トゥオネラの白鳥」 を発表している。ノルウエーからは、「ペール・ギュント」 「ピアノ協奏曲」 で名声を博した 民族主義作曲家、エドワルト・H・グリークが出ているが、「ペール・ギュント」 は、同じノルウエーの作家イプセンの作品から 材をとったものである。

J074_1  オスロの国立劇場前に、ビョルンソンと並んで銅像が立つ 近代演劇の祖 ヘンリック・イプセンの戯曲 「人形の家」 は、世界中の女性の生き方を変えたといわれるが、そのほかに 「野鴨」 や 「民衆の敵」 など不朽の名作を遺した。 また ノルウエーの国歌 「われら この国を愛す」 の作詞者で 「戦いの合い間」 や 「向日葵丘の少女」 を書き、後年は人道主義の戦士として 国際的に知られた ビョルンシャルネ・ビョルンソンも、この国文学界の巨峰である。

J075_1  「裸の王様」 や 「マッチ売りの少女」 「人魚姫」 など、珠玉の童話の数々を遺したハンス・クリスチャン・アンデルセンは デンマークの人だし、「ニルスの不思議な旅」 の作者カルマ・ラーゲルレーフは、スエーデン・アカデミー 最初の女性会員であり、ノーベル賞を得た。同じくスエーデンの文豪 アウグスト・ストリンドベルイは、リアリズム文学の先駆的作品 「令嬢ジュリー」 「痴人の告白」 で、その名を知らぬ者はあるまい。

 「令嬢ジュリー」 を映画化したのは、巨匠イングマール・ベルイマン、彼は、「不良少女モニカ」 や 「野いちご」 「沈黙」 などで世界の映画史に 燦然たる金字塔をうち立てた。ついでながら、オールド映画フアンには懐かしい、グレタ・ガルボ、イングリッド・バーグマンは、スエーデンが生んだ 往年の名女優である。

ところで、スエーデンで最も世界的に有名な人物といえば、かの アルフレッド・ノーベルだろう。ノーベルは、ダイナマイトや無煙火薬を発明・製造し、またバクー油田を開削して巨富を得た。生涯を独身でとおした彼は、莫大な遺産を 王立科学アカデミーに託し、これを基金として創設されたのが 「ノーベル賞」 である。

 ノーベル賞が、その後の人類社会の 科学や文学の発展に、多大の貢献をなしたことはいうまでもないが、さまざまな領域の功績者に贈られる賞のうち、平和賞の授与式だけが、隣国ノルウエーのオスロで行なわれるようになったわけは、当時 ノルウエーの独立分離問題で 抜きさしならない危機をはらんでいた両国関係を憂慮したノーベルが、兄弟国同士の永遠の平和を願って、この賞の授与をノルウエーに委ねたからだという。            123_edvard_munch_2
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 絵画の分野では、ノルウエーの表現派 エドワルド・ムンクを挙げなければならない。もっぱら 病患と死を主題にし、ことに 人間社会の不条理を、デフォルメした独特の筆致と 暗鬱な色調で描いた 「叫び」 は有名である。

 北欧の3大彫刻家といえば、ヴィーゲラン (ノルウエー)、トルワルセン (デンマーク)、カール・ミレス (スエーデン) に指を折る。スエーデンには、このほか ストックホルム市庁舎の設計者 ラグナル・オストベルイら 第1級の造形芸術家が出ている。名前は忘れたが オーストラリア・シドニーのランドマークになっている 白亜のオペラ・ハウスを設計したのも、たしか スエーデンの建築家だったはずだ。

J076_1  順不同に、断片的な記述をつづけているが、「絶望とは、死にいたる病である」 といった 実存主義の哲学者ソーレン・キェルケゴールは、デンマークの人であった。

 私は偶然、コペンハーゲンの王立図書館の中庭で、木立の陰にひっそりと置かれた 彼の小さな座像を見つけて しばし感慨にふけった。

 医学者としては、癩菌の発見者 アルモーエル・ハンセンが ノルウエー西端の漁村ベルゲンから出ている。かつては不治の業病と恐れられていた レプラ撲滅の端緒を開いた功績により、この病気は、彼の名前をとって 「ハンセン氏病」 と呼ばれるようになった。

 さて、流石に ヴァイキング末裔の国々というべきか、北欧諸国から出た冒険家、探検家は、まさに多士済々だ。

 18世紀の中ごろに、ユーラシア大陸の東端と 北米大陸アラスカの間に横たわる、ベーリング海峡を発見した ヴィタス・ベーリングはデンマークの出身、その海峡を通り抜けて、北から幕末の日本に寄港した ベガ号船長のノルディンショルド、それから、地理学者で 中央アジア探検家のスベン・ヘディンは、いずれもスエーデンの生まれである。ヘディンは東西トルキスタンや チベットの奥地に入り、楼蘭の遺跡を発見したり、さまよえる湖と呼ばれていた “ロブ・ノールの謎” を解いたりした。

 ノルウエーにおける英雄は、まず北極探検のフリッチョフ・ナンセンと、初の南極点到達に成功した ロアル・アムンゼンが挙げられる。ナンセンは 後年 政治家に転じ、駐英大使や 国際連盟代表として活躍したが、アムンゼンの場合は、1928年、イタリアの ノビレを救出するために、飛行機で北極へ向かったまま 消息を絶った。
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091_1  また近年では、南太平洋8000粁を、パピルスで作った筏舟ラー号で ポリネシアまで航海したり、 コン・ティキ号と名付けた舟で、南米チリー沖のイースター島に渡り、奇怪な巨石像 “モアイ” を世界に紹介した 海洋人類学者、トール・ヘイエルダールがいる。

 1990年の国連統計によれば、スカンディナヴィア四カ国の人口は 合わせて2293万、全ヨーロッパ人口の 僅か4.7パーセントに過ぎない。1870年におけるデンマークの人口が 178万だったという記録が残っているそうだが、それやこれやから推測すると、19世紀半ばの 北欧諸国の国勢は、現在の3分の1程度ではなかったか。

 まして、ナポレオン戦争の災禍を蒙って、いったんは 疲弊のどん底に沈み、その後の国力回復過程においても、東方からは 帝政ロシアの脅威にさらされ、南では、シュレスウィッヒの野で ドイツと戦う仕儀となり、また ノルウエーの独立をめぐって 相克を繰りかえしていた これらの国々に、かくも優れた偉人・賢人が、いたるところで 次々と出現した事実は、まことに壮観であり、驚くべきことと いわなければならない。

 それは、何故なのか。                     142_gustav_vigeland_1

 ひとつの民族が、ふりかかる 宿命的な苦難に耐えつつも、毅然としてたじろがず、清新の気を漲らせていた時代の 逞しい活力を、まざまざと 見る思いがするといえば過褒だろうか。

 明るいベージュの外壁に、正面の白いギリシャ風の円柱が映える ノルウエー国王の宮殿。オスロ随一の繁華街、カール・ヨハンス・ガーテを見おろす前庭に、かつて この国の王位を兼摂したスエーデンのカール3世の 緑青を吹いた騎馬像が あたりを睥睨していた。

 市街の高台にある王宮から 歩いて10分あまり、オスロ市の西北部に、総面積32万平方メートルもの 広大なフログネル公園があり、市民の憩いの場になっている。
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 大部分は 北国の濃い緑が主体の森林だが、よく見ると 自生ではなく、その並びからして あらかじめ計画的にきちんと植樹され、手入れが施されていることがわかる。樅、トウヒ、杉 桧 に似た樹など、さまざまな種類の大木が、夏の盛り、枝をいっぱいに拡げ,絡ませるように 葉衣をまとっていた。

 公園の中央部には、広場とそれをめぐる 敷石道が四方に通じてい、左手の小高い丘に向けては 緩い石段になって伸びている。幾何学的なモザイクが貼られた広場では、噴水が 涼やかな飛沫をあげ、その周囲は 広い芝生の原っぱ、ところどころに円形の花壇がしつらえられてある。短い夏を彩る花々が、乾いた空気のなかで 馥郁と薫りたっていた。なだらかなスロープの先の キラキラ煌めく小さい池塘に、数十羽もの鴨が羽を休め、餌をあさったり、静かに水面を滑っている。

J079_2jpg_2  静寂につつまれた園内を 散策する人影はまばらで、木陰にさりげなく置かれた 木製のベンチに、私がくる前から ひと組の老夫婦が、黙って あたりの風景を眺めていた。むしろ、彼らのほうが風景のなかに溶けこんでいる、といったふう。ただ そうしているだけが、ふたりの会話になっているのかも知れない。

 すこし離れた 東屋の横に、5、6台の乳母車を並べて、日課のおしゃべりに 余念がない 若いお母さんたち、いわば オスロの井戸端会議というところか。

 スマートな大型犬の 鎖を手に、談笑しているご婦人がたの傍らを、スケーターか、 跳躍選手のユニフォームばりに サイケデリックなブルゾンと、白いヘルメットが愛らしい、4、5歳ぐらいの男の子が、小さな自転車をこいでいった。

 ちらほらと、観光客らしい姿も見られる。

 私たちもそうなのだが、遠来の人々は皆、園内の随所に据えられたヴィーゲランの彫刻に近寄って、しげしげと見入ったり、その前で記念写真を撮りあったりしていた。

 このフログネル公園には、北欧のロダンといわれた グスタフ・ヴィーゲランの作品が、195基も置かれているのだ。

 ヴィーゲランが かねて抱いていた構想を知った オスロ市は、1921年、その実現のために、敷地と材料の全てを提供することを約束し、無期限で 自由な制作を依頼した。 ヴィーゲランが 52歳のときのことだったという。

 制作のみに 専念できるようになった彼は、74歳で没するまで、その晩年をかけて、広い敷地いっぱいに 自らの情念を注ぎ込み、傑作の数々を遺した。

 「水盤を捧げる6人の男の像」 「地獄」 「男と女」 「58のブロンズ像で飾られた橋」 そして、畢生の大作 「生命の樹(モノリッテン)」

 もちろん、私には、その一つ一つについて 語るだけの能力を持たないが、野天に据えられた 無機質な石や鉄の塊に過ぎないものが、ヴィーゲランの鑿をとおして、人間のさまざまな姿態や、純化した 喜怒哀楽の表情を与えられ、見るものの心をうち 大きな感動を 呼び起こすのだ。
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 適切な譬えではないかも知れないが、深山の古刹で、苔むした 五百羅漢を 見る思いがした。

J081_2  幼な児を 太い腕に抱いている男と女の、慈愛にみちた像。

 跪いて肩を組み、遥かかなたに微笑んでいる二人の少女の、希望を湛えた眼ざし。

 仰向けに折り重なる 十数体の大人と子供。その苦悶に歪む、顔、顔……。

 私はもういちど、広場の真ん中にそそり立つ モノリッテンに歩み寄り、暫し 凝視した。

J083_2  そこに彫りこまれたものは、老いたるあり、壮んなるあり、あどけなきあり、逞しきあり、たおやかなるあり……。百を超える裸の、うち伏し、のけぞり、逆しまにうごめき、絡まりあった群像が、一本の太い柱となって 天空を突いていた。外側から目に映るモノリッテンは、そのような彫刻だ。そして そこに刻まれている 一体一体が、人の誕生から 成長、やがて老い、終には死に至るまでの生きざまを、シンボリックに表現していた。
 
 北の国の彫刻家 グスタフ・ヴィーゲラン、彼の終生のテーマは、“生・老・病・死” 「人間の生涯」 だったのである。

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10. 新渡戸記念庭園の老日系二世

                    ・

新 渡 戸 紀 念 庭 園 の 老 日 系 二 世

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Photo_40  バンクーバーのダウンタウン、イートンズ百貨店の前から市営トロリーバスに乗って、ブリディッシュ・コロンビア大学を目指した。 大学構内の一画にあるという 「新渡戸稲造記念庭園」 へ行ってみようと思ったのである。

 高層ビルが林立する市内の、碁盤状になった道Photo_41 路のひとつ グランビル・ストリートを南に向かって走ると、道は緩やかな 登りになって、フォルクス・クリークを跨ぐ高い橋にさしかかる。橋の下は むかし工場地帯だったところが再開発されて、ファショナブルなショッピング・ゾーンに生まれ変わっている。それが バンクーバーの新しい観光スポット、 グランビル・アイランドだ。

 橋を渡りきっても なお暫く登り坂が続き、漢字の看板がいくつも目につくようになる。香港あたりからの移住者が増えて、新たなチャイナ・タウンが出来つつあるらしい。きのうの朝、こに近くのクイーン・エリザベス公園を散歩したとき、太極拳を舞っている人たちを見かけたのも、このへんに住みついた中国の人々だったのか、と思いあたる。

Photo_42  バスはブロード・ウエーを右折して西へ進む。ここまで来ると 高い建物はなくなり、フラットな町工場や 小商店がたち並ぶ市街地の外れだ。だが、場末といったうらぶれた町ではなく 芝生を刈り揃えた住宅もちらほら見えて行きかう人々には活気があった。

 いつのまにかバスの乗客は殆ど降りてしまって、残っているのは、学生らしい若者が4、5人と 私だけ、UBCはもうすぐのようだ。

 大学構内といっても、門構えもなければ塀や柵で囲まれているわけでもない。

J120_ubc バンクーバーの観光名所で 周囲が十数キロもあるというスタンレー公園よりも、さらにひとまわり広い グレー岬の突端全体がUBCのキャンパスなのである。 市街地を完全に抜けて間もなく、学生用の施設か、あるいはパブリック・コースなのか、丈高い木立のなかに 平坦なゴルフ場が延々と続き、やっとグリーンが途切れたところに バス・ターミナルがあった。

J131  ちょうどランチ・タイムで、ターミナル広場は大勢の学生たちで賑わっていた。ホットドッグやコーラを売るスタンドにも人が群がっているが、多くは 学内の食堂かどこかで昼食を済ませたあとらしく、初秋の陽を浴びながら 三三五五、のんびりと散策したり、芝生の上に屯して、何やらさかんに駄弁っては屈託のない笑い声をあげていた。

 一見、実に雑多な人種の混淆だ。 肌の黒い 精悍な体つきの若者や、髪をポニーテイルに束ねたアジア系の娘さん、チョコレート色の 深い面差しがノーブルな女性、なかには ブルーのターバンを巻いた髭もじゃ男もいる。むしろ、ここでは白人学生のほうが少数派に見えた。共通していることは、みんな溌剌として どの顔も耀いてい、さまざまな絵柄やロゴを刷りこんだTシャツに ジーンズ、底の分厚いスニーカーのスタイル。ことに 太ももを剥き出しに 短パンをはいた女子学生が、銀色に光るスポーツ・サイクルを乗りまわしている姿などは、眩しいほど健康的だった。

J130_4  UBCは1915年創立の、カナダ屈指の名門校である。農林分野、海洋学、地震研究などの ユニークな学部をもち、現在 3万を超える学生を擁するが、多文化主義を標榜するお国柄だけに、前述のごとく、世界中から留学生を受け容れて、その国籍構成は国連なみで、まるで 人種の博覧会といいたいほど、とりわけ近年は、中国や東南アジアからの中国系学生が急増するとともに、その勤勉さと 優秀な成績が 話題になっているそうである。

 何しろ広大な敷地で、構内のいたるところに緑滴る大木が亭々と聳え、あるいは林をなして、その林間に三層、五層の学舎が散在しているのだが、まわりの風景が大きいので、遠望すると、どれも平屋程度にしか見えない。

 建物と建物の間は 広々としたグリーンで、ところどころに 美しく剪定された植え込みがあり、四季折々りの花が咲き匂う。それらは、単に学生たちの目を楽しませるためだけではなく、学術的な研究対象として植栽されているのである。

J126  公園のなかに大学があるというか、それとも キャンパスそのものが公園だというべきか、学舎のなかまで覗いたわけではないが、せせこましく薄汚れ、索漠とした日本の大学と比べて、その広さ、清潔さ、すべてにわたって何という違いなのかと思った。

 バス・ターミナルに掲示してあった キャンパス・マップで、だいたいの見当をつけておいて歩いたのだが、どうやら道に迷ったようだ。行けども行けども新渡戸記念庭園らしい所は見つからない。構内の道路は広く長く、モダーンな学舎や研究所とおぼしい建物の前を、汗を拭きふき歩きつづけているうちに、キャパシティが数千台もありそうな 広い駐車場まで来てマップの記憶が甦り、自分が正反対の方角へ来てしまっていることに気づいた。

Photo_43  仕方なく踵を返して、いまきた道を逆に辿りながら どこかに訊ねる人はいないものかと、キョロキョロ見回したが、こんなときに限って人影はない。あたりは静まりかえり、近くの樹幹で セミが鳴いているだけだ。

 しばらくして 百メートルほど先の建物の陰に 人の姿が見えた。急ぎ足で近寄ると、赤銅色の肌をしたインディアンらしい男が、熊手を動かして落ち葉を掻いていた。白髪まじりの長い髪をうしろに束ね、小さなサングラスを鼻先にのせて、黙々と枯葉を集めている。

   「 エクスキュウズ  ミイ  メイ  アイ  アスク  ユー ? 」

と声をかけると、この人は 無表情な上目づかいに、じーっと 私を見て、

  「日本語で、ええです…」

と、ぼそっと答えたものだ。私は、あっと驚いた。この人は 日本人だったのである。

  「あ、イヤァ、これは失礼しました。実は、新渡戸記念庭園をさがしているのですが、どこかご存知ありませんか」

  「ニトベ? ああ、ガーデンなら、あの向うのエィジアン・ライブラリーの裏や」

  「ありがとうございました。あのォ、言葉の訛りからすると、ひょっとして愛媛の方ではないのですか」

 思わぬところで日本語を聞き、いささかの懐かしさを覚えて、〈  すこし、話でもできれば…… 〉と、さらに問いかけると、

   「いや、ワカヤマです」

 その人は、依然 何の感情もあらわさず、うつむいて手を動かしながら答えた。

   〈  もういいだろう。これ以上は聞いてくれるな… 〉

にべもなく硬い語調に、そんな気持ちが読み取れて 話の接ぎ穂もなく、私は黙って頭をさげ、その場を去らざるを得なかった。

 このあと、私は、もうひとり、この地に住むという 老いた日本人と出会うことになる。

 庭園の在りかがわかったので 気が楽になり、まずは、隣接しているエイジアン・ライブラリーを覗くことにした。

 この建物は、以前 大阪北郊千里丘陵で開催された 万国博覧会の パビリオン “サンヨー館” を移設したもので、いまでは、もっぱらアジア関係の文物や書籍を 数多く収蔵していいた。地味な存在だが、内部には、大陸横断鉄道 建設当時、難工事の苦役に従事する中国人の模様や、移民初期の 日本人たちの厳しい生活ぶりを示す、セピア色にくすんだ モノクロ写真のパネルなどが、英文キャプション付きで展示されていた。

 そのほかには、陶製等身大の仏像や、苔むした石燈篭、老松を描いた屏風などの大小美術工芸品を陳列した部屋、あるいは、たくさんの書物・雑誌類を格納した図書館などがあった。そして メイン・ロビーには、かつて この建物に立ち寄られたときの、今上天皇と皇后様の 皇太子時代の若々しい写真が 掲げられていた。
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のちに判ったことだが、このすぐ近くには 「人類学博物館 (UBC Museum of  Anthropology)」 が あって、先住民 クワキュトール・インディアンが遺したトーテムポールや、ワタリガラスが 蛤の口を開いて 最初の人間を世に送り出したと言う “伝説” を継承した彫刻、祭事装飾品などが展示されていることを知った。この方面のことには てんで疎い私だが、彼らの優れた造型感覚に 感じ入ったものであった。

 グレー岬の西北端、広大なUBCキャンパスの いちばん奥まったところに、濃い緑に囲まれた新渡戸記念庭園があった。入り口に 桧の皮で葺いた切妻屋根の番小屋と、同じ桧皮葺きの質素な潜り門があり、竹籬が結い巡らされている。          
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         庭園の入り口 左から´03年・´91年ごろ・´85年ごろに撮影したもの。


園内は 思っていたよりも広く、泉水の周りの 桜や柳をはじめ、松、杉、桧、樅、欅、
樫、樟、孟宗竹林など、日本の山野で見慣れた木木が 株を接し、銀杏や楓の葉は、早くも黄ばみはじめていた。

 まだらに木漏れ日の落ちる 林間の遊歩道を辿ると、細流や 小さな滝が涼しげにせせらぎ、濡れた石だけでなく、寂庭一面に さまざまな種類の苔が敷きつめられている。木の間越しに見える東屋のほうから、間歇的に、コーン コーンと聞こえてくるのは、ししおどしだろうか。茶室の手水には樋が引かれ、細い水を落とす筧がしつらえられていた。
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Photo_50  ビクトリア郊外のブッチャート・ガーデンや、バンクーバー市内のクィーン・エリザベス公園の日本式庭園は よく知られているが、中途半端なそれらよりも、ここのほうがよほど本格的だ。

 ほとんど人影のない園内で、不意に 白人のお年寄から声をかけられた。和風庭園がもつ、ワビやサビに惹かれるところがあるそうで、夫婦してキョートや、ナラを訪れたことがあるという。しばらく一緒に散策しているうちに、小さな石橋のたもとに新渡戸博士の石碑を見つけた。

J119  「プロフェッサー・ニトベのことを知っていますか?」

と 問うと、その人は、ちょっとはにかんだように微笑んで、首をすくめた。石碑には、「 願わくば、われ太平洋の橋とならん 」 と、刻んであった。

 打ち明ければ 私もそのとき、新渡戸稲造博士に関する知識としては、恥かしながら “5千円紙幣の肖像に使われている学者” という程度のものでしかなかったので、帰国後、アルバム作りに当って、例のごとく、図書館に足を運んで辞典などを捲り、氏の経歴、業績を調べなおしたものだ。

 新渡戸稲造博士は、1862年 岩手県盛岡の生まれ、東京英語学校を経て札幌農学校に学び、内村鑑三氏らとともに、かのクラーク博士の薫陶を受けて キリスト教に帰依した。アメリカ、ドイツに留学後、母校の札幌農学校、東京帝国大学で教鞭をとり、第1高等学校の校長などを歴任、教育者、また農政学者としての地歩を固めた。わが国における農政 並びに 植民政策の先駆者であり、さらに、本邦最初の農学博士として知られる。理想主義、人格主義の思想家であると同時に、すぐれた教育者として、大正・昭和初期の青年に大きな影響を及ぼした。数多い著書のうち 「武士道」 は、欧米諸国でも 汎く読まれたという。

 そして、博士は、「われ太平洋の架け橋たらん」 という信念のもとに、国際連盟事務次長、あるいは 太平洋問題調査会理事長として、風雲急を告げつつあった 国際間の相互理解と 平和のために活躍したが、1933年、バンクーバーで開かれた太平洋会議に出席したあと 病を得てこの地に客死したのであった。

 博士生前の功績を偲び、遺徳を顕彰するために、有志の浄財によって造成されたこの庭園は、当時有名な造園家であった森歓之助氏の手になるものだということである。

 さて、実は そのころの私は、ある種人生の岐路に立ってい、この旅は その鬱屈を抱えてのものであった。

 2週間の旅程を終えて、明日は帰途につく予定の、異郷における最後の昼下がり、そこはかとない感慨に浸りながら、私は茶室の濡れ縁に腰をおろし、陰翳のある庭園のたたずまいを眺めやっていた。正確な間隔で聞こえる ししおどしの音が、あたりの静寂をかすかに揺する。

 ふと傍らに 人の気配がした。茶寮の露地から出てきたらしいひとりの老人が会釈を寄越して、つくばいの横の庭石に座った。野球帽をあみだにかぶり、小太りの体に胸まで隠す前垂れ付きの作業服を着た、人のよさそうな老爺だ。片手に剪定鋏を持っていたから、ひと目でこの庭園の庭師とわかった。

  「日本から、来たんかいの」

  「ええ、大阪からです。あなたは こちらにお住まいですか」

  「うん、このちょっと先に住ンどる」

 老人は、人なつっこい笑顔で答えた。 年齢は とうに70歳をこえていると見えて、ふっくらした丸顔ではあるが、目尻には相応の皺を刻んでいる。先ほどの和歌山県出身の人のことが チラと思い出されて、すこし遠慮気味に尋ねてみた。

  「カナダにこられてから、長いのですか」

  「いやア、日本へ行ったことのない2世です。カナダしか知らん」

  「ほう、それは それは……」

  「父親がむかし、シガケンから来よってな。戦争の前から ガーデナーしとったさかいに、わしもあと継ぎしとる」

 衒うふうもなく、老人は、かなりぎこちない言葉つきで、ぽつり ぽつり と身の上話を始めた。老人はタナカといった。田中さんのお父さんは、「トーキョーのアースクエイク」より前、たぶん 大正時代の中ごろに、移民としてこの地に渡ってきたのだそうである。

  「はじめは、イトハタネライ (ひと旗狙い?) やったやろけんどナ」

 来加してからは、イチゴ農園などで働いていたが、のちに庭師の技術を身につけて独立し、田中さんが物心づいた頃には、バンクーバー南部の リッチモンドあたりで、多少知られた 造園業を営むまでになっていた。田中さんも、16、7歳の頃から職人に混じって仕事を覚え、やがて ノース・バンクーバーに拓いた苗木畑で、花木の苗作りを任されていたという。ささやかながら、田中さん一家は、成功者の道を歩みつつあったらしい。

  「あの時分は、豆エ 煎るみたいに働いて、そらア 仕事はキツかったけんど、楽しゅう もあったでエ……」

 田中さんは、目をほそめて回顧した。

 だが 好事魔多し、そこへ降って湧いたように起こった出来事が、1941年12月7日の、日本海軍による ハワイ真珠湾爆撃だった。日米間は戦闘状態に突入し、カナダもまた 参戦したので、田中さんたち在加日系人は、否応なく 敵性人種となってしまった。

 当時、全カナダの日系人の95パーセントが、ブリティッシュ・コロンビア州の海岸線沿いに住んでいた。うち60パーセントは カナダ生まれで、当然 カナダ国籍だったし、15パーセントが 帰化カナダ人になっていたのだが、カナダ政府は 42年2月、国籍の如何にかかわらず、日本人種はほとんどすべて、海岸線より遠く離れた ロッキー山脈以東の内陸部へ移動するよう、強制的な命令を発したのである。 日本人は、短波ラジオや漁船の無線機を使って スパイ行為をする惧れがある、というのが理不尽な口実であった。

 この措置によって、東方へ移っていった日系人は 約2万人に達した。カナダ人と結婚していた日系女性 百人足らずが、かろうじて移動を免除されただけという。

 カナダ日系人社会は、文字どおり根こそぎにされ、壊滅してしまった。

 移住方法には、自由移動、自給移動、開拓移動、キャンプ抑留、捕虜収容、などがあり、前二者は、移住先で多少の自由もあったようだが、いずれにせよ、見知らぬ土地での 慣れない生活が尋常に成り立つはずがない。多くの人たちが結局、砂糖大根栽培農場や、道路建設などの土木工事現場へ流れていった。むろん、着のみ着のまま、浮浪者同然に 落ちぶれ果ててのことだったそうな。

 「わしらは、マニトバ州の シュガー・ビート・ファームへやられてなア、冬は寒いし、そら、ひどいもんやった」

 「大変な目に遭われたのですねエ。 ご両親や ご兄弟とは ご一緒だったのですか」

 「そうや、オヤジやオフクロもいっしょに働かされた。兄弟はおらん。けんど、  オヤジは キャンプで弱ってしもうてなア、 2年目の冬に、ボロボロになって死んでしもたわ」

 おそらく、すでに相当な年齢に なっておられたと思われる ご父君にとって、中部大平原の厳しい自然環境と、砂糖大根畑での 苛酷な労働は、耐え得る限界を越えるほどのものだったに違いない。

 日系2世の若者のなかには、兵役を志願する者もいたようだが、老親を抱えた田中さんは、

  「そんな気には、なれんかった」 と、いった。

 ようやく戦争が終わって、強制労働から解放された日系人たちは、戦前に築きあげた財産を失い、補償もないままに 無一物で巷に放り出された。彼らの多くは、その後 さらに東のオンタリオ州などへ 散っていったのである。自由な身になっても、彼らに対するいわれなき 差別と迫害は長く続いたのだ。爾来、カナダにおける日系の人びとは、中国や韓国の人たちのように 集まり固まって暮らすことを熄め、それぞれが地域社会に埋没して、ひそやかな生活を送るようになったという。

 田中さんの場合は、お母さんを伴ってバンクーバーに戻り、そのまま お母さんだけを、郷里の滋賀県に送り還したのだそうだ。

  「オフクロの食う分ぐらいは、わしが こっちで稼いで送るさかいに、いうてな」

  「で、その後、あなたは結局、日本へお帰りにならなかったのですか」

  「帰れんやった。ちょっとまーしてから、オフクロが死んだ、いうてきよってナ」

 私は、もはや相槌の言葉も失い、ただただ、うなずくばかりだった。

 田中さんは、話が抑留生活や、迫害を受けた 戦後の一時期に及んだあたりから、その節々で、「もう、こんなところ居ろうかい」 「おろかい」 と、何度も呟くように繰り返した。 「居たくない。いてやるものか」 という意味なのだろうか。

 自らは与り知らぬ、時代の変転と 非情な運命に翻弄されてきた、無念さ 口惜しさが、その自嘲とも 投げやりともとれる 口調に滲みでて、聞く側にも感情移入し、何とも切なく、やるせない思いがしたものだ。

 老人が 昔話を始めてから、かれこれ1時間になる。

 終わり近く、私がさりげなく 家族のことについて尋ねると、

  「ハハ、ワイフはおらへんで。ムスコがひとりおるけんど、いま どないしとるやろ……  まア、そんな まがりあわせや」

 それまでは、朴訥ながら、むしろ饒舌に思えていた田中さんの口が、ここにきて急に重くなった。触れてほしくない部分のようだ。 大正年間に田中さんの父君が、どんな理由があって この地に移住してきたのかについては 語られなかったが、察すれば、溯って三代か、あるいは四代にわたり、因果輪転のごとく どうしようもなく、親と子の縁がうすい人が、ここにもひとりいたのだ。戦前、戦中の苦労もさることながら、母親と死別してから40年の余、田中さんにまつわる人生の葛藤は、そも 如何なるものであったのだろうか。

 彼はそれを、“曲がり合わせ (回り合わせ)” だと、さらり片付けた。

  〈  それにしても、何故、この人は、見も知らなかった私に対し、こんなつらい話を聞かせてくれたのだろう 〉

  〈  いや、行きずりの旅人に過ぎない日本人だったからこそ、積年、胸中に溜まっていたものを 吐き出したかったのかも知れない 〉

 そっと窺がうと、話し終えた田中さんの表情は、なにか 達観したかのごとく穏やかで、しばたたいた眼差しを、茶室の前の泉水に向けていた。しかし、その口元のかすかな震えに、この老爺の、猶、「語るに 語り得なかった、来しかたの何ごとか」 を見る思いがして、いつのまにか私は、自身のそれと重ね合わせていた。

 この人が、これから先、この地でどんな歳月を送るのか、せめてもの平安を祈るのみだったが、最後にポツンと洩らしてくれた、「この国は、年金が充実しているので……」 という意味のひとことが、私にとって わずかな救いになった。

 庭石と濡れ縁から立ち上がり、揃って見あげたバンクーバーの秋空は、何処までも高く、青く澄みわたり、うすく流れる真綿のような雲のふちが、ほんのすこし茜がかっていた。

(注) 文中に挿入した写真は、一部を除き、2003年 新渡戸記念庭園を再々度 訪れた際に撮影したものと差 し換えた。

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9. 南太平洋 フィジーの自然

                    

 とっていいのは写真だけ 残していいのは足あとだけ
        南 太 平 洋  フ ィ ジ ー の 自 然
                            

                      * 画像の上にマウスポインターを置いて 左クリックすると拡大表示されます。

Photo_39  北極と南極を結ぶ仮想の線を子午線というが、極点を中心に 360度分割して引いた子午線を経線ともいい、1884年 ロンドンの東部にあるグリニッジ天文台の上を通る本初子午線をもって 0度と定められた。

 これを基線に 東まわりが東経線、西にたどったものを西経線と呼び、両側から地球をぐるり半周して重なりあった線が、東経、または西経180度線になる。

 この 180度線は、北極圏のウランゲリ島、ユーラシア大陸の最東端ベーリング海、太平洋の中央部を通り、ニュージーランド北島をかすめて 南極大陸のロス棚氷にいたる子午線であるとともに、途中、多少の曲折はあるものの、ほぼ同一線上に設定された 「日付変更線」 と合致する。

 私がいま机上に置いている地球儀には、日付変更線を示す点線の横に、「日付変更線を西から東へ越えるときは 同じ日を繰りかえし、東から西へ越えるときは 一日を省く」と、ある。

 これから思い出話をしようとしているフィジー共和国は、日本の南南東7千キロメートルの南太平洋上にあり、東経177度から 178度の範囲に 大小3百あまりの島々が散在する群島国家だが、この辺りでは 日付変更線が7.5度ばかり 東ヘ振られているので、ほとんど180度線直下に位置しながら、国としては日付変更線の西側にあり、言葉をかえれば、“地球上でいちばん早く 朝を迎えるところ” ということになる。

139_3  同じ 中部太平洋のハワイ諸島やタヒチでは、フィジーよりも2時間早く日の出を見るが、それはフィジーからすれば 翌日の夜明けなのである。

 冬のスイス・アルプスの雪景色を、心ゆくまでカメラに収めてから半年が経ち、またぞろ ムズムズを覚えはじめた私は、こんどはガラッと趣を変えて、紺碧の海に白い珊瑚礁が縁どっているであろう 常夏の島を訪ねることにした。

 はじめは、ゴーギャンの絵で知られるタヒチを思い描いたが、前年から強行されていた ムルロア環礁でのフランスの核実験に、いささか反撥する気持ちもあって 考え直し、かつてはイギリスの植民地で、私のからっきし下手くそな英会話でも 何とかなりそうなフィジーを目的地に決めた。

 最近のダイビング・ブームで、フィジーは 若い人たちの間で結構人気があり、ダイバーや ハネムーナーにとって、憧れの島になっているようだ。日本から直行便が飛ぶ、ビチ・レブ島のナンディ周辺ならリゾート化が進み、附近の小島まで渡っても、そこそこリーズナブルな費用で行ける。

141_5  しかし、せっかく 南太平洋の島を撮るのだから、私は、むかし映画 「青い珊瑚礁」 の舞台となったヤサワ諸島のような、手つかずの自然が残っているところを探した。大手旅行会社のパンフレットでは なかなか見つからなかったが、マニアのダイバーなどがよく利用するというエイジェントは、さすがに それなりの情報を持っていた。

 たとえば、本島ビチ・レブの北250キロにある、バヌア・レブ島の南端 サブサブの “クストー・リゾート” ここは、フランスの海洋学者として有名だった 故ジャック・クストー博士の息子さんが経営していて、「自然の保護と 地球の将来を考える」 というポリシーのもとに、単なる遊びとは一味違う、真面目で 独自の海洋カリキュラムを体験させてくれるという。さらに東へ飛んで、タゥベニ島の沖合いに浮かぶ面積12平方キロほどの小島 “フォーブズ・マガジンズ・ロザラ・アイランド” のプライベート・リゾートは、島名でもわかるとおり、アメリカ大統領選挙の共和党予備選にも名乗りをあげるビジネス誌 「フォーブス」 の社長がオーナーである。

J093_4  このほか、ワカヤ島、ヴァトゥレレ島、前述ヤサワ諸島など、イメージに合う幾つかの候補地があったが、それぞれの費用を試算してもらって、私はアッと驚き、ふるえあがった。往復の航空券は むろんディスカウントで 一般のツアーと大差はないのだが、これら島々の宿泊費に目ン玉がとび出た。 その上、ひとり旅はプレミアムがつくから 腰が抜けるような金額となる。普通、ヨーロッパや アメリカ方面の8日間コースで 一人部屋追加料金は、Aグレードのホテル利用でも せいぜい5~7万円ぐらいだが、フィジーの離れ島の場合は、何と 20万から30万円も 余計に取ろうというのだから、総額はおよそ察しがつくだろう。 尤も、これらの離島は、欧米有名人や世界的富豪の、所謂 “隠れリゾート” というやつで、その年だけでも、たとえば マイクロ・ソフトの会長で、世界一の大金持ちといわれるビル・ゲイツ氏や、映画 「マスク」 に主演した怪優シム・キャリー氏、新しく 007のジェームズ・ボンド役に起用された ピアース・ブロスナン氏らが、お忍びでやって来たというから、私なんか とても太刀打ちできるものではない。

016_e_4  やっと一ヶ所、ツインのシングル・ユース5泊で 追加が8万円という宿を見つけた。

 ビチ・レブ本島北側の ラキラキから数キロ沖にある、広さがたった3.5平方キロという 粟粒みたいな ナナヌイラ島である。資料によると、美しい珊瑚礁に囲まれた島の中央に、ウマの背のように こんもり盛りあがった丘があって、その一帯を敷地にする 「モクシンガ・リゾート」 からは、毎日 壮麗な日の出・日の入りの 両方を望むことができる、とあった。モクシンガとは フィジー語で 「のんびり、リラックスする」 という意味だそうだ。 私は その “殺し文句” にコロッとまいり、ここに5泊、ナンディに2泊のスケジュールを組み、現地の雨季があける 5月中旬に出かけることにした。

 フィジー共和国の総面積は18,333平方キロメートル、日本の四国よりすこし大きい程度であるが、実際は、南太平洋上60万平方キロという広大な海域に、バラり散らばる島嶼国家である。首都のスバや、ナンディ空港がある ビチ・レブと、その北東洋上に横たわるバヌア・レブの 2島で、国土全体の 85パーセントを占めるというから、あとの300余りの島はケシ粒がこぼれたようなものだ。

J095_5  ビチ・レブをはじめ 比較的大きい島には、意外に峻嶮な山岳が聳えてい、その間を深く切れこみ、密林に覆われた峡谷があるのに驚いたが、群百の島々は、食卓の皿を伏せたように平べったく、その周囲を浅緑黄色の海と、鮮やかに白く耀く コーラルリーフが取り巻いている。太古いつのころか、海底が隆起して火を噴きあげた火山と、海面すれすれに盛りあがった瘤に 珊瑚がびっしりと貼りついて できた島々なのだろう。

 密林 というほどではないにしても、多くの平底皿の島々にも、丈高い樹木が蒼々と繁っていて人が立ち入るのを阻み、リゾートとして使われているのは 僅かな海岸線のみ、ホテルを含めて建物といえば “ブレ” という ニッパ小屋だから、自然の景観を損なうことはない。渚には背高のっぽの椰子や パパイヤ、マングローブなど、熱帯特有の樹木が密生し、 その濃い緑のなかに、ハイビスカス、ブーゲンビレア、野生の生姜の花、各種のランが咲き乱れ、カッと照りつける 陽射しが眩しい いかにも トロピカルなムード溢れる楽園だった。

005_1  ナンディ国際空港に降り立った日は、まだ 雨季が明けきっていなかったのか、小雨が降りしきっていた。入国手続きを済ませて 到着ロビーに出ると、Mr・ZUKAMAと書いた紙切れをかざした インド人が待っていて、

  「 ヨコソー、イラッシェイマセェー……… 」

この男、日本語をしゃべった。ナナヌイラ島に近い漁港のラキラキまで 送ってくれるハイヤーの運転手で、ひとり旅の私を気遣って、旅行社が手配してくれたものらしい。

 早速、助手席に乗り込んで出発した。車は 何と メルセデス・ベンツ。 ただし、このベンツ、 フロントガラスには カムテープで押えた大きなヒビ割れが2本も3本も走り、座席はべこんと落ち込んで、走行中 車の振動が 直接尾骶骨を突き上げるといった物凄い年代もので、
   〈 ホントに これで、150キロも 走れるのかいナ 〉
と、心細くなったが、長距離客にありついた運転手クンは 至極ご機嫌で、鼻うたまじりにハンドルを捌いていた。

 このインド人の名前は、ラェイジェンド…とか何とか いうのだそうだが、何べん聞いても発音しにくいので、私は、  「よし、これからは 君を “ラージャー” と呼ぶことにしよう。いいだろ?」 というと、  「ラージャー?  OK OK  ラージャー、イイヨ、 オッケーネ」  と大喜び。

  ラージャーとは、梵語か ヒンドー語で、“王者” という意味だと、私はむかし 何かの本を読んで知っていたのだ。

 これで すっかりうちとけた。 彼のカタコトの日本語と、私のたどたどしい英語でも、掛け合わせると結構通じるもので、おかげて ラキラキまでの約3時間、この国について いろいろ旅行案内書には載っていない話しを聞き出すことができた。ナンディ北方30キロの蔗糖積出港 ラウトカを起点に東部の首都スバまで、ビチ・レブ島の北側を通っているキングス・ロードは、ひとまず 簡易舗装されており、道すじに点在する バ とか タブア という町を経て、小漁村の ラキラキにいたる。
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J102_7  これらの町や村の住民は ほとんどがインド人で、19世紀の英国統治時代に 砂糖黍プランテーションの労働者として 連れてこられた人々の子孫が、この島の住み心地のよさに惹かれて居ついてしまい、今では 約80万のフィジー人口の過半を占めるまでになっているそうだ。

万事にのんびりした原住のフィジー人を尻目に、勤勉で商魂逞しいインド人たちは、次第に この国の経済と 行政の執行を掌握し、遂には 政治の分野まで牛耳るようになった。かかる情勢を憂慮した 国軍の若手将校達は、1982年に シティベニ・ランブカ中佐 (現首相) の指揮で、いとも 礼儀正しい無血クーデターを起こした。そして、共和政体に移行するとともに、爾来 諸般 フィジー人に有利な政治を行なっている。

   「 ボクノパスポートニモ ボクノコト フィジアンインディアント カイテイルヨ 」

 ラージャーは 屈託なく笑っているけれども、ドライブの途中 インド人の町で車を停め、通りを歩いたり、薄暗い食堂で コーラでも飲もうとすると、あちこちから 目だけがギョロッと白い 真っ黒な顔が、いくつも上目づかいにジロジロと 視線を浴びせてきて、なんとも不気味だった。

 べつに 偏見を持っているわけではないが、これまで私は 何回もインド人から不愉快な思いをさせられた憶えがある。

 たとえば バンクーバーのバス・デポで、理由もなくスネーキィな嫌がらせを受けたことがあるし、現役時代 マレーシアの子会社でストライキが突発したとき、あろうことか、裏から糸を引いていたのが現地採用のインド人人事部長だった。事態を収拾するために、急遽クアラルンプールへ飛んだ私の交渉相手が、これまたインド系の労組幹部たちで、彼らの陰険な目つきと無表情な黒い顔からは、いったい何を考えているのか さっぱり腹のうちが読みとれず、ずいぶん苦労した。

 現に今回の旅行でも、機内のインド人パーサーが図々しくチップを要求してきたり、入国審査の際、ショルダー・バッグに取りつけた三脚を見咎めて、長々とチェックのあげく、 「オレを写して、ここへ送れ」 と、メモ書きの住所を突きつけてきたのも インド人係官だ。もちろん両方とも峻拒したが、それやこれやで、どうも彼らを好きになれない。

J094_4   ま、閑話休題、訪れた ナナヌイラ島の自然環境は、私がイメージしていた以上に 素晴らしいものだった。

 私と スーツケースを乗せたボートが 白い航跡を曳きながら、珊瑚が透けて見える小さい湾に入ると、滴るばかりの 濃い緑を背景にした遠浅の浜辺に、長く突き出た 木製の桟橋があった。渚の白い砂浜に椰子の木が何列か連なり、稠密なマングローブの林もあちこちの水際を覆っている。 長さ百メートルばかりの 桟橋の中ほどに、8本柱に椰子の葉葺きの 日除け小屋が設けられてい、まるで 絵に描いたような南海の孤島風景である。

011_4  突然、コーン コーン  と カン高い音が 湾内に木魂した。ボートを見つけたモクシンガ・リゾートのスタッフが、私に歓迎の意を伝える木管の音だった。

 やや急な坂道を登りつめた丘の上に、数棟のブレが 隠れんぼをするように建っている。

 ブレとは、いわば バンガローか コテージ、椰子の葉っぱで屋根を葺いた野趣のある高床式住居で、内部は ベランダ付きのツイン・ルームになっている。木組みの高い天井には 大きなファンがゆっくり回り、シャワー・ルームや 冷蔵庫もちゃんと備わっていた。

 島に電気は来ていないので、全て 自家発電で賄っているらしく、テレビも  ラジオもない。飲料水は ミネラル・ウォーターが補給される。 室内は広々としていて、豪奢とはいえないまでも、のんびりと過ごすには充分快適だった。

 丘の上の一段小高いところは サンセット・ポイントと呼ばれ、ここに立つと 日の出・日の入りはもちろん、島全体を眺めわたすことができる。西の岬のあたりに 若干ブッシュ状の台地があるが、そのほかは熱帯雨林である。島の東側に十数戸の小さな村や、バックパッカー向けの簡易宿泊施設が 2、3ヶ所あると聞いたが、ジャングルに隠れて所在は確かめられない。 北側の海にも珊瑚礁が広がっていて、干潮時には 美しいラグーンが現われる。 その沖の深く落ち込んだ海棚に “パプアン・エキスプローラー” という帆船が沈められていて、絶好のダイビング・ポイントになっているそうだ。
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 この年齢になって私は、いまさら ボンベを背負っての潜りはならないがシュノーケルだけは持参しており、浅い海に入って 使い捨ての水中カメラで カラフルな熱帯の魚を追った。 

 赤道から緯度にして十数度南よりだが、南太平洋に位置する国だから、フィジーの5月半ばは秋の季節、そこここに 茅に似た丈高い草が黄色く立ち枯れ、ネコジャラシが 穂種をそよがせていた。

 しかし、秋の気配を見たのは それだけ、森の中だけでなく、海辺の潅木にまじり、リゾートの敷地にも、常夏の花ブーゲンビレアやハイビスカスが、いまを盛りと 咲きほこっていた。ことに ハイビスカスの花の大きいこと、直径が15センチもある大輪の真ん中から、先端に王冠状の花粉リングをつけた蕊を突き出しているさまは、見事というほかはない。
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         互いに絡まりあい密生した 樹々や、蔦 葛の森の中を 細く曲がりくねって踏みしだかれた道は、リゾートで働く従業員たちが、東の村から通ってくる近道なのだろう。波打ち際には太い流木が朽ち果ててい、その横には 見あげる 椰子の木のように直立したパパイヤの樹幹から、秋田蕗に似た葉茎が八方に広がって、その付け根に ラグビーのボールほどもある実が 十も二十もぶらさがっていた。
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 島の天候は よく変わる。

 私が到着した日の深夜、激しい嵐が襲来した。地軸を揺るがす吹き降りと間断なく続く稲光、轟然としてとどろく雷鳴、すぐ近くに落ちたに違いない衝撃が 何度も何度もブレを振動させて 生きた心地もしない。あとで思えば 絶好のシャッター・チャンスだったのだが、停電していたし、私は、ただもう シーツを引っかぶって震えていた。

 でも、物凄かった嵐が去り、朝になると、つい2、3時間ほど前の大荒れが ウソみたいに晴れあがり、東の水平線に棚びく雲を輝かせて、眩しく 太陽が昇った。モクシンガは、キャッチフレーズに偽りなく、それから連日、私は筆舌に尽くしがたいほどの 荘厳・華麗な日の出と日没の光景に 息をのんだものである。
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 最初の日は 雨と嵐だったが、次の日からは 陽光が燦々と降りそそぐ暑い毎日だった。そして 一日に一度は沛然とスコールが島を濡らす。

 ブレのベランダに座って 眼下に広がる海を眺めていると、太陽の位置と風の向きによって、その色彩が刻々と変化する。
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 朝がたの白っぽい灰色の海面は 縮緬ようの小波のせいと思われるが、時間がたつにつれて、明るいコバルトブルーから緑がかった鮮やかな群青に変わり、さらに藍を溶いたような濃紺に真っ白な積乱雲を映す。そして 黒味をおびた紺碧が拡がると珊瑚礁の白が浮び上がって、南の海は、紺、翠、白、浅黄、紫青、と、七彩に煌めくのだ。
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 やがて陽が西に傾くころ、空は茜の夕焼けを受けて朱に染まり 金色に耀いて、そこになにごとかの在す如く、私のようなものでも 敬虔な思いに浸った。

 漢字で表現すれば、暮、昏、宵、夜、と 移ってゆく時間帯、鏡のような海面が鈍色にくすんだ残照を映し、光芒が ひとしきり西の空と海を掃いたのち、音もなくたそがれた。

 漠々と広がる大海原の彼方に、薄い 垂れぎぬを下ろしたような雲が、没し去った太陽の残んの光をさえぎり、急ぎあしに夕闇がしのび寄る。
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 だが、日輪は再び復活した。

 遥か西の方の天空で、燃え盛る紅蓮の炎に炙られて、いっとき、空と海の狭間が壮絶なまでに灼熱したのである。それは、ポセイドンの断末魔の呻き、壮大なドラマの終焉……。

 万雷の拍手こそ聞こえぬものの、絢爛たるカーテンコールであった。
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 夜の帳が巻きおろされ、深い紫から 濃い藍に変わった空に 微かに星が瞬きはじめた。晴れてはいるのだが、島全体をうん気がつつんでいるのか、意外に星の数は少なく、満天に煌めく星辰を仰ぐということにはならない。

わずかに火照りの色が残る黄昏、中空に、宵の明星を従えた上弦の月が懸かっていた。

 遠くに潮騒が聞こえるだけで風はなく、あたりは静寂そのもの。

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 私は ふと思いついて、三脚を短か目に立て、カメラのレンズを南の空に向けた。シャッター速度をバルブにして45分、時の移ろいを撮りとめたのが 左の一葉である。

 電気がない、テレビもない、道路もなければ車もない。ないないづくしの、何だか吉幾三の歌のようなナナヌイラ島だが、その代わり 述べてきたような無垢の大自然と、島びとたちの温かい人情が、いっぱいあった。

 ホテル・オーナーの マイケル・マソスさんは、一見クールなニュージーランド人だが、従業員は全て フィジー人である。ひょっとしたら彼らは、世界中でいちばん陽気で、楽天的で、人懐っこい人種ではないかと思う。

 スタッフのリーダー的存在の ワイサケ君は、上側の前歯が2本欠けてい、大きな口をあけて笑うと 実にいい顔になるので、カメラを向けて 「撮ってやるから、笑え」 と いうと、両手で口もとを抑えてしまって、「ウフフ、ウフフ」 と逃げまわる。その後、私が珊瑚礁で泳いでいて、左脚のふくらはぎを ザクッと切ったとき、すっ飛んできて 辺りに生えていた “血止め草” をむしり、す早く応急の止血手当てをしてくれた。居合わせてたマイケルさんが 救急箱を取りに帰ろうとするのを、私が 「ローカル・メディシンで充分」 と おし止めると、うしろにいたワイサケは、「ヤクオは、ナイスガイだ」 と、呟いていた。
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   ボセ君も同じように前歯を2本折っている。彼の笑いは豪快で、あるとき私に、「子供はいるか?」 と 尋ねてきたから、 「息子が2人いるヨ、彼らは私のすねを齧った」 と答えると、ボセは、意味が判ったのかどうか、「グワッハハハハ……」 と、笑い転げていた。顔に似ず 歌が上手。毎晩、ダイニング・ルームの片隅に座り、ギターを爪弾きながら 甘い声でネイティブ・ソングを聞かせてくれた。

 ちょっと年齢をくっているが、エブロニ君には 長者の風格があった。穏やかな人柄で、いつもニコニコ 微笑を絶やさない。それでいてスタッフの全員から尊敬されているらしく、ワイサケ君などでも、彼の前では頭があがらぬふうだった。

J114_2  女性たちも、“色は黒いが南洋じゃ美人” だ。よく 躾られていて、部屋の掃除でも食事の配膳でも、心くばりのきいたサービスと スマイルに感心した。ある朝メモに 「ありがとう」 と書いて サイドテーブルに、僅かなチップを添えて置いておいたのだが、何日たっても、係りが交替しても、手をつけようとしない。仕方なく、持参していたキャラメルを1箱づつ進呈したら、大喜びで受けとってくれた。

 彼らと仲良くなり、ワイサケ君に写真を撮ってやろうと いったのがきっかけになったらしく、暫らくしてから、何人かのスタッフが 連れだってやってきて、「私たちも 写してほしい」 という。 これまで彼らは、宿泊客にモデルにされることはあっても、自分自身のポートレートを持つことなど無かったのかも知れない。

 そんな彼らの遠慮がちな姿勢がいじらしくて、私は ふたつ返事で請合い、とうとうマイケルさんまで呼んできて、ひとり ひとり 全員の肖像写真を撮った。中には精いっぱい盛装をしてきた男もいた。帰国後、すぐに現像・プリントし、逗留中世話をかけた礼状と一緒に、モクシンガ・リゾート宛てに送っておいたが、私の度を重ねた海外旅行で、こんなことをしたのは 初めてであった。

 写真といえば、南の島へ出発する直前に、ふと思いついて、私はスーツケースの底に 先年のスイス旅行を纏めたアルバムを忍ばせておいた。冬のアルプスの雪景色が、フィジーの人たちに珍しがられるだろうと考えたからだ。

 果たして、これは 大当たりだった。

 ワイサケやボセら、雪山を知らないスタッフが、嘆声をあげて覗き込んだのは予想通りだったが、驚いたことには、彼らから アルバムのことを耳にした同宿のゲストたちまでが、「是非、みせてくれろ」 とせがみ、あとからこのモクシンガにやってきた人も、噂を聞いて 私のブレまで押しかけてくる始末。私は一躍人気者で、それ以来、リゾートのなかで 朝夕 彼らと顔を合わせるたびに、にこやかに挨拶を受けるようになった。

013_b  モクシンガ・リゾートは、2室つづきのブレが、10棟 建っているから、最大収容人数は40人なのだが、私の滞在中、いちばんおお人数になったときが9人で、それぞれ数日間逗留しては 入れ替わる。

 そのなかで、新婚のトム・ウェッブ夫妻とは 特に親しくなった。トム君は、オーストラリア・アデレードの警察官で、赤ら顔の 筋骨逞しい30男、細君は、私は “ハッピー・ミセス” と呼ぶことにしたが、いたって邪気のない 肝っ玉カァチャンタイプだ。ふたりは、スキューバーダイブ・ハネムーンをしようと、この島へやってきたのだそうで、私が珊瑚礁に出て、ポシャポシャ やっていると、遠くからでも泳いできて、腕をとったり シャッター・ボイントを教えてくれたり、まことに親切であった。

 食事のときも、私がひとり座っていると、必ず寄ってきて 同じテーブルにつき、いろいろ話しかけてくるのである。話題は職業柄 オウム真理教の “地下鉄サリン事件” に関する質問だったり、彼自身も応援に行ったという、“タスマニア島 ホバートの銃撃事件” についてなどだ。手真似まじりの会話のなかみは、半分も通じなかったにしても、結構、楽しい時間を過ごすことができた。

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 彼らは、私よりも一日遅れてやってきて、一日 早く島を去った。

 朝7時、桟橋からボートに乗り移るふたりに、私は サンセット・ポイントの上から、椰子の幹を叩いて別れを告げた。

 折から朝日が、豆粒のように見えるトム夫妻を照らし、印象的な光景になった。

 「のんびり、リラックス」 と、いいながら、モクシンガにおける私の5日間は、充実したものであった。素朴な島の人たちとの、束の間のふれあいに心温まり、南の海と、島の自然にひたりきって、その美しいたたずまいのになかで、私の心に新しい生気が蘇ってきたかのごとくであった。

J118  入国のとき、ナンディ空港で貰ったパンフレットに、

「とっていいのは写真だけ、残していいのは足あとだけ、思い出だけを持ち帰る」


とあったが、私は、南太平洋フィジーの離れ小島で、この言葉どおりのバカンスを過ごしたのであった。

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8. マッターホルン 静かなり

                         

                          

 降りつもる雪景色が撮りたくなって、こんどは 何処へ行こうか、と考えた。

 なだらかに弧を描く 白銀の丘に、まばゆく朝日が射して、新雪がキラキラと煌めく北海道・富良野の、前田真三さんの世界を訪ねてみようか。それとも、しんと凍てつく 夜の底に、ほっこり真綿にくるまれたような合掌造りが、皓 と 月明かりに浮び上がる奥飛騨の白川郷も悪くない……。

 写真雑誌やテレビで見た、“雪のある風景” が、次々と頭のなかをよぎって、旅ごころをそそる。

 ところが困ったことに、瀬戸内の暖地暮らしが長かった私には、これまで雪道の運転経験が全くない。風景写真を撮るとなれば、やはり 目的地で自由に行動するための足は欠かせないが、といって これからスタッドレス・タイヤを買い求めたり、チェーンの付け方を教わって冒険するのも いまさら億劫だ。

J085  とつこうつ 思案のあげく、ちょうど期限切れになっていた旅券を更新して、ひと思いに雪山の本場 スイス・アルプスへ行くことにした。

 この季節に ヨーロッパをひとりで旅するのも厄介だから、どこか手ごろなツアーを探さなければならないが、人気の高いスイスといえども、冬場のアルプスを巡るものは 限られている。“I´ll”のパンフレットで、「アルプスの美峰、ユングフラウ、マッターホルン、モン・ブラン 全8日間」 という、私の狙いにぴったりのプランを見つけたが、申込者が少なくて、結局 その冬の出発は全て中止となってしまった。こうなれば仕方がない。はじめ、あんまり “メチャ安” なので眼中にしていなかった 某電鉄系旅行社の類似コースが、催行確実になったと聞いて、やむなく それを選ぶことにした。

 おかげて、費用は予定の3分の2であがったが、そのぶん、宿も食事も はなはだお粗末、旅の楽しさは半分になった。

 だが、ゼニカネには代えられぬ いいこともあった。

022  天候がめまぐるしく変わるといわれる 真冬のスイス山岳地帯をまわるわけだから、出発前は、周遊 3名峰のうち せめて一ヶ所でも、青い空に屹立する銀嶺を望むことができれば上々、と 内心思っていたのだけれど、幸運にも 旅の行く先々で、
   「 こんないい天気は、ひと冬に 三日とない 」
と、地元の人たちが口々にいうほどの晴天に恵まれて、私は毎日 時間に追いたてられながら、白 皚々のアルプスを 心ゆくまでカメラに収めることができたのである。

 旅人にとって スイスの魅力は、何といってもその美しい景観にある。

J088  千古の白雪をいただく ユングフラウを主峰とする、ベルナーオーバーラントの山々、マッターホルンが聳える 秘境ツェルマットなど、多くの旅行者がお目当てにする景勝地だけでなく、通りすがりの車窓を 次々と飛び去ってゆく 名も知れぬ山々や、田園のたたずまいが、何処を切りとっても、えもいえぬ美しい絵になるのだ。

 ゆくてに、峨々と立ちはだかる 巨大な山脈と、そのわずJ090 かな隙間を縫って、ヘアピン相次ぐ嶮しい峠道。両側に迫る断崖に貼り付いて点在する山小屋、谷間の底の 深い雪に埋もれた 小さな聚落、麓の緩斜面は 冬のこの時季、あの 「アルプス少女ハイジ的」 メルヘンの風景こそ見られないものの、そのかわり、霧に煙る丘の向うに ときどき影絵のようにぼうっと浮かぶ教会の尖塔や、それを取りまいて蹲る シャレー風の家並みのシルエットが、まるで古い銅版画を見るような、幻想的な雰囲気を醸しだす。

J087  観光を目的に旅するものには、こよなく美しいところではあるが、ヨーロッパの中央部に位置するこの国は、昔から 「美しいがゆえに貧しい」 ともいわれてきた。そのことについては おいおいに触れるとして、まずは地形について考えてみよう。

 総面積41,293平方キロメートル 日本の九州よりも狭い国土を、4千メートル級の 高峰が重なり連なる 長大なアルプス山脈が弧状に貫いてい、その7割を耕作もままならぬ荒撫の岩場や高山森林帯が占める。太古、ヨーロッパ全域を覆い、いまもなお残る 氷河の牙によって侵蝕された荒々しい地形、嶮しく巨大な尖峰、鋭い狼の歯並みさながらの針峰群、深く抉られたU字谷、山あいの氷河湖、等々が スイス独特の雄大な山岳景観をなしているのだ。そして、その山懐から滲み出た 雪や氷の融水が、滴り集まって随所に渓流や滝を作り、ライン、ドナウ、ローヌ など 諸川の源流をなす。スイス・アルプスが、ヨーロッパ大陸の分水嶺といわれる所以である。

 いったい、どのようにして いまに見る巨大な山脈が、この地に出現したのだろうか。

 いまから約46億年の昔、宇宙の塵が凝縮して、太陽系の第3惑星 「地球」 が誕生した。 はじめは どろどろに融けた火の玉だったものが、次第に冷えて 表面に原始の海ができ、内部は、核を取りまく複数の層になったが、その灼熱したマントル物質の分化によって 最初の地殻が形成され、以来、絶え間なく 生々変化し続けているといわれる。

J083  もちろん、私は地質学などについては 全くの門外漢だから、以下は 受け売りになるが、ものの本によれば、模糊とした太古の海に、たった一つ浮び上がった陸の塊が二つに割れ、北側にはローレンシア大陸、南側に より大きなゴンドワナ大陸が姿を現わして、その間に テチス海という海が横たわっていたそうだ。古生代 (5.75億年~2.47億年前) の中ごろ、煮えたぎるマントルの対流作用で、ゴンドワナ大陸は 膨張しつつ北のローレンシア大陸にぶっつかり、北極から南極まで 縦に繋がる超大陸 パンゲア となった。

 中生代 (2.47億年~6.5千万年前) になると、パンゲア大陸は 再び分裂・移動をはじめ、地球上の海陸分布は 大きく変化した。南半球のゴンドワナ大陸だった部分は、三畳紀末 (2.1億年前頃) から四分五裂を開始、ジュラ紀 (2.1億年~1.4億年前) には、まず、のちに インド、オーストラリア、南極大陸となる陸塊が分離し、次いで、白亜紀の半ば (9千万年前) には、アフリカと南米大陸が分かれて、現在に見るようなバラバラの諸大陸の 原形が出来あがった。

J084  これよりすこし早く、ローレンシア大陸の方も分裂し、北米大陸と ユーラシア大陸ヨーロッパ側になる部分の間に、後世 北太平洋となる海が出現したのは、白亜紀の前期 (1.5億年前) と考えられている。 数億年にわたる、巨大な地殻の 緩慢な移動を取りまいていた広い原始海洋は、パンタラッサ大洋というが、これが今の 太平洋になる。

 ローレンシア大陸 という名前から連想されるのは、現在地球上で 最も古い岩盤があるといわれる、カナダ・ローレンシアを含む北米大陸盾状台地で、その中心部の 岩盤年齢は、30億年と推測されているそうだから、あるいは 古生代よりはるか昔の 地殻の名残を止めているのかもしれない。

 さらに余談ながら、ジュラ紀といえば映画 「ジュラシック・パーク」 中生代の陸上界は、巨大な爬虫類、つまり恐竜が出現し 大いに繁栄した。恐竜は中生代・三畳紀の初めごろ、たぶんゴンドワナ大陸に現われ、たちまち (といっても数千万年単位だが) 北の大陸にも広がって多様化したはずで、そのなかから、鳥類の始祖が生まれたこともわかっている。恐竜たちは、移動する大陸に乗っかったまま 各地に散らばり、大きな図体になって地上をのし歩き、海中を泳いでいたが、ジュラ紀は、彼らの最盛期だったらしい。だが、何故か、中生代の末に、いっせいに絶滅してしまった。

J086_4  さて、中生代をとおして 南北両大陸を別っていたテチス海は、分裂したゴンドワナ大陸の破片であるインドや、さらにアフリカの陸塊が北上することによって 徐々に狭められ、新生代 (6.5千万年前~現在) 第3紀の初頭までに、ほとんど消滅してしまう。そして、ユーラシア大陸プレートと、北に向かうインド半島に挟まれた テチス海の海底堆積物や地殻表層が、現在のチベットあたりで 南北の陸地が衝突し 圧縮され、ギリギリと 万力で締めつけられるような力を受けて、押し上げられ 隆起し 8、9千メートルにも達する ヒマラヤ山脈が出来あがった。

 ほぼ同時期に、西部ヨーロッパ・プレートと アフリカ北部のアドリア・チレニア地塊がぶっつかって、ヒマラヤの場合と同じメカニズムで アルプス山脈が形成された。現在から、およそ1千万年ないし、7~8百万年前のことと考えられる。テチス海は、ますます小さくなり 残骸はやがて地中海になった。

 気が遠くなるような大昔から、アルプス・ヒマラヤ山系生成の跡を 一気に駆け抜け、要約したわけだが、アルプスが急激に隆起して、現在のような 嶮阻な山容になったのは、たかだか 数百万年ほど前のことである。しかしこの時期、まだ人類の祖は何処にも登場していない。

J089  いまは、地中海としてわずかに残る かつてのテチス海の海底に沈殿したヘドロが、凝固して盛りあがった、この とてつもなく大きな地球の皺は、ヨーロッパの西南から東方に向けて湾曲しつつ ほぼ平行に何列かの帯状山岳地をなしている。マグマの上昇による造山隆起ではないから、火山は存在しない。平均標高3千メートルを超える山脈に成長した新生代第四紀に入ると、アルプス全体が分厚い氷河に覆われてその侵蝕を受け、削られ、穿たれ、凄まじいまでに 峻烈な姿になった。

J082  寒冷期が終わり、この地を埋め尽くしていた大氷床が消えてのち、アルプスの高山地帯には、いまも数多くの氷河が残っているが、気象的にみると、概して、山の南側は地中海性気候の影響を受けて、夏の乾燥と晴天 および 冬の多雨降雪が特徴で、西部は大西洋からの湿った空気が吹き込むために、特に大雪が降る。これに対し、東部山岳からオーストリアにかけては、大陸性気候の領域に入るので、冬場は著しく低温になる。 東西に長く延びるアルプス山脈は、気候の境界線であるだけでなく、その天嶮のゆえに、よくも悪しくも、南と北に隔たった ラテン的な世界とゲルマン的世界にかかわることになり 強く影響を受けてきた。天然の要害ではあるものの 幾つかの氷削鞍部、つまり 峠を越えて往き来ができ、ローマ帝国軍の北方経略の通り道、あるいは 塩をはじめとする物資の交易路になるとともに、キリスト教の北漸や、文化の伝播にも重要な役割を果たしてきた。

 この地に棲みついた人々は、岩だらけの嶮しい峡谷に イソギンチャクのようにへばりつき、農耕も適わぬ 苛酷な自然環境のなかで、貧しさを凌ぐために 共同して生活を営む知恵を身につけ、村落協働体を形成して独自の直接民主政を培い、ときには傭兵となって外国の戦いに投じ、自らの血をもって 同胞の食糧を購わざるを得ないなど、悲惨な歴史を刻んできたが、そのことが のちに精密工業の発達や 金融保険の振興、徹底した武装と中立維持 といった生きかたにつながったといえる。

 この旅行で 私が訪ねた山々は、西部アルプスの北端に聳える最高峰、フランス領のモン・ブラン(4807m)、 ローヌ渓谷の南に連なるヴァリス・アルプスのモンテ・ローザ(1634m) とマッターホルン(4478m)  それに、中央部ベルナーオーバーラント山群の主峰 ユングフラウ(4158m) と アイガー(3978m) などであった。登山家ならずとも、よく知られた名峰ばかりである。

 心配していたのだが、案の定、最初に登ったモン・ブランで、早速 “高山病” というやつに罹ってしまった。

015  麓の村 シャモニーから ロープウエーに乗って、標高2310メートルの中間駅に登り、乗り継いで、更に、錐を逆さに立てた如くそそり立つ エギュイーユ・ミディまでの
1487メートルを、ゴンドラで一気に吊り上げられたものだ。この間約20分、個人差はあるようだが、たいがいの人は、ここでフラフラになる。初体験の私もその一人で、クラクラッときたが 頑張って頂上の展望台に上がった。 

 何しろ、海抜3842メートル、富士山より高いところである。

 目がくらみ、動悸は激しく搏って、額に脂汗が滲んでくるのがわかった。頭のなかでトランペットが鳴り響き、視野が ふーっと狭くなって、すぐ目の前にある モン・ブランの麗姿や、ぐるり360度の眺望を楽しむどころではない。立っているのが精一杯だったのだが、気息奄奄 必死になって三脚を立て、深呼吸を繰りかえしつつシャッターを切りつづけた。そして2台のカメラで 36枚撮りフィルムを1本づつ、ともかくも ひととおり撮り終えたところで 終に精根尽きはて、クタクタッとその場にくずおれてしまった。

J081  でも、帰国後、現像した写真が全部カチッと合焦していたのは、われながら立派。

 ところで、「アルプス」 「ヒマラヤ」 「神々の座」 「旧約聖書の世界」 「南極大陸」「地球原風景」 などなど、数多くの写真集を発表しておられる 山岳写真家、白川義員さんの作品に、未明のリッフェル湖畔で、曙光を浴びて 真っ赤に染まるマッターホルンを写した不朽の名作がある。その 崇高としかいいようのない山容が忘れられなくて、私にそんな写真が 撮れようはずはないけれど、せめてひと目、あの凄絶な威容を仰ぎたいものと、ベルンからのオプショナル・ツアーに参加した。

025  (注) 左の写真は、夜のベルン スイス連邦議会 議事堂です。

 峻嶮な山国のスイスだが、道路網は 国土の隅々にまで張りめぐらされている。その上、鉄道の敷設延長5千キロメートル、56ヶ所のケーブルカー、512本のロープウエー、13線の歯条式軌道があって、この国にはもはや、いわゆる 人跡未踏の地はないといっていい。

 けれども、冬場、ヴァリス山系の秘境 ツェルマットだけは、ちょっとやそっとのことで行きつけるところではない。

024  サンモリッツから、有名な “氷河急行” を利用するか、ジュネーブ、ローザンヌ方面から車でシオンを通り、ヴァレーの渓谷をローヌ川沿いに わけ入ることも出来るが、北部の都市ベルンを起点にして、マッターホルンを目指そうとすると 大変だ。峨々たる高峰が国土のど真ん中に連なるベルナーアルプスを 越えなければならないからである。インターラーケンから、急峻で知られるグリムゼル峠を経て迂回するルートもあるが、冬季は豪雪で通行不能、 唯一、ベルナーオーバーラントの最奥部 カンデルシュテークまで行き、カートレインで レッチベルク・トンネルを抜ける方法しかないのだ。カートレインは、その名の通り バスでもトラックでも、車ごと台車に積み込み、山脈を貫通した鉄路で ヴァレー渓谷側まで運んでくれる いわば陸のフェリー。マイカーの運転手もバスの乗客たちも、座席に座ったままで 列車が真っ暗なトンネルを走り抜けるのを待っているだけである。

 トンネルを出てからも バスの旅が続き、やっと座席から放り出されたのは、目的地 ツェルマットのひとつ手前の村、テーシュの駅前広場だった。ここから先は、山の環境保全のため、エンジンつきの自動車は 全て進入禁止になっている。一駅だけ電車に乗って、漸くツェルマットに着いた。 ベルンを出発してから3時間半、約120キロの行程だった。

 こぢんまりとして、まるで 箱庭のように美しい山峡の町の そこここから、冬空に厳然と聳え立つ 憧れのマッターホルンが見えた。町には 燦々と陽光が降りそそぎ、“貴婦人の午後――”。  日本でいうところの “小春日和” である。防寒重装備でやってきた者は、暑くて汗をかくほどだ。

023  昼食後、登山電車で ゴルナーグラートの展望台を目指した。

 白いカーペットを一面に敷きつめたような 雪の牧場を走り、落葉松の林を通り抜けて 急勾配の斜面を登りつめ、ごつごつした岩肌が剥き出しになった山頂に至ると、視界が全方位に開けて、モンテ・ローザ、 リスカム、 ブライトホルン、そして マッターホルンと、ヴァリス・アルプスの名だたる高峰が ずらり指呼の間に眺望できた。眼下には、亀裂を作りつつ流れ下り、うねうねと峡谷を埋めて続く氷河がある。

 夜来の強い風が、山々のあい気を吹き払ってくれたのか、鋸の歯のように鋭く連なった山脈の稜線が、濃く 淡く重なりながら、遥かな彼方まで くっきりと見通せる。

 ここまで登ってくると、さすがに冷気が頬を刺し、あたりは キィーンと音がしそうなほど澄みわたっていた。

 いちど高山病で苦しむと、体がなれて、その後一週間ぐらいは免疫? になるそうで、ここゴルナーグラートの頂上も 3千メートルを越える高所なのだが、体調にさしたる変化は起こらず、私は時間をかけて、雄大な白銀のパノラマを満喫することができた。

 登山電車の終点に、世界中のアルピニストが、生まれ育った故郷のわが家のように、懐かしんでやってくる お伽噺のお城に似たプチホテルが建っている。白川義員さんも、おそらく このホテルに泊まり、夜明け前のリッフェルにおりて、湖畔に三脚を立てたはずだ。

 私が腰を下ろした 岩場には、濃い緑色の岩石が ごろごろ転がっていた。周辺の岩肌は どれも灰色なのに、このあたりだけは、見るからに硬そうな翠礫が露出しているのだ。そういえば、麓の村で見かけた民家の屋根も、暗い緑色の鉄平石で葺いてあった。 かつて、アルプスの隆起造山活動の際、複雑な地殻摺曲の過程で、何処からか異質な地層がまぎれこんだのかも知れない。

J092  先ほどまでまわりにいた 観光客たちは、寒さを逃れて、ホテルへお茶でも飲みに入ったのか、人影はなくなり、岩場は 静寂につつまれた。

 私は、再び 山々に目をやった。視線は ついついマッターホルンに向く。

 並び立つ ヴァリス・アルプスの高峰群のなかにあって、この山だけは ひとり毅然として聳え、高さもさることながら、スフインクスを思わせる怪異な相貌で 周囲を睥睨するさまは、観る者をして、まことに 畏怖の念を抱かせずにはおかない。

J091  折りしも 陽は西に傾き、マッターホルンは逆光となって、その威容が凄愴の気を漂わせている。

 やがて、イタリアとの国境側から捲きあがってきた雲が 稜線を這い、蒼穹に屹立する 猛き孤峰の彼方を、微かな飛跡がひとつ、音もなく 過ぎっていった。

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